「落合陽一、山紫水明∽事事無碍∽計算機自然」について

メディアアートと現代美術

メディアアートと現代美術が乖離して久しい。メディアアートの1ジャンルが現代美術、現代美術の1ジャンルがメディアアート、メディアアートによって現代美術は滅びる、現代美術とメディアアートは無関係など様々な意見はあれど、この両ジャンルが既に異なる生態系とロジックによって動いているという事実は誰もが認めるところだろう。そしてそれらの業界(1)この言葉は無駄な対立を作りやすいのでできれば使用したくないが、外部から客観的に見れば使用する妥当性がある。を含めて両者は互いに交わることなく黙殺し合い、対話することもなく、交わったとしても互いに互いを過小評価し合う中で無駄な揚げ足取り、文系理系という不毛な二項対立に基づいたポジショントークに終始しているように思える。メディアアートの側から見れば現代美術は時代遅れで滅びていくように見えるのだろうし、現代美術の側からみればメディアアートは浅く歴史を踏まえていないように見えるのだろう。

アート、サイエンス、デザイン、エンジニアリングのフレームワーク

ここでMITメディアラボ所長である伊藤穰一が提唱したアート、サイエンス、デザイン、エンジニアリングのフレームワークをおさらいしてみる。(2)MITメディアラボ・伊藤穰一所長が語る「デザインと科学」この四つのジャンルが「1人」の中にインストールされることで見えてくる風景というものがあり、その上で何処かに圧倒的な専門性がある個人が、集団として有機的に機能した時に達成できる何かがある。Anrealmsというコレクティブではその方向性を目指している。
メディアアートはアートとエンジニアリングを融合させた分野であり、リンク先の図で言えばあらゆる面で対極に位置する二つの分野を融合させていると言える。また落合陽一の場合はサイエンスの知見もメディアアートの中に取り入れているので、少なくとも三つの分野にある程度詳しくないと理解することは難しい。ただこの潮流自体は特段珍しいことではなく、例えばSputniko!がアンソニー・ダンが提唱したスペキュラティブデザインでアートとデザインの融合、バイオアートでアートとサイエンスの融合しながらテクノロジーと人間の関係性について思考しようとしていることもその一例として挙げられるだろう。一方で現代美術がマルセル・デュシャンを起源とするならば、哲学と相性の良い分野であると言うことはできるが、その歴史の累積もまた単純に切り捨てられるものではない。それどころかその歴史を知らない上で新規性を追求すれば無限ループに陥る危険性、もしくは経済性と大衆性を伴うが中身が空虚になってしまう危険性はある。

「落合陽一、山紫水明∽事事無碍∽計算機自然」について

コンセプトとステイトメント

前置きが長くなったが、「落合陽一、山紫水明∽事事無碍∽計算機自然」について。まずコンセプトとステイトメントは面白い。タイトルは山紫水明 (幽玄、侘寂) の世界観を時事無碍 (End to End) によって計算機自然として提示すると解釈した。それら三つの要素が相似の形態を持って通じているので、「∽」で結ばれている。また「工業社会のヴァナキュラー性」というステイトメントに出てくる文を、作品ではなく床の素材として表現しているのも展覧会としての拘りを感じさせる。コンセプトとステイトメントから考えると、落合陽一のメディアアートには哲学がないのではなく、彼なりの哲学があり、それが既存の現代美術で参照されるような哲学との相性が悪いために、齟齬が生じている。つまりテクノフォビアやテクノロジーの無理解といったものは表層上の問題であって本質ではなく、むしろ溝が生じるのは根本にある哲学の相違にあるように感じた。他にも全体的な展覧会構成と作品のコンセプトの一貫性があり、方向性としてはブレがない印象。逆に言えば一貫性が強く、統一感があるが故に、作品がコンセプトを逸脱して作家本人ですら辿り着けない領域に到達しているというような作品が無かったのは残念。

個別の作品

ここからは個別の作品について思ったことを書き連ねていく。

辻雄貴とのコラボ (藤の花)、「丸窓」、「にじり口」

今回の展覧会のコンセプトを徹底するならこれらはむしろ必要ないかと思った。日本的な古典美の象徴を意図的なモチーフとして使用せず、それが計算機と落合陽一の文化的/経験的な身体性によって無意識的に表現されてしまうから面白いのであって、これらをモチーフとして使用してしまうと全体のコンセプトが崩れる。さらに踏み込んで言えばこれらを入り口に配置するのは計算機自然というコンセプトに慣れない人のための、一種の言い訳として用意されているようにすら見えてしまう。辻雄貴とのコラボは日本的な古典美と計算機の単純な足し算に見えてしまうし (計算機自然の風景はこれではないはず)、「丸窓」から見える「Levitrope」は本来の「丸窓」の侘寂を超えていないし、「にじり口」に至っては大きすぎて「にじり口」の持つ境界/結界という機能の設計要件を満たしていない。また「Colloidal Display」と「波面としての古蛙」は壊れていたのか機能せず、評価以前の問題。落合陽一の展覧会では常に何かが壊れていて動かないという悲しい経験をしているのだが、メンテナンス要員を置くなどして対処できないものなのだろうか。特に「波面としての古蛙」で使用されている磁性流体は、個人的にも作品で使用したことがある思い入れのある素材であり、観ることができなくて残念だった。さすがに壊れて動かないことが侘寂という訳ではないはず。

「波の形,反射,海と空の点描」

通称サバ。サバの模様を遺伝子のプロセスをプリントした風景画として捉えるという発想は面白い。しかしこれを「波の形,反射,海と空の点描」と言われてしまうと、言葉に頼った力業に感じなくもない。今回の展覧会の作品全体を通して言えることだけれど、実際に観た作品よりもSNSやウェブサイトで紹介されている写真、動画の方が綺麗、もしくは魔法を感じさせるようになっていて、実物を見ると落差にガッカリするというものが多かった。それは恐らく知識の欠如などではなくて、一言で言うと「エモくない」ということだと思う。「エモい」という言葉を流行らせた落合陽一の作品が「エモくない」とはどういうことなのか。しかしその原因は何となく分かっていて、彼はコンテンツを意図的に抜いてメディア装置だけを展示することに拘っているからだろう。このメディアアートの定義は一般的なメディアアートの定義よりさらに狭い定義なのだが、それをやると魔法感と「エモさ」はむしろ失われるのかもしれない。またこの作品に関しては余りにそのままサバであり、それ以上でも以下でもないという印象で、同じコンセプトでもその模様の切り取り方によってはさらに興味深い作品になりそうなのだが、現状表現としては直接的過ぎて余韻がない印象を受けた。

「音の形, 伝達, 視覚的再構成」

音を光に変えるというのは共感覚者にとっては割と馴染みのあるテーマで、古くはモーツァルトから続く伝統的なテーマではある。そこでこの作品をモーツァルトの楽曲群と比較すると、超音波を使用している点で面白い部分はあるものの、超音波を光に変換したという事実とアウトプットされた模様がシンプルな故に作品としての深みに欠ける。モーツァルトは音を光に変換した上で、さらにその色彩を楽曲として建築のように構築したから凄いのであって、単純に超音波を光に変換しただけでは物足りない。あとイルカの超音波を使用しているのに、背景にイルカの画像を設置するのは直接的かつ説明的であって、そこに侘寂的な飛躍があった方がもっと面白くなるはず。

「計算機自然, 生と死, 動と静」

辻雄貴とのコラボ (モルフォ蝶の標本によるいけばな) の方は文句なく美しい。しかしコンセプト的にはデジタルの複製によるいけばながそれを超えていなければ成功とは言えない。そして実際に超えているとは思えなかった。まずデジタルの複製によるモルフォ超は偽物感が強く、実際のモルフォ蝶の美しさに遠く及ばず、生も死も感じさせない物としてそこにあった。しかしそこは問題ではなくて、実際に動いた時に美や生を感じられるかどうかだ。これは人によるのかもしれないが、少なくとも個人的には美も生も感じなかった。この作品は明らかに展覧会のメイン作品であり、計算機自然について語るときに両者のいけばなの差が感じられない、もしくはデジタルの方が動と美と生を感じさせるようでなければ展覧会のコンセプトやステイトメントとの整合性が取れない。むしろ計算機は頑張っても今の所ここまでが限界という逆の証明をしてしまっているようにも思え、この作品に関しては厳しく言えば展覧会全体の説得力を失いかねない出来になっていた。

