『数学ガールの誕生』: Where is the truth?

本書の概要と対象者

『数学ガールの誕生: 理想の数学対話を求めて』を読了した。実は以前から著者である結城浩と「数学ガール」シリーズには注目していて、ずっと読む機会を窺っていた。今回は遂にその機会が訪れたということで、本について簡単な書評を書いてみようと思う。本書の内容は主に著者による講演、質疑応答、フリーディスカッションから成立しており、著者の執筆の背景や考え方について惜しみなくその秘密を披露してくれている。また「数学ガール」シリーズ、「数学ガールの秘密ノート」シリーズの違いや、電子書籍版、コミック版、翻訳版などを含めた作品についても解説してくれているので、「数学ガール」シリーズには興味があるけれど、何から読んで良いか分からないという人にとっては見取り図として分かり易いだろうし、既に何冊か読んでいる人にとってもその本の背景を知ることができるという意味で興味深い内容になっていることだろう。逆に数学の内容について知りたいという方は直接「数学ガール」シリーズ、「数学ガールの秘密ノート」シリーズから入った方が早い。また本書はファンだけではなく、むしろ本を書きたい人や編集者にとって参考になるような内容が鏤められており、ここまで裏側の試行錯誤の話を曝け出している本も余り見ないので、数学に興味があるかを問わずそういった方にも一読をお勧めする。

著者の特異な才能

著者には特異な才能がある。それは数学者ではないのに数学について語ることができるという才能だ。数学のような専門性の高い分野において、専門家ではない人間がその内容を分かり易く説明することは至難の業である。そもそも著者は「数学ガール」シリーズで書いてきたようなテーマについて、最初から深く理解しているわけではない。しかし大体の期間の見当を付けて主に書籍などを通じて学び、それを自分の中で一度体系化した後に、小説とキャラクターを通してその内容をアウトプットして本にまとめている。専門家の弱点は一般人と比較して、躓くことなく分かりすぎてしまうことにある。躓くことなく分かりすぎてしまうということは、裏を返せば一般人が分からない部分とその程度が分からないということだ。これは人に教えるときの弱点になり得る。例えばスポーツにおいては最高の選手が最高の監督になるとは限らず、むしろ創意工夫を重ねてトップと競っていた人の方が優れた監督になりやすいことがある。これと同様に、著者は最初は分からないことを自らが躓きながら習得する過程をキャラクターを通じてアウトプットすることで、読者はその過程を追体験しながら分からない部分や疑問に思う部分を解決することができる。この才能は実は優秀な専門家になるほど、出すことのできない特徴かもしれない。

逆向きの危険性

もちろんその特異な才能による逆向きの危険性はある。要するに痒いところに手が届きすぎる、分かり易すぎることにより、本当は分かっていないのだが表面上分かった気にさせられてしまうという危険性だ。大筋を理解した上で、それを納得感のいくように説明するというのは素晴らしいが、そこには計算され尽くした語り落としがある。しかしそれは大した問題ではなく、むしろこのシリーズの利点とも言えるだろう。何故なら「数学ガール」シリーズの想定読者はあくまで高校生〜大学生であり、「数学ガールの秘密ノート」シリーズの想定読者は中学生〜高校生である。つまりこれらのシリーズは各々の読者が各々の理解度で分かる範囲で読めば良いのであって、数学の専門書を目指しているわけでもなければ、教科書を目指しているわけでもないからだ。そのことに対する著者の考え方は各シリーズの冒頭の「あなたへ」という項目で端的に明記されている。よってこの逆向きの危険性に目を向けるよりも、まずは入り口として数学の世界に興味を持ってもらう、面白いと思ってもらう、そのためのあらゆる配慮がなされた拡声器として「数学ガール」シリーズ、「数学ガールの秘密ノート」シリーズが存在していると考えるべきだ。またこの姿勢は数学だけではなく、他のあらゆる分野に必要な姿勢であるとも感じる。

Where is the truth?

本書における著者のたったひとつの伝えたいことは、間違いなく「読者のことを考える」ということだろう。著者は「読者原理主義」と言っても良いほど、繰り返しこの重要性について手を変え品を変え訴え続ける。最初この言葉については若干の違和感がなくもなかったのだが、「数学ガール」シリーズにおいてはその読者とは自分のことだったという言葉と、著者の言う読者のリアリティの解像度の高さを知り、この著者は信頼できると確信した。例えば本においては紙媒体、音楽おいてはCD媒体で販売するということ自体が古いと感じられる現代だが、そういったことについても「読者のことを考える」ことを徹底することで自分に最適な方法が見えてくるのだろう。対象読者の性別、年齢、趣味、職業、貯金、住んでいる場所、友人関係など、読者について考えれば考えるほど自分が何をすれば読者が一番喜んでくれるのかが浮き彫りになってくる。つまり方位磁針の先は常に読者であるという意識がありさえすれば、迷っても道を外れることはない。この「読者のことを考える」という言葉は魔法の言葉として自分の中に刻まれ、今後半永久的に自分の血肉となって役立ってくれるはずだ。

Where is the truth?
真実は何処に在る?

Thinking about readers is the only way to know where the truth is.
読者のことを考えることが、真実の在り処を知るための唯一の方法である。

数学ガールの誕生: 理想の数学対話を求めて
数学ガールの誕生: 理想の数学対話を求めて
著者: 結城浩

猫でもわかる宇宙の秘密の秘密

専門家による非専門家に対する分かり易い説明の供給不足

専門家による非専門家に対する分かり易い説明というものは、需要は圧倒的にあるが、供給が全く追いつかないというのが世の常である。それは何故なのかを理解するためには、まず前提として以下の三つの要素について考えてみる必要がある。

1. 忙しさ
2. モチベーション
3. 得手不得手

専門家は忙しい。忙しい専門家と暇な専門家であれば前者の方が圧倒的多数を占める。そもそも説明するための時間が取れなければ供給は満たされないので、これが第1の関門として立ちはだかる。次にモチベーションの高低。専門家の中にも非専門家に対して説明をするモチベーションが高い人と低い人が存在する。時間があってもモチベーションが低ければ供給は満たされないので、これが第2の関門になる。最後に説明の得手不得手。専門家の中にも非専門家に対して説明が得な人と苦手な人が存在する。これは専門家が専門家に対して説明するのとはハードルが全く異なるので、実はこれが得意な人はかなり限られる。時間があり、モチベーションが高くても、不得手であれば供給は満たされないので、これが第3の関門になる。要するにこの供給を満たすには、忙しさ、モチベーション、得手不得手という三つの関門をクリアせねばならず、そのどれもが専門家にとってハードルが高いので、この前提を考えると需要と供給のバランスが取れない理由が良く分かる。

猫でもわかる宇宙の秘密: 量子重力編

リンク紹介

ではそんな三つの関門をクリアした物理学に関する貴重な資料があるので、そのリンクを以下に紹介してみる。内容はどちらも同じなので見易い方を参照してほしい。もちろん専門性の高い部分に関しては専門家でないと意味不明になる可能性が高いが、それでも52ページに圧縮された情報を最後まで読ませるだけの力がある。

「猫でもわかる宇宙の秘密: 量子重力編 (PDF)」

「猫でもわかる宇宙の秘密: 量子重力編 (Slide)」

内容要約

内容を要約すると以下のようになる。

・相対性理論と量子力学の融合は人類の夢。

・特殊相対性理論 + 量子力学 → 標準模型は上手くいったが、一般相対性理論 (重力) + 量子力学 → 量子重力が上手くいかない。

・量子重力には無数の理論があるが、そのシェアの99%は超弦理論であり、著者の専門であるループ量子重力理論のシェアは1%以下。

・超弦理論は究極の統一理論になれる可能性があるが、余剰次元を前提とし、その存在は実験で検証されていない。

・ループ量子重力理論は究極の統一理論になる可能性を捨てるが、余剰次元を前提としない4次元のみで完結可能。

・計算手法や方法変更に伴うに問題が多いので、著者により研究が放棄される。

巨人の肩の上と無数の屍の土台

実際には上記のような内容が猫でもわかるというよりは、日本人にしか絶対に分からないハイコンテクストな画像とフレーズと共にエモく説明されていた。猫はむしろ象徴としてそのハイコンテクストな部分と量子重力のどちらが図であり、どちらが地なのかを混乱させるルビンの壺のようなものだ。M理論については脳が22世紀まで飛翔しているエドワード・ウィッテンと、専門家による非専門家に対する分かり易い説明における模範的供給者であるリサ・ランドールの説明に触れれば多少のことは分かるだろう。個人的にはM理論が発展していく過程で重力も含めた大統一理論が成立する可能性は高いと思っているが、その過程では様々な理論が生まれては消えていく。科学の美しさは、たとえある人間が人生をかけて研究した結果が成果に結び付かなかったとしても、その膨大な無駄が積み重なって重層化し、意味を持つところにある。つまり失敗はある可能性の袋小路を埋める作業であり、それは最終的には無駄にならない。受け継がれる理論によって巨人の肩の上に立つということは、同時に無数の屍の土台を踏みしめて歩いて行くということでもある。それでも人類が科学の歩みを止めないのは、そこに好奇心があるからだ。今回の記事では「猫でもわかる宇宙の秘密: 量子重力編」について紹介したが、単純に読み物としても面白かったので、量子重力に興味のある方もない方も是非一読してみてほしい。

天才と発達障害: 認知特徴における捻れの関係

本書の概要について

『天才と発達障害: 映像思考のガウディと相貌失認のルイス・キャロル』を読了した。本書は第1章、第2章、第3章に分かれており、第1章では視覚優位と聴覚優位について、第2章では視覚優位の代表としてアントニオ・ガウディについて、第3章では聴覚優位の代表としてルイス・キャロルについてそれぞれ書いてある。著者が視覚優位なので全体的に記述が視覚優位を優遇して書かれているように感じる部分があるが、そのことも含めて認知特徴が異なる人同士は相手を理解し合うのが難しいことがある、という本書の主張の一部を実証しているとは言える。全体的に構成と主張が明快な本ではあるが、幾つかの概念を無理矢理混同させて同一視して語ろうとする余り、誤った主張としていると感じられた部分もあるので、それらの疑問点を含めて考えたことを以下に記述していく。

認知特徴における捻れの関係

認知特徴とは何か?

