ラジオ体操と軍国主義

バトル・ロワイヤルの鮮烈な記憶

ラジオ体操を聞くと軍国主義の匂いを嗅ぎ取ってしまうのは、バトル・ロワイヤルの影響だろうか。映画の中では生徒たちが殺し合う中、キタノが校庭で1人ラジオ体操を意気揚々と踊っているシーンがあった。その強烈な違和感とギャップによる恐怖心は未だに脳裏に焼き付いている。その影響かラジオ体操の徹底して明るい音楽とそのナレーションからは、まるで北朝鮮のように統制された世界観が展開されているように感じ取れるが、その異様さは通常問題にならない。しかしこの嗅覚が間違っているようにも思えないので、今回はそれと関連する話も含めて少し掘り下げてみたい。

「前倣え」と「右向け右」

ラジオ体操とは直接関係はないかもしれないが、子供の頃に整列する際「前倣え」と「右向け右」という掛け声があった。これも今考えれば軍隊の訓練のような印象を受ける。まず号令があり、それに従って自分の体を強制的に操作させられ、結果的に全体で一つの形を形成する。この子供の頃に獲得した身体性の延長線上に、満員電車での我慢があるように思う。駅の発車メロディを号令として、強制的に身体が固体化させられ、時間通りに区切られた区間で解放される。そのロボット的な軍隊の駒となるための訓練が子供の頃からなされているのだとしたら、その成果は顕著に上がっていると言わざるを得ない。

ラジオ体操という名の催眠

ラジオ体操では音楽とナレーションに一定のリズムがあり、指示があり、それに従って体操することが求められる。音楽とダンスの相性が良いように、音楽と体操の相性も良い。無意識に流入してくるものに対して人は驚くほど無防備であるが、その指示の連続と反復に対して身体は抗うことなく受け入れることになる。この特徴は考えてみれば催眠状態に近く、ラジオ体操のようなものを集団で毎日行うという儀式は、その催眠状態というアンカーを引き出すためのトリガーになり得る。

創造性と権力

創造性は権力にとっては常に危険で邪魔なものなので、通常排除の対象となる。何故なら権力は常に枠の内側に人々を留めるように働くが、創造性は常に枠の外側へ人々を導くものであるからだ。そして自分の思考から身体性が奪われた時、人は創造性を失う。ラジオ体操によって身体を動かすことは気持ちが良い。しかし労働の現場でそれが流された時、無意識的にでもその軍国主義の匂いを嗅ぎ取る嗅覚を持つことを生存本能として忘れてはいけない。

言葉狩りによる現実狩りと曖昧語による現実隠蔽

言葉狩りによる現実狩り

言葉狩りによる現実狩り

言葉狩りは問題である。なぜかといえば言葉狩りは単純にある特定の言葉の使用を禁止するだけではなく、特定の現実を禁止する可能性があるからだ。 例えばF1のレースクイーン禁止、ベストフレンド禁止などは言葉狩りが現実世界に介入してきた実例である。むしろここでは従来の看護婦 → 看護師の言い換えのように男女平等の観点から言葉の言い換えが推奨されるというよりは、存在そのものが否定され始めていることに着目するべきだ。言葉狩りは概念の情報空間の産物であるが、現実狩りは物理世界にも介入するという意味でよりインパクトが大きいと言える。

美術の世界における#MeToo

そしてしてこの潮流は美術の世界も例外ではない。例えばNYのメトロポリタン美術館にある、バルテュス作「夢見るテレーズ」が猥褻であるとして、昨年末に撤去運動が巻き起こったことは記憶に新しい。また今年に入りマンチェスター市立美術館にある、ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス作「ヒュラスとニンフたち」が議論を促すためという名目で一時撤去された。これらに関しては#MeTooがダメな三つの理由で取り上げた#MeTooとも関連している話だ。また日本でも過去に愛知県美術館で開催された「これからの写真」という鷹野隆大による企画展で、展示作品の一部が猥褻であるという理由でそれらの部位を隠して展示するように警察から指導された。これに関しては男性ヌードであったが、問題の根本は同じだろう。過去は常に未来からの解釈によって解釈され続けるわけだが、この潮流が続いていけばヌードデッサン禁止などの未来が容易に想像できる。ただ何かを猥褻であると糾弾する時に表明されるのは、その糾弾した人がその部分を猥褻だと感じたことの表明であり、その表明自体に猥褻なものを感じるのがそういった視点はないのだろうか。それは昔で言えば家族でテレビを観る際にブラジャーのCMなどが映ると、親がチャンネルをおもむろにザッピングし始めることに対する恥ずかしさと似ている。

ポリコレ棒により窒息する世界

またこれらはポリコレ棒の問題でもある。これが何故問題なのかと言えば、ポリコレ棒を振りかざすことにより、日常の現実空間がすべて世界中の誰か一人にとって差別的であるか、もしくは猥褻であるかといった主観に左右され、その観点から問題である可能性が少しでもあるのならば、言葉、行為、存在を含めて禁止されるという現象が起こるからである。絶え間なく他者に配慮し続けなければならない世界においては、人は酸素がない水の中を泳ぐ魚のように窒息し始める。その世界の行き着く先は、壁を築いて棲み分けるしかなくなってしまう。

曖昧語による現実隠蔽

この記事の前半では行き過ぎた言葉狩り、#MeToo、ポリコレ棒が世界を窒息させるということが分かった。一方で逆に曖昧語を使用することにより、現実が隠蔽されている例もあり、その悪用に関しては適切な言葉に言い換えるべきであろう。なのでこの記事の後半では以下に三つの曖昧語を取り上げて、それぞれの曖昧語が隠蔽している現実を書いてみようと思う。

奨学金

まずは奨学金。奨学金とは英語でScholarshipのこと。これは返済義務のない支援金のことを指す。一方で返済義務のある支援金のことは学生ローンと呼ばれ、英語ではStudent loanがこれに該当する。最近ニュースでは奨学金破産という言葉がニュースになっているが、これはそもそも奨学金という概念を勘違いしている、もしくは意図的に学生ローンと混同させている可能性が高い。つまりここで隠蔽されている現実とは学生ローンが借金ということであり、それが奨学金という言葉を誤用することによってさらに混乱させられているということだ。これに関しては奨学金は奨学金、学生ローンは学生ローンと明確に呼び分けた上で、本来の意味での奨学金の支援を増やしていく方向に舵を切るべきだろう。

サービス残業

次にサービス残業。サービス残業とは正規の賃金を支払わない時間外労働のことであり、時には使用者によって労働者が強制されることがある。これに関しては明確に労働基準法違反であり、故意の場合は刑事罰も科される犯罪行為である。これを放置することは使用者にとっても、従業員にとっても、社会にとっても良くないことなので、労働基準監督署に申告するべきだが、必ずしも思い通りに対応されるとは限らないというところがこの問題の深刻なところだ。サービス残業は特別な取り決めがない限り、どのような状況であるにせよ違法であることは間違いないので、違法残業と呼ぶべきだろう。

いじめ

最後にいじめ。いじめという言葉を使用すると様々な現実を隠蔽することが可能になる。しかし実際にはいじめは暴行、傷害、脅迫、恐喝、強要、監禁などの犯罪行為であり、それらの行為が少年法によって保護されているに過ぎない。なのでたとえ少年法によって刑事責任が無かったとしても、行った行為に関してはいじめではなく、そのままの言葉を使用するべきだ。いじめの問題は非常に複雑な問題を孕んでいるので、その呼称を変えたとしてもいじめがなくなるとは全く思わないが、関係した周囲の人々を含めて認識の変化を促すことはありえる。よって現実をより正しく認識するという意味では、いじめという言葉で隠蔽されていた陰湿さや残虐さは、むしろ具体的な言葉として表に出すべきだろう。

今回の記事のまとめ

今回の記事の前半では、まず言葉狩りによる現実狩りについて説明する中で、美術の世界における#MeTooの流れや、ポリコレ棒によって窒息する世界を説明した。また記事の後半では、曖昧語による現実の隠蔽という観点から曖昧語を使用することにより、隠された現実が生じることを明らかにした。具体的には奨学金は奨学金と学生ローンの区別を付けて呼ばれるべきだし、サービス残業は違法残業、いじめは暴行、傷害、脅迫、恐喝、強要、監禁などの具体的な実態に即した呼び方をされるべきである。記事の前半の言葉狩りと後半の曖昧語は一件正反対の主張しているように思えるかもしれないが、前半は無限の配慮を強制するシステムに対する批判であり、後半は意図的な誤用、曖昧さを残す言葉を使用することによって、違法な行為を正当化するシステムに対する批判であるという点で全く異なる。しかしこれらの潮流が止まることはないどころかますます過激化していくであろう今後のことを考えると、現在の言語システムそのものを根本的に変える、もしくは違うレイヤーに脱出して棲み分けるしか対処方法はないだろうというのがとりあえずの結論なのである。

時事ネタ3連発: NHK受信契約最高裁判決/「PEZY Computing」社長、齊藤元章逮捕/トランプ大統領、「エルサレム首都宣言」

帰ってきた時事ネタ3連発

久しぶりに帰ってきた時事ネタ3連発。今回は記事タイトルの通り、NHK受信契約最高裁判決/「PEZY Computing」社長、齊藤元章逮捕/トランプ大統領、「エルサレム首都宣言」の三つの話題を取り上げる。最初の話題はマスメディアの報道に問題があり、次の話題はマスメディアを賑わせているが情報が錯綜しており、最後の話題は世界中を巻き込んで大混乱を巻き起こしている。いずれもセンシティブな問題が絡んでいるので取り扱いが難しい話題だが、今回はその難しさも踏まえた上で情報を発信していきたい。

NHK受信契約最高裁判決

「棄却」と「敗訴」と「合憲」

NHK受信契約最高裁判決が出た。これに関してはマスメディアでも取り上げられているが、先程も述べたように報じられ方に大きな問題があるので前提から整理していきたい。まず基本的な事項を確認する。このNHK受信契約についての裁判の原告はNHK、被告は都内の男性である。つまりNHKが受信料の支払いを拒んだ都内の男性を訴えたのであって、その逆ではない。その上で、以下のリンクを見てほしい。

http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=87281

結果の欄には「棄却」と書いてある。その上でさらに全文の中の主文を引用すると以下のようになっている。

「本件各上告を棄却する。各上告費用は各上告人の負担とする。」

「各上告」を棄却するということは、つまり原告も被告もどちらも勝訴していないということである。もしくはどちらも敗訴したという言い方が妥当かもしれない。なのにも関わらずこのような報道をしているマスメディアは少ないので、彼らはそもそも何も調べていないか、意図的に印象操作をしているのかどちらかであり、そのどちらであっても報道機関としては失格である。「棄却」や「敗訴」という言葉を使わずに「合憲」であるという言葉を強調している報道機関が多いことから考えると、後者の可能性が高いように思えるが、前者のように本当に無知なだけなのかもしれない。

「合憲」の根拠

「合憲」の根拠は恐らく以下の判事事項だろう。

「2 放送法64条1項は,同法に定められた日本放送協会の目的にかなう適正・公平な受信料徴収のために必要な内容の受信契約の締結を強制する旨を定めたものとして,憲法13条,21条,29条に違反しない」

ただしこれは何が「合憲か」という話であって、テレビを持っておらず、NHKと契約をしていない人に対して勝手に契約を結ぶことが「合憲」な訳でもないし、そういう人に対して支払い義務を課すことが「合憲」なわけでもない。あくまでテレビを設置した人に関しては、NHKと契約をしなければならないだけであって、それは今までもそうだったので改めて驚くべきことではない。

判決によって何が変わるのか?