「深淵の混, 内と外, 人称の変換工程」

この作品に関しては故障していたのか、体験の仕方を間違えたのか、中を覗いても特筆すべきものは何も見えなかった。なので残念ながら割愛。

「Levitrope」、「Silver Floats」

「Levitrope」は以前「Media Ambition Tokyo 2017」で観たことがあり、「Silver Floats」は初見。今回の展覧会の作品の中では「Silver Floats」が一番良かった。両作品には「浮遊」と「借景」という共通したキーワードがあるが、「波形」というコンセプトを取り込んだ「Silver Floats」は「Levitrope」からの正統進化形態に見えた。ただし「借景」については「浮遊」する物質の方が興味深いが故に、どうしても陰に隠れがちになる。後に言及する「Morpho Scenery」にも「借景」というコンセプトは見られるが、「借景」をするならばその借りてくる風景自体が興味深いか、作品との抽象的な繋がりがないと作品の深度が増さない。そういう意味で以前の「Media Ambition Tokyo 2017」での「Levitrope」の借景は余りにもベタだし、「Silver Floats」の背景にあるノイズ的な映像は余りにも普通でつまらない。これは金沢21世紀美術館で観たBCL「Ghost in the Cell」にも言えることだけれど、コンセプトやメインの物体としてのアウトプットは面白いのに、背景の映像がベタでインスタレーションとしての強度を落としているように感じた。

「魚鈴」、「虫鈴」

「魚鈴」と「虫鈴」に関しては落合陽一のフェティシズムが全開で、その享楽に応じて作品を創るということ自体は良いし、作家にとって重要なこと。ただこの種の作品はそのフェティシズム、享楽に共感できるかどうかが全てで、それができない人にとっては良さを感じることが難しい側面もある。プラズマ音によって魚と虫の存在を感じさせる試み自体は、SF的な侘寂が感じられて良い。注意点としては一方の作品は壊れてはいなかったと思うが、かなり聴こえにくかった。また装置自体の構造や配線を剝き出しににするというのは、落合陽一がInstagram掲載しているような写真の美学、哲学の延長線上にあるように感じた。

「Morpho Scenery」、「Morpho Scenery in GYRE」

「Morpho Scenery」に関しては先程も言及したように、「借景」をするならばその対象、もしくは対象と作品との抽象的な繋がりがほしい。もしくは何の変哲もない風景が、特殊なレンズによって波として興味深い風景に変わるという体験を提供したいならば、何かが足りない気がする。風景が枠組みによって規定され、反転し、色彩が変わる。その現象自体は興味深いのだが、この体験には何故か物足りない感覚が残ってしまう。キャンバスや風景画という既存の枠組みを認識のレベルでハッキングしたいという欲望は強く伝わってくるのだが、体験としてはあっさり塩味で、豚骨ラーメンのような濃厚な何かを期待するとその期待は裏切られることになる。また「Morpho Scenery in GYRE」に関しては「魚鈴」、「虫鈴」と同様に落合陽一のフェティシズムと享楽を明示した作品群になっている。「透明」というのもこの展覧会全体のキーワードであると思うが、こういった作品の「透明」な部分が一見汚れや傷が付いているように見えたのは少し戸惑った。

今回の記事の周縁情報と総括

「落合陽一、山紫水明∽事事無碍∽計算機自然」については、コンセプトとステイトメントは面白いが、作品としてアウトプットした際に齟齬がある、もしくは踏み込みが甘い面が多々見られた。また特にSNS上では展覧会や作品に対する批評的な言説はほぼ見られず、箕輪厚介の言うように落合陽一 (概念) は既にファッションとして消費されている(3)型破りな編集者・箕輪厚介が語る、閃き力の鍛え方と新しい働き方ように見えた。落合陽一の「批評家になるな」という言葉は生存戦略としては正しいが、彼の言説の多くはそう呼ばれてはいないものの実に批評的である。ならばポジションを取った後に批評をしろという順序の問題なのか、手を動かさない人の象徴、意識高い系批判の延長線上としての批評家という存在の否定なのか、批評をしたとしても批評とは呼ばないというブランディングの問題なのかでは大きな違いがある。そもそも落合陽一にとって重要なパートナーの一人である宇野常寛は批評家であり、その恩恵を受けながらこのような言説を行うことには矛盾を感じなくもない。

また落合陽一は過去に現代美術を「文脈のゲーム」、自身のメディアアートを「原理のゲーム」という言葉で切り分け、後者の優越性を論じている。しかし今回の展覧会の内外を含めて彼の作品説明にはナム・ジュン・パイク、アンディ・ウォーホル、マルセル・デュシャン、ジョン・ケージなど「文脈のゲーム」の代表格が登場している矛盾があり、しかも「原理のゲーム」で言われているような理屈抜きの感動、つまり「エモさ」が欠如しているのであれば展覧会や作品としては失敗していると言える。ちなみに「原理のゲーム」を支えているのは彼のサイエンスのバックグラウンドだと思われるが、サイエンスの論文、学会というシステムもまた「文脈のゲーム」の側面を持つことは否定できず、彼がサイエンスの文脈をアートの文脈に変換して作品化しているという構造は、村上隆が漫画やアニメといったサブカルチャーを西洋現代美術の文脈に翻訳した構造とも類似性がある。

個人的には乖離してしまったメディアアートと現代美術の回路を再び接続することにも興味があるのだが、その乖離は日を経るごとに広がっているように見えて悲しい。計算機自然が本当に侘寂の世界観を体現できるのであればそれは素晴らしいことだし、見てみたい風景である。また人類と計算機という二項対立に囚われないのであれば、最終的には一体誰に作品を見せるべきなのか (対象を人類に限定するのか) という問いも生まれてきそうだが、そう考えた時に「エモさ」とはまた違った評価軸が生まれてくる可能性もあるように感じた。最後に哲学を実装することという理念には共感するが、そこではまた実装の精度と深度も問われてくるはずだし、ジャンル違いの人種からも色々意見があって良いはずだし、「分からないけれど何だか凄い」以外の批評的な言説もあった方が面白い。「落合陽一、山紫水明∽事事無碍∽計算機自然」を観た帰りに、このような思考の断片を思い浮かべながら、TMTMTRさんとフィリピン料理を食べていた。

脚注

1 この言葉は無駄な対立を作りやすいのでできれば使用したくないが、外部から客観的に見れば使用する妥当性がある。
2 MITメディアラボ・伊藤穰一所長が語る「デザインと科学」この四つのジャンルが「1人」の中にインストールされることで見えてくる風景というものがあり、その上で何処かに圧倒的な専門性がある個人が、集団として有機的に機能した時に達成できる何かがある。Anrealmsというコレクティブではその方向性を目指している。
3 型破りな編集者・箕輪厚介が語る、閃き力の鍛え方と新しい働き方

「ニューロホップ – NEURO HOP」展: 「#鳩羽つぐをさがすオフ」について

西荻窪の引力

西荻窪は謎の引力を持つ。数年前「億光年のドライヴ」というグループ展に参加したのだが、その際の会場が西荻窪にあるURESICAだった。奇妙なことに、というより自分以外の人にとっては奇妙でも何でもないことなのだが、「ニューロホップ – NEURO HOP」展が開催されていた中央本線画廊はその西荻窪にあった。駅からの方角も同じであり、実際の距離も近い。さらに奇妙なことに、中央本線画廊はタバコ屋を改装してできた場所だという。以前「石版を丸呑みする回転木馬」という展覧会を開催したダイナミックサイクルもまた、タバコ屋を改装してできたものだ。そして西荻窪はVTuberの鳩羽つぐが住んでいる場所であるとされている。この奇妙な巡り合わせは何らかの力によって引き起こされたのかもしれないし、何の意味もないのかもしれない。ただ今ふと思い出したのだが、西荻窪にはそのような不思議な力を持っていそうなどんぐり舎というカフェがある。マスターも味があるので、行ったことのない人は是非訪れてみてほしい。

「#鳩羽つぐをさがすオフ」について

さて今回取り上げるのは、「ニューロホップ – NEURO HOP」展で観た「#鳩羽つぐをさがすオフ」という作品について。これは新芸術校出身の小林太陽とcottolinkによる映像インスタレーション作品で、一番興味を惹かれた作品でもある。鳩羽つぐについて簡単に説明すると、西荻窪に在住しているとされるVTuberであり、中性的な雰囲気を纏った少女。動画を観ても謎が多い存在であり、都市伝説や犯罪の匂いが漂う内容になっていることからインターネットを中心に様々な考察が生まれている。映像作品ではその鳩羽つぐをモチーフとしており、西荻窪周辺を歩き回りつつ、鳩羽つぐの痕跡や気配を探し求めていく。以前参加したフォーラム(1)「生きものの気配:芸術とロボットの領域」では、人間以外の存在の気配について語られていたが、今回はキャラ/VTuberの気配を探し求めるようなゲーム性の高い内容になっており、特に映像の終わり方は良いと思った。