まず認知特徴とは自分を取り囲む世界を五感を通して知覚した際に、どのようにして認知、理解するかの特徴のことである。その認知特徴には人によって偏りがある。ここまでは問題ない。ただし個人的にはまず認知以前の知覚である五感という分類方法自体が恣意的であり、言語思考によって生み出された産物であるようにも思える。その上本書では視覚優位と聴覚優位の2点を主に取り上げているので、それ以外の感覚が優位な人に対する考察は余り考慮されていない。もちろん五感は主要な感覚としては必要十分であるし、視覚と聴覚が通常認知の9割を占有する我々の五感における認知の割合を考慮すると、それも近似値的な取り上げ方としては問題ないように見える。しかし本書の主題の一つが発達障害でもあるという点を考えれば、通常排除されるようなケースについても考察しなければ片手落ちであるように思える。

映像思考と言語思考について

また視覚優位の延長線上に映像思考があり、聴覚優位の延長線上に言語思考があるという考え方も概ねそういう傾向にあるかもしれないが、確実に正しいとは言えないと思う。そもそも映像思考にも静止画なのか、映像なのかを含めて様々な種類があるし、言語思考にも音に敏感なのか文字に敏感なのかの違いがある。それらの差異を余り考えずにそれぞれの認知特徴を思考形態に直結させて考えてしまうと、逆に混乱を招くことになる。またそれらの思考形態を同時に併せ持っている人もいるし、精度の差も人によってまちまちであるし、視覚優位で言語思考、聴覚優位で映像思考の人も存在していると考えられる。そういう意味では視覚優位と映像思考、もしくは聴覚優位と言語思考の関係性は、因果関係的、絶対的に捉えるのではなく、むしろ相関関係的、相対的に捉えた方が良いだろう。

同時処理と継次処理について

他にも同時処理と継次処理とは、つまり並列思考と直列思考の違いだと思われる。これらの処理方法に関しても同時処理が視覚優位、継次処理が聴覚優位という認知特徴とそのまま結びつけられており、また感性と論理という概念とも安易に結びつけられている気もするが、本来これらの概念はそんなに単純に切り分けられるものではない。例えばディベートは高度な並列処理と論理性を同時に要求される活動である。ディベートを行うためには言語や概念を映像化、画像化し、逆に映像、画像から言語に変換する能力も求められる。論理の繋がりは最終的には時間と共に継次処理されているように感じられるかもしれないが、頭の中では完全に並列化されており、一度に全ての論理の繋がりが同時に見えている。この例から考えるとこのような活動を行う人に対して視覚優位、聴覚優位という切り分け方が適切なのか、またそれらが同時処理、継次処理、もしくは感性と論理という概念を安易に直結させて論じるべきものなのかに疑問が残る。

天才と発達障害

確かに本書で取り上げられている天才と発達障害が結びついているのは紛れもない事実である。そもそも人の脳は欠落している部分を何か他の能力で補おうとするために、その補う部分が異常発達してしまうという特性がある。そういう意味ではアントニオ・ガウディとルイス・キャロルはそれぞれ発達障害とも結び付いた天才性があると言えるだろう。ただし本書ではその視覚優位、聴覚優位という認知特徴の議論とアスペルガー障害やADHDといった発達障害の議論が一部混同されているように思える。認知特徴が明らかに偏っている場合は確かに発達障害に結びつくだろうが、これらは混同して論じるべきではない時もある。また著者と同じ認知特性を持つアントニオ・ガウディを映像思考として良いように記述し、著者と違う特性を持つルイス・キャロルを相貌失認として悪いように記述している部分はやはり恣意的な印象操作に思える。発達障害の観点から述べるならば、ディスレクシアのガウディと相貌失認のルイス・キャロルとした上で、それぞれの天才性を述べるべきだが、映像思考と比較して言語思考の優位性を余り書いていないことからも、本書では著者自身の認知特性を神格化しているように思える。また意図的だったとしても、無自覚だったとしても「天才」と「発達障害」という語順と「映像思考」と「相貌失認」を対応させていることの意味は再考されても良いはずだ。

5次元と共感覚

最後にこれらの疑問点が何故生じるかと言えば、根本的には著者が5次元の情報次元を理解していないからと考えられる。情報次元においては空間も時間も統合されており、それらは全て同時に存在している。また現代の感覚としては自身の認知特徴の優位性を確認することも役に立つだろうが、それ以上にそれらの感覚を混ぜた共感覚的な思考が求められる。人類が自身の遺伝子を含めてバイオハックをするようになった時代において、認知特徴とはアプリオリ (先天的) なものではなく、アポステリオリ (後天的) に獲得するものという認識も出てくるだろう。その時代においては五感のどの部分が優位であるかではなく、五感をどう拡張、混合していくかが重要である。そういう意味において本書の二項対立的な捉え方は旧時代の遺物であると感じた。

天才と発達障害: 映像思考のガウディと相貌失認のルイス・キャロル
天才と発達障害: 映像思考のガウディと相貌失認のルイス・キャロル
岡南

「宇宙際タイヒミュラー理論 (IUT理論)」と「ABC予想」

目次

1. 「宇宙際タイヒミュラー理論 (IUT理論)」と「ABC予想」
2. 「数学の祭典 MATH POWER 2017: ABC予想と新しい数学」
2.1. 「宇宙際タイヒミュラー理論 (IUT理論)」と「ABC予想」の簡単なまとめ

3. 「宇宙際タイヒミュラー理論 (IUT理論)」のイメージ
3.1. 「可能世界論」と次元の「コンパクト化」

3.2. Forget what you know

4. 新一の「心の一票」
4.1. 三つのお薦め記事

4.1.1. 第67回NHK紅白歌合戦

4.1.2. ドラマ「逃げ恥」の感想:社会の貧困と「視野狭窄」

4.1.3. 「心ある壁」を構築し、維持することの重要性/「心壁論」と、論理構造の解明・組合せ論的整理術を「心の基軸」 とすることの本質的重要性

5. 参照リンク集

「宇宙際タイヒミュラー理論 (IUT理論)」と「ABC予想」

先日話題になったが、5年前に望月教授が証明したとされる「ABC予想」の論文の査読が終わり、数学誌「PRIMS」に掲載されることになった。この論文の証明に関して言えば望月教授の中では既に5年前に完了していたことになるが、「ABC予想」を解決するために使用された「宇宙際タイヒミュラー理論 (以下IUT理論)」を含め、幾つもの専門分野における専門知識がないと理解できない内容だったために、地球上で理解できる人間がほとんどいないという問題を抱えていた。これは歴史を変える次元の業績を残した際には必然的に起こる現象であるが、「ABC予想」に関しては特に「IUT理論」という望月教授が提唱した理論が独創的過ぎたために、その専門性における理解度の差分として査読に5年の年月を要したということだろう。多くの報道では「ABC予想」についての内容が取り上げられているが、個人的には「ABC予想」が証明されたことより、その過程で「IUT理論」という理論が生まれたことの方に価値があると感じており、それらの内容に関しては後述する。

「数学の祭典 MATH POWER 2017: ABC予想と新しい数学」

「宇宙際タイヒミュラー理論 (IUT理論)」と「ABC予想」の簡単なまとめ

「数学の祭典 MATH POWER 2017: ABC予想と新しい数学」

まずは上記のリンクから「数学の祭典 MATH POWER 2017: ABC予想と新しい数学」という講演を視聴してみてほしい。この講演は「IUT理論」と「ABC予想」について理解している数少ない人類の1人である加藤教授によるもので、中高生でも分かるような説明を目指したとのこと。実際に異様に難易度の高いはずの話が、圧倒的な分かり易さで解説されている。第1部〜第3部までで合計1時間30分程度なので、是非最初から最後まで視聴してほしいが、見る暇はないが概要だけ知りたいという忙しく欲深い現代人のために以下に重要な内容を簡潔にまとめておく。

・前提として「和」と「積」の関係性は複雑過ぎて分からない。
・「IUT理論」では「和」と「積」を別々の「宇宙」で扱う。
・「和」はそのまま、「積」は入れ子構造的に抽出したコピーを別の「宇宙」で当てはめる。
・等式を使用すると歪み、不定性が生じるので、それらを定量化して不等式を導く。
・具体的には「対称性」 → 「モノ」という順序で伝達、復元することで、歪み、不定性を近似的に定量化した不等式を導く。
・「IUT理論」のこの仕組みを利用すれば「ABC予想」は解決する。

上記のリンクを視聴、もしくはこのまとめを読めば雰囲気だけでも分かるように、「ABC予想」を解決するための道具として開発された「IUT理論」が、結果的には数学の世界にパラダイムシフトをもたらすほど斬新で、有用な道具になっていることが分かる。

「宇宙際タイヒミュラー理論 (IUT理論)」のイメージ

「可能世界論」と次元の「コンパクト化」

抽象的な理論を理解する際には、比喩的なイメージが重要である。比喩は厳密に言えば無関係であっても、想像力を駆使することで磁力のように異なる要素同士を引き寄せて、概算的な見取り図を描くことを可能にする。例えば講演の中でも「宇宙」、「パラレルワールド」という言葉が使用されているが、哲学的な観点からは「IUT理論」の発想は「可能世界論」を想起させる。それもただの可能世界ではなく、入れ子構造になったマトリックスが互いに影響を与えているような印象だ。もしくは物理学的な観点からは、次元の「コンパクト化」を想起させる。例えば木は近くで見たら3次元の立体、少し離れて見れば2次元の平面、さらに離れて見れば1次元の点、究極的に離れて見れば0次元として存在しないように見える。これは木自体の次元が変わっているわけではないが、観測者との関係性によって次元が「コンパクト化」されたということになる。「IUT理論」ではサイズの異なるパズルのピース同士を別々の「宇宙」で擬似的に当てはめるという発想が、「可能世界論」や「コンパクト化」のような発想に一部類似している部分があるように感じられた。