特に何も変わらない。テレビを持っておらず、NHKと契約していない人でNHKを視聴しない人は今まで通り契約しなければ良いだけだ。恐らく今回の印象操作を利用して、「最高裁判決」、「合憲」云々と言ってくるNHK集金人がいそうだが、今回の判決はむしろ「棄却」、「敗訴」しているのであって、特にNHKに有利になったわけではない。テレビが必要ない人は、テレビを捨ててしまえば特にこの問題に頭を悩ませる必要もなくなる。実際現在のテレビで見るべき番組はほとんどないだろう。もしくは大した金額ではないと思うのなら、契約して受信料を支払えば良い。全てがシンプルであるが、仮に今回の判決で何かが大きく変わる、もしくはNHKに有利な判決が出たと思ってしまった人は、落ち着いてソースを確かめた上で、自分で判断する癖を付けると良いだろう。

「PEZY Computing」社長、齊藤元章逮捕

情報の錯綜

「PEZY Computing」の社長である齊藤元章が逮捕された。この問題に関しては正直情報が錯綜しすぎており、闇が深そうなので何が正しくて何が間違っているのかを現段階で判断することは難しい。印象論だけで言えば彼はエンジニア界隈からの評判は良く、実績と経歴を見ても十分なものを持っているように見える。一方で検察庁の特捜のエースがこの件を担当していることと、政治家との関わりに関しても情報が出てきているみたいなので、このまま何事もなく終わることはないだろう。容疑の内容としては詐欺容疑であり、NEDOの助成金を不正受給していたとのことだ。しかしNEDO自体は信頼のある団体であり、そもそも詐欺を働くこと自体が非常にハードルが高かったものと思われる。これらの状況を見るに、この事件の闇が相当深いことは分かるが、どちらにどのように転ぶのかは現段階ではやはり分からない。

齊藤元章について

齊藤元章については何か以前から知っているような気がしていたが、「プレ・シンギュラリティ」の提唱者ということで納得した。個人的には汎用人工知能の実現は幾つかのパラダイムシフトが必要だと思っているので、彼の言うように「6リットルに世界の人口に相当する73億人の人間の脳に匹敵する集積回路を収め」たところで汎用人工知能の実現がすぐに来るとは思わない。「スーパーコンピュータ」、「量子コンピュータ」、「Deep Learning」といった技術は素晴らしいが、それと汎用人工知能は全く別次元のところにある。また現状は量的なゴリ押しによって成果が出ている部分もあると思っていて、その状態を繰り返しているとやがて根本的な質の変化がないと解決できないところで一度行き詰まる気もしている。しかし「シンギュラリティ」や「プレ・シンギュラリティ」というヴィジョンが設定されることにより成し遂げられる何かは確実にあるので、そこに対して本気で取り組んでいる人としては非常に面白い。

決着の方向性

彼の「シンギュラリティ」、「プレ・シンギュラリティ」への情熱を余所に、現状永田町の現政権に飛び火したり、アメリカ陰謀論説が誕生するなど様々な広がりを見せる今回の件だが、重要なのはその不正受給した資金の使い道だろう。それを辿っていった先に誰が出てくるのかは分からないが、一度始めてしまった以上、特捜には徹底的に調べ尽くしてほしい。齊藤元章が今後どうなるのかは不明だが、仮に彼の情熱が本物であったとしたのなら、金子勇の二の舞にはならないでほしい。先程も言ったようにこの件に関しては現状どういう決着が付くのか全く予想が付かないので、もし今後も追加で情報が出てきた場合はまたブログで取り上げることになるかもしれない。

トランプ大統領、「エルサレム首都宣言」

国連安保理決議478号

トランプ大統領がイスラエルの首都をエルサレムであると宣言した。それに伴ってアメリカ大使館をテルアビブからエルサレムに移転するとのことだ。これによって当然パレスチナの反発があり、イスラム諸国は大混乱に陥っている。そもそも国連安保理決議478号では、国連加盟国がエルサレムに大使館を置くことを禁じている。トランプ大統領とその側近を含めてこれを知らないはずはない。しかしこうも簡単に違反されると、国連安保理、常任理事国という組織レベルでの存在意義と信頼性すら揺らいでくる。

エルサレムを巡る争い

そもそも過去を含めてイスラエル、パレスチナ共にエルサレムが首都だと主張してきたわけだが、それに関してはタブーのようになっており、むしろ触れないことによってある種の均衡が保たれていた。イスラエルはユダヤ人、パレスチナはアラブ人と大雑把に覚えておけば分かり易いが、エルサレムはユダヤ教、イスラム教、キリスト教の信者にとっての聖地であるために、常に争いの的となってきた。その争いの歴史は中東戦争の歴史でもあり、長い間中東和平が模索され続けてきた。その経緯の中での今回の宣言は、中東の火薬庫に爆薬を投げ込んだようなものであり、煽りとしては相当悪質なものになる。

トランプ大統領の役割

元々トランプ大統領の役割として何か大きなことをやらかす以外に期待されていたものがあったとしたら、その出自と経験を活かした経済政策だろう。実際に法人税を35%から20%に引き下げるというような経済政策は、アメリカの国際競争力を増加させると考えられる。一方で最大級の経済効果をもたらす活動の一つに戦争が挙げられる。北朝鮮に対する刺激、今回の中東に対する刺激は、戦争を起こすような方向に持って行く意図があるようにも思える。もちろん内政における自身のスキャンダルなどから目を逸らさせる意図もあったのかもしれないが、今回の件は普通に考えれば悪手だ。アメリカの大統領を穿った目で見れば、人徳でイメージを良くする役割と、戦争で経済効果をもたらす役割が交互に訪れている。今回の件で世界中から非難され、恨みを買っているトランプ大統領を盲目に支持することは、日本においてもテロの危険性を増す可能性もあると言えるが、日本の政府は彼と一緒に心中する覚悟はあるのだろうか。

『未来型国家エストニアの挑戦: 電子政府がひらく世界』を読んで

未来型国家と電子政府

『未来型国家エストニアの挑戦: 電子政府がひらく世界』を読了した。本書の全体の印象としてはかなりカジュアルで、留学体験記や旅行ガイドブックまではいかないけれど、それに近いような軽さでエストニアの電子政府の実態を紹介している。エストニアの人口は約130万人なので、日本の47都道府県で言えば約30位前後、奈良県辺りに最も近い人口ということになる。その国家規模から考えるとエストニアは日本という国家と比較するよりも地方都市と比較した方が良いのかもしれず、これは後に書く「分断」と「棲み分け」の話とも関連してくる。一方でエストニアのシステムが日本では参考にならないかといえば全くそうではなく、むしろ見習うべき点や意識さえ変えれば今すぐにできるはずの点も多々あり、普通に羨ましいと思った点も数多くある。また本書で重要なのは書かれている内容が既にエストニアで実践されており、一定以上の成果を挙げているという点で机上の空論でも未来の話でもないということだ。

ICT国家

まず根本的に面白いと思ったのは、エストニア人は意識としてデジタルに対する抵抗がないどころか、むしろアナログよりも効率的で、安全性が高く、環境負荷がかからないと思っている点。これに関してはある意味当然のことではあるけれど、電子署名、電子契約、ID、インターネット投票などのシステムが既にデジタルで運用されているというのは、未だにそれらの是非が議論されている段階の日本と比較すると圧倒的に進んでいる。もちろん全ての国民がデジタルネイティブであるわけではなく、世代によっては一定の抵抗感もあったようだが、「ソ連時代の古いシステムに対する執着」がなかったことと、ある程度強引に義務化したことが功を奏したようだ。ちなみにICTは「Information and Communication Technology」の略で、国際的にはIT (Information Technology) より一般的に使用される言葉になる。

「税制と税の申告」

最も羨ましかったのが本書の「税制と税の申告」に書かれていた内容。エストニアでは税制は「消費税は一律20%」、「所得税は国税と地方税合わせて21%」になっており、税の申告を含めた良い点は以下の三つ。

・税制がシンプルかつ、累進課税がないのでより公平
・教育、社会保障の充実
・税額は行政が計算し、税の申告はインターネットでするだけ

税制がシンプルかつ、累進課税がないのでより公平

税制がシンプルなのは非常に重要な要素。そもそも税制がシンプルでないから税額の計算に税理士や会計士が必要なのであり、個人で計算するにしても時間が取られ、確定申告によって国民全体の生産性が落ちる。その点において消費税と所得税のみの税制は分かり易いし、年金に関してもある程度自分で選択可能な制度になっているのは良い。累進課税の公平性については、以前書いた記事の項目で累進性と逆進性について書いているので、そちらを参照してほしい。

累進性と逆進性

教育、社会保障の充実

国民にとって税額が高いか安いかは、その割合や金額だけではなく、国家が税金を何に使用するかによる。そういう意味ではエストニアはその他の北欧国家と同じく教育、社会保障が充実している。教育は特定の条件を満たせば無償、医療費は健康保険に入っていれば基本的に無料になる。育児や子育てに関しての補助も充実しているので、使用用途から考えれば税額は割高とは言えないだろう。

