「批評再生塾第4期キックオフ&第3期大反省会」に行ってきた

「制作」と「批評」

「批評再生塾第4期キックオフ&第3期大反省会」に行ってきた。自らの過去を振り返ると、過去に美大を飛び出して海外留学をしたり競技ディベートに参加した動機は、制作の現場に「批評」が足りないという意識があったからだった。「制作」は「批評」を前進させるし、「批評」は「制作」を前進させる。この当たり前の循環のループに対して余りにも鈍感な環境が存在しており、巷では単純な敵対視の関係、もしくは自己満足に近い「制作」、「批評」が溢れていた。現在はその観点を「制作」、「批評」にテクノロジーを加えた三つの観点から捉え直しており、それぞれが本来は有機的に結びついていなければならないのに、各要素と人の集合が水と油のように反発しており、界面活性剤のように仲を取り持つ環境が構築できていない状態をどう再構築するかということに興味がある。テクノロジーについては独学、もしくは金銭的な面から仕事の現場で学ぶべきと考えているが、新芸術校に参加している身から考えると、コラボ授業があるということ以上に上記のような考えから批評再生塾には興味があった。もちろん自分のソロ活動、コラボ活動、コレクティブ活動の三つの軸をしっかり行い、日々生存戦略を試行錯誤しながら生き延びた上で参加するということに意味がある。

トークイベントについて

前半と後半の断絶

「批評再生塾第4期キックオフ&第3期大反省会」の前半と後半には大きな断絶がある。前半は佐々木敦、吉田雅史、渋革まろんによる鼎談形式で開始された。内容を一言でまとめれば批評再生塾の紹介なのに、「批評が不在」という不毛なものだったので割愛する。内輪ウケの馴れ合いだけを延々と見せられたので、ここに来るまでにかかった交通費と滞在時間の浪費具合が気になり始める。急激に面白くなったのは後半に東浩紀が前半のトークに対して、登壇者に対して、ゲンロンという会社に対して、批評再生塾に対して、自らに対して批評性を持って介入してから。そこに市川真人による佐々木敦に対して、もしくは批評再生塾に対する鋭いロールプレイ、批判があり、佐々木敦のコアが掘り出され、最終的に津田大介が吉田雅史が本来成すべきだった司会の役割を果たす教育的介入をした。しかし最後まで埋まらなかったギャップがあり、それは「危機感」という言葉に集約される。

「危機感」と「欲望」について

優れた制作者や批評家の素質があるかどうかは、現状に対してどれだけ「危機感」があるかどうかで決まる。そもそも「危機感」がなければ「制作」や「批評」というような表現行為を行う必要すらないだろう。そして現状の何に対してどの程度の「危機感」があり、それをどんな手段でどうやって表現し、人々を感染させるかという観点が大事になってくる。ここでいう「危機感」は「欲望」と密接な関係性がある。自らの根源的な「欲望」に対して現状が上手く対応していないからこそ「危機感」が生まれるわけだし、「危機感」があるからこそその現状を超えるような「欲望」が生まれるわけだ。その「危機感」と「欲望」の大きさは通常比例するのだが、鈍感になろうと思えばどこまでも鈍感になることも可能だ。外部の視点からそれを指摘していた市川真人と津田大介を除き、というより彼らは現場の「危機感」のなさに驚いて乱入してくれたわけであるが、そのことについて自覚的であったのは東浩紀ただ1人であった。

「ディレクター」と「プロデューサー」について

また制作者の行き着く先が「ディレクター」なのだとしたら、批評家の行き着く先は「プロデューサー」である。東浩紀が「批評再生塾」のことを「総合メディアプロデューサー養成塾」と表現し、良くある「ライター養成塾」との違いを強調したのはここに真意がある。彼の意図するような「誤配の場」を形成するためには、一見「批評」と関係ありそうな賢そうな知識、難解で綺麗な文章、独特の言い回しなどは無関係であり、一見「批評」と関係なさそうな経営の視点、人材のマネジメントの視点などを含めたプロデューサー的な観点が重要である。よってそのような人材を育成したいのであれば、ニコ生配信があるとはいえ、今のような文章主体のプログラムから大幅に構成を変える必要があるのかもしれない。少なくとも登壇していた批評再生塾総代たちにそのような資質があったかどうかにはかなりの疑問を感じた。

「教育」について

最後に「教育」について。まず前提としてEducationとLearningは違う。そしてEducationよりLearningを求めてきたというのは自分の経歴を見ても明らかだし、ブログを通して何度も強調してきたことだ。要するに基本は独学であり、ゴールは自分で決めるし、自分でやってみること。そのフィードバックループを繰り返していくしかない。トーク中言われていた「こっち側においでよ」とはつまり当事者意識とその実践のことであり、マイナーな趣味を持つ人々のための場作り、友達作りをしようということではない。社会に容赦なくさらされ、誰も守ってくれない中で、1人でも生き抜ける力を付けること以外の生存戦略などない。逆説的に言えばそれができる個人が集まって初めて、有機的に機能する場や人間関係が生まれる。そうでなければその集団や場はただの烏合の衆と化すしかない。これは自分のコラボ活動、コレクティブ活動を通して、またフリーランスとしての活動を通して学んできたことでもある。自分としては浅田彰的な「全ての教師は反面教師、教育の場は廃墟であれ」という持論を支持するが、それでも新芸術校という芸術運動に参加したのはLearningを主体とした個人が集まる場があれば、それは従来のEducationもLearningも超えることができるかもしれないと考えたからだ。さらに個人的な考えを言えば、教育の成果は教育者を超える人材が出るか否かで決まると考えている。要するに新芸術校はカオス*ラウンジ、もしくは黒瀬陽平を超える人材、批評再生塾は佐々木淳を超える人材、ゲンロンスクール全体からは東浩紀を超える人材が出るか否かでその成否は判断される。もちろん金賞や総代を狙うということは奨励されるべきだが、それだけではただ単純に褒められたいという承認欲求のレベルから出られない。本来受講生はそれを圧倒的に超えるスケールで物事を考え、実践しなければならないわけで、そうでないのならばただの客か傍観者かワナビーとして群れ合うしかない。

追記

批評再生塾第4期は募集を中止するとのことで、再開は未定。トークイベントの動画を非公開にすることを含めて非常にスピーディで良い決断だと思った。作品を売った経験がある人ならわかるだろうが、誰が何を言葉として言おうが作品を購入してくれないならそれはそこまでの評価ということであり、その評価は前作から引き続いたものであり、そのシビアさに敏感でなければ生き残ることはできない。そういう意味で第4期の募集がふるわないという時点でトークイベントのゲーム内容自体が変わってしまったのであり、そこに対してアドリブ的に対応する能力を含めて生き残る力が試される。それに対する一部の批評再生塾生の甘えが露呈していたのは非常に残念だが、生き残りたいならば自分の身は自分で守るし、自分で盛り上げて自分で責任を取るという当たり前の現実に直面する良い機会が与えられたと解釈することもできる。ちなみに批評再生塾第4期のプログラムの内容はゲンロン 佐々木敦 批評再生塾 2018を見れば分かるが、チューター制度創設、実作者を含めた豪華な講師陣を見るだけでも破格の内容であることが分かる。それに加えて仮に第4期が「総合メディアプロデューサー養成塾」のような観点を追加しつつ再募集するようなことがあったとしたら、それは素晴らしいプログラムになるだろう。批評再生塾が第3期で終了する可能性があり、新芸術校に参加するための費用の借金を未だに抱えた状態でこういうのもなんだが、借金を返し終え、自分の経済的状況、他の活動との両立が可能と判断し、さらに募集が再開するという奇跡のような状況が起こったならば、その時は改めて申し込んでみようと思う。