Forget what you know

また望月教授の独創的な発想は、新しい道具を積極的に作っている、そもそも宇宙の見え方の枠組み自体を変えるという意味で、以下のJacob BarnettによるTEDxTeenの話を彷彿とさせる部分があった。Jacob Barnettの主張は単純明快で、創造的な方法で考えるためには、今すぐに学ぶことを辞めて、自分独自の方法で考え始めなければならないという主張だ。世界を認知している形態自体が他とは異なることが天才の条件の一つだが、その認知形態によって思考することで、誰も到達したことのない最先端を創り出すことが可能になるというのが彼の主張だろう。ちなみに個人的には知識は不必要とは思っておらず、あくまで自分独自の認知形態で宇宙を捉えることと、それをした上で既存の知識を捨て、独自の体系を道具ごと創り上げることが重要だと思っている。

Forget what you know | Jacob Barnett | TEDxTeen

新一の「心の一票」

最後に紹介するかどうか迷ったが、本人も公になることは避けられないと思っていることと、内容が素晴らしいので望月教授のブログを紹介して終わる。

新一の「心の一票」

ブログ更新の頻度は低いものの、「特異性」が高く、「複雑度」のあるブログとなっており、非常に興味深い。このブログでは数学的な話題を扱うことを主眼としてはいないものの、結果的には「IUT理論」普及活動としても良い補助線が引かれている印象を受けた。そもそも職業を自我に入力して「宇宙際幾何学者」が出力されるのは宇宙に望月教授唯一人だと思われる。個人的にも「Cross Media Artist」という独自の肩書きを使用しており、記事に書かれている内容においても様々な点で共感する部分があった。また全体を通して英語圏の文化におけるどうしても拭えない違和感と日本文化に対する愛情が表現されており、これは海外の特に英語圏で留学、もしくは生活したことのある人には非常に共感できる内容になっている。NILOG読者の方には全ての記事を読むことをお勧めする。ちなみに彼は「ビットコイン」の「創設者」であることは完全否定している。

三つのお薦め記事

ブログに関しては全ての記事を読了したので、以下に独断と偏見で三つのお薦め記事を選び、内容を手短に説明した上で自分なりに思ったことをまとめてみた。この三つの記事に共通しているのは、一般的な事柄に対して彼の専門である「IUT理論」を使用した分析がなされていること。なので今回の記事やリンク先から前提知識をある程度得た上で読んでみると、全く違った感想が得られるかもしれない。

第67回NHK紅白歌合戦

記事のリンクは以下。

第67回NHK紅白歌合戦

この記事では欅坂46の「サイレントマジョリティー」の歌詞と「IUT理論」との見事な対応関係を解説している箇所が見所。以前成功の関数: f(x1, x2)という記事を書いたことがあるけれど、この記事で言いたかったのは正しくここで書かれている「社会の主流=群れ」と「わが道」の「緊張関係」、「最適なバランス」のことであった。場合によってはピコ太郎風「ログ・テータ」も注目ポイントかもしれないのと、山中教授の紅白出演に対する自身の率直な気持ちなども書かれている。この内容を記述できる人間が現状彼しか存在しないという点でも非常に面白い内容になっており、一般的な事柄を専門分野の知見で解釈し直すという行為の面白さは、要するに人間が知を探求すればするほどに宇宙が興味深い側面を見せてくれることの証明でもある。つまり現在自分が住んでいる宇宙がつまらない、もしくは取るに足りないものであるのならば、そこには自分自身による一定の責任が発生しているということも言えるだろう。

ドラマ「逃げ恥」の感想:社会の貧困と「視野狭窄」

記事のリンクは以下。

ドラマ「逃げ恥」の感想:社会の貧困と「視野狭窄」

この記事ではまずドラマ「逃げ恥」の主要テーマを「マクロ対ミクロ落差」という観点から捉え直している。その「マクロ対ミクロ落差」の発生要因は社会における画一的な基準、物差しであり、これが社会の貧困と「視野狭窄」に繋がっていると分析している。これも奇妙な一致というか驚いたことに、この社会における画一的な基準、物差しの問題を扱っていたのが自分が現在も取り組んでいる「規格外」というアート作品である。「規格」のみを再生産し、「規格外」をひたすら排除し続ける構造こそが社会の貧困と「視野狭窄」に繋がっているという問題意識は彼とほぼ一致する。彼はこの問題を「IUT理論」に当てはめて分析し、突破口として「仮想的な満額回答」を設定し、「歪み・不具合・誤差」を計算するという提案をしている。これは自分のアート作品でも参考になる、もしくは応用できる考え方なのではないかと思った。

「心ある壁」を構築し、維持することの重要性/「心壁論」と、論理構造の解明・組合せ論的整理術を「心の基軸」 とすることの本質的重要性

記事のリンクは以下。

「心ある壁」を構築し、維持することの重要性

「心壁論」と、論理構造の解明・組合せ論的整理術を「心の基軸」 とすることの本質的重要性

最後は二つの記事だが、連続している内容なのであしからず。これらの記事では簡単に言えば養老孟司「バカの壁」で書かれていたような問題を扱っている。要するに「人間は何故分かり合えないのか」という哲学的に普遍的な問題を数学的、「IUT理論」的な観点から分析している記事になっている。彼の主張を要約するとこの普遍的な問題を突破するには適切に「壁」を設定した上で、それを通り抜ける「心」が重要と言っており、この構造は「IUT理論」における異なる「宇宙」同士を隔てる「壁」を、どうやって「心」= 「対称性」で通り抜けるかという話に言い換えることが可能だ。

彼の主張によれば「壁」を適切に設定しないと以下のようになる。

「複雑性」増加 → 「認識解像度」低下 → 社会の破綻

これはつまり論理構造の問題、数学の問題であり、先程の記事での社会の貧困と「視野狭窄」は、「複雑性」が増加したものを、線形的な (不適切かつ極めて非建設的な) 秩序で評価してしまうことによって引き起こされると彼は述べている。それを防ぐ一案としては自然言語 → 論理構造などを整理した数学的な内容に集中するべきとも言っている。自然言語の問題はSNSを見れば一目瞭然であり、エモさの伝達だけならXR的な言語を介さないコミュニケーション手段の方が適している。しかしそれでは専門的な話はできないので、そういった話をする場合はできるだけ数学的な言語を使用するべきというのは文系、理系を問わず重要な考え方であるはずだ。またこの記事を読むと「IUT理論」のような「宇宙」が複数存在しているということを前提にする世界観は、西洋的な一神教の世界では非常に理解しづらいのかもしれないと思った。何故かと言えば、日本では八百万の神に代表されるように多神教が前提の世界観で生きているので、「IUT理論」のように複数の「宇宙」が並列的に存在しているという前提を自然と受け入れやすい。一方で西洋的な一神教の世界では、宇宙は神が創造した単一のものであるという信仰が根強い。それはアインシュタインのような天才が量子論を死ぬまで受け入れられなかった程度には重い病として存在している。この記事では他にも最初に述べたような英語圏の文化と日本文化の対比が表現されていて、興味深い内容になっている。

参照リンク集

望月教授、もしくは彼の論文の内容についてさらに詳しく知りたい人のための参照リンク集は以下。

望月新一@数理研

非常に優れた研究者はデザインに関しても「特異性」と「複雑度」があるということを証明しているお茶目な公式ウェブサイト。

望月新一の論文

望月教授の論文一覧。

望月新一さんの数学

玉川教授による望月教授の数学に対するコメント。

村中璃子、「ジョン・マドックス賞」を受賞

村中璃子、「ジョン・マドックス賞」を受賞

今回の記事では村中璃子が「ジョン・マドックス賞」を受賞したことについて書く。これは非常に素晴らしいことなのだが、何故か日本のマスメディアでは大々的に報道されず、黙殺に近い状態になっている。そこで今回はまず現代におけるメディアリテラシーの基盤として知っておいた方が良い「エコー・チェンバー現象」について説明し、次に「ジョン・マドックス賞」の性質について説明することで、何故こういう事態が起こっているのかを明らかにする。その上で子宮頸がんワクチンについての彼女の見解とその業界の構造から見える問題点を敷衍してまとめてみようと思う。ちなみにこの件に関しては日本語で検索すると根強い「Fake News」があり、情報リテラシーがない人は洗脳される可能性があるので、基本的には英語の情報も合わせて検索して情報収集することをお勧めする。

「エコーチェンバー現象」

マスメディアとSNSの問題は端的に言って「エコーチェンバー現象」にある。「エコーチェンバー現象」とは狭いコミュニティの内部において同様の考え方を持つ人間が多数集まることで、ある特定の偏った主張が反復、増幅され、その極端な主張が真実になってしまう現象のことだ。この現象を現代風に言い換えたのがNILOGでも何度も登場している概念である「Post-truth (ポスト真実)」や「Alternative facts (もう一つの事実)」だ。この現象が加速している原因を言えば、現代は「一人一宇宙の時代」であり、情報空間においてはタイムラインが別々の世界に人々が住んでいるので、「確証バイアス」が構造的に生じやすい環境になっているということになる。特に日本のマスメディアを見ていれば分かるように、そもそも海外のニュースを含めた重要な情報は取り上げられないし、SNSでは自分と似た性質の人間をフォローし合っているので、ある種の密室状態が形成されている。この性質によって現代は中世の魔女狩りの時代と類似した、炎上の時代を迎えているということになる。

「ジョン・マドックス賞」とは?