税額は行政が計算し、税の申告はインターネットでするだけ

また先程は税制がシンプルなことが重要と述べたが、エストニアの場合は税制がシンプルなだけでなく、税の申告はさらにシンプルになっている。まず政府が個人の収入を把握しているため、税額は行政が計算して教えてくれる。その税額に沿ってインターネットで税の申告をするだけで終わりだ。政府が個人の収入を把握しているというと一見怖く聞こえるかもしれないが、普通に仕事をして暮らしていれば年末調整や確定申告などでどうせ収入は知られるので、特にやましいことがなければ個人事業主としては確定申告の手間が軽減されるので助かる。これに関しては個人的に羨ましすぎる。

「e-Residency」

本書の中で最も面白いと思った試みは「e-Residency」。「e-Residency」とは、エストニアに居住していない世界各国の人々にeIDカードを発行し、サービスを提供する試み。この試みによって世界中に散らばっている「フリーランサー」や「デジタルノマド」を「仮想エストニア国民」として今のうちから増やすことで、将来的な国力の基盤とするということだろう。実際にはこの「e-Residency」で何ができるかというと、例えば起業ができる。その起業の際にかかる時間は最速で「9分25秒」、一般的には「18分」程度だということだ。しかも内部留保している限りにおいて法人税は一切かからないという優遇がある。となってくると、英語さえできれば自分の住んでいる国で起業するより、エストニアで起業した方が楽でメリットが多いということすら現実味を帯びてくる。この「e-Residency」とエストニアでの起業は興味があるので、もしかしたら今後の動向次第で実際にやるかもしれないが、その際はまた報告したい。

「分断」と「棲み分け」

本書を読んで思ったことは、今後エストニアのように都市と地方、国家と企業、中央集権と地方分権というような二項対立に囚われないレイヤーで、テクノロジーを主体とした共同体はあらゆる場所に出現してくるのだろうということ。「スタートアップ国家」という言葉は本書でも使用されているが、実際にエストニアは現在エストコインを使用して国家によるICOを予定している。この動向だけを見ても、エストニアという国が国家を一つの企業のように捉え、身軽かつ柔軟に運営しようとしていることが分かる。以下の記事の項目では現在世界中、様々な形で「分断」が起こっていることについて書いた。

カール・シュミットの友敵理論

それは悲観的に捉えることもできるが、楽観的に捉えればレイヤーの違う「棲み分け」が進んでいるとも捉えられる。「棲み分け」についてさらに詳しく言及するのであれば、それは選択肢が多様化し、自分の意志でより自分に合った選択が可能になるということでもある。それは住む場所、受けるサービス、法律、権利、義務、関わる人々など全てを含めてだ。もちろん同一人物が複数のレイヤーに所属することも今よりは柔軟になるだろう。個人的に日本において以前から道州制を推しているのもそのためで、東京一極集中で全員がそこを目指す社会より、道州制によって法律や制度が異なる場所が国内に生まれ、多様性のある国民が多様性を保ったまま自由に住む場所や望む生活を送れるようにするのが良いと思っている。その意味ではエストニアはICT国家として国境を超えた国民すら集めているわけで、それはどちらかと言えばGoogle、Amazon、Uber、Airbnbなどの価値観に近いものがあるように見え、むしろ現在の状況においては人口の少ない身軽な国家や地方の方が将来的な可能性に拓けていると言えるのかもしれない。

未来型国家エストニアの挑戦: 電子政府がひらく世界
未来型国家エストニアの挑戦: 電子政府がひらく世界
著者: ラウル・アリキヴィ前田陽二

時事ネタ3連発: 「2ちゃんねる (2ch)」が「5ちゃんねる (5ch)」に変更/カタルーニャ独立運動/2017年ラスベガス・ストリップ銃乱射事件

今回の記事では時事ネタ3連発ということで、最近のニュースについて国際的なニュースを含めてまとめてみる。内容としては「2ちゃんねる (2ch)」が「5ちゃんねる (5ch)」に変更、カタルーニャ独立運動、2017年ラスベガス・ストリップ銃乱射事件の三本立てになる。それぞれのニュースの特徴を一言でまとめると、時代の流れ、歴史の変革点、現代社会の病理というキーワードが思い浮かぶが、いずれも現在進行形で事態が動いているニュースだ。

「2ちゃんねる (2ch)」が「5ちゃんねる (5ch)」に変更

変更の経緯

まずは「2ちゃんねる (2ch)」が「5ちゃんねる (5ch)」に変更というニュース。これは単に名称が変更になっただけではなく、管理運営権がRace Queen, Inc.からLoki Technology, Inc.に譲渡されたという変化もある。元々「2ch」の管理運営権は西村博之が持っていたのだが、2014年にサーバー運営者であるジム・ワトキンスに乗っ取られており、この泥沼の訴訟については未だに完全に決着が付いたわけではない。西村博之はその後「2ch」のコピーサイトである「2ch.sc」を開設して管理人になったり、「4chan」というアメリカ発の「2ch」の管理人になったりしている。今回の「2ch」から「5ch」への変更は、西村博之との権利関係の争いを避けるために名称変更して対応しようとしたものと思われる。

「2ch」的なもの

時代の流れを感じさせるのは、このニュースがネット上で余り話題になっていないこと。それは当然と言えば当然で、ユーザーからすれば名称が変わろうが管理運営者が変わろうが利便性に変化がなければ関係がない。ただ「2ch」的なものが完全に終わったのかと言えばそういうわけではなくて、匿名も実名も関係なくネット全体が「2ch」的なものになったという方が実態として正しいだろう。言い換えれば空気のような存在になったという意味で、完全にネット文化に浸透したという言い方もできる。昔は匿名か実名かという議論が大きな問題になり、「2ch」ではその匿名性の問題が度々指摘されてきたわけだが、今現在は実名であってもとんでもないことを言う人間はいるし、罵詈雑言が飛び交っている。テキストベースのコミュニケーションという意味では実は「2ch」は文章にリアリティを持つという高度な能力が求められるため、今後も緩やかに衰退していくことが予想されるが、ネット文化の中に埋め込まれた「2ch」的なものが消えることはないだろう。

カタルーニャ独立運動

独立運動の経緯

次にカタルーニャ独立運動について。これはスペインの自治州であるカタルーニャ州が、スペイン中央政府から独立するための運動だ。カタルーニャ州はカタルーニャ人による独自の文化が発展しており、経済的にも潤っているが、中央政府がそれらを尊重してこなかったことが主な独立の動機になっている。この独立運動は既に何年も前から起こっているが、10月1日に行われた住民投票によってますます中央政府とカタルーニャ州政府の衝突が激化している。中央政府は住民投票は違憲であるとしているが、カルレス・プッチダモン州首相は住民投票の結果、カタルーニャ州は既に独立国家となる権利を得たと主張。既にこの件で警察隊と住民が衝突しており、多数の負傷者や逮捕者も出てしまっている。この独立運動が今後内乱にまで発展するかどうかは不明だが、独立できるか否かは最終的に武力があるか否かにかかっているので、今度どうなるかはまだ分からない。

バベルの塔: 棲み分ける世界

ある地域が国家から独立する流れというのはこれから国を問わず活発化していくはずだ。一時期アメリカからカリフォルニア州が独立するための運動が「Calexit」と呼ばれて活発化していたように、現在でも世界中で国家からの独立を求めている地域は多数存在している。また人々はSNSを通じて共感と繋がりの快楽を覚えると共に、共感不可能性と棲み分けの重要性を学んだ。その世界の中で物理空間と情報空間を問わず、コミュニケーションが絶対に成り立たない多様性が生まれ、その多様性はアクセスすら不可能な断絶と共に棲み分けられていくことになるだろう。それがテクノロジーが生み出す情報空間におけるバベルの塔ということであり、これは物理空間における地域の国家からの独立という棲み分けの流れとも連動している。

2017年ラスベガス・ストリップ銃乱射事件

事件の経緯

最後に2017年ラスベガス・ストリップ銃乱射事件について。この事件ではアメリカで発生した銃乱射事件の中で歴史上最大規模の被害者が出た。犯行当時「ラスベガス・ストリップ」という大通りはカントリーミュージックの音楽祭会場になっており、犯人は「マンダレイ・ベイ」ホテルの32階から自動小銃を使用して無差別に銃を乱射した。銃乱射の角度から言ってその場に伏せようが逃げようが地獄であっただろう。容疑者は自殺したが、現在動機やテロとの関連は不明だ。今年の5月にアリアナ・グランデのコンサート会場で発生したマンチェスター・アリーナに於ける爆発物事件といい、音楽を楽しむ人々がテロの標的にされている現実は、音楽を制作する立場である自分にとっても非常に悲しくやるせない気持ちになる。

以下のリンク先では過去35年に遡ったアメリカの銃乱射事件の被害状況をチャートで見ることができる。

35 Years of Mass Shootings in the U.S. in One Chart

虐殺のない世界の世界線

つい先日『虐殺器官』: 不感症の感傷という記事を書いたが、正しく『虐殺器官』における虐殺のようにリアリティのない、ゲームのような死が現実のものとして起こってしまっている。銃規制については危険だから銃を規制するというよりは、危険だからこそ銃を保持して自分の身は自分で守るという思想の人が多いことと、全米ライフル協会の利権関係を考えると現状難しいだろう。そうであるならばパノプティコンやシビュラシステム、マイノリティ・リポートのような思想チェックを含めた監視社会も必要悪なのではないかと思えてくる。テロや銃乱射事件などの虐殺は現実世界より死後の世界のリアリティの方が強いから起こるのであって、それらとの戦いは死者との戦いに他ならず、既に死んでいる人間に勝つ術はない。また無差別な虐殺における被害者は常に代替可能であり、それは私であったかもしれない誰かが被害者であるという点において自分とは無関係とは言えない。一つ注意喚起しておきたいことは、SNSなどを通じて今回の犯行当時の映像がシェアされているが、こういった映像は極力見ないようにすること。何故かというと人は震災や銃乱射事件などの強いショックを伴う映像を見るだけでPTSDになる可能性があるからだ。死のランダムさを絶え間なく可視化される世界であっても、虐殺のない世界の世界線は必ず存在しているはず。そこに辿り着くための方法は分からないが、今はただ被害に遭われた方々に心からお悔やみ申し上げる。