現代美術の速報性と後追いの構造について

まず現代美術の速報性と後追いの構造について。鳩羽つぐ、VTuberというモチーフを現代美術で取り上げるのは、反応速度としては早いはず。ただVTuber界隈の多様化と流れが早過ぎて、それと比較してしまうと今この話題を取り上げるのが早いのか遅いのかも既に良く分からない。もちろん早い、遅いは評価基準としてはどちらが良いというものではないが、モチーフの変化が早い場合は反応速度は重要になってくる。またYouTuberやゲーム実況者などがコンテンツや商品を消費するタイプのクリエイターであるとするならば、鳩羽つぐは純粋にコンテンツを作り出しているように思える。しかしそこで鳩羽つぐを「さがす」のであれば、構造的には後追いの消費するタイプのクリエイターとどうしても被ってしまい、鳩羽つぐというコンテンツを消費しているようにも見えてしまう。そこの動詞の変更には可能性がありそうで、こういった作品によって逆に鳩羽つぐの今後の映像内容に影響を及ぼしてしまうような作品が提示できれば強い

ホモセクシュアルとホモソーシャルについて

またこれは勘違いかもしれないのだが、作品の説明を聞いていて、ホモセクシュアルとホモソーシャルという単語が出てきたのだけれど、その辺りの概念が多少混同されているように感じた。ホモセクシュアルは性的指向のことで、ホモソーシャルは社会的な関係性のことを指す。ホモソーシャルはむしろホモフォビアと結び付き易い概念で、これらの立場は対立することが多い。ホモソーシャル的に振る舞いながら実態はホモセクシュアルであるということも良く見られる現象なので、そこも含めて一筋縄ではいかない。ただ仮に作品として結び付けるならそこはもう少し掘り下げるか、テーマとの結び付きがないならばっさり切り捨てるかどちらかにした方が良さそう。男性2人の生活空間と切り離せない作品になっていたので、緩い繋がりはある気がするのだけれど、本格的には切り込んでいない感じがした。

中央本線画廊という場

「ニューロホップ – NEURO HOP」展では他にも興味深い作品が沢山あり、解説なども丁寧にしていただいたし、新芸術校生が数多く出展していたのも刺激になった。また以前批評再生塾の募集が再開したら申し込むと宣言しており、躁鬱状態の躁状態に入っていたこともあり、先日勢いで申し込んでしまったのだが、それを記念してTMTMTRさんにビールを奢ってもらった。中央本線画廊という場自体が面白いので、行ったことのない人は是非行ってみると良いと思う。西荻窪周辺も探索してみると面白い場所が沢山あるはずだし、URESICAも良い場所だ。自分としては空き家プロジェクトがストップしてしばらくが経過するけど、いつか自分のコレクティブのためのアトリエ兼ギャラリーを持ちたいと改めて思った。

東京国立博物館のツアーを通じての所感

東京国立博物館の常設展

新芸術校のツアー2で東京国立博物館の常設展に行ってきた。チケット売場は割と混雑しており、時間ぎりぎりだったので少し焦る。しかし途中で同じく新芸術校のTMTMTRさんと合流したので、少し落ち着く。ちなみに東京国立博物館の本館大階段は大変立派な見栄えになっているが、テレビドラマ『半沢直樹』でも使用されていたとのこと。今回はツアーの詳細な内容は書かないけれど、その内容をメディウムとして自らの思考をかすめた諸々の所感について簡単にまとめておく。

諸々の所感

・国宝、重要文化財などの認定について。元々「選別」という概念に興味があるので、近代国家的な枠組みで文化の価値が認定されるシステムの存在は興味深い。また国宝と重要文化財の間にヒエラルキーが存在しているのも面白いし、文部科学大臣が認定するという意味では、文部科学省の外局である文化庁が推進する先進美術館との関係性も射程に入ってくる。

・Museumは博物館、美術館を包摂する言葉。この日本語における言葉の分離が、美術館と博物館は同様の性質を持つという意識を忘却させる一因になっている。またアートと芸術、美術という言葉の意味、概念が包摂する範囲の乖離も凄まじいものがあるが、これらの問題に共通するのは翻訳と言葉の問題でもある。

・縄文土器はその古さが世界的に見ても異常。そして縄文土器と言えば岡本太郎が脳内にちらつき、連想ゲームのように白飯を炊いていたら嗅覚が犬以上になってヨガ離婚をしてしまう香取慎吾などが思い浮かんでしまった。「NAKAMA」という言葉には暴力性と狂気がある。

・曼荼羅について。以前制作した『石版を丸呑みする回転木馬』では「パリピ曼荼羅」という詩と絵があり、中々好評を博していた。ただこのような曼荼羅の概念の拡張は歴史的な潮流でもあったようで、信仰は現世利益と表裏一体であり、容易く消費へと変わる。その漂白され、記号と化した曼荼羅という概念は現代社会で言えば、密教的という意味も含めて「パリピ」が体現しているように思う。

・神仏習合という現象は概念レベルだけではなく、行動様式も含めて日本人に大きな影響を与えている。また本地垂迹説は基本的には同一だけれども、神より仏を少しだけ高い位置に置く。この考え方は微妙なヒエラルキーの差異を構築するという意味で、カースト制度や三位一体などの切り分け方とも違って面白い。

・貴族 → 宗教者 → 武士というクライアントの変化による最適化。それは面積やモチーフにも端的に表れる。また日本の屏風と西洋の壁画の対比は重要。前者は機能性や仕切りを重視し、後者は建築の内部にあるという静からタブローという動へと変化していく。そもそも日本は工芸が中心なので、西洋のような大画面は苦手とのこと。

・変わり兜は実は装飾性、ギャグ性というよりは、必死かつ真剣に使われていたという話。おまけのような形で展示されていたが、今回見た展示物で一番興味を惹かれた。現代版変わり兜やメタラーのための変わり兜など作ったら面白そう。

・大画面 + 形式重視の雪舟からの流れを受け継ぐ狩野派、琳派などのコレクティブについて。大規模な工房運営による過酷な労働、クライアントの民衆化、文人画からのツッコミなどを含めてメディアアートと現代美術の関係性を考える上で参考になりそう。

・浮世絵が肉筆画から版画へと変化していく過程と必然性について。浮世絵を日本人が評価できず、海外に先に評価を固められてしまったという問題は現代まで引き続いており、その原因は批評が弱いということ。サブカル的な漫画、アニメをアート化した村上隆とそこにネット時代のアーキテクチャのレイヤーを足したカオス*ラウンジはその流れへの逆襲だと捉えることができる。ただし前者はあくまで海外での資本主義的な現代美術への翻訳、後者は日本を土台としたコレクティブ活動を通しての前衛の再設定という差異がある。また個人的には毛色は違うが、似たような性質を持つV系という鉱脈には焦点を当てた方が良いと思っており、モチーフとして使用している。

・工芸の極地である蒔絵とリアリズムを獲得した鎌倉時代の仏像の強さが際立つ。正面の角度から見ることを想定していた仏像の話があったが、全天球イラスト、360度カメラ、VRの普及した現在、どの角度から見ても素晴らしいものを作るという意識は全体的に強まっている感覚がある。

千利休の政治性について。寸胴の宗易形が従来のものと比較して良いというのは根拠がないという話。古美術や現代美術は関わる人の数が少ないので、どうしたって政治性が出てくる。その点メディアアートは広告と相性が良く、マスに訴えかけるという意味でブランディングが重要。

・上村松園の《焔》について。美人をモチーフに絵を描く作家の幽霊画。椎名林檎がメンヘラのコスプレ (コスプレなので思想はなく、着脱可能)、Coccoがメンヘラガチ勢 (ガチ勢故に表現活動を継続すると浄化される)、鬼束ちひろが狂人の憑依を現実化した神の子 (演じているうちに自我が変貌してしまう) だとすれば、松井冬子の絵画がメンヘラのコスプレかな?と思わせるくらいには上村松園の《焔》には抑圧した狂気が感じられた。

・高村光雲の《老猿》について。以前皇居外苑にある楠木正成像を見てきたので、ある意味タイムリーな作品。日本での彫刻は絵画と比較して地位が低いという話があった。また岡倉天心による学校をアトリエ、仕事場として使っても良いという教育思想は未だに美大教育の弊害として残っているという話は、新芸術校やパープルームなどの運動体がその潮流への創造的反論でもあることと接続している。