意味を超越した何か

意味を超越した何か

本日のブログは初期のように思考を放出するように適当に書く。そもそも言いたいことなど何もないし、言いたいことがあるからブログを書いているわけでもない。書くという行為は言いたいことを言うことより遙かに深遠な行為であり、それはアートで自分の気持ちを自己表現しているうちはまだまだ未熟ということと全く同じだ。しかし日常を生きていると次第にそれを忘れてしまいがちなので、メッセージなどないという根本に立ち返ることは非常に大切なことだ。言いたいことなど何もないのに何故書くのかという問いに対しては、生きている意味など何もないのに何故生きるのかと問い返したい。そう全てのことは意味があるから行うわけでも、意味があるから存在しているわけでもない。それらは意味を超越した何かなのである。

刹那瞬の保存

そしていつも誰でもない自分のために書くことだ。他人のために書いているというのは嘘、もしくは幻想である。仮にそういうことを言う人がいたとしても、それは他人のために書いているという自分の欲望を満たすために書いているに過ぎない。また違う言い方をすれば他人のために行う行為は一時的にインパクトを獲得したとしても普遍性を獲得しない。逆に自分のために行う行為は長期的に他人のためになり、普遍性を獲得する可能性がある。たまにブログを書くことを頑張っていると言われることがあるが、全く頑張っていない。自分のためにやっている行為を通常頑張っているとは言わないからだ。また刹那瞬の概念で言えば一瞬前の自分と一瞬後の自分は現在の自分と同一だとは思えない。なのにも関わらずアイデンティティを保てるのは記憶の連続性、持続性があるからであり、本来は別々の自分が時間軸上に無数に存在している。その無数の自分の存在の切れ端を残すために書いているというのが本当のところなのかもしれない。

宇宙の蜘蛛の巣

そもそも自分そのものは空虚な点であり、それ自体は何も意味せず、存在すらしていない。しかし通常その点は自分が意図するかしないかに関わらず、他の無数の点と関わりを持つことになる。その時その宇宙に広がる蜘蛛の巣のネットワークに仮の意味と配役が生まれ、一見それが存在しているように見える。しかし根本は何もないが故に全てである可能性を持つという「未分化」な状態だけが重なり合っている。これは仏教的に言えば空と縁起の概念で簡単に説明されることだが、その「未分化」という概念に焦点を当ててみると面白いことが分かる。

「未分化」と「分化」

iPS細胞とネオテニーに共通するキーワードは「未分化」だ。何故「未分化」であることが尊いのかと言えば、それは可能性の塊だからだ。「未分化」であるが故に変貌の可能性を秘めているということは、逆に言えば「分化」したものの可能性は先鋭化しつつ狭まることになる。例としては前者は子ども、後者は大人と言うこともできるし、それぞれを無限性と有限性に当てはめることも可能だ。例えばジャンルや専門性は深めていく過程でどんどん「分化」していくことになるが、その深さが地上からは見えない程に深まってくると、今度は「未分化」な状態で混ざり合うことを求め始めたりもする。無限という概念に魅力を感じつつも同時に限界があるように思えるのは、「未分化」な状態を永遠に求めるピーターパンにその姿が重なるからなのかもしれない。アポトーシスが「分化」の果てにプログラムされていると知りながら、一瞬前の「分化」した自分と一瞬後の「未分化」な自分の狭間で現在の自分はただ書き続けている

『夜雨の声』を聴いて

『夜雨の声』の内容

『夜雨の声』を読了した。内容としては多変数解析関数論で有名な数学者の岡潔が「情緒」を最大のテーマとして文化、科学、仏教などについて横断的に語る内容になっている。特に批評家の小林秀雄との対談は当時のアートと数学/自然科学について批判的に語っており、その独創的な視点は鋭く急所を突いていて興味深い。また所々に脳科学的な内容が入っているのも面白いが、これに関してはあくまで彼の仮説として捉えた方が良いだろう。学者が自分の専門外の事柄について語ると凡庸になる場合があるが、一流と呼ばれる学者は例外であり、彼は教養を含めて相当深度の深い領域にまで到達していると感じられた。

概念のトライアングル

「Cross Media Arts」のトライアングル

彼の書いている内容には「感情、意欲、創造」や「社会的関心、自然的関心、超自然的関心」など三つの概念を基準として論じているものが多い。彼のように概念をトライアングルで考えてみると整理、分析しやすいことは多々ある。例えば自分の経験で言えば「Cross Media Arts」という概念を考える際に「アート、哲学、数学」のトライアングルを基盤として考えたのは、それらの分野がそれぞれ「情緒、知性、論理」を代表しているように思えたからだ。その上でそのトライアングルを橋渡しする概念として「修辞学、計算機科学、音楽」をそれぞれ考えて逆向きのトライアングルとして組み合わせた概念が「Cross Media Arts」になる。

マルセル・デュシャン、アンディ・ウォーホル、ヨーゼフ・ボイスのトライアングル

またこれは現代美術家である会田誠がTwitterで呟いていた内容だが、彼はマルセル・デュシャン、アンディ・ウォーホル、ヨーゼフ・ボイスのトライアングルで現代美術を考えていると言っていた。これは要するに知性やメタの部分をマルセル・デュシャン、資本主義や下品な部分をアンディ・ウォーホル、Socially Engaged Artや公共性の部分をヨーゼフ・ボイスとして考えた場合、そのトライアングルで現代美術を考えているということだろう。このトライアングルは現代美術作品や現代美術家について考える際に概ね有効なフレームワークとして機能するが、メディアアートやバイオアートなどのテクノロジー的な部分は考えられていない気もする。また彼はヨーゼフ・ボイス的な要素が足りないと自己分析していたが、個人的に自己分析するならアンディ・ウォーホル的な要素が足りない気がしていたので、そこを強化した作品が「石版を丸呑みする回転木馬」だったのかもしれない。そして次に行く場所はテクノロジー的な部分と向き合うものになると予想している。

「情緒」から「エモさ」へ

本書の一貫したテーマである「情緒」は昔の日本には存在していたが、西洋には存在しない。しかし日本は西洋の猿真似をしているうちに「情緒」を失いつつあることに彼は深刻な危機感を覚えている。そして彼の予想は的中し、現代社会では宮台真司の言うところの、反知性主義は知性の劣化ではなく感情の劣化であるという程度に「情緒」は失われてしまった。「エモさ」は批判的な意味でも賞賛的な意味でもどちらでも使用できる言葉であるが、「情緒」が「エモさ」に変貌しても大事なことは昔から何一つ変わっていない。Botにならずに人々の心に訴えかける情報を放つためには「情緒」を磨くことが大切であり、それが最終的に知性でも論理でも動かない人間を大きく動かすことになる。それにしても「夜雨の声 (やうのせい)」という言葉には情緒がある。こういった素晴らしい情緒を持つ言葉を他の言語では未だに知らない。