今回何故「エコー・チェンバー現象」を取り上げたかと言えば、先程も述べたように村中璃子、「ジョン・マドックス賞」受賞というニュースが主に日本のマスメディアによって黙殺されたからだ。「ジョン・マドックス賞」とは科学誌『ネイチャー』、財団「Kohn Foundation」、慈善団体「Sense about Science」が共催する、抵抗に遭いながらも正しい科学的知見を広めようとした人物に贈られる賞になる。これは以前NILOGの「外れ値」をピックアップすることという記事でも取り上げたMITメディアラボによる「Disobedience Award (不服従賞)」にも似た性質を持っている。もちろんここで言う抵抗には日本のマスメディアも含まれているので、この受賞のニュースを黙殺したのはある意味当然と言えば当然の対応ではある。ただし海外の賞の受賞というのは外圧になり得るので、時間の経過と共に今後対応が変わっていく可能性はあるだろう。

子宮頸がんの反ワクチン運動についての反論

実際に村中璃子が何を訴えたかと言うと、子宮頸がんの反ワクチン運動に対する反論だ。内容を簡単に要約すれば、子宮頸がんのワクチンである「HPVワクチン」は科学的なデータに基づいてその効果が実証されているが、日本では反ワクチン運動による科学的なデータに基づかない感情的な反論と捏造により、ワクチン摂取率が70%以上から1%以下まで落ち込んでしまったということだ。それによって今現在でも本来防げたはずの子宮頸がんを防げない状態が続いており、以前「WHO」からも科学的根拠に基づかない政策であるとして、先進国としては名指しで批判されている。また予防という概念が軽視されがちなのは医療だけではなく、あらゆる業界で見られる現象である。実際に病気になってから救われた方が病気になることなく救われるよりも感謝されることが多いが、それは予防が目に見えないので効果が実感しにくいという事情がある。しかし実際には何かが起こってから対処するよりもそれ以前に対処した方がはるかに効果的であり、多くの人々を救っている。そういう意味では慧眼を持って警鐘を鳴らす人物を「敵」と見なして排除、攻撃するのではなく、「功労者」として評価する仕組みはあらゆる業界で取り入れていくべき姿勢である。

参照リンク

最後にこの問題に関しては主に彼女の記事と発言、科学的なエビデンス、厚生労働省の見解、海外の情報を含めた以下のリンクの記事を読めば大体の流れが掴めるはずなので、興味のある方は是非参照してみてほしい。

あの激しいけいれんは本当に子宮頸がんワクチンの副反応なのか: 日本発「薬害騒動」の真相(前篇)

子宮頸がんワクチン薬害説にサイエンスはあるか: 日本発「薬害騒動」の真相(中篇)

子宮頸がんワクチンのせいだと苦しむ少女たちをどう救うのか: 日本発「薬害騒動」の真相(後篇)

ジョン・マドックス賞受賞スピーチ全文「10万個の子宮」

HPVワクチンに関する最近の動向

副反応追跡調査結果について

平成28年3月16日の成果発表会における発表内容について

平成28年3月16日の成果発表会における池田修一氏の発表内容に関する厚生労働省の見解について

平成29年度「子宮頸がんワクチン接種後に生じた症状に関する治療法の確立と情報提供についての研究」について

Doctor wins 2017 John Maddox prize for countering HPV vaccine misinformation

Women’s health champion, Dr Riko Muranaka, awarded the 2017 John Maddox Prize for Standing up for Science

Stopping the Spread of Japan’s Antivaccine Panic

追記

科学における「因果関係」の証明というのは、本来凄まじくハードルが高いものである。「相関関係」、「疑似相関」、「因果関係」の違いについてはNHKスペシャル「AIに聞いてみたどうすんのよ!?ニッポン」 前編: 「相関関係」と「疑似相関」と「因果関係」の違いという記事でも書いているのでそちらを参照してほしいが、今回の問題にもこれらの問題が深く関わっているように見える。一方で副作用のない薬はないと言われるように、ワクチンには副作用は一切存在しないという考え方があるのだとすれば、それはそれで偏っている。またワクチンの接種には究極的には「トロッコ問題」のように解決できない倫理的な問題が含まれる。例えばワクチンを接種することによって、今の数倍、数十倍の人を助けられる可能性があるとして、数人から数十人の犠牲者が出ることも確かだとする。その場合ワクチンを摂取するべきではないと主張する人がいたとして、この主張は倫理的には完全に間違っていると断言することはできない。何故なら人命は量で測定できるものではないからだ。これは「自動運転車」の問題とも重なるところがあって、何故かというと人が運転するよりも自動運転に任せた方が総合的に言えば事故数や死亡者数は遙かに抑えられる可能性が高いが、自動運転で事故や死亡者が一人でも出た場合、人々はそれに対して著しくセンセーショナルな反応をするだろうし、それはそれで当事者にとっては間違っているとは言えない。今回の問題はこういった非常に難しい問題を孕んでいるが、科学の進歩とは本来地道な作業と対話の積み重ねである。そういう意味で今後もこの問題の進展については注視していきたい。

2変数関数をGoogle検索で3Dグラフィックス表示して遊んでみた

Google検索の電卓機能と関数グラフ表示機能

Google検索に電卓機能が付いていることは、Google検索を使用する大半の人が知っていることかと思う。この電卓機能の使用方法としては「電卓」と検索して出てきた電卓を使用して計算する方法と、数式を直接検索で入力する方法の2種類がある。一方でGoogle検索で関数を検索すると、実際にグラフを表示することができることを知っている人はそこまで多くないかもしれない。先日書いた以下の記事の項目ではその機能を使用して関数グラフを表示している。

「量子コンピュータ」と「ブロックチェーン」: 2^nの威力

さらにGoogle検索では2Dグラフィックスだけではなく、3Dグラフィックスにも対応しており、2変数関数を3Dグラフィックス表示して遊ぶこともできる。この機能自体は何年も前に「WebGL」を使用して実装されていたものだが、これを知っている人はかなり少ないだろう。しかしこれは大変面白い機能なので、今回はこの機能を使用して遊んでみようと思う。ちなみにこの機能は「WebGL」に対応したGoogle ChromeやFirefoxなどのブラウザでないと使用できない可能性があるのであしからず。

関数と2変数関数

実際に遊び始める前に前提知識として、関数について2変数関数を含めて簡単に説明しておく。

関数
「入力」 → 「処理」 → 「出力」

関数とは一言で言えば「入力」 → 「処理」 → 「出力」という一連の流れがあった時に、「処理」の部分を担うブラックボックスのことである。例えばある関数に「ダイヤ」を入力したら「タイヤ」が出力され、「ゴマ」を入力したら「コマ」が出力され、「ガラス」を入力したら「カラス」が出力されたとする。ではこのブラックボックスでは一体どのような「処理」をしているのかと推測してみると、恐らく先頭の文字の濁点を取るという「処理」をしているのだろうと分かる。このように一旦仕組みが分かれば、ブラックボックスは便利なツールに変わる。今度は「ビール」を入れてみることで「処理」の法則が確認ができるし、「パリ」を入力してみることでより多くのことが分かるだろう。

関数の応用

説明をより数学に近付けてみると、変数xを先程の「入力」として考え、変数yを先程の「出力」と考えれば良い。例えばy = 2xという関数があった場合のことを考えてみる。試しにxに2を「入力」すると、2倍に「処理」され、4として「出力」されたものがyになる。こうやって考えると先程の「入力」 → 「処理」 → 「出力」とやっていることは何も変わらない。余談だが人間の脳と心も何かしらの関数で動いていると推測されるが、その仕組みは複雑すぎるので記号として記述可能なものであるかどうかは分かっていない。なので物理的な脳と情報的な心の両面から準記号のレベルを含めた記述が求められるが、それらの仕組みが従来のfMRIや行動心理学のような単純な記述で解明されるものではないことは確かだ。またDeep Learningがこの先幾ら進化したところで、そのパラダイムでは究極的に強いAIの理念のような感情を持つAIができることはないだろう。

2変数関数

2変数関数とは先程の「入力」 → 「処理」 → 「出力」のモデルの中で、「入力」が二つの変数からできている関数のことだ。この二つの変数を「入力」して「処理」した結果に対しては、「出力」としてもう一つの変数が必要になるので、合計で三つの変数が登場することになる。これを数式で表現するとz = f(x, y)のように表現することができる。このように表現すると途端に難しく感じられるかもしれないが、例えば2変数関数の例としては三角形の面積が挙げられる。つまり「底辺」と「高さ」という二つの変数を「入力」して公式で「処理」し、出力されたものが「面積」となる。数式としては「底辺」をx、「高さ」をy、「面積」をzとすると、z = (x*y)/2で表現できる。また「入力」する変数が二つ以上のものを多変数関数と呼ぶので、2変数関数は多変数関数の一種でもある。

三つの2変数関数の3Dグラフィックス

さてここからは実際に2変数関数をGoogle検索することで、3Dグラフィックス表示して遊んでみる。全部で三つの2変数関数を紹介するが、興味のある方は是非自作の2変数関数を作って遊んでみてほしい。この3Dグラフィックスは拡大、縮小、回転などもできるので、様々な角度から楽しむことができる。ちなみに分かり易いように3Dグラフィックスのスクリーンショットと数式で検索したリンクも同時に掲載している。

三角形の面積

z = (x*y)/2

最初は先程紹介した三角形の面積である、z = (x*y)/2。x、y、zの三つの変数が縦、横、高さの三つの次元として捉えられ、それらの対応関係が3Dグラフィックスとして表示されている。

イースターエッグ

z = 1.2 + (sqrt(1 – (sqrt(x^2 + y^2))^2) + 1 – x^2 – y^2)*(sin(10000*(x*3 + y/5 +7)) + 1/4) from -1.6 to 1.6

数式が凄まじいことになっているが、これは以前Googleのイースターエッグとして紹介されていたものになる。「sqrt」は平方根、「sin」は三角関数の正弦を意味しており、「from」と「to」を使用して変数の範囲を指定している。

第Ωの使徒 ベリアル (Belial)

z = sqrt(x^2*y^2 – tan(x*x + y*y))

最後に自作の関数で作った3Dグラフィックスを紹介する。イメージ的に新世紀エヴァンゲリオンの使徒っぽくなったので、第Ωの使徒 ベリアル (Belial) と名付けた。ちなみに使徒の名前はユダヤ教、キリスト教の天使の名前から命名されていることが多いので、あえて堕天使の名前を使ってみた。また数式の「tan」は最初は「cos」だったものを変形してアレンジしたものであり、今回の記事のFeatured Imageとして使用している画像は「cos」の画像になる。「cos」の方がより十字架の感じが伝わるかもしれないが、「cos」と「sin」ではほとんど形が変わらないことは興味深い。さらに範囲指定を変えたり、演算子を変えるだけで違った形になる面白さもある。ベリアルを変形したこれらの形は以下のリンクに掲載しておくが、これらをさらにアレンジしても面白い形ができるかもしれない。

z = sqrt(x^2*y^2 – cos(x*x + y*y))

z = sqrt(x^2*y^2 – sin(x*x + y*y))

z = sqrt(x^2*y^2 – tan(x*x + y*y)) from -5 to 5

z = sqrt(x^2*y^2 + tan(x*x + y*y)) from -2 to 2

今回の記事のまとめ

「発明」か「発見」か

今回の記事では2変数関数を含めた関数について簡単に説明した後に、2変数関数をGoogle検索で3Dグラフィックスとして表示する機能を使用して遊んでみた。このように適当に数式と3Dグラフィックスで遊んでみると、徐々に数学が「発明」ではなく、「発見」されるものだという感覚が掴めてくる。確かにある特定の数式とイメージは自分が「発見」しなければ見つからなかった可能性が高いが、一方でそれは「発見」される前に既に存在していたと捉えれば「発明」というのは違う気がしてくる。というより量子物理学的なミクロなレベルにおいては、存在は確率的に同時に可能世界として存在しているとも考えられるので、その場合はやはり宇宙というのは自分がいなくても存在するが、自分という存在が観測することでより意味のあるものになるということなのだろう。そして自分の宇宙をより意味のあるものにするためには、自分の視野を広げて様々な角度から掘り下げていく必要がある。