・明治時代の政策が未だにオリンピックや地域アートといった行政の関わるイベントに地続きの問題として表出してくるという話。海外に関わるビジネスマンの教養としてのアートみたいな潮流が現在流行りつつあるが、これに関しても同型の問題を抱えており、結局日本は近代教育の枠組みの中で失敗し続けているという証明。間口は広い方が良いので入り口としてはそれでも良いのだけれど、官僚もビジネスマンも既得権益や人脈獲得といった現世利益を追求するためのツールとしてしかアートを見ることができないというのは、端的に言って教養の欠如だと思う。

今回の記事のまとめ

東京国立博物館に来たのは初だと勘違いしていたが、過去に「国宝 阿修羅展」に行ったことを思い出した。あの時はまだ自分が現代美術やアートと呼ばれるものにここまで関わるとは思っておらず、小学生の頃に読んだタカシトシコ『魔法使いが落ちてきた夏』に登場する阿修羅のモチーフとしてイメージを膨らませながら見ていた記憶がある。しかしそれは捏造された記憶かもしれない。正直まだこの分野に関わって日が浅いので勉強することが沢山あるのだが、単純に説明されたことをメモするだけではなく、自分なりに色々結び付けて考えることを実践してみた。同日に「ニューロホップ – NEURO HOP」展と「落合陽一、山紫水明∽事事無碍∽計算機自然」にも行ってきたのだけれど、それらについては長くなりそうなのでまた後日。

映画館で『レディ・プレイヤー1』を観てきた

核となるメッセージ

久しぶりに映画館に行き、話題の『レディ・プレイヤー1』を観てきた。結論から言うと見て損はない映画なので未見の方は是非。ここから先は多少のネタバレを含むので、気になる方は先に観てから読んだ方が良いかもしれない。ただし推奨はするものの、内容については絶賛するという訳ではなく、一番核となるメッセージであろう部分には正直賛同できなかった。そのメッセージとは簡単に言えば「VRは現実世界とは違う。VRはあくまで仮想世界であって、現実世界の方にしか現実はない」という古いパラダイムを引きずった「最近の若者はダメだ」論の構造から一歩も外に出ないものだった。スティーヴン・スピルバーグ監督の年齢を考えるとこのテーマに対する限界があることも分かるし、実際に『レディ・プレイヤー1』でVRと言われているものがVRの技術の延長線上にあるものかどうかも微妙な部分が多い。しかしそういった欠点に目を瞑ればエンタメとしては普通に楽しめるし、日本の漫画、アニメを含めたオマージュのパラダイスは爽快感があることも確か。3DでVRをテーマにした映画を映画館で観るというのも中々変な気分だったが、数人しかいない映画館でボーッとしながら巨大スクリーンを眺めるというのは気分転換には丁度良い。

映画館 = マゾ的な体験装置

先程のメッセージの部分について拡張して話すと、「VRを現実世界だと思えばそこが現実である」というのが昨今の「ダメな若者」の共通認識であるはずだし、それは幾ら年長者に説教されても科学的に見れば正しい。そもそもVirtualを仮想と翻訳したのが間違いという話は少し調べれば幾らでも出てくるし、人間が脳と心というフィルターを通してしかこの宇宙を認識できないのであれば、自分がリアルだと感じた世界が現実であるという認識は自然と受け入れられるはず。その情報空間に対するリアリティ拡張装置としてXR技術全般は成長してきているわけだし、VRをテーマにするならば、その前提の元にVRを描かなければ根本的におかしな話になってしまう。その前提の元で「VRをテーマにした作品をわざわざ映画というメディアを通して表現する意味は何なのか」というところにまで踏み込まなければ、この作品を映画にする意味そのものが薄く、曖昧なものになる。そもそも映画館とは数時間も暗い暗室に人を閉じ込め、基本的には巨大な平面を見続けることに対してお金を払って体験するという、未来から見たらかなりマゾ的な体験装置であることは間違いない。映画館では家で映画を観るのと違って巻き戻すことも早送りすることもできないし、何度も観るためにはもう一度お金を支払う必要がある。またXRの世界では映像はホログラム的な表現が主流になると考えれば、映画はかなり時代遅れな表現方法と考えることもできるが、そこに対する明確な回答は用意されているように思えなかった。

エンタメ的な観点

ただしエンタメ的な観点から言えば物語は王道そのもので、単純に安心して楽しめるような作りになっている。身近な人物の死、ヒロインとの恋愛、三つの鍵探しの冒険、権力との闘争といったハリウッド映画の王道的な展開と、俺TUEEEE、仲間との友情などのオタクが世界を救う的な展開、少年漫画的な展開が綺麗に織り交ぜられて特に何も考えることなく楽しむことができる。レース、ドローン、戦闘のシーンなどの演出に関しても迫力ある映像になっているし、次にどのオマージュがでてくるのか、次にどのキャラが出てくるのかという楽しみ方はある程度メタ的な楽しみ方として用意されてもいる。物語の起承転結もお手本のような展開と着地を見せ、少なくともこの映画を観て退屈で仕方がないということにはならないだろう。全てが綺麗事と言えばそうなるけれど、全てが綺麗事だから物語は楽しいとも言える。また将来ここは確かにこうなる、ここは絶対にこうはならない、監督は絶対VR理解してないなどと考えながら観る楽しみ方も用意されており、エンタメとして見れば非常にレベルが高い。

映画館の未来

他には特に言うことはないのだけれど、今回映画館に行ってみて驚いたのは映画館の余りの廃れぶり。平日の夜とはいえ観客は数人しかいなかったし、映画館自体もあらゆる機能が縮小し、自動化され、ハレの空間であるという幻想は微塵も感じられなかった。これは結構深刻な事態で、音楽に関してはCDの衰退と共にライブやグッズの隆盛があり、ストリーミングなども合わせて何とか業界が成り立っている。しかし映画に関してはDVDやBlu-rayは売れないし、映画館の上映は音楽のライブのような生演奏の付加価値というものがないので、こちらに関してもこのままだと衰退していくしかない。そもそもYouTubeなどの影響かは分からないけれど、数時間に及ぶ映像を見続けること自体のハードルは日に日に上がっており、自分的にも映画を見るのが辛いと感じることが多い。そこにOculus Goなどの大衆向けのハイクオリティVRヘッドセットなどが安く買えるとなると、映画館には全く勝ち目がなくなる。例えばイメージフォーラムなどで上映されているマニアックで、そこでしか観ることのできない映像というのなら見に行く必然性はあるけれど、それ以外に映画館に行く必然性がない。またチケットの販売も自動化されていたけれど、少し高齢の方は購入の仕方が分からないらしく、逆に店員とのやりとりが必要になることで総合的な手間とストレスが増えていた。他にも映画上映前に個人を含めてホームパーティ的に映画館の貸し切りを提案するCMが流れていたけれど、ホームシアター的な環境を構築することが誰にでも可能な時代にその付加価値の提案は弱い。よって再現性のない生の体験を映画館が提供する以外には生き残る道はない。今回の映画鑑賞ではVRの未来を観に行ったはずなのだが、最終的には映画館の未来について深く考えてしまった。

100年後の罪人

解釈のための枠組み

本日は新芸術校で「展示を企画する1」というレクチャー形式の授業があった。まずWikiと自伝と社交という貧しさを抱えた昨今のアート本批判を話のまくらとして、批評の前提となる作品の解釈の仕方について説明された。アート作品は作品によって解釈のための枠組み自体を変えなければならないことが多く、その枠組みが自分の中にインストールされていないと意味不明になる。また現段階ではまだ研究が十分になされていないために位置付けや評価が難しい作品もあるし、ある作品については解釈できても他の作品については別の枠組みが理解できないと分からないという事態にも陥る。例えば前半に解説されたPeter Halleyの作品についてはフォーマリズムとイコノロジーの両面を併せ持つ作品と言われればスッキリするが、そのフォーマリズム = 形式とイコノロジー = 象徴についてそれぞれ具体的な作品を通して理解していないと理解が難しい。故にまずはその型と歴史的な流れについて徹底的に押さえておく必要がある。