希望なき選挙 後編: 絶望の果ての希望

目次

1. 今回の衆議院解散総選挙の争点
1.1. 争点は存在しない

1.2. 政局議論の極大化と政策議論の消滅

2. 投票について
2.1. 偏向し限定された投票先の選択肢

2.2. 投票は義務ではなく権利

2.2.1. 投票棄権した際のテンプレートな反対意見に対する反論

3. 政治用語の整理
3.1. 右翼と左翼

3.2. 保守とリベラル

3.3. 護憲派か改憲派か

3.4. その他の立場

4. 世界構造の見取り図
4.1. ナショナリズムとグローバリズム

4.2. バタリアニズムとコミュニタリアニズムとリベラリズム

5. 絶望の果ての希望
5.1. 更なる絶望

5.2. 「希望は、戦争。」には絶望が足りない

5.3. 絶望の果ての希望

6. 追記
7. 希望なき選挙: 連載記事リンク

今回の衆議院解散総選挙の争点

前編では「国難突破解散」、「国民に信を問う」、「しがらみのない政治で日本をリセット」、「アウフヘーベン」という四つのキーワードから衆議院解散総選挙についてまとめた。後編ではそれらのキーワードの先にある争点、投票、政治用語、世界構造について整理し、最後に一つの方向性について書く。

争点は存在しない

まず今回の衆議院解散総選挙の争点について述べると、結論から言えば「争点は存在しない」。前編で述べたように安倍首相の言う「国難」が本当に「国難」かどうかには疑問があり、「国民に信を問う」というのは建前であって、本音は「今このタイミングで選挙をすれば勝てるからやる」ということに他ならない。また小池代表の言う「しがらみのない政治で日本をリセット」は彼女の記号による大衆操作の基本戦略であり、「アウフヘーベン」は将来的なゴールである小池首相への布石である。これらの物語の中には主権者であるはずの国民が不在であり、本当に争うべき争点などどこにも存在しない。もちろんそれでは選挙が成立しないので、マスメディアを含めて捏造された争点が色々挙げられるはずだ。そのような動きの中で最初は存在しなかった争点が生まれるということもあるかもしれない。しかしたとえ争点が存在することになったとしても、それは無意味である可能性が高い。

政局議論の極大化と政策議論の消滅

何故かと言えばその争点は結局政局についての話であって、政策についての話である可能性は極めて低いからだ。政局とは政治家個人、もしくは派閥などを含めた政界の情勢のことであり、政策は問題解決のための方針、対策のことを指す。日本の政治においてはマスメディアの報道も含めて政局議論が主流であり、政策議論はほとんど存在しない。しかし政策のない政局だけの政治はただの権力闘争にしかならない。また政局においては首相も含めて国家議員はただの数でしかなく、どんなに素晴らしい政策を考えていようが数合わせの意味しかないのであれば、そもそも国会議員の数は遙かに少なくて良いはずだ。さらに言えばマニフェスト (選挙公約) は守らなくても法的拘束力もなければ罰則もなく、今までのマニフェストの実施率を調べてみればその無意味さが良く分かる。この観点から考えると、今回の衆議院解散総選挙ではそもそも「争点は存在しない」が、無理矢理作られた政局のみの争点によって政策議論は消滅し、また選挙期間中に国民を振り向かせるためだけに存在する、守られることのないマニフェストが各党から続々と出現するのだろう。

投票について

偏向し限定された投票先の選択肢

また今回の衆議院解散総選挙における投票先の選択肢は極めて偏っており、限定されている。前編で述べたように民進党は事実上消滅した。影響力のない野党を除けば残されているのは自民党 + 公明党か希望の党か共産党であり、現状維持の他は基本的には極右か極左かという選択肢を迫られることになる。さらに言えば何かしらの急展開が起こらない限り現時点でほぼ与党の勝利は確定であり、その議席を野党である希望の党が幾つ奪えるかという勝負になる。これは要するに保守 vs. 保守の戦いであって (自民党 + 公明党と希望の党が本当に保守と呼べるのかは置いておいて)、ここにはリベラルの影も形もない。しかし後に述べるようにリベラルの消滅というのは時代を象徴しているという意味で、現実における最先端の出来事であるとも言える。

投票は義務ではなく権利

今回の選挙は全国規模では初めて18歳選挙権が適用される選挙になる。そもそも普通選挙による参政権は歴史的に勝ち取られてきた権利であるという前提があるが、ここで重要なのは日本における投票は義務ではなく権利であるということだ。権利に関してはそれを行使するもしないも完全に自由なのであって、それを行使するから偉いわけでも行使しないから悪いわけでもない。しかし投票棄権をした場合には何故かテンプレートのような反対意見が降り注いでくる現象があるので、それらに対して簡単に反論していく。

投票棄権した際のテンプレートな反対意見に対する反論

良く言われるのが投票しない人間は政治に一切口出しをする権利はないといった意見。こういう意見を持っている人は恐らく投票という行為が国民ができる政治行為の全てだと勘違いしている。しかしデモや投票といった分かり易い部分だけではなく、実際は普段の生活の細かい部分に少しづつ政治というものが絡んでいるのであって、むしろ投票さえすれば後はどうでも良いし、投票した人について監視もしないという態度があり得るとするならば、そちらの方が問題があるだろう。そもそも一票の格差の問題は解決していないし、民主主義は多数決ではない。またこのような数のロジックでいくならば人口比的に若者は老人に何をどうしたって勝てないのであって、投票を棄権する行為こそがそれを助長するのだといったタイプの理想論こそが有害である。また投票権がない人間がいるのに棄権するのかといったような意見に対しては、例えばトロッコ問題のようにどちらも選べないということもまた選択肢としてあり得るのだと言いたい。他にもベストが選択できないとしてもベターを選ぶのが政治なのだという意見もあるだろうが、そうまでして投票しなければいけないという強迫観念とそれによって何かが変わるという幻想を抱かされていることこそが問題の根源である。さらに言えば投票棄権ではなく白票を投じるというのも数のロジックの前では完全に無意味だ。投票する人が政治に興味があり、投票棄権する人が政治に無関心であるという安易な分類はもはや通じないし、前者の方が後者より政治に貢献しているとも言えない。世襲議員やタレント議員が勝ち、党によって数として計算され、思想を漂白された議員立法すらしない議員が当選していき、選挙公約は選挙後に廃棄されるといういつもの流れは投票することによって変わりはしない。

政治用語の整理

右翼と左翼

そもそも右翼と左翼とは何を意味するのだろうか?通常は右翼 = 保守、左翼 = リベラルを指すと考えられることが多いが、これらの言葉には幾つか複雑で重大な問題がある。まず第一に時代の移り変わりや人によって言葉の定義と意味が違い過ぎること。右翼は保守的で国粋的、左翼は革新的で平等的な思想を好むとされるが、それは時代によっても変わる。また全く同じ人物や思想に対して右翼と呼ぶ人、もしくは左翼と呼ぶ人がいることがさらに混乱を招く。第二に同じ勢力、人物が行う一つ一つの政策に対して右翼、左翼と分類するのだとしたらそれには切りがない。しかし考えてみれば確かに同じ勢力、人物であっても政策によっては右翼的、もしくは左翼的であるというような多様性があるのは当然のことでもある。通常偏りがあったとしても両方の成分が混ざっているのが普通であり、これらの言葉は総合的に使用する言葉でもあるのだが、一方でこれらの言葉は二項対立煽りに使用されることが多く、余りにも極端かつ適当に扱われる傾向があることが事態を複雑化する。その偏りのグラデーションについては極右、右翼、中道右派、中道、中道左翼、左翼、極左といった分類がなされることもある。ほとんどの場合は中道右派〜中道左派の間に入ると思われるが、中道の場合は単に自分が政治的立場に無自覚である場合も多いだろう。

保守とリベラル

保守とリベラルというのは不思議な言葉で、英語に統一するならコンサバティブとリベラル、日本語に統一するなら保守と革新になるだろう。しかし現在は何故か保守とリベラルと言われることが多い。これはコンサバティブという言葉が馴染みのない言葉であり、リベラルという言葉は元々自由を意味するLibertyに由来するので、革新の意味とは完全に一致しないという翻訳上の都合もあるのかもしれない。自由であることと革新的であることは本来全く意味が異なるが、状況によっては革新的であることが自由を意味すること、もしくは自由であることが革新的を意味することもあり得なくはない。また日本にはグローバルスタンダードとしてのリベラルは存在していないという議論もあり、場合によっては本来の立場が逆転しているという議論もある。ここで一つだけ言えるのは何があっても安倍政権支持が保守、何があっても安倍政権反対がリベラルという分類ほど貧しい考え方はないということだ。それはもはや保守でもリベラルでもなく、政治ですらない。

護憲派か改憲派か

例えば日本国憲法に関しては本来護憲派という変化を望まない立場は保守の側であり、改憲派という変化を望む立場はリベラルの側であると思う人もいるだろう。しかし実際には保守と呼ばれる勢力は改憲派であることが多いし、リベラルと呼ばれる勢力は護憲派であることが多い。これは実際に変化を望むか否かではなく、現状の日本国憲法の内容がリベラル的であると判断しているのでリベラルが護憲派になり、内容が保守的ではないと判断しているので保守が改憲派になるということなのだろう。そもそも憲法改正についてはいきなり護憲派か改憲派かではなく、まず改憲するのならば何条をどう変えるべきなのか、何条をどう変えることに反対なのかという個別の条文の内容に関する議論があってしかるべきだろう。その議論なしにとにかく何でも良いから護憲、もしくは改憲というのでは意味を成していない。例えば前編でも述べたように、個人的には解釈改憲状態になっている日本国憲法第9条に対して自衛隊を軍隊と認めるように改憲するというのなら賛成するが、自民党による日本国憲法改正草案のように他の条文で国民主権すら奪われるような記述内容であれば護憲に賛成する。というよりそもそも日本国憲法は第1条から第103条まであるのであって、日本国憲法第9条のみを取り上げて護憲派か改憲派かという矮小化した議論になっていること自体が間違っている。このように単純化できない立場を表現する言葉として右翼、左翼、保守、リベラル、護憲派、改憲派といった言葉は荒過ぎるし、多くの場合レッテル貼りによる醜い争いにしかならない。