数式のイメージ化

また数学が分からなくなる人、苦手な人の大半は、数式がイメージとして捉えられていないのだと思う。数式をイメージとして捉えられないと、それはただの意味不明な呪文か抽象的な文字の羅列になってしまう。そういう意味では今回のように直感的に数式で遊ぶという経験は、数学教育にも役立つはず。iPhoneやiPadなどのデバイスが登場した時に思ったのは、よりイメージが体感に近づくことで学習効率が上がるということだった。ただし現在のようなXRの時代には平面的な箱に閉じ込められた立体よりも、物質をどのように情報として扱うか、もしくは情報をどのように物質として扱うかが大事になってくる。

Wolfram Alpha

最後にGoogle検索の他にもWolfram Alphaというウェブサイトが面白いので紹介しておく。このウェブサイトではGoogle検索とは違ったアルゴリズムで検索が可能であり、特に先程の数式などを入れてみればその有用性が分かると思う。もしくは「Pikachu‐like curve」や「Hatsune Miku‐like curve」で検索し、「Show ticks」をクリックするとその面白さが分かるだろう。数学とアートの限りなく奇跡的な融合は、自然に見出だされる美のように美しい。その美を一瞬のうちに体現してくれるテクノロジーに感動を覚えながら、今日はこの辺で締めとしたい。

満月と月見団子と中華まんのトポロジー

飯テロ

まず飯テロを敢行する。

十五夜の月見団子

北京飯店の中華まん (包子)

十五夜なのに満月が見えなくてむしゃくしゃしたのでやりました。反省はしていません。

トポロジーとは何か?

さて気持ちを切り替えて、今回の本題はトポロジーについて。先程の飯テロを伏線として使用しつつ説明していきたい。そもそもトポロジーとは何か?トポロジーは日本語で言えば位相幾何学という言葉になるのだけれど、語源を辿るとギリシャ語で「place = 位置」を意味する「τόπος」と「study = 学問」を意味する「λόγος」を組み合わせた「位置の学問」という意味になる。これは幾何学という言葉からも分かるように、図形や空間に関する数学の一分野である。具体的にはある図形を連続変形 (回転、裏返し、伸縮、拡大縮小など) をしても保たれる性質について研究する分野であり、そのイメージから「柔らかい幾何学」とも呼ばれている。

満月と月見団子と中華まんのトポロジー

例えば満月と月見団子と中華まんはトポロジー的に言えば位相同型である。位相同型とは何かと言えば、先程説明したような連続変形をした際に、ある図形とある図形が等しいことを指す。満月と月見団子と中華まんは穴が一つもなく、連続変形すればいずれも球体であるため、これらは全て位相同型であると言える。

実は月見団子の形は地域差が大きく、関東では球体、関西では楕円体が主流になっているが、これは江戸時代の月見の際に江戸では「団子」、関西では「里芋」をイメージしていたのが由来。他にも四国、中国地方では串団子、静岡県のへそ餅ではヘモグロビンのような形、愛知県名古屋市ではしずくの形、沖縄ではフキャギと言われる小豆をまぶしたものと月見団子の形には多様性がある。ただしいずれの月見団子も満月と位相同型なので、日本人は古来から月見団子を通してトポロジーを楽しんできた民族とも言える。

オイラーの多面体定理

トポロジーで有名な定理と言えば、オイラーの多面体定理。これは穴の存在しない多面体、つまり球体と位相同型な多面体について成り立つ定理のことで、頂点の数をV、辺の数をE、面の数をFとおくと以下の公式が成立する。

V − E + F = 2

試しに正八面体について調べてみると、正八面体はV = 6、E = 12、F = 8なのでオイラーの多面体定理を適用すると以下になり、公式が正しいことが分かる。

6 – 12 + 8 = 2

また穴の空いている多面体については穴の数をGとすると以下の公式が成立する。

V − E + F = 2 – 2G

オイラーの多面体定理の証明や「ケーニヒスベルクの問題」の一筆書きの問題はトポロジーと関係が深いので、興味のある方は各自以下のリンクなどを辿って調べてみてほしい。

オイラーの多面体定理を証明する

ケーニヒスベルクの問題

幾何学の種類

幾何学には大別してユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学がある。元々はユークリッド幾何学しか存在していなかったが、以下の第5公準が冗長であり、自明ではないことから歴史的に論争が交わされてきた。

「第5公準 : 1つの直線が2つの直線に交わり、同じ側の内角の和を2つの直角より小さくするならば、この2つの直線は限りなく延長されると、2つの直角より小さい角のある側において交わる。」

これは平行線公準とも呼ばれ、簡単に言えば平行線は交わらないということだ。後にユークリッド幾何学の他の四つの公準は公理として認められたものの、この第5公準が成立しない楕円幾何学と双曲幾何学が非ユークリッド幾何学として誕生することになる。対比としてはユークリッド幾何学を平面上の幾何学とすれば、これらの非ユークリッド幾何学は曲面上の幾何学と言うことができる。楕円幾何学は球体を扱い、平行線が引けない、双曲幾何学は擬球面を扱い、平行線が2本以上引けるというところに特徴がある。

数学は物理空間ではなく情報空間に存在している

これらの前提を通して何が言いたいのかと言えば、数学は物理空間ではなく情報空間に存在しているということだ。例えば小学生の頃に定規を使用して直線を引いたと思うが、厳密に言えば物理空間において直線を引くことは不可能である。何故なら直線はそもそも幅があってはいけないので、鉛筆で引いた時点で幅が出来てしまい、それは直線とは呼べないからだ。また非ユークリッド幾何学の視点から言えば、例えば東京とニューヨークを結ぶ最短距離は曲線になるはずで、直線は真っ直ぐであるという直感は覆される。だとしたら直線は存在しないのかと言えばそうではなく、人間の頭の中の情報空間には確かに存在している。それは例えば無限という概念を扱う際に、良く考えれば無限という概念を理解することは非常に難しいはずだが、誰でも感覚的に理解し、扱っているのと同じようなことだ。

先程の例で言えば満月と月見団子と中華まんはトポロジー的に言えば位相同型であると述べたが、これを物理空間において厳密なミクロの視点で見れば問題が出てくる。何故かと言えば素粒子のレベルまで分解したとすれば物質は穴が空き放題なのであって、トポロジー的な意味合いも変わってくるからだ。しかしあくまでも今回満月と月見団子と中華まんのトポロジーと言った時には、分かり易い例として言っているのであって、素粒子レベルでの定義をしているわけではない。また穴の数と言った際の厳密性の欠如の問題を克服するために、実際は以下のリンクのようにホモロジー群として代数的な定義がなされた上で扱われることになる。

柔らかいトポロジーの穴から眺める世界

今回の記事のまとめ

他にも現代幾何学は微分幾何学、代数幾何学など様々な幾何学が発展しており、どれも直感とはまた違った世界を見せてくれる。個人的にはイメージ上の操作が面白いトポロジーが一番好きなのだけれど、トポロジーはアーティストにとっても興味深い分野だと思う。十五夜の満月を眺め、スズムシとコオロギの鳴き声を聞きながら、トポロジーについて考える。今夜はそんな贅沢な夜を過ごしてみては如何でしょうか。

「宇宙人」とは何か?

「宇宙人」とは何か?

「宇宙人」とは何かというのは大変複雑で興味深い問題であり、今回は朝の散歩途中に色々考えたこともあり、この問題に関して定義レベルから発展させて様々な角度から考察してみたい。注意点として以下の説明ではWikipediaを引用している箇所があるが、Wikipediaについては10年以上前にNature誌でブリタニカ百科事典と同レベルの信頼性があると調査結果が発表されている。一方でそれに対する反論もあり、そもそも競技ディベートにおいては通常Wikipediaは情報源としての信頼性はないが、ここではそれに関しては考慮しない。

「宇宙人」の定義

「宇宙人」の定義について日本語版Wikipediaから引用すると「宇宙人(うちゅうじん)とは、地球外生命のうち知性を持つものの総称である。」と書いてある。一方で英語版Wikipediaから引用すると「Extraterrestrial intelligence (often abbreviated ETI) refers to hypothetical intelligent extraterrestrial life.」と書いてある。この二つの定義から、ある存在が「宇宙人」であるためには以下の2点を満たすことが必要であることが分かる。

1. 「地球外生命」であること
2. 「知性」を持つこと

では「地球外生命」と「知性」の定義は何だろうか?