悪い場所とコレクティブ

前半で特に問題となったのが椹木野衣が提唱した悪い場所について。簡単にまとめると西洋美術と日本美術では似たような作品も多いが、その評価が圧倒的に異なるのは日本が敗戦国であり、前衛が存在するための基盤が存在しないからだという話。これは昨今のコレクティブブームとも完全に接続する話で、前衛が存在しない悪い場所である日本にどうやって前衛やマーケットを作るかという問題設定に対して、それぞれのコレクティブがそれぞれの方法論で社会実験、社会実装し始めているというのが現状。村上隆は悪い場所ではない海外に地盤を築き、その実績と方法論を逆輸入したGEISAIを開催することで悪い場所問題を解決しようとしたが、結局その志は挫折した。一方で若いアーティストたちは地方の空き家などを活用しつつ小さな場を作ることを選んだが、結局地方芸術祭などの公的な助成金を当てにした活動はアートではなく街興しにしかならず、表現は制限され、マーケットの問題は解決しなかった。そこでどうするのかという問題が問われるわけだが、天皇のようなハイアート、ローアートを区分する存在が鍵なのか、コレクティブ活動の延長線上に解決策があるのかは現段階ではまだ分からない。

サブカルと国威発揚

続いてサブカルの歴史の話に話題が移行する。現代美術が何の役割も果たせなかった一方で、サブカルがその抑圧の表象として文化の重要な役割を担ってきたという解釈は美大ではなく新芸術校ならではのもの。ただしその解釈の正しさはゴジラやうる星やつらなどの作品とディズニー作品、洋画などを見比べることではっきりする。個人的にはV系もサブカルの観点から捉えることが可能であり、そこにはオタクとメンヘラの相容れない性質がありながらも、多くの共通項もあると思っている。例えばサブカルの象徴である漫画やアニメが世界言語になったように、V系も日本の音楽で唯一世界言語になり得る可能性を持った日本発の音楽である。現在のV系は自己否定から自己肯定、化粧の自己目的化、内輪化によってジャンルとしての魅力はほとんど死滅したわけであるが、実はXRの時代にこそV系が再設定されなければならず、そこには可能性があると信じている。話は脱線したが、日本ではサブカルやエンタメが無意識な前衛として機能し、人々はそれがアートであると気付くことなく消費し、アートは後衛として美大予備校や美大によって無職を排出し、その学校の講師を再生産する介護施設として存在し続けているという倒錯した状況が現在も続いている。それにしても『桃太郎 海の神兵』が行っていた国威発揚のプロパガンダは衝撃的だったが、観ている途中でamazarashiの「多数決」が頭の中から流れてきて「罪悪も合法も多数決で決まるならもしかしたら百年後はもう全員罪人かもな」と歌っていた。100年後から見ればこの国策映画と似たようなことが現在進行形で行われているのだろうと考えたら妙に気持ち悪い気分になったが、その審判の場に対して時間の堆積の渦中にいるアーティストには何ができるのかと考え込んでしまった。

『嘘喰い』: 「暴」と「知」を司るもの

『嘘喰い』完結

『嘘喰い』については以前からずっと取り上げたいと考えていたが、漫画が完結するまで待つことにしていた。そして数ヶ月前に遂に単行本の最終刊が発売され、その余韻に自分の中でようやく区切りが付いたので、今回はこの漫画について存分にその魅力を書き連ねてみようかと思う。現在連載中の漫画の中で一番続きが気になる漫画と言えば『HUNTER×HUNTER』になるが、『嘘喰い』はそれに勝るとも劣らないクオリティの漫画であり、『HUNTER×HUNTER』が休載中の期間は『嘘喰い』の連載によって何とか禁断症状の悪化を凌いできた。仮に『HUNTER×HUNTER』が好きで『嘘喰い』を未読の方は今すぐに全巻読んでみてほしいが、著者の迫稔雄はこの作品がデビュー作であるという点に末恐ろしい才能を感じる。また長編の連載漫画になると当初の目的を忘れる、伏線が破綻する、惰性で続くなどの状態が通常見られるものだが、『嘘喰い』は当初の目的と伏線を大枠で回収し、惰性で続けることなく全49巻でまとめ上げている。デビュー作にして代表作を創り上げてしまった迫稔雄がこの先何を描くのかは気になるが、次回作は是非流行のスピンオフ作品ではなく、全く新しい作品を読んでみたい。

バトルの概念の枠組み

『HUNTER×HUNTER』と『嘘喰い』が面白いのは、バトルの概念を枠組みから設定し直し、新しい枠組みを提示したことにある。またその新しい枠組みを提示するだけならまだしも、それが文句なく面白いというのが凄いところだ。

『HUNTER×HUNTER』のインフレ回避

まず『HUNTER×HUNTER』に関しては、『ドラゴンボール』を代表とする少年漫画が必ず通る道である、力のインフレを高度に回避することに成功している。例えば『ドラゴンボール』ではスカウターに代表されるように、力は数値的な上昇や見た目の変化により線形にステップアップしていくものと捉えられる。修行や闘技場はその象徴的なステップアップの場であり、行き着く先は敵を含めた力のインフレでしかない。このタイプの漫画では主人公は馬鹿であることが多く、馬鹿であることが強いというテーゼが繰り返される。一方で『HUNTER×HUNTER』では念能力の系統と能力の多様性により、単純に力が強いだけでは勝てず、そこには知性や理詰めの論理性を駆使したバトルが展開される。もちろん少年漫画であるので、血統の特殊性や力のゴリ押しによる勝利なども描かれる。しかし馬鹿であることが強いというよりは、馬鹿も特殊性として活かせる性質の一つとして描かれているのが特徴になる。

『嘘喰い』の「暴」と「知」

次に『嘘喰い』に関しては、「暴」と「知」のどちらが欠けていても一瞬で死ぬ。頭が良いだけで暴力や権力を持たない者は勝利した事実自体をねじ伏せられるし、暴力や権力を持つだけで頭が良くない者は出し抜かれる。もちろん一人の登場人物が全てを兼ね備えていなくても良く、チームとしての役割分担が出てくるわけだが、この「暴」と「知」の両面を兼ね備えなければ即死というリアリティはフィクションよりノンフィクションに近いスリルを提供してくれる。「暴」だけを追求すればインフレ、単純化が待っているし、「知」だけを追求すればリアリティとインパクトに欠ける。そういう意味で『嘘喰い』のバトルの概念の枠組みは、従来のバトル漫画の欠点を高度に解決していると言える。

「運」

そして『嘘喰い』における「暴」と「知」を司るものが「運」である。そう、この漫画は何を隠そうギャンブル漫画なのである。しかしこの漫画の特徴は、ギャンブルに付きものの「運」という要素を極限まで知性と論理性で回避しようとするところにある。それは試合が始まる前からの下準備、裏の取引、会話の内容、ボディランゲージ、演技、些細な記憶の断片などを含めたありとあらゆる要素を考慮に入れた上で頭がフル回転したギャンブルであり、実際には多くの人が「運」と呼んで縋ってしまう範囲のものは彼らにとっては「運」ではなく単純な準備不足、考察不足に過ぎない。ギャンブル漫画であるにも関わらず、「運」の要素を極限まで剝ぎ取るように動く登場人物たち。あっち向いてホイやハンカチ落としといった極めて単純そうに見えるゲームに設定を加え、高度な知的遊戯に変えてしまうその世界観は、ギャンブルを「運」でも「確率」でもない全く別のゲームに変えてしまう。

敵キャラの魅力

他にも『HUNTER×HUNTER』と『嘘喰い』の共通点を挙げれば、〜編のように分類できる小さな物語が複数存在した上で、大筋となる一つの大きな物語が存在していることが挙げられる。しかし中でも最も重要な共通点は敵味方を問わず魅力的なキャラが大量に出現し、そしてあっさりと死んでいくことだ。特に各漫画の敵キャラの魅力は際立っており、『HUNTER×HUNTER』で言えば幻影旅団、『嘘喰い』であれば倶楽部「賭郎」の存在がそれぞれの漫画の魅力を決定的なものにした。これらは両方ともある意味で主人公たちを食う程キャラ立ちしたキャラクターたちの集合体であり、誰も死んでほしくないと思える程魅力的なのだが、あっさり死ぬこともある。また主人公たちと対決した場合にはどちらが勝っても負けても嫌だと思えるような緊張感を漫画の中にもたらす。ちなみに倶楽部「賭郎」は主人公側にも付く中立の立場なので敵キャラと括るのは雑かもしれないが、一人一人のサブストーリーが知りたくなる程に濃いキャラばかりだった。