夜雨の声
夜雨の声
著者: 岡潔
編者: 山折哲雄

自動運転車と中動態の関係性について

Uberの自動運転車による死亡事故について

先日Uberがの自動運転車による死亡事故が起こったことは記憶に新しい。現地警察により事故の直前の映像が公開されたが、それを踏まえて今回の事故を整理すると以下のようになる。

・自動運転車は自動運転モードだった。
・運転手は事故の直前脇見をしていた。
・通常なら反応できたはずのセンサーが何故反応しなかったかは不明。
・被害者の女性は病院に搬送されたが、事故の影響で死亡した。

ここで問題になってくるのは運転手が脇見をしていたことと、センサーが反応しなかったことだろう。後者のセンサーについては今後研究を重ねる上で原因を究明し、再発防止をすべきという当たり前のことしか言えない。ただ前者に関しては運転手の不注意の責任とするということで落ち着きそうだが、これに関してはもっと根本的な問題がある。

運転手の負担

そもそも自動運転車が何故作られているのかを考えると、その最大の理由は利便性のためだ。運転しなくても目的地に到達することができれば、当然運転手の負担は大きく軽減される。また今回は自動運転車の実験中であり、彼にも不注意の落ち度があったと言える。しかし例えば今後自動運転車で運転手は常に脇見をせずに、何か問題があった時に瞬時の判断で対処することが義務付けられた場合のことを考えてみたい。その状況について良く考えてみると、実は自分で運転するよりも負担が大きく、難易度の高い行動が求められているように思える。何故なら通常運転中に脇見をしないのは当然だし、その場合は運転に集中しているが故に瞬時の判断も下しやすい。しかし基本的には自動運転車に運転を任せていながら、常に運転に集中するというのは至難の業と言える。また人間は怠惰な動物であることを考えると、人間の良心を信じることは難しそうだ。つまりこの問題は運転手がいなくても運転できることが自動運転車の利便性を担保していたはずなのに、もしもの時の対処のためにその利便性が全て運転手の負担に変わる恐れがあるということを示唆している。

自動運転車と中動態の関係性について

また自動運転車は極めて中動態的な存在であると言える。中動態とは能動態と受動態という枠組みでは捉えられない概念であり、この概念には意志と責任という近代社会の概念への疑念が存在する。つまり運転者が自らの意志で運転しているのであれば、それは能動態的なので意志と責任の概念が発生する。これは受動態も同様であり、そこには常に意志と責任がセットで存在している。しかし自動運転車を運転するという意志は誰によるものなのだろうか?自動運転車のプログラマーなのか、自動運転車というソフトウェア自体なのか、自動運転車を使用する運転者なのか。その意志の発生源が曖昧なために、その帰結である責任という概念も一気に曖昧になってくる。自動運転車が事故を起こした際に誰に責任を取らせるのかという問いが非常に難しい問題を孕んでいるのは、誰に責任を取らせるのかという問いの前に、そもそも意志や責任という概念自体があり得るのかという中動態的な問いが存在しているからだ。

椅子取りゲーム

そして上記のように運転手の負担が大きく、意志と責任の所在も不安定な自動運転車を利用する際の合理的な帰結としては、自分以外の誰かに運転手になってもらうということになる。つまり全ての人がタクシーの運転手的な存在を求めるようになるということだ。自分以外の誰かが運転手になってもらえば、たとえ事故が起こったとしても自分の責任にはならない。また自分は運転に集中する必要もないので、自由に時間を使用することが可能になる。要するに責任を押しつけ合う椅子取りゲームの中では、誰もが最後の椅子に座りたがらないということでもある。しかしこれに問題があるのは、少し論理的に考えれば誰でもこの考えに到達するということ。つまり自動運転車においては運転手という責任があるかも分からないのに責任を押しつけられる立場になることを誰もが拒み始める。そうなってくると自動運転車の保険制度が充実してくるのだろうし、その責任を負うための代理人としての運転手というものも登場してくるだろうが、それは問題の根本的な解決にはならない。

論理的な部分と倫理的な部分

また自動運転車には論理的に考えた方が良い部分と倫理的に考えた方が良い問題があり、これらは分けて考える必要がある。論理的に考えた方が良い部分とは例えば人間の運転手が起こす事故率と自動運転車による事故率を比較して、後者の方が安全性が高いことが実証されれば自動運転車を採用するべきということだ。現状では自動運転車が事故を起こすと大騒ぎになり、自動運転車自体がダメだというような論調が盛り上がりがちである。しかし普通に考えれば人間の運転手が起こす事故率の方が高いと考えられ、全体的に考えるならば犠牲は少ない方が良い。もちろん事故の規模や傾向なども踏まえた上での話だ。しかし先程のように倫理的に考えた方が良い部分は、先程の中動態の意志と責任の問題についてである。これは要するにトロッコ問題は論理的には解けないという問題であり、この問題については論理的な問題とは別に考える必要がある。

自動運転車の明るい未来

最初自動運転車が出現し始めた頃、その扱いはペットのようなものになると予想していた。要するに飼い主が全ての責任を取る。大まかに言えばその方向に動いているわけだが、それについてもっと踏み込んで考えてみると、運転手の怠惰さの問題、意志と責任の問題、それらの放棄として誰もがタクシーに乗る側になりたいという問題などがあることが分かった。今回挙げたような哲学的な問題は解決することが難しく、正解があるとも限らないが、それでも自動運転車の開発を止めるべきではないし、1度事故を起こしたからといって感情的に自動運転車の全てを否定することはあってはならない。自動運転車の明るい未来のためには、原因の究明と再発防止を進めると共に、今回書いたような問題について多くの人が一緒に考え、意見を述べていくことも重要になっていくだろう。

『徒然草』の世界

古典の戦闘能力

『現代語訳 徒然草』を読了した。『徒然草』は古典の中でも特に有名な文学作品の一つだろう。現代という消費が生産に追いつかない時代においては、目についた新しいものや偏ったものを情報として摂取しがちだが、それだけでは栄養不足になる。そこで古典を読むというのは、一つの中和剤として機能するのでお勧め。また歴史の淘汰を生き延びて来た古典の戦闘能力は疑いようもなく高く、古典を読むことで他の本を何冊も読んだような効果も得られる。さらに『徒然草』のように教科書に掲載され、子供の時に断片的にでも一度は読んだであろう本を改めて大人になってから読んでみるとまた違った味わいがある。

『徒然草』とは?