その他の立場

その他にもネオコン (新保守主義)、ネオリベ (新自由主義)、オルタナ右翼、ネトウヨなど色々な立場を指し示す言葉があるが、いずれの言葉も人による解釈の違いが大きく、レッテル貼りの二項対立煽りに使われることが多い。どちらかと言えば右翼系の言葉の方が多い傾向にあり、オルタナ右翼に対するオルタナ左翼、ネトウヨに対するテレサヨなどの言葉もなくもないが、どちらもそこまで普及していない。こういった言葉が難しいのはすぐ白か黒かのような二元論に還元され、踏み絵として使われてしまうことだ。本来はそこを往復するような立場や、その間の無限のグラデーションを表現するべきなのだが、こういった立場は複雑なので一般的に定着しづらい。また個人的には競技ディベートをやっていたので、どのような議論に対しても正反対の立場から突き詰めて考える癖が付いている。しかしそのような柔軟な立場は逆に理解されづらい。

世界構造の見取り図

ナショナリズムとグローバリズム

現状は政治はナショナリズム、経済はグローバリズムの原理で動いているが、これには限界がある。トランプ大統領の誕生とイギリスのEUからの脱退は象徴的な事件であり、ある意味これからの時代の潮流を示唆していた。それは国家という枠組みに対する物理的な地域による国境分けの限界だ。これは簡単に言えば都市と地方の差異が国家の枠組みには収まらなくなったことと、物理空間ではなく情報空間に人が所属するようになったことに原因がある。例えば東京はニューヨーク、ロンドン、ベルリンといった海外都市との方が、日本の他の地方との特徴よりも共通点が多い。なので経済的にはグローバルに繋がることは可能だが、政治のレベルでは国家単位で区分されてしまうが故に問題が出てくる。またTwitterやAmazonというような情報空間にシステムを組み立てるような企業は、国内の他の企業よりも例えばLineや阿里巴巴集団といった企業の方が利害関係が近い。こういった情報空間のシステムに依存している人にとってはTwitter、Amazon、Line、阿里巴巴といったサービスを使用禁止と言われた場合、もしかしたら国家によるパスポート発行禁止よりも困る可能性がある。

リバタリアニズムとコミュニタリアニズムとリベラリズム

リバタリアニズムとコミュニタリアニズムとリベラリズムについて。リバタリアニズムとは極限まで個人の自由を求める立場であり、国家の介入を最小限に抑えるという意味でグローバリズムと相性が良い。コミュニタリアニズムは共同体の利益や伝統を重視する立場であり、国家の介入を前提とするナショナリズムと相性が良い。リベラリズムは基本的に個人の自由を認めるが、公共の福祉として他者のためにその自由がある程度制限されることを肯定する。本来リベラリズムはリバタリアニズム的な個人主義やコミュニタリアニズム的な国家主義を超えた普遍主義を目指していたが、近年のリベラリズムの迷走により、現在は消滅したも同然の立場であると言っても良い。例えばポリコレなどは本来差別されている人間に対してその是正を求める寛容の精神としてリベラリズム的な普遍主義を目指していたものと思われるが、何をしても色々言われて「うざい」、「人間には自由があると言うのなら人間には差別する自由もある」というようなエモい感情により排斥されつつある。よって現代社会の課題はリベラリズム消失後のリバタリアニズムとコミュニタリアニズムという極端な選択肢しか残されていない中で、新しい普遍主義は可能か、またそれは哲学によって可能になるのかテクノロジーによって可能になるのかという部分になってくる。それは最終的にそれでも人間を信じるのか、それとも人間以外を信じるのかという思想の違いになってくるだろう。

絶望の果ての希望

更なる絶望

では一体どうすれば良いのか。まずはもっと絶望することだろう。はっきり言って今の政治の世界には希望はない。絶望が足りないが故に今のシステムのままで何とかできる、投票すれば何かが変わる、デモをすれば何かが変わるといったような薄い希望、一時的なお祭り騒ぎに乗せられる。その一時的な動員のロジックは後に何も残さず、全ての記憶は一瞬で忘却され、また同じ茶番劇が繰り返される。アメリカの大統領選でトランプとヒラリーが対決した際に直感的に思ったことは、どちらになっても最悪だなということだった。であるのならば誰が国のトップになろうが、どこの政権が権力を握ろうが、関係なく生きられるようなレイヤーで生きていきたいと思った。政治や経済と言えば一気に話が大きくなる気がするが、実態は自分の生活に強く根付いたものであり、何があろうが工夫次第で生きていけないことはない。このような生存戦略として一つ重要なのは、物理空間的にも情報空間的にもしっかりとした本拠地を持つと同時に、多拠点を持つことだ。

「希望は、戦争。」には絶望が足りない

赤城智宏はかつて「希望は、戦争。」と語った。その言葉にはまず格差社会において階層が階級として固定化し、社会移動の可能性が少なくなった社会システムにおけるソフトランディング的な改革に対する絶望が前提としてある。その上でハードランディング的でラディカルな変革の希望として、露悪的に戦争という概念を提出したのだろう。ただ個人的には3.11を経ても何も変わらなかった日本において、戦争が起きようが国が滅びようが何も変わることはないと思っている。そういう意味で「戦争は希望」と思えるというのは、まだ絶望が足りない。しかしこれによって勧めたいのは空虚なニヒリズムというわけでもなく、むしろアンチニヒリズムの勧めである。

絶望の果ての希望

安易な共感も理解も不可能な多様性、普遍的なものなど存在しないという矛盾を抱えた普遍性、人間を拡張しAIを拡張した上での共存、ひたすら浮き続け、排除され続けた上での創造性、政治をポリス、経済をオイコス + ノモスにまで立ち戻った上での生活実践をしていくしかない。政治は政治家にならないとできないものではないし、経済は経営者にしか関係のないものではない。世界は昨日も今日も明日もこの一瞬に自分が形成しているものであって、自分が認識する世界を拡張し、ただひたすらに自分なりの選択と生活の連続を積み重ねていくしかない。物事にはタイミングというものがあり、「今ここ」にコミットメントするべき時と、「今ここ」からはデタッチメントするべき時がある。明らかに今は後者のタイミングであり、自分でできることを自分なりにやり続けることが重要だ。また希望を描く人は絶望し易い人であり、絶望し易い人は希望を描き易い人でもある。しかし希望は他人から餌のように与えられるものではなく、自分で思い描くものである。ひたすらに未来に対する想像力を広げ、何があっても無力感に回収されない軸を持ち、淡々と自分なりの政治圏と経済圏のレイヤーを築きながら、創造性に人生を注ぎ込んでいくその覚悟の中にこそ絶望の果ての希望がある。

追記

立憲民主党という枝野幸男氏を代表とした政党が誕生した。この政党は元民進党の議員の中で、希望の党の公認申請に伴う踏み絵の方針に反発したリベラル系議員の受け皿として設立されたものだ。これで民進党は大別して希望の党、立憲民主党、無所属の三つの立場に分裂することになった。しかし今回の動きによってリベラル系の弱体化がなされた事実に変わりはなく、政治の大局が保守 vs. 保守であるという構図はしばらく動かないだろう。

希望なき選挙: 連載記事リンク

希望なき選挙 前編: 今回の衆議院解散総選挙のキーワード

希望なき選挙 後編: 絶望の果ての希望

希望なき選挙 前編: 今回の衆議院解散総選挙のキーワード

冒頭解散から衆議院解散総選挙へ

本日自民党が臨時国会を冒頭解散したことにより、衆議院解散総選挙が行われる予定だ。日程としては来月の10日に公示、22日に投開票ということになる。このニュースは連日話題になっているので、ほとんどの有権者が知っていることだろう。今回の「希望なき選挙」という前編と後編に分かれた連載記事では、冒頭解散から衆議院解散総選挙に関連する情報を様々な観点からまとめた上で、一つの方向性を示したいと思う。

今回の衆議院解散総選挙のキーワード

まず前編の記事では今回の衆議院解散総選挙のキーワードについて、政治家本人の発言を元に独自の視点でまとめてみたい。自民党の安倍首相は「国難突破解散」、「国民に信を問う」、希望の党の小池代表は「しがらみのない政治で日本をリセット」、「アウフヘーベン」というキーワードをそれぞれ残している。しかしこれらの言葉はそれぞれ具体的に何を指しているのか不明である、もしくは実態に沿っていない。なのでまずはこれらのキーワードの意味を捉え、それらが発せられる状況をメタ解釈した上で、後編の争点についての話に接続していきたい。

「国難突破解散」

「国難突破解散」については、「国難」という言葉が何を指しているのか分からない。「国難」が「国の危機」を漠然と指しているのならば、国家という単位自体が揺らいでいる現代社会においては、どこの国であれ常に「国難」と言えなくもない。そもそも「国難」という言葉自体がプロパガンダ的な言葉であるが、その言葉は国民の恐怖の情動を上手く煽っているという意味でプロパガンダとしては優秀な言葉だ。何故かというと恐怖の情動は扁桃体という原始的な脳の部位に作用するので、それを煽ることは正常な判断力を失わせるために有効な手段であるからだ。また「国難」だからそれを「突破」するために「解散」するというのも良く分からない。政権としては自民党、首相としては安倍首相の時代が長く続いているわけで、それで「国難」に陥っているというのならばそれは正しく自分たちに責任があるし、特に「冒頭解散」という説明責任を果たさない上での「解散」が本当に最善の選択だったのかということにも疑問が残る。

安倍首相の言う「国難」とは何か?