「地球外生命」の定義

「地球外生命」の定義について日本語版Wikipediaから引用すると「地球外生命(ちきゅうがいせいめい、英語: extraterrestrial life / alien life、略称:ET)とは、地球大気圏の外の生命の総称である。」と書いてある。一方で英語版Wikipediaから引用すると「Extraterrestrial life,[n 1] also called alien life (or, if it is a sentient or relatively complex individual, an “extraterrestrial” or “alien”), is life that does not originate from Earth.」と書いてある。この二つの定義から、「地球外生命」とは地球に起源を持たない、地球大気圏外の生命一般を指すことが分かる。

つまり「地球外生命」は「知性」を持つかどうかは関係なく、存在する場所のみが重要であるので、「宇宙人」より幅広い対象を指す言葉である。ここで生命とは何かについて掘り下げることもできるが、本題から大幅に脱線しそうなので割愛する。ただ生命の定義は最先端の学者の間ですら合意が取れておらず、生命と非生命の境界はAIと不老不死の問題を伴ってこれから大きな問題になるということだけは簡単に言及しておく。

「知性」の定義

「知性」の定義は難しい。「知性」は「Intellect」、「知能」は「Intelligence」の訳語だが、それぞれの言葉の意味の違いについては以下のように諸説ある。

1. 「知性」と「知能」は同義である
2. 「知性」は「事実」に関連するが「知能」は「感覚」に関連する
3. 「知性」は「知能」の一部であり、特にその論理的、理性的側面を表す

また「知性」と「知能」の違いについて日本語で調べてみると、田坂広志による以下の記事の定義が広まっていることが分かった。

「第4講 知性を磨く」

該当箇所を引用すると『「知能」とは、「答えの在る問い」に対して、いち早く答えを見い出す能力のこと。これに対して、「知性」とは、「答えの無い問い」に対して、その問いを、問い続ける能力のこと。』と書いてある。一見もっともらしく聞こえるが、正直これらは一般的な定義であるとは思えない。というのも元々の英語の定義で言えば、「知能」は感覚的、「知性」は論理的なので意味が逆になっている印象で、さらに言えば「答えの在る問い」、「答えの無い問い」をどう扱うかが「知性」、「知能」と関係しているというソースは見つけられなかった。現在は本のタイトルとして「〜力」などの言葉を付けることが流行っており、その多くは「Web 2.0」などと同様に定義が曖昧、もしくは存在しないものであるが、この説明もそういった類いの独自言語という捉え方をするならば納得がいく。

個人的には抽象思考が「知性」、「知能」に繋がることには疑いの余地はなく、それは「逸脱する能力」と関係が深いと確信している。それと同時に「知性」も「知能」もより高度な「知能」、「知能」を持った存在によって定義付けたものがより正確であり、物差し自体が凡庸な「知性」、「知能」の定義に意味はないと思っている。そういう意味で言えば現在人類が定義している「知性」、「知能」などの定義は未来や他の場から見れば驚くほど不正確で、狭い範囲の物差しである可能性があるということだ。また「物事が上手くいかない場合の5つの対処法」でも書いた「時代」や「場」と「知性」、「知能」が合致するかは重要であり、天才とはその才能だけではなく「場」と「時代」の相性によって決まるとも言える。

またこの「知性」、「知能」の定義はAIの定義とも深く関わっており、一度当たり前になった能力は「知性」、「知能」、AIとは呼ばなくなるという定義の移行の問題もある。また例えば「知性」、「知能」には典型的な知性と非典型的な知性があるが、前者は測定可能であり、後者は測定不可能なものだ。しかし、非典型的な知性が測定可能になればそれもまた典型的な知性ということになり、いたちごっこは永遠に終わらない。これらの観点からある存在に「知性」、「知能」があるかどうかを判断するのは難しいと言えるが、実際にはある存在に「知性」、「知能」があるかどうかは人間の一方的な物差しによって判断されることになるだろう。

「宇宙人」という言葉

ここまでは「宇宙人」という言葉の定義について「地球外生命」と「知性」という言葉に分解して詳細に述べてきたわけだが、一つ言えるのは「宇宙人」という日本語が非常に誤解を招き易い言葉であるということ。例えば日本人といった場合〜人の前の言葉はその人の生まれた場所を指すので、「宇宙人」の場合は宇宙で生まれた人を指すと考えられる。ただ宇宙という概念は日本、地球などを全て包括しているので、普通に考えて地球人であるならば「宇宙人」であるというロジックが成り立つ。それなのに地球人と「宇宙人」を対義語として扱い、地球人は「宇宙人」ではないとしているところにこの言葉の違和感を感じる。それは例えば地球という概念は日本を包括しているが、日本人は地球人ではないと言っているような違和感と言えば分かり易いだろうか。また「宇宙人」は人であることを想起させる一方で、「知性」という部分が入っていないのでイメージが偏って固定されやすいように思える。

一方で英語の「Extraterrestrial intelligence」であるならば、その言葉の中に「地球外」と「知性 (知能)」の両方の意味が入っているので分かり易い。「Extra」は既存のものに何かを加える、「Terrestrial」は地球に関連する、地球起源の、「Intelligence」は「知性 (知能)」という意味である。宇宙と言ってしまうと、地球が含まれてしまうが、地球外とすれば地球は含まれない。またここで言う「Intelligence」は「Intellect」と同義であり、人ではなく、「知性 (知能)」と言っている分、より対象が広いイメージを思い描くことができる。このように日本語の「宇宙人」と英語の「Extraterrestrial intelligence」を比較してみると、後者の方が分かり易い。

「外」と「内」の境界

さらに思考を発展させていくと「宇宙人」、「地球外生命」、「知性」という概念は「外」と「内」の境界を揺るがすものとしてあるのではないかと思えてくる。時代を遡れば日本においては廃藩置県以前は一つの藩が国であり、その単位を境界として「外」と「内」が分裂していた。「外」と「内」の境界では争いが起こり、「内」だけのルールもあった。現代はグローバル化とインターネットの発達によって国境ですら「外」と「内」を分けているとは言い難い状況になっている一方で、そのグローバル化に対抗するナショナリズムの抵抗は根強い。この時代における「外」と「内」は国境を越えた都市と地方のグルーピングであり、情報空間も含めて考えるとGoogle、Appleといった複数のレイヤーの境界線が生まれては絶え間なくその境界線が変動している。例えば日本国内における地方よりも「東京」は「パリ」や「ニューヨーク」と近い性質を持っているし、日本よりもAppleに帰属意識を持っている人もいるだろう。

「宇宙人」という概念は国境ではなく地球と地球外というように「外」と「内」のスケールを変える力を持っているが、それがこの時代にどういう意味を持つのかは興味深い。また日本語の「外人」、「外国人」という言葉は英語では「Alien」、「Foreigner」が対応していると思われるが、「Alien」が「地球外生命」も意味するというのは「外」と「内」を国境と捉えるか、地球と地球外と捉えるかのスケール感の違いとしても捉えられる。最終的に気になるのは「内」が「外」に延々と拡張して最終的に一致した場合に、人はそれでも「外」を求めるのだろうかということ。「知性」は先程も言及したように「逸脱する能力」でもあり、逸脱するためには「外」と「内」の概念は深く関わってくる。「知性」が存在するためには「外」が必要であり、「外」があるためには「内」が必要であるが、それらが消えた世界は「知性」が存在しない、もしくは存在する必要がない世界になるのかもしれない。それは「死」克服した「不老不死」の世界において、人類は発展するのかという問いにも繋がる。

宇宙のフロンティア

「宇宙人」に関連する話題としては、宇宙のフロンティアはどこなのかという話題にも触れておきたい。Elon Muskは火星移住計画を実行しようとしており、それは面白いし実現可能だとも思っている。一方でそれは宇宙のフロンティアではないとも言える。何故なら地球から火星へというのは単純に物理世界を移動、もしくは拡張したに過ぎなくて、そこに興味深いことは沢山あるだろうけれど、情報世界とはほぼ無関係だからだ。宇宙が興味深いのはそれを観測する脳と心があるからであり、その謎を解明することこそが宇宙のフロンティアであり、AIはそのための格好の材料になる。そういう意味では宇宙のフロンティアを考えるためには情報世界を拡張することが必要であり、Elon Muskのプロジェクトでは火星移住計画よりNeuralinkの方に可能性を感じる。ただそれこそ彼の中では「Perm: do both」の精神で物理世界、情報世界のフロンティアを両方やりたいということなのだろうけれど。

「宇宙人」は存在するか

ここまでの話で通常話題の中心になるはずの「宇宙人」が存在するかしないかという話をほとんど話題にしていないのは、「宇宙人」はいるかいないかより、その概念が存在すること、その言葉が意味することの方が大事だからだ。印象論でしかないが、「宇宙人」が存在していると述べている人やソースの中には信頼できるものも含まれていると思うし、一方で大半の情報はオカルト、ジャンクといったノイズに過ぎないものとも感じられる。あとは「宇宙人」が存在するかしないかの話になると、科学の検証的に面倒くさい勢力に巻き込まれそうな気もするので余り話題にしたくないという気持ちもある。なので「宇宙人」は存在するかという問いに対しては、現状どちらとも言えないが、存在するしないという論点より面白い捉え方と議論があるということだ。

「未知」な存在としての「宇宙人」

最後にまだ語っていないことと言えば「宇宙人」は「未知」な存在であるということだ。改めて考えてみると、「未知」は世界中の至る所に存在している。例えばペットは「未知」であるし、家族も「未知」であるし、自分も「未知」である。そう考えると、この世界は「宇宙人」的なもので満たされているように思えてくる。以前「ロボットの気配」という記事で「宇宙人をどのように想像するか」には「人間としての限界」があるというようなことを書いたが、案外「宇宙人」というのは至る所にいて、その存在に気付けない、もしくは気付いていないだけなのかもしれない。

群読み: サイエンス、物理学とアイディア

最近読んだ以下の5冊の本を元に考えたことなどを書いてみる。今回の自分の中のテーマはサイエンス、特に物理学に関しての基礎的な知見を得て、それと自分のアイディアと知識を組み合わせてみること。自分の中でテーマを選んで、それに関連しそうな本を5冊程度選んで読むことを「群読み」と読んでいるが、これは「ランダム読み」、「継続読み」という読み方と共にいつか記事にする予定。

『「無」の科学』

『光とは何か』

『ニュートリノってナンダ?: 理科オンチにもわかる素粒子と宇宙のはなし』

『空想科学「理科」読本: 学校では教えてくれない!』

『すごい実験: 高校生にもわかる素粒子物理の最前線』

光年という単位は年が付いているために時間の単位と勘違いされやすいが、これは距離 (長さ) を示す単位。国際単位系ではなく、主に天文学で用いられる単位だ。定義を分かり易く言えば、光が真空中を1年かけて到達する距離ということになる。このように光年は距離を示す単位だが、一方で実際に夜空に光る星を見上げた時、それは空間軸以外にも時間軸の想像力も含んでいる。何故なら仮に約860光年離れたオリオン座のリゲルを見ているとしたら、それは約860年前にその星を旅立った光を今この瞬間に見ていることになる。つまり、日本で言えば平安時代の1157年、北条政子が生まれた時の光が長い時間をかけて到達した瞬間を目撃しているとも言える。肉眼で見える最も遠い天体はアンドロメダ銀河、もしくはさんかく座銀河と言われているが、これらは地球から約250万光年〜300万光年の距離離れていると言われている。250万年〜300万年前と言えば、アウストラロピテクス、エレクトス原人の時代であり、20万年前に現生人類のホモ・サピエンスが登場したことから考えると感慨深いものを感じる。このように夜空に並ぶ星々は同じように見えて、一つ一つが全く違った距離と時間を旅してきている光を今目撃しており、今はもう存在しない星の光を見ているのかもしれない。そう考えると夜空の星々はさらに神秘的に見えてくる。