『徒然草』は兼好法師によって書かれたとされる随筆である。随筆とは体験や心に浮かんだことを書き連ねた散文のことだ。これは現代で言えばブログやSNSで延々と自分の思うことを書き続けていたようなもので、『徒然草』はその内容が面白く、普遍性があったので古典になってしまったということだろう。実際に『徒然草』の兼好法師の文章からは、彼の偏愛と批評眼が至る所で鋭く光っている。また随筆なので当然論文のように論理的な文章ではなく、天声人語的に流れて行く文体なので、文章としてのまとまりはないし、全243段の内容がそれぞれ繋がりを持ってまとまっているわけではない。しかし本来の日本人の感性や文章はこういった文体にあるのだろうし、実際日本語は随筆に適した言語であることは確かだ。

最も疑問な段と最も良い段

今回は『現代語訳 徒然草』の中で最も疑問な段と最も良い段の文章を引用しつつ、コメントしてみたい。

最も疑問な段: 165段

以下引用。

「関東の人で都に来て、都人といっしょに生活する人、または都の生まれで、関東へ行って身を立てているのや、また出家で本寺本山を離れ、宗旨を変えている顕教密教の僧など、総体に自分の習俗を廃棄して他の習俗の人々のあいだにまじり加わっているのは見苦しいものである。」

別に良くね?と思ってしまった。何処に生まれようが、どの宗旨を持っていようが、アプリオリなものなどないのだから、どのように変化しようが、故郷や習俗を捨てようが人の勝手だろう。よって最も疑問な段に選んだ。しかし兼好法師がこんな迂闊なことを言うはずがないので、これは訳の問題であって兼好法師の問題ではないような気がした。そこで調べてみたところ、以下のブログ記事が見付かった。

徒然草との対話・165段の「ずれ」

確かに「吾妻」を「吾妻鏡」と関連させて「鎌倉時代の権力闘争の渦中にいた人」とし、その権力に縋る人々を見て気持ち悪いと言っていたということなら全て納得がいく。亜流の解釈かもしれないが、個人的にはこの説を支持したい。

最も良い段: 150段

以下一部引用。

「内々によく習い覚えてから人中へ出るのが奥ゆかしくてよいとは人のよく言うところではあるが、こんな考えの人は一芸も習い得るものではない。まだぎこちなく未熟な中からじょうずな人の間にまじって嘲笑をも恥じずにかまわずやり通していく人が〜かえってじょうずになり、得もおのずと備わり、人にも許されて、無比の名声を博する」

これは普遍的な真実に触れている段である。簡単に言えば「馬鹿になれ」や「Don’t think, feel!」という言葉が言っているようなことを掘り下げて具体的に伝えている内容になっている。真面目で勤勉で頭が回る人ほど陥り易い罠があり、その罠は無限準備症候群である。その兆候は上手くなってから人前でやろうとか、とりあえず勉強してからやろうと考えてしまうことにある。そうではなく、全く未熟なうちにプロの中に混じって素人に笑われながらやる人間が一番伸びる。何故ならその現場の経験値に勝るものはないからだ。これに気付けるかどうかで人生が決まってしまうほど重要な教訓であるので、最も良い段に選んだ。

今回の記事のまとめ

今回の記事では『徒然草』について紹介し、最も疑問な段と最も良い段を独断と偏見で選んでコメントしてみた。全部で243段あるので、読んだ人それぞれに思い入れのある段が必ず見つかるはず。また古典だからと言って、全てを鵜呑みにしたり、神聖視する必要はない。古典でも間違ったことを言っている場合もあれば、結構適当なことも言っていたりする。また吉田兼好という人物自体が捏造されたものだとする説もある。しかし『徒然草』はそんな文体から滲み出てくる人間性も含めて魅力的なのであり、日本人に生まれたなら読んでおきたい一冊であることは間違いないだろう。

現代語訳 徒然草
現代語訳 徒然草
著者: 吉田兼好
訳者: 佐藤春夫

大馬鹿と大天才の共通点

「馬鹿と天才は紙一重」

以前馬鹿の生存戦略という記事を書いたことがある。その記事の結論は「馬鹿と天才は紙一重」ということであり、記事ではそれは何故なのかについて詳細に説明した。今回はそのことについて別の角度から解釈した記事を書いてみようと思う。「馬鹿と天才は紙一重」という言葉が成り立つ理由について別の角度から解釈すると、まず馬鹿と天才では世界を認識する解像度が著しく異なることが前提となる。馬鹿は世界を認識する解像度が著しく低いために、常人では絶対にあり得ない雑かつ大雑把な捉え方によって、常人には理解できないランダム性のある世界を構築し、それがある種のブレークスルーを生み出すきっかけになる。一方で天才は世界を認識する解像度が著しく高いために、常人では気付かない些細な問題、見えていない世界を捉えることによって、常人には理解できない緻密な世界を構築し、それがある種のブレークスルーを生み出すきっかけになる。

大馬鹿と大天才の共通点

偏りと欠落

この両者の共通点としては、どちらも偏った才能を持ち、欠落があるということが挙げられる。ただし大馬鹿と大天才である場合は一見欠点かに見えるこれらの要素を克服することが可能になる。大馬鹿の場合はできないことが徹底的にできないので、逆に愛嬌が生まれ、その愛嬌によって周囲に助けられるという才能を発揮することがある。例えば物事を何度教えても覚えることができない、言語を扱うことができない、文脈を読むことができないなど。こういう人の中には極端にできないという才能を発揮することによって、逆に周囲に愛される場合があるのと、そのできないことを補うように他の部分が異常発達していることもある。一方で大天才の場合はあらゆる分野で尖った才能を見せるので、その偏りと欠落が余り可視化されない場合がある。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ジョン・フォン・ノイマン、南方熊楠などがこのタイプに属する。彼らは業績だけを見れば一見万能かのように見えるが、実は異常な偏りと欠落がある。

ミームの伝達

大馬鹿と大天才の他の共通点としては、ミームの伝達が圧倒的なところにある。ミームとはエモさとも重なり合う概念だと思うが、要するに生命における遺伝子ように伝達され、人々の感情を大きく揺さぶる情報のことを指す。例えばアーティストとしては、玄人と素人に同時に受けなければならないと思っているが、これもミームの伝達を意識してのことだ。玄人だけにしか受けずに素人お断りというジャンルや作品は遠からず滅びゆく運命にあるし、一方で素人だけにしか受けないジャンルや商品は消費されて一時期の流行で終わる。時代を超えたミームの伝達を行うには、その両方を同時に行わなければならない。現代におけるミームの伝達をするにはアート、サイエンス、デザイン、エンジニアリングのようなフレームワークをどの側面から見ても洗練させて作品化する必要があるが、これを実現するためには大馬鹿と大天才が共存するような偏り、欠落とそれぞれを補完するようなチームワークが必要になるだろう。

凡人の役割

数の優位性

では凡人として生まれた人間に存在価値はないのだろうか。そもそも世界は多様性に満ちているので、凡人を定義することが非常に難しい。よってこの記事では北野武の言う振り子理論での振り子の揺れ幅が小さい人、もしくは偏りと欠落が小さく尖っている部分が少ない人のことを仮に凡人と呼ぶことにする。まず前提として凡人はこの世界において圧倒的多数を占める。そして現在の多くの世界においては民主主義が採用されており、社会のシステムが基本的に多数派に有利になるように構築されていることから考えても、凡人は数の優位性を発揮することが可能だ。例えば大ヒットする作品や商品というものは凡人がその鍵を握っており、彼らのリトマス試験紙によって売れ行きというものが決定される。また凡人の中にも様々なグラデーションが存在しているが、基本的には馬鹿と秀才の違いよりも、天才と大天才、馬鹿と大馬鹿の違いの方が圧倒的に大きいので特に違いを気にする必要はない。上記のように考えると凡人が世界に与える影響は圧倒的に大きく、大馬鹿や大天才を含む常識的な閾値からかけ離れた存在の生殺与奪の権利は、基本的には凡人が握っていることになる。