安倍首相の会見で話された内容を簡潔にまとめてみると、以下の3点が「国難」とされているようだ。

1. 少子高齢化
2. 消費税増税
3. 北朝鮮問題

少子高齢化では特に子育てと介護について。消費税増税は2019年10月から10%に増税される予定だが、その使い道について。北朝鮮問題では弾道ミサイル発射、核実験などの挑発に対する安全保障を含めた対応について。本題ではないのでそれぞれに対して超要約した自分の意見を1行にまとめてみる。1については少子化に伴う子育ても、高齢化に伴う介護についてもAIを発展させて対処するしかない。2についてはそもそも特別会計の使い道を問うことが先であって、国税を消費税に一本化するならまだしも、財布の紐が緩いのが問題であるのに、財布に余分にお金を入れる必要があるのか疑問。3については現在自衛隊は違憲なので憲法改正して自衛隊を軍隊と明記し、自衛隊を合憲化すると共に、サイバーセキュリティに国家予算を投入して安全保障を強化するべき。大雑把にそれぞれに対する意見をまとめるとこんなところだ。

そもそも上記のような「国難」の度に「解散」していたら政治は成り立たない。少子高齢化に関してはこれから数十年以上は確実に続く問題であるし、消費税増税については以前から延々と話し合われ続けていた問題であり、北朝鮮問題については今後もしばらく続いていく問題だろう。いずれも今このタイミングで冒頭解散して衆議院解散総選挙をやる必要のあるテーマとは思えない。ではこれらの「国難」がプロパガンダであるとして、そこに隠された真の意図とは何なのだろうか?その意図は次に挙げる「国民に信を問う」というキーワードに繋がってくる。

「国民に信を問う」

この「国民に信を問う」という言葉自体は特に目新しいものではない。日本国憲法で国民主権が記述されている以上、選挙で「国民に信を問う」ことは当然のことであり、政治や政府のあり方に関する最終的な決定権は首相も含めた国会議員ではなく、国民にある。過去の選挙でも「国民に信を問う」というような言葉は使用されていたが、今回に関してはこの言葉を文字通り受け取ることは難しい。結論から言えば「国民に信を問う」という言葉は表向きの理由であって、本音は「今このタイミングで選挙をすれば勝てるからやる」ということに尽きる。この結論に至る背景には前提として少なくとも二つの壮大な茶番劇が存在している。

二つの壮大な茶番劇

二つの壮大な茶番劇とは森友・加計問題と第3次安倍内閣のことだ。前者については忖度があったのは確かに問題かもしれないが、それは倫理の問題であって、違法性を主張するなら主張する側に立証責任がある。それが立証できないからと言って、安倍首相にやっていないことの証明、つまり悪魔の証明を求めるのは意味が分からないし、主張側が立証できない以上、その無駄な議論に国会の時間を浪費するのは害悪ですらあった。後者については森友・加計問題によって落ちた支持率とイメージを回復するために、支持率アップ、イメージ刷新という意味では完璧な組閣で対応した。実際に支持率はアップし、イメージは回復しつつある。ただ第3次安倍内閣は8月3日に組閣したばかりであり、このタイミングで衆議院解散総選挙をするということは、今回の組閣の人事はただの「客寄せパンダ」であったと言われても仕方ない。特に外相の河野太郎と総務相の野田聖子はサプライズ人事とも言われたが、最初から「使い捨て」を前提に選択していたのだとしたら本人たちにとっても余りにも不憫であり、そこに国民の信が反映されているとは言えない。

タイミングが命

先程述べたように今回の衆議院解散総選挙が「国難」を突破するため、もしくは「国民に信を問う」ためではなく、「今このタイミングで選挙をすれば勝てるからやる」のだとすれば全ての辻褄が合う。森友・加計問題は既に消失し、第3次安倍内閣によって支持率とイメージは徐々に回復し、北朝鮮問題によって国民の判断能力は鈍っている。判断能力が鈍っている人間は多くの場合現状維持を望むということから考えれば、このタイミングが衆議院解散総選挙に勝つためにベストなタイミングと言える。ただこれが本音だとするならば、「国民に信を問う」という表向きの理由も含めて茶番であり、衆議院解散総選挙という莫大な税金を使用した三つ目の壮大な茶番劇が開催されようとしていると捉えることも可能だろう。

「しがらみのない政治で日本をリセット」
意味の無意味の意味

「しがらみのない政治で日本をリセット」というキーワードは「国難突破解散」と同じくプロパガンダであり、深い意味は特に存在しないものと思われる。しかし具体性がないが故に反論不可能な力を持ち、記号でしかないが故に人が自らの想像力によって操られるというのはポストモダンが現実になった世界の基本戦略でもある。この点において小池代表は天才的な才能を持っており、それはトランプ大統領の才能にも似たものを感じる。以前築地市場移転問題において彼女は議事録が存在しないことについて、自分が「AI」、「人工知能」であるから必要ないというような発言をしていたが、それは何度聞き直しても意味不明な発言であった。しかし「AI」、「人工知能」という言葉が過去にない程に注目されている今、その言葉に付いている新規性や知的なイメージといったアンカーをそれらの言葉をトリガーとして使用することで、自分に埋め込むという意味においての発言と解釈すれば意味が不明でも発言の意図は分からなくもない。

小池代表の基本戦略

つまり小池代表が何をしているかといえば、主張における意味性を徹底的に排除し、記号のイメージだけで自分が有利になるような物語を形成し、大衆を扇動するという戦略を取っているということだ。これは現代社会に最適化した戦略であると共に、「AI」ではないエモい人類に対して驚くほど有効な戦略でもある。この観点から解釈するとすれば、「しがらみのない政治で日本をリセット」という言葉の狙いも良く分かる。何がしがらみで、何をリセットし、何が希望なのかは良く分からないが、ふわっと何か悪いものに抵抗しようとしている気配があり、そこには何かしらの必要性と潔い爽快感があるような気もしなくもなく、希望って何だか良い言葉だよねといった高濃度のエモリティが集結しつつあり、それを発生させられるのは小池百合子だけであり、この唯一無二の流れによって日本の政治が変わるのだというような雰囲気を醸し出す物語が醸成されつつあるということだ。実に良く出来た戦略である。

「アウフヘーベン」
新世紀エヴァンゲリオンと円柱

「アウフヘーベン」とはヘーゲルの弁証法における用語である。弁証法とはある命題 (テーゼ) と矛盾する命題 (アンチテーゼ) を止揚 (アウフヘーベン) することによって統合した命題 (ジンテーゼ) が生まれるという思想のことだ。これだけでは分かり辛いと思うので、新世紀エヴァンゲリオンの残酷な天使のテーゼ風に説明してみる。エヴァンゲリオンの物語は聖書を元にしており、テーゼはアダム (白き月) = 人類以外の生命の実 (S2機関) を持つ使徒の存在。アンチテーゼはリリス (黒き月) = 知恵の実 (科学力) を持つ人類 (リリン) と人類の生み出したエヴァンゲリオンの存在。それらは人類補完計画というアウフヘーベンを経て、ジンテーゼとして神と同等の存在になる。このエヴァンゲリオンの説明でさらに分からなくなった人は、図形の例を考えると簡単に理解できるはずだ。テーゼがある図形は円の形をしている。アンチテーゼはある図形は長方形の形をしている。これらをアウフヘーベンすると円柱というジンテーゼが生まれると考えてみれば良い。円柱は上下から見れば円であるし、横から見れば長方形に見えるので、この二つの図形が見事に一つの図形として統合されている。

民進党の事実上の消滅

さて「アウフヘーベン」という概念が完全に理解できたところで、小池代表の発言の「アウフヘーベン」に話を戻す。簡単に言えばテーゼを希望の党、アンチテーゼを民進党としてアウフヘーベンすることにより、さらに高次元の政党というジンテーゼを目指すという意味で発言したものと思われる。しかし先程の説明で完全に「アウフヘーベン」を理解してしまった人には、その説明では到底納得できないはずだ。まず事の経緯を追っていくと、民進党の代表である前原代表は既に民進党を捨て、無所属で出馬するということだ。これは喩えるならば何か事故が起こりそう、もしくは起こってしまった時に、責任者であるはずの船の船長が乗員乗客そっちのけで真っ先に避難したようなものだ。また代表が逃亡し、党として公認を出さない以上、今後民進党は希望の党に吸収合併されていく運命が決定したことになる。その時に民進党の議員は税金によって賄われた民進党の政党交付金を希望の党に巻き上げられた上で、今までの主張を全て覆して希望の党の公認という名の「踏み絵」を踏むか、それとは別の道を模索するかという2択を迫られる。前者を選択した場合はもう二度と国民からの信頼は得られないだろうし、後者を選択した場合は選挙に通る可能性が圧倒的に低くなるので、政治の表舞台からは消えることになる。つまりもはや民進党は事実上の消滅をしてしまったと言える。

ジンテーゼとしての小池首相

そもそも何のために民主党から民進党になったのかも分からないが、ここまで来てしまったら民進党を解党せずにいることは、選挙資金としての政党交付金のためであると言われても仕方がない。この希望の党と民進党の関係は企業間の一方的なM&Aのようなものであり、このように対等な統合でない状態を「アウフヘーベン」とは言えず、ジンテーゼとして残るのは希望の党だけだ。希望の党は今回の衆議院解散総選挙で議席を伸ばす余地がかなりあると思われ、今後都政のみならず国政に対する小池代表の影響力も無視できないレベルになっていく。小池代表は最終的にテーゼを都民ファーストの会特別顧問、アンチテーゼを希望の党代表とした上でアウフヘーベンし、ジンテーゼとして日本初の女性首相である小池首相になることを狙っているのかもしれない。その場合の犠牲、捨て駒は都民と国民ということになるのだが。そもそも時代遅れで近代的な概念である弁証法ですら偽りのスノッブな雰囲気で曲解していくという、ポストモダン的な記号の戦略を駆使する彼女の戦略はここでも徹底している。

希望なき選挙: 連載記事リンク

希望なき選挙 前編: 今回の衆議院解散総選挙のキーワード

希望なき選挙 後編: 絶望の果ての希望

日野皓正のビンタ騒動について

日野皓正のビンタ騒動の流れ

シンプルに捉えようと思えば捉えられる今回の日野皓正のビンタ騒動だが、考えれば考えるほどに根が深く、繊細な問題である。これについては既にマスメディアでも取り上げられており、著名人を含めてコメントが溢れているので既に多くの人が知っているニュースだろう。流れを簡単におさらいしておくと、まず世田谷区教育委員会主催の「新・才能の芽を育てる体験学習」の一環である「Dream Jazz Band Workshop」というワークショップがあり、それに参加した中学生たちが講師陣と共に「Dream Jazz Band Concert」として世田谷パブリックシアターでコンサートを行った。このコンサートは有料であり、大人の場合は¥4,500と価格的にはセミプロからプロにおけるコンサートの料金設定になっている。そのコンサートの最中にドラマーの生徒が指示を無視し、ドラムソロを30分程度にわたり演奏した。このドラムソロの演奏は事前に計画されたものではなく、演奏者たちのチームワークを乱すものであった。さらに指揮者であり指導者の代表でもある日野皓正が注意しても演奏を止めなかったために、ビンタをして止めようとしたというのが今回の騒動の一連の流れになる。