今回の記事のまとめ

今回の記事は『嘘喰い』について主に『HUNTER×HUNTER』との共通点を探りつつ、その魅力を書き連ねてみた。以下に箇条書きでその特徴をおさらいしてみる。

デビュー作かつ長編連載作品なのに当初の目的を見失わず、大枠の伏線を回収し、惰性で続けることなく綺麗に完結した

バトルの概念の枠組みを再設定し、「暴」と「知」の両面からリアリティを追求した

ギャンブル漫画の「運」の要素を解体し、高度な知的遊戯に変えた

敵キャラがその勝負の行方と死を含めて物語に魅力と緊張感をもたらした

最後に『嘘喰い』は掛け値なしにお薦めの漫画であり、まとめて何度も読まないと分かりづらい部分があるという意味も含めて、読んだことのない方はこの機会に是非読んでみてほしい。

嘘喰い
嘘喰い
著者: 迫稔雄

『美術手帖』2018年4・5月合併号 「ART COLLECTIVE」特集: アート・コレクティブが時代を啓くを読んで

キュレーションの時代からコレクティブの時代へ

『美術手帖』2018年4・5月合併号 「ART COLLECTIVE」特集: アート・コレクティブが時代を啓くを購入し、読んだのは大分前の話だ。大分前の話なので大半の内容は忘れてしまっているが、雑誌という性質上読むべき場所は絞られているので、今回は4月の記事の締めとして取り上げてみたい。日本の現代美術シーンは現在群雄割拠の戦国時代の様相を呈しているが、その一つの象徴がコレクティブの乱立として立ち現れている。Anrealmsを立ち上げたのは2016年だが、当時は今ほどコレクティブという言葉取り上げられ、流通している状態ではなかったし、未だにコラボレーティブ・コレクティブと名乗っているコレクティブを国内では知らない。しかし現在ではコレクティブは現代美術関係者の誰もが知っている用語になっているだろうし、その注目度はかつてない程に高い。キュレーションの時代からコレクティブの時代へと拡張していく流れの中、その曖昧な定義と知られざる実態を明らかにし、現在における勢力図を示すというのが本誌の狙いになる。

三つの読むべき箇所

三つの読むべき箇所を以下に列挙する。

・「美術の制度をいかに浸食し続けるか?」 (パープルーム)

・「《作品の時代》とは何か?」 (原田裕規)

・「コレクティブはどこへ向かうのか?」 (宇川直宏×黒瀬陽平×SIDE CORE)

それぞれの内容について細かく取り上げることはしないが、手短に気になった部分について言及してみる。「美術の制度をいかに浸食し続けるか?」ではSNSの重要性が語られ、それぞれのメンバーにルールが課されており、厳密に運用されていることが明かされている。SNSといってもInstagramではなく、Twitterでなければならない部分に、パープルームの卒業という不確定な未来と花粉という概念の本質が潜在しているが、関係性の美学の拡張としても捉えられるパープルームの活動はやはり興味深い。「《作品の時代》とは何か?」は個人的な興味関心、最近考えていたことと近い内容であったという意味で、読んでいて一番面白かった。個人的な言葉も補足しつつ解釈し直せば、作品の拡張としてインスタレーションがあり、インスタレーションの拡張としてキュレーションがあり、キュレーションの拡張としてコレクティブがある。しかしこの限りない拡張の末に全てが作品化するのであれば、逆に全ては作品でなくなることにもなる。であれば作品、そして作品の時代とは何なのか?この問いに対する答えは各々がその活動と実践の中で見出だしていくしかないが、少なくとも現代における全ての作品はこの厳しい問いを前提として生み出されなければならないだろう。最後に「コレクティブはどこへ向かうのか?」。この鼎談ではコレクティブについてある程度の歴史の流れを含めて包括的に語られており、その向かうべき先についても朧気ながら示唆されているという意味で特にその潮流の真っ直中にいる人は読んでおいて損はないように思った。

コレクティブの再発見

最後にコレクティブという概念は近年になって再発見されたものであって、昔から似たような美術運動や共同体は存在していたし、それは海外にも多数存在している。現代におけるコレクティブの優位性はSNSとの親和性が高いことに加え、専門領域が蛸壺化した状態を打破する突破口になることや、作品の概念を拡張して多角的に提示し易いことにある。本誌に取り上げられていないコレクティブも当然あるし、将来的にはさらに多様なコレクティブが生まれてくることも予想される。ただ一つ気になったのはRhizomatiksとチームラボは取り上げても、Digital Nature Groupを取り上げていなかったところ。落合陽一は一見ソロのプレイヤーに見られがちであるが、研究室という形態でコレクティブ戦略を取っている代表的な人物の一人である。他にも渋家が取り上げられていなかったのも不思議に思ったが、何か事情があったのだろうか。いずれにせよ個人的にはコレクティブを音楽活動におけるバンドの変形として捉えており、人が集合すれば必ず役割や変遷や解散といった概念が付きまとう。本誌は全体的に見れば物足りない部分もあったが、Anrealmsの行く先を考える上で読んでおいて損はなかった。

『美術手帖』2018年4・5月合併号 「ART COLLECTIVE」特集: アート・コレクティブが時代を啓く
『美術手帖』2018年4・5月合併号 「ART COLLECTIVE」特集: アート・コレクティブが時代を啓く
編者: 美術手帖編集部

アーティストステイトメントについて: 枠組みからの逸脱、外れ値の可視化、現実感の統合

課題の泳ぎ方

本日新芸術校での3回目の授業が行われた。テーマはセルフプロデュースで、具体的に言えば三つの段階を通して授業が行われた。まず最初に制作において言語を扱うことについての説明、次に課題についての解説、最後に個々と全体のアーティストステイトメントについての講評。課題は10個の課題文から最も興味深いテキストを選択し、そのテーマに言及しながら自分のアーティストステイトメントを800字以上1500字以下でまとめること。しかし学生生活を終えても未だに一夜漬けと締め切りぎりぎりにやり始めて1分前に提出するという癖が直らない。死という不確定な要素が最終的な締め切りなのだとしたら、時間で区切られた確定的な締め切りは易しく優しいはずだ。しかし自分が動ける時間には徹底的にまとめてやることができるが、動けない時間には徹底的に何もできないというバイオリズムの中でしか生きられない身体なので、今後の課題もその自分のバイオリズムを把握した上で、その波を上手く泳いでいくしかないのだろう。

制作と言語

制作と言語

アートの制作に言語が必要なのは当然である。というより当然であるし、美大にその成分が不足していると思ったからこそ海外留学をし、ディベートも修得してきたわけだ。新芸術校もまたその言語の必要性を重要視する現場の一つである。授業において言及されていた内容を要約すれば、言語は制作に先行するものでも対立するものでもなく、仮説として、または道具として制作と共に書き直されながら前進していくものであるということだ。しかしこのような当然の前提を共有できる教育の場は美大や美術予備校を含めて日本にはほぼ存在しない一方で、海外ではクリティークと呼ばれる批評、講評が授業の大半を占め、教授と生徒の境界もなく作品について話し合われるというところに大きな違いを感じる。

原理のゲームと文脈のゲーム

また言語は現代美術の文脈を支える批評の役割とも密接に関わっているが、これに対する現代のアンチテーゼとしては落合陽一の主張が挙げられるだろう。彼は原理のゲームと文脈のゲームという分類をし、将来的に現代美術という文脈のゲームはテクノロジーによる原理のゲームによって塗り替えられると主張している。個人的にはこの主張は一定の説得力があり、パラダイムシフトの境界線にある主張として重く受け止めるべきかと思う。一方で彼の言う原理のゲーム礼賛、文脈のゲーム切り捨てという議論の荒さには疑問もある。彼の生存戦略は研究や論文や学会などの活動を通して原理のゲームを追求し、それを異なる文脈である現代美術に作品や展覧会を通して変換することによって、メディアアートとして成立させるところにある。しかし研究や論文や学会といったものも、結局は言語や人間のフィルターを通した積み重ねの活動であるという意味において、文脈のゲームであるとも言える。要するに彼はサイエンスという文脈を現代美術の文脈に翻訳し、作品として成立させているわけで、構造としては漫画やアニメという文脈を現代美術の文脈に翻訳し、作品として成立させた村上隆と同様の構造を持っている。もちろん文脈の異なり具合が離れていればいるほどそれは難易度が高い行為と言えるわけだが、ここで原理のゲームが成立し、文脈のゲームが無効になったという主張が成立しているかどうかは怪しい。