標準化されたBotにならないために

また今後はAIのサポートによって、ますます馬鹿と秀才の差分がなくなっていくことが予測される。これはつまり大馬鹿と大天才の価値が暴騰するようになるということでもある。であるならば、それぞれがディベートとグレーゾーンを実装したグラデーションへという記事で書いたような多様性の色彩を追求し、その結果大気圏を突破して宇宙に突入していくような行動が重要になってくる。その意味では凡人の中でも特に従来の規格に沿って標準化された人材の必要性は単体としてはどんどんなくなっていく。そうなってくると、もはや標準化された人材はビッグデータの採取元として、もしくは集団のエモさの測定サンプルとしての意味しかないのであり、それは言い換えればBotとほとんど変わらない存在になってしまう。それを避けたいのであれば、常に閾値から外れた規格外であることを意識し、そのまま突っ走っていくしかないのである。そのためには大馬鹿と大天才の在り方の多様性が逆説的に一つの理想的なモデルケースとなるのだ。

多様性とガラパゴスについての仮説

仮説の内容

今回の記事では多様性とガラパゴスについての仮説を提唱し、それについて検証していきたい。まず仮説の内容は以下になる。

多様性を確保するために様々な観点から選択した要素を開放的かつ平等に確保しようとすればするほど、逆説的に多様性が減少する可能性がある一方で、閉鎖的な環境で孤立した最適化を進めてガラパゴス化した結果、逆説的に多様性が増加する可能性があるという仮説。

これは近年のポリコレ的な多様性の考え方に一石を投じる仮説であり、簡単に言えば多様性と平等性の相性の悪さを潜在的に示唆している仮説であるとも言える。むしろ多様性と平等性を同一視してしまったことが全ての間違いの始まりだったのかもしれない。

多様性と平等性のジレンマ

前者の多様性に関して言えば、例えばできるだけ多様性のあるチームを作るという思考実験をしてみる。年齢は老若男女、国籍は世界中の国、性に関しては男性、女性、LGBTQなどを含み、職業に関しては漁師、エンジニア、宇宙飛行士などを含み、能力に関しても知性、創造性、身体能力などの数値をばらけさせるなど、様々なパラメータを設定し、それらの数値をできるだけ分散させたサンプルを集める。確かにそのチームだけを見るならば、もの凄く多様なチームができあがったと言えるかもしれない。しかし例えば地球上にその一つのチームだけしか存在しなくなった場合を考えてみたらどうだろうか。するとその多様性があるチームしか存在しないという点で、実は逆説的に多様性が失われているという見方もできる。つまり多様性を求めて平等に様々なサンプルを取り込み、それを拡大化させてグローバル化させていく過程で、部分最適としての多様性は増加していたとしても、全体最適としての多様性は減少していると言える。

ガラパゴスと平均化のジレンマ

また後者のガラパゴスに関して言えば、例えば地球上に新しい部族が発見された場合を考えてみてほしい。そこには文化、風習、言語が既知のものとは全く異なる生活が存在している可能性が高い。確かに先進国の人間から見ればタイムカプセル、もしくは近代化が遅れた未開の姿として映るかもしれないが、一方でそこには単純な遅れとは断言できない全く新しい発想の種が息づいている場合もある。そこに先進国の習慣などが入り込み、ある種の平均化がなされてしまうことで、その部族における多様性が失われてしまうというジレンマは、フィールドワークをする文化人類学者や言語学者などが長年抱えてきた問題でもある。これはイメージとしては量子物理学における不確定性原理と良く似ている。不確定性原理とは位置を正確に測定しようとすれば運動量が不確定になり、運動量に影響を与えないように測定しようとすれば位置が不確定になる。つまり位置と運動量は同時に測定不可能であるという原理のことだ。これを比喩として先程の考えと重ね合わせると、ガラパゴスの状態を観測することにより、ガラパゴスの多様性に影響を与えてしまう、もしくは平均化してしまうというジレンマがここにはあるということだ。

日本と「悪い場所」

仮にこの仮説が正しいのであれば、日本はグローバル化の文脈の中でガラパゴスの象徴と良く言われるが、この性質によって日本独自の多様性を確保しているという見方も可能である。例えば浮世絵などはその実例の一つとして挙げられるだろう。日本の潜在的な創造性の源泉は、実はこのガラパゴスという生存戦略における多様性の確保にあるのかもしれない。ガラパゴスでは部分最適としての多様性は減少していたとしても、全体最適としての多様性は増加している。だとするならば、その内部の中でそのガラパゴスのシステムに最適化することは個人として生きていきたい場合は推奨できない行為と言えるが、そのガラパゴスを愚直に変えようとすることは不毛な行為であると共に、全体最適としての多様性を減少させる行為とも言える。この議論は椹木野衣の言う「悪い場所」の議論に接続することも可能と思われ、問題の反復と積み重ねのない孤立の問題は全体最適の弊害としてのデメリットも大きいので、基本的には違うレイヤーとしてガラパゴスのシステムに関わるべきと思うが、世界全体の一つのサンプルとして日本のような場所が保存されているというのは、良くも悪くもある種の多様性を確保に貢献しているということはできる。またこの多様性とガラパゴスについての仮説の議論を意図的に悪用したとすれば、平等性の否定、差別や現状 (SQ) を無理矢理肯定する論理として使えなくもないが、私としては多様性を確保しながら、それらの問題を解決するにはどうすれば良いかという考察をするために今回の記事を書いたということを最後に明言しておく。

文体の実験: 「だ・である調」から「です・ます調」への変化

「だ・である調」から「です・ます調」への変化

以前文体についての考察という記事を書いたことがあります。その内容の一部を要約すると、文体における「だ・である調」から「です・ます調」への変化は、「ポスト・インターネット」の時代における新しい「言文一致運動」であり、エモさと距離感の問題から基本的には「です・ます調」へ統一されていくだろうということでした。NILOGではその傾向を踏まえた上であえて文体を「だ・である調」で統一し、「です・ます調」は読者の方に話しかける時のみ使用するという方針を貫いてきました。しかしNILOGも1周年を迎え、何かしらの変化がほしいと思った結果、文体を実験的に「です・ます調」で統一することを思い付きました。なので今後再度心境の変化がある場合を除き、基本的には「です・ます調」でNILOGを書いていこうと思っています。この文体がいつまで続くかは分かりませんが、いつの間にか「だ・である調」に戻っていた場合は、心境の変化が訪れたのだと思って生暖かい目で見守っていてください。

「会話文体」と「論文文体」

さて今回の記事は基本的にはこの報告が主な目的でしたが、それだけでは内容が少ないので文体についての別の角度から考察をしてみようと思います。一般的には先程も述べたように、文章は本などの媒体を含めて「です・ます調」に統一されていく流れになっていくことと予想します。先程エモさと距離感の問題と言いましたが、「です・ます調」はより丁寧な印象に聞こえることと、上から目線に聞こえないという点で読者に対して適切なエモさを提供し、距離感を整えることに向いています。なのでこの文体を一般的な文体として「言文一致」していくというのは正しい方向性でしょう。しかしそこからさらに二つの方向性があり得ます。一つは「です・ます調」よりさらに会話目線を導入した「会話文体」と余計な装飾を一切排除した「論文文体」です。前者の「会話文体」では、読者は完全に書き手の友達であるかのように扱われ、会話調で話しかけられるような文章になります。これはエモさをさらに加速化させ、距離感を親近感のレベルにまで進めた結果の最適化です。一方で後者の「論文文体」は基本的には「だ・である調」を踏襲し、論理構成がしっかりしているために、Google翻訳などの機械翻訳に任せても破綻しない文章に翻訳できることが特徴になります。これはエモさや距離感よりも事実を論理的に伝えることが大切な場合に使用されます。要するに対象となる読者の想定や媒体の違いによって、大まかに上記の三つの文体に分かれていくというのが今後の傾向になりそうです。