論点の整理

そもそも今回の話の論点は「体罰」について否定するか、肯定するか、容認するかという話が主流になっているが、そもそも外野がどうこう言える問題ではないという立場に立つ人もいる。これらの論点に関しても様々な意見が存在するが、「体罰」を「教育」、もしくは「暴力」というより大きな枠組みで捉えたときに、そこにはより複雑で繊細な問題が絡んでいることが分かる。なので今回はまず「体罰否定派」、「体罰肯定派」、「体罰容認派」、「外野不可知派」について簡単にまとめ、その後に「教育」と「暴力」の観点からそれぞれ話を整理してみようと思う。

「体罰否定派」

「体罰否定派」の場合、基本的には今回の日野皓正の行動は否定されることになるだろう。「体罰否定派」と「体罰肯定派」の特徴としては原理主義の立場に陥り易く、原理主義の立場においてはある種の思考停止がなされる場合は多い。ただし「何故人を殺してはいけないか?」という問いに対してディベートは相対主義なので肯定でも否定でも無限に答えが出せてしまうという問題と同じく、「体罰」のような「暴力」に対しても絶対主義の立場に立ち、被害者を守るという主張には一定の説得力がある。「体罰否定派」の場合は「体罰容認派」とは違い、「線引き問題」が起こらないかと思いきや、実際には何が「体罰」であり、何が「体罰」でないのかという「線引き問題」はあり得る。現代という時代を考慮すれば、「体罰否定派」はこれからますます増加していくと思われる。

「体罰肯定派」

「体罰肯定派」の場合、基本的には今回の日野皓正の行動は肯定されることになるだろう。「体罰肯定派」は「体罰否定派」とは逆の立場だが、共通の問題として先程も述べた原理主義の問題はある。「体罰肯定派」の中には「体罰」受けたことがある、もしくは「体罰」を実行したことがある人間も含まれていると思われ、それに対する教育的価値がある、もしくは指導方法として一定の効果があると信じているために肯定している側面はあるだろう。現代という時代を考慮すれば、「体罰肯定派」はこれからどんどん減少していくと思われる。

「体罰容認派」

「体罰肯定派」の場合、基本的には今回の日野皓正の行動は賛否両論だろう。「体罰容認派」の立場としては「体罰」という手段は間違っており、通常は使用しない方が望ましいが、最後の手段としてやむを得ない場合には「体罰」を使用することも容認するという考え方になる。規模は全く違うが、「核抑止」の考え方もこの延長線上にあると言えるだろう。「核抑止」は最終的に「核」という「暴力」が抑止力として存在するために、かえって「暴力」を牽制し、減らすことができるという考え方だ。要するに「なめられる」ことを防ぐ役割がそこにはある。ただこの「体罰容認派」が難しいのは一つ一つの「体罰」についての「線引き問題」が発生することであり、その明確なルールが存在しない上での「体罰容認」はいき過ぎた「暴力」を生む可能性もある。

「外屋不可知派」

「外屋不可知派」の場合、基本的には今回の日野皓正の行動の是非は彼とその指導を受けた生徒にしか分からないということになる。個人的にはこの立場であり、今回の件においては日野皓正とその生徒と親は納得しているとされており、それが本当であるならば「外屋」が何かを言うべきではない。ただこれに関しても「体罰」を受けた側が圧力によってそれを認めさせるというさらなる抑圧を受けている可能性はあって、それに関しての客観的な調査は必要だろう。また「外屋不可知派」の場合は「外野」にはその是非が分からないのだから放っておく、つまり言及すらしないでスルーするという立場か、言及はするという2つの立場があり得る。難しいのは「外屋」には分からないと言って自分が言及を避けたとしても、自分以外の「外屋」は必ず話題にするということだ。これは後に「教育」についての話にも関連するが、現代社会の一つの特徴は、2人だけの密室の世界はもはやあり得ないということだ。これは言い換えれば誰かが話題にしないということは基本的に不可能な世界であり、話題にないものは存在しない、そうであるならば自分としての解釈を発信するというのが世界に対する一つのコミットメントの方法であると言える。

それら以外の立場

ここまでは4つの基本的な立場を見てきたが、これ以外にも有料のコンサートでプロとして演奏、指導する場合の責任として、日野皓正にはドラムソロを止める責任があったと考える人。ドラムソロの演奏は『セッション』という映画に影響を受けたものであり、「体罰」ではなく「演奏」で返答するべきだったと考える人。そもそもジャズはルール無用なのだからドラムソロを止めるべきではなかったと考える人。それとは正反対にジャズにもルールがあるのだからドラムソロは止めるべきだったと考える人。色々な立場があるが、演奏者として一流かどうかと指導者として一流かどうかは別の問題なのでそこは分けて考えるべきかと思う。

「教育」について
「顕教」と「密教」

今回の件を通じて「教育」について現代社会においては「顕教」は可能でも、「密教」は難しくなってきたのだと感じた。「顕教」は要するに「知識」を教えることであって、それは書籍やインターネットなどを通じて得られるものだ。「密教」は「顕教」の「知識」だけでは得られない非言語情報を教えるものであり、基本的には師弟関係や対面の指導を通してしか得られないものになる。世界中のどこにいても「知識」が得られる世界において重要なのはむしろこの「密教」であり、例えば大学や大学院に行く価値が未だに存在しているとするならば教授による「密教」的な部分の教えを習得するということになるだろう。これは「カバン持ち」にも似た世界観かもしれない。世界で一流と言われる人物が、普段どういう椅子に座り、どういう話し方をし、どういう人々と交流があり、どういう生活をしているのか。そういった部分のリアリティは「密教」的なレベルでしか垣間見ることはできない。

「密教」的な「教育」の不在

「民主主義」と「独裁政治」の関係性と同じように、「顕教」では到達できない部分まで「密教」は到達できる可能性もあるが、その分危険性も高い。今回の日野皓正の件を見ていると、彼は「密教」的な指導を生徒に対してしたかったのだろうと思う。それは「世田谷区教育委員会」のような公的な「教育」の枠を超えた部分であり、現代社会が許容できる範囲を逸脱している。彼の「体罰」は指導力不足が顕在化したものとも考えられ、それに対して擁護することはしない。ただそれとは全く別に「密教」的な「教育」を行える場所がないというのは、全ての情報が瞬時に世界に共有される時代における「教育」の一つの限界を示しているように見える。「密教」的な「教育」を通してしか得られない情報は確かに存在し、一流と呼ばれる人間はその人生のどこかの時点において一流の人間に「密教」的な「教育」を施されている。しかしそれを行う場所がないということはむしろ全く予想もできない形で現代社会の歪みとして現れ、それが別の形の「暴力」として形成される可能性はゼロではないだろう。

「暴力」について
「半透明な暴力」

現代社会における主流の「暴力」は「半透明な暴力」である。これについては「半透明な暴力」の可視化という記事で詳しく書いたのでそちらの記事を参照してほしい。「半透明な暴力」の特徴としては「線引き問題」があり、どこからが「暴力」なのか、何が「暴力」なのか、加害者と被害者は誰なのかの「線引き」が分からなくなってくる。例えば「いじめ」、「セクハラ」、「痴漢」などは「半透明な暴力」であり、その「線引き」は主観的で心情的なものも絡んでくるため、とても繊細な問題だ。「体罰容認派」の場合でも「信頼関係」は数値化できるものではなく、関係性などの複雑な要因によって決まるのでその境界は必然的に曖昧なものにならざるを得ない。また今回の「体罰」の件もこのことが話題になり、日野皓正やドラムソロをした生徒の人生を悪い意味で大きく変えてしまうことになれば、それもまた加害者と被害者は誰なのかという「半透明な暴力」に近い性質を帯びてくる。

SNS的な「共感」による「暴力」: 「批判否定派」と「共感原理主義」

これはSNS的な「共感」による「暴力」にも繋がってくる話だ。「共感」、「エモさ」というのは現代社会の大きなキーワードになっており、それは「Post-Truth」的な世界における「歴史修正主義」とも関連が深い。最近SNSで良く見られる態度としては「批判否定派」というものがあり、これは「共感原理主義」の立場に立っていると考えられる。「批判否定派」というのはどんな理由があるにせよ、批判してはいけない、批判に価値は存在しないとする立場だ。例えば今井絵理子による「批判なき選挙、批判なき政治」を額面通り受け取るとするならば、「批判否定派」になるだろう。また「インフルエンサー」、「アーリーアダプター」と呼ばれる人間には「批判否定派」が多いような気がしている。「批判否定派」は「健全な批判」すら中傷と同じく否定し、それを否定する態度や言葉遣いの方が中傷に近い感覚を受ける。これは時に煽りの一種でもあるのだが、これが何故流行しているのかと言えば、批判の内容が正しい、正しくないに関係なく「批判」は「共感」を減らすからだろう。つまり「批判否定派」には正しいか間違っているかということに善悪の判断が宿るのではなく、「共感」を減らすか増やすかに善悪の判断が宿るという価値観があり、それは「共感原理主義」に繋がるということだ。

今回の話のまとめ

今回の話をまとめると基本的には「体罰否定派」、「体罰肯定派」、「体罰容認派」、「外野不可知派」の4つに分類でき、「体罰否定派」は原理主義の問題、「体罰肯定派」は現代社会では認められない問題、「体罰容認派」は「線引き問題」、「外野不可知派」は抑圧と言及の問題がある。それら以外の立場もあり得るが、これらをさらに抽象化して語るとするなら「教育」については「顕教」に対する「密教」が現代社会では難しいという事情が見えてくるし、「暴力について」は「半透明な暴力」とSNS的な「共感」による「暴力」の存在、つまり「批判否定派」と「共感原理主義」があり、一筋縄ではいかない。現代社会は「無菌室」を求めている時代なので、「体罰」は「喫煙」と共に今後も駆逐されていくだろう。それはそれで時代の潮流ではあるが、その背後に隠されたより複雑で繊細な問題についても同時に考えていく必要性を感じた。

時事ネタ3連発: Wantedlyによる「DMCA」悪用/Googleによるネットワークの大規模障害/北朝鮮のミサイル発射

時事ネタ3連発

今回は3つの時事ネタについての記事。まず24日辺りに起きたWantedlyによるDMCA悪用、次に25日に起きたGoogleによる経路情報の誤設定によるネットワークの大規模障害、最後に29日午前6時頃に起きた北朝鮮のミサイル発射について。Wantedlyは以前サイトを見たことがあり、ネットワークの大規模障害ではメールが送れなくなるという影響を受け、北朝鮮のミサイルが発射された時は完全に寝ていた。これらは完全に独立した無関係なニュースなので、それぞれについて簡潔に整理してまとめてみたい。