Cross Media ArtsとAnrealms

個人的にはCross Media ArtsやAnrealmsといったコラボレーションで異なる文脈同士を翻訳、接続して作品化しているという点で彼の作品と似たような構造を持っているのだが、その立場においても言語や文脈のゲームを学ぶ必要があると思っているのは上記のような理由からだ。一方でテクノロジーについて全く学ぼうとしない現代美術もまた時代遅れになる可能性が高く、この時代における生存戦略としてはできるだけ異なる文脈についての専門性を同時に高めていくしかない。また人間を計算機と捉えること自体は間違いとは言えないし、究極的にはそうなる可能性はあるものの、現代における脳科学やAI関連の研究をある程度知っていれば、理論的な記号を使用しての脳と心の記述が全く進んでいないこと、Deep Learningなどの科学技術の発展の先にシンギュラリティが存在していないことは容易に分かるはずであり、それらの現実を無視して広告、宣伝的にテクノロジーのみで全てを解決できるとは思わない。そういう意味で近代的な人間性が忘却され、デジタルネイチャーが来た後に、もう一度人間が人間であることの限界が訪れると予想しており、そこで東浩紀的な観点がもう一度見直される必要がある。エモいという言葉で捨象されてしまう繊細な言葉の中にも、言葉では表現できないエモさが隠されていることに気付かなければならない。

アーティストステイトメントについて

話が逸れてしまったので、ここからはアーティストステイトメントについての話に移行する。

解説と講評

全体のアーティストステイトメントについての解説と講評。

・課題文には直接言及していなくても良く、それが大半を占めるのは良くない。

・批評、論文形式ではなく、エッセイ、ナラティブ形式でもコンセプトが抽出されていれば良い。

・抱負は語っても意味がない。

全体的にエッセイ、ナラティブ形式が大半を占めていたのに驚いたのだが、そういう形式で書いても良いのだという気付きがあった。エモさを出すにはむしろそういった形式の方がやりやすいのだが、自分語りをしてしまう余りポエムになってしまったり、コンセプトの抽出が足りなくなる危険性もあるように思えた。

自分のアーティストステイトメントについての解説と講評。

・1段落目と2〜4段落目が課題文の読解と、三つの活動形態に沿った作品紹介に分裂している。

・包括的に全てに言及するのではなく、アーティストステイトメントのコンセプトに関係する箇所のみ言及すれば良い。

前回の自己紹介プレゼンで余りにも作品について紹介し忘れたことで、アーティストステイトメントというよりは活動形態と作品紹介になってしまい、それらの根底にあるコンセプトについてほとんど書いていなかった。また課題文に言及するという意識が強すぎた余り、最初の段落にまとめてそれ以降と断絶を生んでしまったのと、タイトルはこの課題文の読解についてであって自分の作品のコンセプトと関係がなかった。指摘されるだろうと思った部分を短時間で的確かつ網羅的に指摘されたので、前に進むための講評としては非常に役に立った。

枠組みからの逸脱、外れ値の可視化、現実感の統合

今回提出したテキストはそもそも推敲する時間が足りておらず、全体に通じるコンセプトを書いていないのでアーティストステイトメントになっていないという自己認識があった。また抽象度をもう1、2段下げた上でエッセイ的な要素も混ぜた方が良いと判断した。なので授業後に現時点でのアーティストステイトメントとして全面的に書き直してみた。

以下変更点、改善点を箇条書きでまとめる。

・タイトルの変更と名前の記述をした。

・課題文のテーマへの言及はしていない。

・タイトルなどを除き1500字以内に収めた。

・自分の作品、活動の根底にあるコンセプトをまとめ、最初から最後までそれについての論を具体的に展開、言及した。

NILの活動や作品の背景にあるコンセプト、もしくはアーティストステイトメントに興味のある方は以下のPDFで読めるので、是非参照してみてほしい。

枠組みからの逸脱、外れ値の可視化、異なる現実感の統合

宇佐美圭司壁画処分問題について: 冷たいヴァンダリズム

宇佐美圭司壁画処分問題

東京大学の本郷中央食堂にあった宇佐美圭司の壁画が廃棄処分されたとのこと。この世界にFake News以外でそんな単語の組み合わせがあり得るのかと思ったが、どうやら事実らしい。無限に散らばる可能世界の中で、この世界線では確かにそのようなこともあり得る伏線が多々張られていたようにも思うが、いざ実際に現実を目の当たりにすると大きな衝撃がある。現状幾つか不明な点があるが、既に不可逆な状態で二度と戻らないことは確定事項らしく、残された者にできる選択肢は限られている。宇佐美圭司についての説明は東京文化財研究所の紹介を読めば一通り分かるはずだが、特に重要なのは彼が既に故人であり、また今回処分された壁画は彼のモチーフである「記号化した人間の形」を象徴する大作として、代表作と呼んでも良いレベルのものであったことだろう。(1)東京文化財研究所: 宇佐美圭司要するに今から誰が何をしても取り返しのつかないことが、こともあろうに日本の知、学問を代表する機関である東京大学の内部で起こってしまったということだ。

原因究明と再発防止

既に起きてしまったことは仕方がないので、まずは原因究明と再発防止のための対策が必要だ。東京大学消費生活協同組合のWEBひとことカードによれば、今回作品が廃棄処分になってしまった背景には以下の二つの理由があると説明されている。(2)展示されていた宇佐美圭司の絵画は・・・

・吸音、意匠の問題から新中央食堂に飾ることができなかった。

・別の施設に移設するということもできなかった。

仮にこの二つの前提が正しかったとして、廃棄処分という不可逆な判断を下すまでには無限の段階とグラデーションがあるように思える。例えば物理的アーカイブが不可能だったとしても、最悪デジタルアーカイブなどの手法も存在している。さらにこの二つの前提も本当に正しかったのかどうかが不明である。これら吸音、意匠、移設の三つの理由に関しては、より具体的な話が出てこない限り現段階でそれが本当に不可能なことだったのかどうか判断しようがない。特に移設に関しては物理的に何をどうしても不可能であったのか、引取先がなかったという意味なのかすらも分からない。しかし少なくとも「新中央食堂へ飾ることができず(全体にわたって吸音の壁になることや)、意匠の面から)、また別の施設に移設するということもできないことから、今回、処分させていただくことといたしました。大変残念ではございますが、なにとぞご理解くださいますようお願い申し上げます。」という説明で納得することは難しく、誰の権限と責任により、またどのような経緯を経てこのような判断が行われたのかは再発防止のために明らかにする必要があるだろう。他にも今回の件は作品について調査し、作品の価値を認識した上で行われたのか、有名無名を問わず作品を廃棄処分することに対する判断基準は何なのか、東京大学消費生活協同組合と東京大学の間、もしくは本郷キャンパスと駒場キャンパスの間には連携があったのか、事前にどれだけ周知されていたのか、反対意見は無かったのかなど数多くの疑問が残る。

文化財のアーカイブ

高度に知的な作業

そもそも文化財のアーカイブは高度に知的な作業である。何故なら物理空間には容量の制限があり、まずどの作品をアーカイブするべきかを誰かが判断しなければならない。次にそれをどのような形でアーカイブするべきなのかを判断し、最良の方法で実行に移す必要がある。それらの判断を下すためには歴史的な文脈や将来の保存状況などを考えて、少なくとも数百年、数千年の単位で物事を考えられることが条件になる。生と死というのは人間にとっての一つの大きな時間的な区切りなわけであるが、文化財のアーカイブに関してはその区切りを超えた情報空間にアクセスしない限り、そもそもその仕事の重要性と意義を理解することすら困難な行為であるという意味で、高度に知的な作業であると言える。またマルセル・デュシャンの《花嫁は彼女の独身者たちによって裸にされて、さえも》(通称《大ガラス》) は《グリーン・ボックス》の中にその設計図が存在している。(3)28 芸術における「オリジナリティ」とは何かそれを元に自主制作された作品が駒場博物館に所蔵されている(4)美術博物館の沿革が、オリジナルの《大ガラス》は運搬の途中で割れており、デュシャンはその偶然性を喜んだという逸話がある。『デュシャン』という本を著し、彼の作品にも大きな影響を受けたであろう宇佐美圭司は、その割れていない《大ガラス》の近くの現場で自分の作品が廃棄処分になったという事実をどう受け止めるのだろうか。