コミュニケーションの変化

その上で「会話文体」をさらに発展させたコミュニケーションは、もはや言葉を使用したコミュニケーションではなくなるか、AIによってコミュニケーションが自動化されていきます。初期段階はLineのスタンプなどで象徴されますが、イメージをイメージのまま伝えるようなデバイスがあればそれが意思伝達としては最も早く正確なわけです。また現状では人間の思考を大雑把にしか把握できませんが、この方向性でAIの研究が進めば、自分の意図を自動的に組んでくれるパーソナライズ化されたAIが相手にメッセージを送り、それに対して相手にパーソナライズ化されたAIがまた返信をするというようなAIによる自動返信が発達します。これによってある意味人間をパーソナライズ化するためのデータとして使用し、AI同士が意思疎通するかのようなコミュニケーションも生まれるでしょう。また初期段階ではAIに伝わりやすいコミュニケーションとそうでないコミュニケーションもあり得るので、そういった制限に最適化したコミュニケーションも生まれるかもしれません。いずれにせよ巨大なパラダイムシフトの真っ直中に存在している現代人は、その文体とコミュニケーションを含めて大幅に変化させていくことが必要になることでしょう。

追記

この記事では「だ・である調」から「です・ます調」へ文体を変化させる実験を行ったが、幾つか分かったことがある。

・「です・ます調」は語尾のバリエーションが少なく、文章に起伏を生むのが難しい。
・文体の変更はキャラの変更も伴う。

なので既に心境の変化が訪れたというよりは、一部の読者の意見を限りなく迅速に反映した結果、文体の変化はNILOGではなく別の場所で実験するべきかと思われた。以前からnoteはずっと気になっていたのだけれど、THE GUILD代表の深津貴之さんがピースオブケイクのCXOに就任してからさらに気になるサービスになり始めている。1周年を迎えて自分の場としての土台がある程度固まってきたNILOGとしては、外部サービスへの進出をして両輪を回していきたいところ。そこで以前から書いてきた記事やその他の活動のまとめの場、書籍化前の編集の場として、または読者の方や外部との繋がりの場として、もしくは文体の実験や販売の実験の場として使用してみようかと思っている。そちらでも必ずしも「です・ます調」を使用するかは分からないが、アカウントを制作したらNILOGでも告知したいと思っているので、興味のある方はそちらの方もよろしくお願いいたします。

Re: 「Emo Truth」宣言

「Post Truth」と「Emo Truth」

今回の記事では「Post Truth」の時代における「Emo Truth」の可能性について考察してみる。前者の「Post Truth」とは、事実より個人の解釈である真実が「エモさ」を通して無限に流通して世論を形成する現象のことを指す。また後者の「Emo Truth」とは、その「Post Truth」を踏まえた上で「知性」、「論理」、「感情」をシステム設計の中に取り入れながら、双方向的かつ可変的に実装していく在り方を指す。これらを踏まえた上で今回の記事における各項目について大まかに説明しておく。まず「Fact」と「Truth」の違いの項目では一般的に同一視されることの多い「Fact」と「Truth」はそれぞれどのような違いがあるかについて説明する。次に「トゥールミン・メソッド」と「Fact」と「Truth」の再解釈の項目では、ディベートの論理システムである「トゥールミン・メソッド」を紹介し、その視点から「Fact」と「Truth」の再解釈を行っている。その次の「Emotion」と「Fact」の直行座標系と各象限の項目では、x軸に「Emotion」y軸に「Fact」を引いた直行座標系を考え、各象限の特徴を説明している。さらに次の「エモさ」への最適化の項目では、「Post Truth」の時代において人類が「エモさ」に最適化していくのは実は生存戦略上当然のことであることを説明している。最後の「Emo Truth」宣言の項目では上記の全ての議論を踏まえた上で造語、新しい概念として「Emo Truth」という新しい生存戦略を提唱し、宣言している。補足の項目では今回の記事が改めて書かれた経緯や、過去記事からの改良点と「Emo Truth」の実装について説明しているという流れになっている。

「Fact」と「Truth」の違い

まず前提として「Fact」と「Truth」の違いについて考えてみる。一般的には「Fact」は「事実」、「Truth」は「真実」と翻訳される。「事実」と「真実」の違いは、「事実」は客観的なデータに基づいた実在する/した事柄であり、「真実」は主観的な解釈に基づいた偽りのない事柄であること。つまり「事実」が常に「真実」であるとは限らないし、逆もまた然り。またその定義に基づいた性質として「事実」は常に単数であることを求められるし、「真実」は常に複数であることを可能性として内包している。これらを総合して考えると「Post Truth」もしくは「ポスト真実」は、本来「Post Fact」もしくは「ポスト事実」とするのが妥当。ここまでは津田正太郎が既に指摘していた点である。ただこのように定義に厳密に基づいた言葉の運用を考えたとしても「Post Truth」、「ポスト真実」の方が一般的に定着するという「エモさ」こそがこの現象と言葉の意味をそのまま象徴しているとも言える。確かに「ポスト事実」より「ポスト真実」の方が字面的にも言葉の響き的にも流行りそうな印象を受けるし、むしろ言語の性質として「誤配」が上手く機能することの実例として見ることも可能かもしれない。

「トゥールミン・メソッド」と「Fact」と「Truth」の再解釈

「トゥールミン・メソッド」

この「Fact」と「Truth」についてディベートの論理システムである「トゥールミン・メソッド」の観点から捉え直してみる。「トゥールミン・メソッド」の基本要素には「クレーム」、「ワラント」、「データ」の3種類がある。「クレーム」は主張、「ワラント」は論拠、理由、「データ」は事実、証拠をそれぞれ表す。例えば「移民の受け入れは拒否するべき」というクレームがあるとして、データでは「移民増加によってアメリカ人の雇用が奪われている」というデータを持ってくる。クレームとデータにおけるワラントは常に複数考えられるが、この場合は例えば「雇用が奪われると生活が困窮する」というワラントが考えられる。クレームに対する反論としては一般的に「データ」、「ワラント」を攻める方法がある。この例に対してデータを攻める場合は例えば「移民増加によってアメリカ人の雇用が奪われない」、もしくは「移民増加によってアメリカ人の雇用が逆に増える」というデータを示せば良い。一方でワラントを攻める場合は例えば「雇用が奪われても生活が困窮しない」という反論をすることが可能で、これはワラントの因果関係が成り立たないことを指摘するノーリンクと呼ばれる方法になる。また一番大胆な反論としては相手の「データ」をそのまま認め、「生活が困窮することは良いことだ」というワラントの正反対の主張をすることで相手の「クレーム」を根底からひっくり返すこともできる。ちなみにこれはターンアラウンドと呼ばれる方法であり、この場合は価値観をひっくり返しているのでインパクトターンと呼ばれる。この主張を仮に補強するとするならば資本主義的な価値観からの脱出、クリエイティビティの創造、痛みを知ることの重要性などの方向に繋げて論じることが可能かもしれない。