Wantedlyによる「DMCA」悪用
Wantedlyとは

まずWantedlyについて。WantedlyとはビジネスのためのSNSであり、これだけを聞くとLinkedInとの類似サービスと思うかもしれない。しかしWantedlyはあくまで共感やヴィジョンをベースとしたマッチング、求人サイトであり、スキルや経験をベースとしているLinkedInとは毛色が異なる。Wantedlyで特徴的なのは募集要項に給料、福利厚生などの条件を書いてはいけない点であり、いきなり面接をするのではなく、まず会って話を聞きに行くということが可能だ。サービスとしては面白そうなWantedlyだが、東証マザーズに上場し、IPOするということで注目が集まっていた。YouTuberプロダクションであるUUUMも最近IPOで盛り上がっているが、それと全く同じ状態になる。ちなみにIPO (Initial Public Offering) とは、未上場会社の株式を新規公開して売買可能にすることを指す。

「DMCA」悪用とは

WantedlyのIPOはダウンラウンドIPOという手法であり、資金調達の目的にも賛否両論あるが、ここではそれらは本題ではないので割愛する。問題はそれらの問題提起をしたブログが「DMCA (デジタルミレニアム著作権法)」を悪用した形でGoogleの検索結果から削除され、Twitterでは非表示にされたことだ。実際にはそのブログの1点の写真を著作権侵害として申請し、認定されたことになる。しかし同様の写真を使用していた他のブログでは削除依頼がされていなかったため、記事の内容が「不都合な真実」であったためにWantedlyが「DMCA」を悪用したのではないかという憶測が流れた。現実にこの方法を悪用すれば「不都合な真実」を含んだウェブサイトの著作権侵害の揚げ足を取り、言論封殺をすることも可能なため、各方面に波紋を広げている。また今回の事件を受けて「WantedlyにWanted」、「ココロオドラない」という謎の迷言も生まれている。

Googleによるネットワークの大規模障害
経済的損失の計算不可能性

次にGoogleによるネットワークの大規模障害について。これは最初はプロバイダーか何かが問題を起こしたのかと思っていたが、後にGoogleのAS15169の経路情報の誤設定による世界規模の障害だったことが分かった。人為的ミスかどうかは不明であり、8分以内に問題は解決した。ただし日本国内でも多数の人が影響を受けたため、経済的損失は人身事故で電車が止まる程度では済まないだろう。ただこれによって生じた経済的損失を定量的に測定するのは不可能に近く、Googleの責任だとして「誰に」、「幾ら」支払うかの算出は無理だ。とすると、この件に関してはGoogleのてへぺろ謝罪で終わる可能性がある。仮にそうだとしたらここで新たな教訓が誕生することになる。やらかすなら誰も責任が取れない地球規模でやらかせ。

「サマーウォーズ」な現実

また別の観点から言えばこれは正しく中央集権の弊害であり、こういう事件が起こる度に「サマーウォーズ」を思い出す。中央集権による上部構造が何かしらの不具合を起こした場合、下部構造は全てその影響を受けるので被害が甚大になる。現代社会は情報空間が上部構造であり、物理空間の下部構造を支配している形になるので、その上部構造が崩れた場合、物理空間に大きな影響を及ぼす。これらの中央集権のネットワークと、ブロックチェーン的な非中央集権のP2Pネットワークはどちらが優れているという話ではなく、双方にメリットとデメリットがある。よって完全にどちらかに統一されるということはなく、それらが混合して使用されていく現実は続くだろう。ということは我々はこれからもまた「サマーウォーズ」な現実と向き合っていく必要がある。

北朝鮮のミサイル発射
挑発パフォーマンスの計画性と「Jアラート」

金正恩が最高指導者になってから、金正男の暗殺、ミサイル発射と何かと忙しい北朝鮮。ミサイル発射は基本的にはアメリカに対する挑発パフォーマンスであるが、日本の上空を通過している以上それに対して不安を抱くのは当然だろう。ただ一つ言えることは弾道ミサイルの方角、軌道、着弾点に関しては、各国の政治的な意図を含めてかなり綿密に計算されており、ただ単に暴走して無計画に撃ちまくっているわけではないということだ。「Jアラート」に関しては、必要だと思う人は設定すれば良いし、そう思わない人は設定しなければ良く、これこそ真の「自己責任」という感じがする。自分の設定でどうにかならない範囲の「Jアラート」がうるさいと言っている場合は気持ちは分からなくもないが、不特定多数に関して知らせるという意味では仕方のない部分もあるだろう。多くの人にとっては「Jアラート」が鳴ったところで、「竹槍でB29を落とせ」と同じこととも言われているが。またミサイルが発射される前日に首相が公邸に宿泊していることを野党が指摘していたが、その日程を把握すれば「Jアラート」より早くミサイル発射のタイミングが掴めるかもしれない。

情報空間における非対称性

一つ気になるのは、日本国内での内輪揉めであり、この話題については自らの生死が頭の片隅に入っているので、論理的というよりは、感情的になってしまうところがある。また話題にし過ぎるのも北朝鮮にとっては思う壺でもあり、悩ましいところだ。今回の件に関しては首相や有名人を責めるよりは、北朝鮮に対して普通に非難するべきだろう。そもそも北朝鮮のミサイル発射に関しては挑発パフォーマンスであり、本気で対応するなら日本がサイバー的な攻撃能力を持って対応するしかない。何故かというと情報空間においては攻撃側と防御側には圧倒的な非対称性があり、専守防衛の考え方では確実に勝てないからだ。迎撃ミサイルの話も出ているが、それよりも北朝鮮のサーバーを落とした方が早くて確実だ。

例のコピペ

最後に例のコピペを掲載しておく。今現在Lv7〜Lv8程度まできている感じがするが、温厚な人間を怒らせた時の恐怖を金正恩は知っているのだろうか?

—— (仏のニッポン) ——
Lv1 推移を見守りたい
Lv2 対応を見守りたい
Lv3 反応を見守りたい
—— (意思表示するニッポンの壁) ——
Lv4 懸念を表明する
Lv5 強い懸念を表明する
—— (怒りを示すニッポンの壁)——
Lv6 遺憾の意を示す
Lv7 強い遺憾の意を示す
——(キレ気味のニッポンの壁)——
Lv8 真に遺憾である
——(キレちまったよ・・・)——
Lv9 甚だ遺憾である
——(大日本帝國)——
Lv10 朕茲ニ戦ヲ宣ス

パン屋であることのロック性について

ロックというのは権力と反権力で言えば反権力の象徴であった。しかし、ロックは死んだ。これはカート・コバーンが自殺し、マリリン・マンソンが「Rock Is Dead」を歌ったことによるのではない。「〜は死んだ。」という言説は大体において、それを言っている人間自体の死を指す。これは「最近の若者は〜」と全く同型反復である。その意味では「ロックンロールは鳴り止まないっ」というのが正しい。時代を超えて死と生を繰り返すロックだが、そもそも反権力は権力が存在しなければ存在し得ず、権力は反権力を敵対視することによって権力を保つ構造があるので、そもそもこれは相互依存の関係だ。さらに反権力は商業主義的価値観が隆盛する中でファッションと化し、「窓ガラスを割り、盗んだバイクで走り出す」ことはもはやネタとして消費される以外にあり得ない状況になっている。

そんな時代に今最もロックなのはパン屋であることかもしれない。事の発端は2015年から小学校・中学校で道徳教育が教科化され、移行期間を経て小学校では2018年から、中学校では2019年度から完全実施されること。道徳教育の復活が何を意味するかを端的に表現すれば、それはつまり法治国家ではなくなるということ。法治国家において物事の善悪を決定し、裁く基準、ルールは「法」でなければならない。しかし、その規準が「法」と「道徳」という二つの基準に分裂し、場合によっては「法」より「道徳」が優先される可能性がある。つまりこれは法治国家であることを放棄するということだ。生物の進化の過程で「空気は吸うもの」であったはずだが、いつの間にか「空気は読むもの」に変わり、そこに神道的価値観が流入した「日本教」における罪に対する恥の文化を反映した宗教は根強いが、今回その「空気」が「道徳」として「法」を超えようとしてる。

その具体的反映として文部科学省が小学校道徳教科書を検定し、その中で象徴的だったのは「パン屋」は郷土愛不足なので「和菓子屋」に変更するということだ。これは言うまでもなく戦前における検閲と全く同じ構造になっているわけで、検閲は日本国憲法第21条で禁止されているが、そんな言いがかりに対しては「解釈改憲」という魔法を唱えれば無効化できる。トランプ大統領が「Executive order」という呪文を覚え、それによって法治国家の抜け道を示したのと同じく、魔法使いたちによる呪文の開発は日進月歩である。そうなってくると、Twitterでは対抗呪文として早速#パンを和菓子に置き換えるというネタ化が始まる。

#パンを和菓子に置き換える

どこまでがパンでどこまでが和菓子なのかという境界問題の他に、歴史的にパンが西洋で和菓子が日本という分類にも根拠はなく、そういった混ざり合いの上に発展してきたとも言えるわけで、起源が全てで輸入文化が全てだめというのなら、そもそも漢字は中国からの輸入なので道徳教科書を日本語で書くこと自体が郷土愛不足とも言える。また、原料レベル、もしくは原子、素粒子レベルで細かくみたとすればパンと和菓子が違うという根拠は特にない。

教育と洗脳の定義については以前Twitterにも書いたが、「道徳」が本人の利益よりも国家という第三者の利益を優先しているのは疑いがなく、これは洗脳に限りなく近いと言える。その意味で言えば、名実共に中国共産党や北朝鮮に限りなく近い状態へと移行している。

しかし、新しいロックスターを生み出すという目的に絞ってみればこれは意外と悪いことではないかもしれない。こういった抑圧的な状況によって常にロックスターは生まれてきた。パン屋であることと和菓子屋であることに根拠のない線引きが行われるというのは、抑圧という意味では暴力的なので、それに対抗する力は育成されるはず。詰め込み教育の反省としてゆとり教育になり、その反省として道徳教育になったのだとすれば、その内部で醸成される力ではなく、その抑圧から外部へと逃げ出していくエネルギーには期待できる。反権力としてのパン屋から生まれる音楽性こそが、次世代のロックを作り出していくのかもしれない。