物理学において物質を構成する最小単位が何かということは昔から議論されてきた。まだ科学が自然哲学として哲学の中に含まれていた時代にも、アルケー (万物の根源) が何かは盛んに議論されている。以下がそれぞれの主張になる。

タレス: 水
ヘラクレイトス: 火
ピタゴラス: 数
エンペドクレス: 火、水、土、空気の四つのリゾーマタ(rizomata: 根)
デモクリトス: アトモス (原子)
アナクシマンドロス: アペイロン (無限なもの)

タレスやヘラクレイトスはの水や火はまだアルケーという概念の初期段階として一つの物質を名指しているだけだが、ピタゴラスは物質は数からできているという一段階上の考え方を披露してピタゴラス教壇の教祖としての威厳を保った。これはかなり凄いことで、物質を名指ししてアルケーだと言うのではなく、数という情報の概念を導入してそこを物質の根源としている点は革命的だ。史実かは定かでないが、数がアルケーであることにこだわる余り、無理数を数ではないとして隠蔽したとも言われている。その数へのこだわりは数学におけるダフィット・ヒルベルトのヒルベルト・プログラムを彷彿させるものがある。ヒルベルト・プログラムでは数学の完全性と無矛盾性を証明しようとしたが、クルト・ゲーデルの最強の召喚魔術、不完全性定理により跡形もなく消滅する。話が逸れたので元に戻すと、エンペドクレスの四つのリゾーマタは万物の根源は一つという先入観から離れて、四つそれっぽいものを挙げておくという反則技を繰り出す。ピタゴラスで情報まで行き着いたのにまた物質に戻ったという意味では後退している感があるが、これらは後にプラトンを経てアリストテレスによって四元素という概念に昇華される。この四元素は漫画やゲームにおける魔法、特殊能力の基盤としてアレンジされつつ今でも活用されている。デモクリトスのアトモス (原子) は昔はそれほど流行らなかったらしいが、今日的な観点から見れば一番正解に近い考え方と言える。確かに当時は科学的根拠は皆無だが、「物質を最小構成単位にまで分割し、それ以上に分割不可分な粒子をアトモス (原子) と呼ぶ」というアイディアは、現在の物理学的な考え方としてもほぼ正しい見方をしていて驚かされる。アナクシマンドロスのアペイロン (無限なもの) は有限と無限が円環をなしており、その根源を無限と考えているが、これはその捉え方は異なるものの、仏教的における空と縁起にも関連する考え方だ。

物理学では物質の最小単位が新しい理論と実験の発展により、どんどん細かく分割されてきた。分子 → 原子 (これはデモクリトスの意味ではなく、科学的な意味での元素の最小単位としての原子) → 原子核 + 電子 → 陽子 + 中性子 + 電子 → 素粒子。その時々においてこれが物質の最小単位だという感じの名前を付けたりもするのだが、その最小単位がさらに更新されてしまうという流れがずっと続いてきたし、これからも続いていく可能性は高い。この呼称問題は現代美術とも類似した問題を持っていて、現代美術は何が現代美術家の定義がジャンルでも年代でも定説がなく、特定できない。しかも、今現代美術と呼ばれているものが500年後、1000年後に「現代」美術と呼ばれているわけがない。つまり、現代美術とは時代を基準としたメーターのノブの呼称のようなもので、特定のジャンルや年代は後に歴史的に別の呼称で整理され、現代美術というメーターのノブ自体は時代に合わせて先に進んでいくようなイメージだ。別の例ではジャンクDNAと呼ばれていたものが、無駄な領域ではないという研究結果などもあり、今現在の基準で絶対的な判断を下してしまうことの危うさはある。

素粒子は大別してボソンとフェルミオンに分かれ、ボソンはゲージ粒子とヒッグス粒子、フェルミオンはクォークとレプトンに分かれる。これらもさらに細分化できるが、重力子のようにまだ未発見の粒子もある。素粒子についてはまだまだ謎だらけだが、カミオカンデが歴史的には「陽子崩壊」を観測するための施設で、レプトンであるニュートリノ検出器ではなかったというのは面白い。その「陽子崩壊」の実験の失敗からピボットして継続して超新星爆発のチャンスを掴むというのは感動的ですらある。田中耕一さんの間違いからの発見と同じく、サイエンスでは失敗と思われたことが思わぬ発見に繋がることが多い。それはある特定の枠組みから外れたものにサイエンスの本質があるからで、既存の知の枠組みの中で閉じ込められていては歴史を変えるような発見は難しい。また宇宙における総質量を物理学と天文学の立場から計算すると、全く計算が合わないというのも面白い。ハドロン (クォークの複合粒子) の一種であるバリオンは言い換えると物質だけれど、それを合計しても4%にしかならない。ニュートリノは1%程度。残りの宇宙の構成物質の95%はダークマター、ダークエネルギーと呼ばれていて、未だに全く分かっていない。

最後にそれぞれの本を簡単に紹介して終わりたい。個人的なお勧めは『「無」の科学』『すごい実験: 高校生にもわかる素粒子物理の最前線』

『「無」の科学』は、『ニューサイエンティスト』誌に掲載された様々な寄稿者によるサイエンスにまつわるエッセイを、「無」という観点から25篇選んでまとめた本。個人的には「NIL」という名前が示す、「0」という数字が無と有の両面、仏教における「空」を示しているのではないかと考えているが、「詰まった真空」の無から何も生まれないのかという話と、「どれも無」の空集合の話はそれに関連する話として面白かった。また、プラセボ効果、ノセボ効果についてはそもそもストレスで病気になることを情報が物理に影響を及ぼす実例と考えれば驚くべきことではない。一方でそれらに対する万能性についても疑問を呈する。あるテーマに関連するページ数、索引、注の出典も書いてあり、あるテーマについて深掘りしたい場合に役立つ。

『光とは何か』では、光の基礎的な仕組みを語っている本。シャボン玉の話とモルフォチョウの構造色の話は落合陽一の「コロイドディスプレイ」を理解する上で役立つかもしれない。第5章の最新テクノロジーの話では、光にまつわる今の最新の技術や未来的に可能になるであろう技術を素早くまとめて紹介していている。この「エレクトロニクス」から「フォトニクス」への変化は脱人間的な変化であり、今後はさらに重要になってくる分野と考え方だと感じた。

『ニュートリノってナンダ?: 理科オンチにもわかる素粒子と宇宙のはなし』は、ニュートリノの歴史とカミオカンデ、スーパーカミオンデの果たした役割、今後の展望などを手っ取り早くおさらいできる本。カミオカンデではニュートリノの検出に初めて成功することによって小柴昌俊がノーベル物理学賞を受賞、スーパーカミオカンデではニュートリノ振動実験によってニュートリノに質量があることを梶田隆章がノーベル物理学賞を受賞。このくらいの情報はウィキペディアにも載っているが、そもそもニュートリノって何?ニュートリノ振動とは?ニュートリノに質量があると何が凄いのか?などを手っ取り早く知ることができる。またノーベル賞を受賞するには長生きしなければならないという戒めも再確認できる。

『空想科学「理科」読本: 学校では教えてくれない!』は、個人的には科学的な説明をするために、漫画やアニメなどを無理矢理使っている感じもあって、その親しみやすさと説明が水と油のように分離してしまっている印象を受けた。空想科学読本という試み自体はとても素敵なのだけれど、この本に関してはそこまでお勧めはできない。それぞれのタイトルは面白そうなのだけれど、読み進めると教科書的で退屈に感じた。唯一面白かったのが、仮面ライダーシリーズの植物怪人にはコケがいない!という指摘で、義務教育で習ったような植物の分類も改めて見てみると面白い。

『すごい実験: 高校生にもわかる素粒子物理の最前線』は、素粒子物理学の最先端の世界について、高校生に分かるように語るという趣旨の本。元々が高校生への講義を元にまとめていて、質問に対する応答のような形も多々あり、分かり易い。専門性の高い分野の研究をしている人間が、高校生に分かる言葉で語るというのは一つの試金石である。基本的にプレイヤーとコーチは違い、優秀なプレイヤーがコーチになると力を発揮できず、出来の悪いプレイヤー (著者が出来が悪いとは全く思わないが) がコーチになると優秀なコーチになるということがある。アガシやシャラポワなど一流テニスプレイヤーを育てたNick Bollettieriがプレイヤーとしては一流ではなかったのは有名だが、それは決して一般人とはかけ離れていない能力でトップレベルと戦ってきたからこそ分かることを一般人の目線で伝えられるからだ。その意味ではあるジャンルにおいてトッププレイヤーが必ずしも説明が上手いわけでも、説明が上手い人間がトッププレイヤーであるわけでもないが、こういう本を書ける人間は教育的な意味でも重要。記述の厳密性には欠けるのかもしれないけれど、余りに分かり易く語ろうとして逆に分かりにくくなるというような心配はこの本にはない。今回の自分のテーマに最も合っていた本で、一番お勧めできる本。個人的には最後の「研究とは、東急ハンズの棚に商品を並べていくこと」という文章が好き。これはある意味でアートの世界と似たもので、サイエンスとアートの共通点を示している。それは自分が昔から思っているような言葉で言い換えれば原石を発掘するということで、その原石を磨き上げるのがデザインやエンジニアリングだから、原石の段階で何の価値があるのかは分からない。しかし、とにかく原石を発掘し続けることで100年後に役立つかもしれないことを今やる。自分の分野に引きつけて考えると、何かを発掘をしても棚に並べていくことがまだアートでは弱い気がしている。そこに関してはメディアアートが進んでいて、人が並べた商品をどんどんピックアップして自分なりに発展させていく感じがある。そういう意味では、素粒子物理学に関する知識だけでなく、自分としてもとても大きなヒントをもらった。