「Fact」と「Truth」の再解釈

ディベートにおいてはこのように「トゥールミン・メソッド」を基盤とした論理のやり取りによって、より整合性の高い「Fact」ベースの議論が成り立つ。しかし、現実世界における「Post Truth」では「ワラント」も「データ」も見ずに「クレーム」だけを見て事柄の真偽の判断をし、「クレーム」が違えば背後にどんな「ワラント」、「データ」があるかは気にせずに断罪するという態度に繋がる。もしくは「ワラント」、「データ」もデタラメだと分かっていたとしても、「クレーム」が正しいという態度は譲らないのでここでは論理的な対話は成り立たない。言い換えるならディベートにおいては論理のやり取りによって相互が補完し合うことでより確実性の高い「事実」を元にした主張に収束していくが、現状のこの社会においては無数の異なる解釈である「真実」が無数に流通し、拡散していくことになる。

「Emotion」と「Fact」の直行座標系と各象限

ここでx軸に「Emotion」、y軸に「Fact」を引いた直交座標系を定めてみる。すると「Emotion」と「Fact」の4象限マトリックスにおける「第一象限」は「エモいし正しい」、「第二象限」は「エモくないけど正しい」、「第三象限」は「エモくないし正しくない」、「第四象限」は「エモいけど正しくない」となる。この「第一象限」を造語として仮に「Emo Truth」、「エモい真実」と名付ける。本来であれば「Emotional Fact」、「エモい事実」とした方が正しいのかもしれないが、ここでは「エモさ」から生まれる「誤配」を重視したのと、「事実」があったとしてもそれは「エモさ」で覆い隠された「真実」を装わなければ流通しないという問題意識から命名した。「Emo Truth」は「知性」や「論理」を重視する社会においては余り注目されてこなかった、もしくは意図的に排除されてきた場所であり、この「感情」を基盤とした上での戦略、システムの構築が今後一番重要になってくる。「第二象限」はいわゆる「ポリコレ棒」で、この棒を手に取って聖戦に挑んでも敗北する可能性が高いことが証明された。人は原理主義的な正義と平等の名の下に「ポリコレ棒」を使用し始めるが、正義は真実と同じく一つではないし、絶え間ない他者への平等意識は疲弊を生み、これら双方向からの絶え間ない攻撃と是正が叩かれる側に「ポリコレ疲れ」という感情を生んだ。実際に「Political correctness」という概念自体は多様性確保、差別撤廃のために重要な概念だが、「エモさ」を考慮しない方法論、システム設計は時代遅れになっていく。このことから考えても「ポリコレ棒」は棒じゃない「エモい」何かになっていく必要がある。「第三象限」はいわゆる「意識高い系」で、「エモさ」も「正しさ」の追究も中途半端で行き場がなくなくなってしまった人々の墓場。本当の意味で意識が高い人からはあらゆる意味で中途半端と疎まれ、そうではない人からは自分を実態より大きく見せようとする様が滑稽と疎まれる。「第四象限」はいわゆる「Post Truth」で、現在世の中に広く流通する大半の出来事に当てはまるし、そこにフォーカスを合わせたトランプは勝つという話にも繋がる。

人類の「エモさ」への最適化

シンギュラリティへの適応

今後も「Post Truth」の潮流は様々な波紋を生みながら発展していくと予想されるが、その要因の一つの仮説として人類はこの「エモさ」を武器とすることで未来に訪れるかもしれないシンギュラリティ的な世界に対する最適化を行っているのではないかと考えることができる。どういうことかというと、Ray Kurzweilの言うシンギュラリティによる強いAIのブレイクスルーが起こる、もしくはGoogleのDeepDream、AmazonのAlexa、IBMのWatson、AppleのSiriに代表されるDeep Learningを応用した弱いAI、またはMIT Media Labの言う拡張知能などが普及していく中で「反知性主義」、「ポピュリズム」、「感情の劣化」などのレッテル貼りにうんざりし、「ポリコレ疲れ」になっていた人々が生物的な最適化として「エモさ」に同調していく流れがあり、その人たちは「貧者のVR」の中に移住することを積極的、消極的に関わらず本能的に選択しているのかもしれないということだ。要するに彼らはマトリックスのカプセルの中の住人になって終わらない夢を見続けることを現段階で選択しているのかもしれず、「Post Truth」に適応していくことは、AIが真似できない情動、心の働きを重視するという意味において生物として生き残るための最適化を図っていると捉えることもできる。

生存戦略としての選択

実際に「Post Truth」の戦闘能力は半端なく高くて、今後しばらく世界はこの世界観に染まっていくのは間違いがない。考えてみれば全ての人類は元々「エモく」て「無知」だ。人類が「エモい」ことに関してはそれが現状人類とAIを分割する重要なラインであることは疑いようのない事実だし、今更実例を挙げて証明するまでもない。一方で「無知」であることに関しては「無知の知」的な意味で「無知」なのではなく、現在は圧倒的に増加し続ける情報量の前に実際に誰もが無知にならざるを得ない時代だということだ。例えば「大衆」という言葉を無自覚に使用したときに、それを使用する側の人類は自分はその「大衆」に含まれていない俯瞰視点で物事を語る傾向にある。しかし、人類が生み出す情報量が日々倍々ゲームで増殖し、ビッグデータとして集合知が溢れる現状における「大衆」は自分や専門家含めた全ての人類のことを指す。つまり全ての人類は「大衆」であり、それは同時に「無知」であることを意味する。その世界において最も勝算の高い選択肢は「知性」でも「論理」でもなく「感情」であり、生存戦略としてその選択肢を選択するのは生物としては当然のことだ。

「Emo Truth」宣言

この「Post Truth」の世界観においてAlternativeな選択肢として浮かび上がってくるのが、「Emo Truth」ということになる。これは先程の「エモさ」への最適化のように「知性」、「論理」を諦めて「感情」に最適化するのではなく、「知性」、「論理」、「感情」の価値をそれぞれ尊重した上で、それぞれのあり方、システム設計を双方向的かつ可変的に考えて実装していく在り方を追求していくということだ。今後の価値の判断基準としては全ての物事で「エモい」か「エモくない」かが最初に判断され、「エモくない」ものはどれだけ「知性」、「論理」の観点から優れていても力を持たない。なので「Emotion」の軸を意識した表現、システム設計が常に重要になる。その枠組みにおいて「Fact」の軸を無視すると魔女狩りの歴史が再来することになり、長期的な視野で見ると文明が発展していかない。なぜなら「Fact」というものは人類の積み重ねの上に成り立つものであり、その積み重ねこそが文化や文明を形作るからだ。上記を考え合わせると「Emotion」の中に「Fact」を、「Fact」の中に「Emotion」を実装して相互補完していくようなシステムを知性的に構築する必要があり、それを「Emo Truth」と呼ぶ。これは喩えるなら赤いカプセルを選んで覚醒することを選ぶネオ、もしくは落合陽一の言うところの「魔法の世紀」の「Digital Nature」の中でシステムを作る側の魔法使いの立場である。つまりホワイトカラー、ブルーカラーという従来の区分が等しく無意味になった今、クリエイティブ・クラスのSuper-Creative Coreに所属する人々はこのような戦略を元に動くべきということだ。先程の「第一象限」、「第二象限」、「第三象限」のどの区分に属していたとしても、この考え方は参考になるはず。この戦略を新しい生存戦略、理念として実行していくことを「Emo Truth」宣言とする。