熱いヴァンダリズムと冷たいヴァンダリズム

文化財がゴミ同然に破壊、汚染、処分されるという行為はヴァンダリズムとして知られている。近年において最も有名な例はターリバーンやイスラム国といったテロリストたちによるバーミヤン石仏、パルミラなどの世界遺産に対するヴァンダリズムだろう。一方で旧都庁にあった岡本太郎の一連の作品群が撤去、破壊されてしまった件や、今回の宇佐美圭司壁画処分問題に関しても性質の異なるヴァンダリズムとして捉えることが可能である。前者のような衝動的、破壊的、信仰的なヴァンダリズムを熱いヴァンダリズムとするならば、後者のような無関心、無邪気、業務的なヴァンダリズムは冷たいヴァンダリズムと呼ぶことができるだろう。岡本太郎の件については保存運動もあり、移転が難しい理由もはっきりしていたために今回の件とは多少状況が異なるが、今回のように何事も無かったかのように全てが終わっていたという事実に関しては昔よりさらに状況が悪化していると言わざるを得ない。またより抽象的に考えるならば、ザハ・ハディドの新国立競技場の件に関しても建築する前に行われた冷たいヴァンダリズムの一種として捉えることも可能かもしれない。また宇佐美圭司はその知名度において専門家と一般人の間に断絶を起こし易い境界線にいるようなアーティストだろう。専門家は知っていて当然だが、一般人は知らない人も多いといった境界線上の存在に対して、冷たいヴァンダリズムは機能し易い。恐らく今回の件は氷山の一角に過ぎず、世界中であらゆる濃度の熱いヴァンダリズムと冷たいヴァンダリズムが同時進行している。そして前者に関しては目立つために話題になるが、後者に関しては知性や教養の放棄によって静かに進行し、この世界を浸食し始めているのかもしれない。

作者の死と作品の死

アーティストは二度死ぬ。それは作者の死と作品の死によって。前者に関しては今の技術力では防ぐことができないが、後者に関しては2種類の死が考えられる。一つ目はアーカイブの忘却によって、二つ目はヴァンダリズムによって。その2種類の死の中でアーカイブの忘却に関してはまだ救いようがある。何故ならそれが起こる場合は作品自体の実力不足、もしくは専門家や鑑賞者の実力不足の場合もあるが、前者であれば忘却されても仕方ないし、後者であれば時間を経てその問題は解決する可能性があるからだ。一方でヴァンダリズムについては、より問題が深刻になる。その理由としては作品が物理的に破壊されてしまえば、その時点で残されていた資料からしか作品についての手がかりは消えてしまうし、そうなってくると復元することが困難、もしくは不可能になってくるからだ。将来的にはデジタルアーカイブの方法がより発達し、作品と全く同質のレプリカさえ作れるようになるかもしれない。しかし仮にそうだったとしてもそれはその時点で存在する作品に対してある条件下で可能になることであって、既に失われた作品に関しては修復も復元も再現もできないという意味で取り返しが付かないだろう。このような状況下において、アーティストは自分の作品のアーカイブについて真剣に考えなければならない。自分の作品を売らずに手元に置いておくアーティストについて以前は余り理解できなかったが、今回の件でその心情についても多少理解できた。しかし問題はたとえそのような対策をしたとしても、自分の死後に自分の作品を守れる保証はどこにもないということだ。またデュシャンの狙いは違う部分にあるだろうが、彼のように作品の設計図を残しておくというのはアーカイブを機能させるための有効な手段の一つかもしれない。公文書偽造、廃棄は民主主義の根幹を揺るがすが、冷たいヴァンダリズムは文化の根幹を揺るがす。「恒久設置とされておりました渋谷駅の連絡通路の壁画ですが、諸事情により処分させていただくことといたしました。」なんてことが今後起きないことを切に願う。

『テヅカ・イズ・デッド』: 「マンガ表現論」の扉

本書の概要

伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド: ひらかれたマンガ表現論へ』を読了した。本書の概要としては「マンガの神様」、「戦後まんが」の起源として手塚治虫を語り続けてきた従来の枠組みが「マンガ表現史」の不在の原因を作っていたと分析し、むしろその従来の枠組みからは取りこぼされてきた視点を拾い集め、マンガをシステム論的、包括的な枠組みによって言語化し、捉え直すことにより、「マンガ批評」、「マンガ評論」を復興させ、閉ざされた「マンガ表現論」の扉を開くという壮大な内容になっている。まえがき、あとがきなどを除けば全部で5章になっており、一部細かな語り落としや分かりづらい部分もあるものの、その大風呂敷を広げた大胆な取り組みと、全体の論旨を支える様々な構造的な視点の導入は非常にスリリングなものだった。

本書の要約

以下に本書の要約として第1章〜第5章までの内容を手短にまとめてみる。

第1章

従来の「メジャー/マイナー」、「少女マンガ/少年マンガ」といったマーケット区分が機能不全に陥り、現状の多様性に対応できずに出現した「つまらなくなった」言説、共通認識を前提とした「ぼくらのマンガ」といった批評も機能不全に陥っている。しかしそのようにマンガの方に責任を負わせるのではなく、マンガをジャンルとして捉え直す包括的なフレームワークを再設定することによってしかこの負のループを脱出する術は存在しない。

第2章

いがらしみきお『ぼのぼの』の実践は東浩紀『動物化するポストモダン』の理論を予見していた。つまりここでは大きな物語の終焉とデータベースモデルがポストモダン的に提示されている。それはより具体的に言えば「キャラ」が「テクスト」から遊離するという切断線が引けるということを意味する。つまりマンガの三つの構成要素としては従来的な「絵」、「コマ」、「言葉」ではなく、「キャラ」、「コマ構造」、「言葉」の三要素について考えることが重要になる。またシステム論的に言えば「作者」、「作品」、「ジャンル (環境)」、「読者」の四者のフィードバックシステムがマンガ表現の総体を形成していると言える。

第3章

「キャラ」と「キャラクター」は別々の概念である。簡単に言えば前者は「図像」、「固有名」、「人格」といった要素を持ち、物語とは独立して存在し得る。一方で後者はキャラを基盤として「身体」、「人生」、「生活」といった要素を持ち、物語とは独立して存在し得ない。

第4章

近代的リアリズムは、「キャラ」のリアリズムの隠蔽の元に、その代償として別のリアリズムに接続される。具体的に言えば「コマ構造」、「言葉」のリアリティは映画的リアリズムを起源とする「同一化技法」や映画とは決定的に異なる「フレームの不確定性」によって探求されてきた。

第5章

「キャラ」の隠蔽と、それを起源とした近代的リアリズムが「マンガ表現史」を書くことを困難にしていた原因であり、その結果として手塚治虫が「マンガの起源」として象徴化された。しかし本書のフレームワークの再設定と隠蔽の暴露によって史実に沿わない「手塚治虫という円環」を乗り越えることが可能であり、「マンガ表現史」の新しい扉が開放される。

本書の所感

起源の隠蔽

手塚治虫と聞くと、誰もが反射的に「マンガの神様」という言葉を脳内に浮かべるだろう。しかしそのレッテルが隠蔽してしまったものによって、「マンガ表現史」の歪みが作られてきたこともまた事実。本書はその事実を「ぼくら語り」になることを慎重に避けつつ、引用や客観的な記述を元に明らかにする。ただし「キャラ」、「コマ構造」、「言葉」という三つの構成要素の提案は本書のテーマに沿っているという点でも秀逸だが、「絵」を排除してしまったことにより、その他の線を使用した要素、例えば「背景」などの語り落としが生まれてしまう危険性は感じた。また「プロトキャラクター態」、「プロトキャラクター性」などの部分に関してはもう少し分かり易く明確に説明可能な気もする。それでも大きなフレームワークで「マンガ表現論」を再構築しようとする試みとしては成功しており、今挙げたような欠点はその功績と比較すればむしろ些細な問題なのかもしれない。

キュレーションの無限の入れ子構造

また本書は「マンガ表現論」の扉を開くという観点以外にも、全ての作品を体験することが不可能になった時代における批評の在り方としても読むことができる。現代ではあらゆる分野で毎日大量の作品が作られており、AIの創作補助といった観点も含めて考えれば、消費よりも生産のスピードが上回る時代が訪れ始めていると言える。そういった時代においてあるジャンルについて包括的に語ることは可能なのか。あらゆるメディアでキュレーションやまとめサイトが流行しているのも、人生時間に対する消費スピードが追いつかないからであり、将来的にはキュレーションのキュレーションのキュレーションのキュレーションといったようなキュレーションの無限の入れ子構造が生まれてくることが予想される。本書はまず起源や構造といったものに焦点を当て、モダンとポストモダンの枠組みに慎重に取り組みつつ、あえて「マンガ」にのみ対象を絞ることによって、その他のジャンルにも通用するような批評を目指した。たとえ「マンガ」に興味が無かったとしても、その姿勢から学べるものは多いのではないだろうか。

テヅカ・イズ・デッド: ひらかれたマンガ表現論へ
テヅカ・イズ・デッド: ひらかれたマンガ表現論へ
著者: 伊藤剛