「無」の科学
「無」の科学
編者: ジェレミー・ウェッブ
訳者: 水谷淳

光とは何か
光とは何か
著者: 江馬一弘

ニュートリノってナンダ?: 理科オンチにもわかる素粒子と宇宙のはなし
ニュートリノってナンダ?: 理科オンチにもわかる素粒子と宇宙のはなし
著者: 荒舩良孝

空想科学「理科」読本: 学校では教えてくれない!
空想科学「理科」読本: 学校では教えてくれない!
著者: 柳田理科雄

すごい実験: 高校生にもわかる素粒子物理の最前線
すごい実験: 高校生にもわかる素粒子物理の最前線
著者: 多田将

次元についての話: アーキテクチャにおける秩序と無秩序

0次元を点、1次元を線、2次元を面、3次元を立体、4次元を時間、5次元を情報とする。数学や物理学で定義される次元には幾つかの異なる考え方があるが、簡単に言えばある点を特定するために必要な座標の数の最小値を次元と呼んでいる。点が実在するか否かは昔から論争の的であったが、それは実在しないとも言えるし、実在するとも言える。実在しない根拠としては、実際に点を紙に書いてみれば良い。その点をどれだけ小さく書いたとしても、長さ、面積、体積を極小ながら含んでしまうだろう。点とは定義上、長さ、面積、体積を持たない図形なのだから、実際にそれを持たない点を書くことが不可能な以上、点は実在しないとも言える。一方で点は数学的概念としては実在している。ユークリッド幾何学では点は部分を持たないものと定義されるが、平行ではない直線を2本引いて、交わる箇所を点としてイメージすれば、簡単に理解できる概念であり、点は実在すると言える。これはつまり、自我が実在するかしないかと同じで、空という観点からみれば自我はないが、縁起という観点からみれば自我はあるとも言えるのと同じことだ。

数学の高次元幾何学では次元に時間を導入せず、空間の次元で拡張してn次元空間を考える。一方で物理学においては次元に時間を導入し、空間3次元 + 時間1次元以上の次元のことを余剰次元と呼んでいる。リサ・ランドールが『ワープする宇宙: 5次元時空の謎を解く』で言及していた5次元はこの余剰次元のことであり、超弦理論における10次元や5つの異なる超弦理論を統合すると期待されているM理論の11次元も基本的にはこの余剰次元であり、基本的には「空間次元 + 時間次元」であると考えられている。しかし、最初に提示した5次元はこの余剰次元を超える次元のことだ。まず1次元〜4次元まではそれぞれの座標をx, y, z, tとして、それらの変数が定まれば、特定の点が定まる。その上に5次元として情報次元を入れるということは、余剰次元がn次元存在していたとしても、「空間次元 + 時間次元」の上に情報次元があるという考え方になる。

この考え方を分かり易く説明してみる。これは野口聡一の3次元蟻の話が分かりやすい。直線にしか進めない蟻を1次元蟻とすると1次元蟻は大きな石が直線上に置かれていると先に進めなくなる。そこで、2次元蟻は横方向にずれるという考えを持つことができるので、その石を回避して進むことができる。だが、そこにもさらに壁が立ちふさがってしまう。前後左右を塞がれた2次元蟻はそこで動けなくなってしまう。しかし、上下という軸を考えられる3次元蟻はその壁を登って先へと進むことができる。これは人間にも当てはまる話で、通常人間も空を見上げない限りは2次元平面の世界を生きている場合も多い。これは物理的な話だけではなく、精神的な視野、視点の盲点として教訓になる話だ。2次元平面を移動する手段としては車や電車などが発達してきた。一方で飛行機などは3次元空間を移動するものとして発達してきたし、ドローンの登場によってz軸を意識する機会も大分増えてきたといえるだろう。最近ではElon Muskがロサンゼルスに3次元の交通ネットワークを建設するためにトンネルを掘り始めたが、これも3次元空間の上下の下という視点で見れば当然のことだ。次元が下の存在から見れば次元が上の存在はランダムにしか見えない。これは巨人を考えて見れば分かる。巨人の次の足がどこに落ちるのかは下界の人間にはランダムに見えるが、巨人から見ればただ歩いているだけだ。この巨人を蟻に対する人間として考えればより明確に捉えられるはずだ。

4次元については、自分がずっと動画で撮影されていると考えてみれば良い。自分の位置情報であるx, y, zの座標とある特定の時間tを入れれば、その動画に撮影されている自分が静止した状態で現れるとイメージすれば分かり易いはずだ。より抽象的に言えば、自分が時間を通して動いている残像全てが繋がっていて、ある特定の時間を入れるとその時間の残像だけが切り離されて3次元的に出現するイメージ。帰りの電車が遅延して人が満員の場合はこの時間tを考えてみると良い。終電でもない限りは無理して乗らなくても次に来る電車を待てばかなり空いた車両に乗ることができるだろう。y軸も組み合わせて考えてみれば、中央や階段付近は混雑するので先頭、もしくは末尾付近の車両に乗るということも考えられる。夜空の星を見上げると何か心が広がった気になるが、これは3次元空間 + 星という時間への想像力がそうさせるのかもしれない。5次元に関しては情報、概念の世界になる。空間としてはx, y, z、時間としてはt、それに加えてある特定の概念を指定すれば、ある特定の点が出現する。例えばアメリカ (空間) に1960年代 (時間) に一度でも存在していた人間 (概念) という座標を指定すれば、該当する点が多数出力される。それにはジョン・F・ケネディ、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア、マルコムXといった有名人から、当時Ohio州に住んでいた主婦、旅行で訪れたフランス人も含まれるだろう。

現代社会はその5次元の情報が様々な次元に立ち現れてきており、それが現実の世界を構成している。Pokémon GOのポケモンはあらゆる場所に現れ、JR、私鉄、神社仏閣が注意喚起を促したり、一部ポケモンを出現しないように要請していたというのは、つまりそれは実在の存在として認めないといけない程度には存在が認められているということだ。もちろん、一部のトレーナーの逸脱した行動抑制の面もあるだろうが、本質的には情報が物質と区別がなくなっていることの証明であり、こういった情報空間のXRは、これからもどんどん現実世界に立ち現れてくる。これはつまり、エントロピーの問題でもある。ここで言うエントロピーとはクロード・シャノンの定義するところのエントロピーの延長線上の話だ。人間は物質と情報を時間という媒体を通して行き来することができる程に進化した存在である。情報をトップとして物質をボトムとした時にその情報の極地には悟りがあり、物質の極地には戦争があると喩えれば一番分かり易い。エントロピーは乱雑性を示す指標であり、次元が上がるということは整合性が上がることを示し、次元が下がることはランダム性が上がることを示す。そういう意味では悟りの世界では全てがありのままに、整合性を持って捉えられるが、一方で戦争の世界では全てがランダムであり、人はただの肉の塊の数として処理される。北朝鮮とアメリカの戦争の話がメディアを賑わせているが、こういうエントロピーが高い話題こそ人間は判断を鈍らせるので、冷静に海外のニュースなどを集めてより整合的に情報を判断する必要がある。

ここまでの話を統合して考えると、まず理系と文系という区分はもはや必要がなく、それらは情報系に統合可能だ。そもそも納得できる理系と文系の定義に出会ったことがないが、大体が二項対立を作って、互いにマウンティングの道具として使うか、数学を使用するかしないかなどの話になる。前者は本質的に無意味だし、数学はもはや理系だろうが文系だろうが関係なく必要だ。一方で自分が何を学ぼうが、これからはAIや情報技術についての知識がなければ圧倒的な遅れをとることになる。そういう意味でいえば、情報系は空気のように日常に溶けているので意識すらされないと言うことも可能だ。Order of chaosは無秩序の秩序、Chaos of Orderは秩序の無秩序という意味だが、Cross Media Artsという言葉も含めて、そのような現状に対する言葉として自分で考えた造語だ。メタファー的には全てのジャンルが溶けていくのだから、その溶けたものをどのように再構築して創り上げるかという方が重要な考え方になる。

自分のやりたいことはアーキテクチャの概念が近いのかもしれない。これはもともと建築、構造などを意味する言葉だが、情報的な側面でも使用されることが多い。そういう意味ではMIT Media Labが建築スクールから発生してるという点は興味深い点だ。建築は空間を、音楽は時間を主に構築するが、インスタレーションはその両面を扱うことができ、アーキテクチャとしての自由度が高い。キュレーションはそのインスタレーションを情報的な観点からどう捉えて設置するかという問題を扱う。また、文章は情報を言葉に変換するものであり、文章構造と論理の繋がりと概念の埋め込みでできている。それは建築に喩えるなら、それぞれ設計図と骨組みと材木に相当する。以前消失した文章もその3点を覚えていたために、比較的楽に再現することが可能だった。近年ではその上でさらにエモさという軸を入れる必要性を感じる。元々メディアに拘らないで何かを創り続けているのだけれど、写真については一度撮り始めると延々と気になったものを撮ってしまう癖がある。これは何かアイディアを書き留める場合も同じだ。もう辛いから何も興味を持ちたくない、思い浮かばないでほしいと思っても写真が写真を呼び、文字が文字を呼ぶ状態になると止まらない。1度限界を試すために枕元にノートを置いて寝ようとしたが、そうするとアイディアが止まらなくなり寝られなくなったのでやめた。これらに関してはやればやるほど湧き出てくるという脳の性質もあるだろうが、全てを残さずにアーカイブしておきたいという偏執狂的なところもあるのかもしれない。そういう無秩序に湧き出てくるものを秩序として構成したいという欲求と、秩序だったものを無秩序に破壊したい、またそれらをメディア変換、次元変換していきたいという欲求が自分の中には同時に存在している。なのでそれらのアーキテクチャにおける秩序と無秩序に宿る次元を行き来することは、自分にとってもこれからの表現にとっても大事なことなんだろう。

ワープする宇宙: 5次元時空の謎を解く
ワープする宇宙: 5次元時空の謎を解く
著者: リサ・ランドール
監訳者: 向山信治
訳者: 塩原通緒