補足

NILOG1周年記念日

実は本日はNILOG1周年記念日だった。丁度1年前の今日NILOGを開始し、今まで過ログと未ログを駆使して毎日更新を貫いてきた。それはコツコツと毎日同じことを習慣化して積み重ねることが苦手だった自分にとって、人生における一つの達成だった。今回の記事ではその記念を祝して、1年前と現在の自分では何が変わったのかを可視化するため、あえて1年前と全く同じ記事を素材として、今の自分の視点で改めて加筆修正、デザイン、編集した記事を掲載することにした。そういう意味でこの記事のタイトルはRe: 「Emo Truth」宣言なのである。内容は加筆修正をしたものの以前とほとんど変わっておらず、主張も当時と大幅には変わっていないので、力を入れて書いた記事は時間の経過に耐えうる強度を持つ、つまり無駄にならないことを再確認できた。

過去記事からの改良点と「Emo Truth」の実装

また当時からNILOGを読んでくれていた方が未だに読者でいてくれているかは分からないが、以下のリンクから当時の記事が読めるので、読み比べてみれば何が違うのかが分かるだろう。

「Emo Truth」宣言

まず当時の記事は目次が存在せず、項目別に記事が分かれておらず、一区切りが長かった。今回加筆修正して変更した部分もあるが、項目別の見出しや小見出しを含めて内容が分かりやすくなったはずで、ここは編集としての改良点。またブログ全体にCSSを適用しているために今では違いが分からないが、文章が両端揃えになっていなかった。これを両端揃えにすることで見栄えが良くなったはずで、これはデザイン的な面での改良点。さらに当時はFeatured Imageや「Emotion」と「Fact」の4象限マトリックスのような図解も存在していなかったが、今回これらを付け加えたことで内容がさらに分かりやすくなったはず。さらに改良するならば全ての項目にイメージや図解を加えたいが、そこまでやるとしたら労力的に書籍化、もしくは他の媒体、サービスとして提供する時にやるべきだろう。実はNILOGを開始する際に、この「Emo Truth」宣言という記事を最初の記事として持ってくるために、内容を練りすぎてブログ開始時期が多少遅れてしまったという経緯がある。その目的は達成されたが、未だにこの生存戦略、理念としての「Emo Truth」宣言を自分の活動として完璧に実装できているとは言えない。なので今年は音声や動画での発信も含めて、自分の活動の中で「Emo Truth」な在り方をより一層探っていきたいと考えている。

ポジティブとネガティブという思考の枠組みから脱出する方法

ポジティブとネガティブ

二項対立の思考の罠

ポジティブとネガティブという単純な分類の仕方が嫌いだ。何故なら単純な二項対立の思考の罠に陥り、そのどちらかがもう一方より良い、もしくは悪いと断定することの危険性は度々NILOGでも取り上げてきたが、ポジティブとネガティブという分類の仕方も見事にその型にはまっていると言えるからだ。一見ポジティブに見えるものの中に、隠されたようにネガティブな要素が見つかることもあれば、逆にネガティブにしか見えないものの中に、本人にしか分からないポジティブな要素があることもある。例えば誰がどう見てもポジティブな性格を持っているように見える人が、実は内面に深いネガティブな闇を抱えていることはままある。また例えば個人的には叫ぶことや叫ぶ声の入った音楽を聴くことは一見ネガティブに見えるかもしれないが、それによって解放され、安心するという意味では極めてポジティブな意味合いを持っている。これは哲学用語を使用して一言で言えば、脱構築の問題でもある。

ポジティブとネガティブのサンドイッチ

また構造的にはポジティブ → ネガティブ → ポジティブのサンドイッチであったり、ネガティブ → ポジティブ → ネガティブのサンドイッチであることもあるので、表層を見るだけでは本質を見誤ることがある。例えば過去にアイルランドの美大で引きこもり時代の体験を表現するために、鎖を張り巡らせた個室とインスタレーションを破壊し、音楽に合わせて叫び、ガスマスクを装着し、ランプを照らして部屋の外に出て行くというパフォーマンスを披露したことがある。これは人によって全く捉え方が全く違ったようで、ある人からは勇気があると褒め称えられたり、感動したと言ってもらえて抱きつかれたりしたが、ある人はかなり怒った様子で美大の環境が気に入らなかった故の破壊衝動に任せたパフォーマンスと捉えられたようだ。また留学中に過去を振り返ったエッセイを書いたことがあり、自分としては色々あったがそれをポジティブにまとめたはずだったのだが、ある人にとってはそれを読んで怒りが湧いてきたと言われた。このように物事はポジティブとネガティブという二項対立で単純に捉えられるものではなく、表層の世界と深層の世界には大きな隔たりがある。

解像度とレイヤー

白黒の世界と解像度

ではどのようにして世界を捉えればより世界の真実が見えてくるのだろうか。その一つの答えは解像度を高くすることだ。例えばポジティブとネガティブという解釈しかない世界は、白黒の世界と等しい。しかしそのポジティブとネガティブという視点のみで捉えていた世界をより解像度を高くした目線で眺めてみれば、その白黒の世界にも無限のグラデーションがあることが見えてくるはずだ。さらに白黒だけではない他の色彩も見えてくるかもしれないし、その解像度を上げることに関しては終わりなき探求があることが分かる。つまり自分の世界を捉える解像度が上がれば、以前とは同じ風景も全く違う色彩で見えてくるはずなのだ。

複数のレイヤー

また複数のレイヤーを見極めることも重要だ。これは他の言葉で表現するなら抽象度と言っても同じことだ。ただレイヤーの方が先程説明したイメージの連続で説明しやすいので、今回はそちらの言葉を使用して説明する。例えばAdobeのソフトであるPhotoshopやIllustratorなどを使用したことがある人は、レイヤーという機能を使用したことがあるはず。そのレイヤーを複数のに分けることで、背景やメインの画像などを含めて何層にも重ねて一つの画像を表現することができる。現実世界も正しくこれと同様で、実際の現実世界を解釈するのは人の感覚器官というフィルターを通した脳、つまり情報処理が必ず間に入る。ということはたとえ同じ物質を見たり、音を聞いたりしても、そこにどれだけの情報のレイヤーが重なり合って捉えられるかはその人次第ということだ。

ポジティブとネガティブという思考の枠組みから脱出する方法

上記で書いてきた内容で、ポジティブとネガティブという思考の枠組みから脱出する方法は理解できたと思う。そもそもの前提としてポジティブもネガティブも思考としてはフラットであり、どちらが良くてどちらが悪いということはない。またそれは個人の内面に深く関わることであり、他人から見てどうということを気にする必要もない。しかし人が人である以上、どうしてもそれらの思考の枠組みの中に閉じ込められてしまいがちだ。それに対してはまず自分が世界を捉える解像度を上げること。これによって世界にグラデーションがあり、色彩が豊かであることを理解できる。次に常に複数のレイヤーを持って物事を捉えること。それができれば、物事の構造の複雑性に気付き、自分自身の思考を取り戻すことができる。例えば創作活動においては自分のネガティブなものを昇華して表現することで、それがポジティブに捉えられることがあるという現象が一種の救いでもある。昔Pay money To my Painという名前のバンドが存在していた。これは直接的な名前ではあるが、それが創作活動におけるポジティブとネガティブという思考を逆手に取ったような正論を示していることもまた確かだ。