「落合陽一、山紫水明∽事事無碍∽計算機自然」について

メディアアートと現代美術

メディアアートと現代美術が乖離して久しい。メディアアートの1ジャンルが現代美術、現代美術の1ジャンルがメディアアート、メディアアートによって現代美術は滅びる、現代美術とメディアアートは無関係など様々な意見はあれど、この両ジャンルが既に異なる生態系とロジックによって動いているという事実は誰もが認めるところだろう。そしてそれらの業界(1)この言葉は無駄な対立を作りやすいのでできれば使用したくないが、外部から客観的に見れば使用する妥当性がある。を含めて両者は互いに交わることなく黙殺し合い、対話することもなく、交わったとしても互いに互いを過小評価し合う中で無駄な揚げ足取り、文系理系という不毛な二項対立に基づいたポジショントークに終始しているように思える。メディアアートの側から見れば現代美術は時代遅れで滅びていくように見えるのだろうし、現代美術の側からみればメディアアートは浅く歴史を踏まえていないように見えるのだろう。

アート、サイエンス、デザイン、エンジニアリングのフレームワーク

ここでMITメディアラボ所長である伊藤穰一が提唱したアート、サイエンス、デザイン、エンジニアリングのフレームワークをおさらいしてみる。(2)MITメディアラボ・伊藤穰一所長が語る「デザインと科学」この四つのジャンルが「1人」の中にインストールされることで見えてくる風景というものがあり、その上で何処かに圧倒的な専門性がある個人が、集団として有機的に機能した時に達成できる何かがある。Anrealmsというコレクティブではその方向性を目指している。
メディアアートはアートとエンジニアリングを融合させた分野であり、リンク先の図で言えばあらゆる面で対極に位置する二つの分野を融合させていると言える。また落合陽一の場合はサイエンスの知見もメディアアートの中に取り入れているので、少なくとも三つの分野にある程度詳しくないと理解することは難しい。ただこの潮流自体は特段珍しいことではなく、例えばSputniko!がアンソニー・ダンが提唱したスペキュラティブデザインでアートとデザインの融合、バイオアートでアートとサイエンスの融合しながらテクノロジーと人間の関係性について思考しようとしていることもその一例として挙げられるだろう。一方で現代美術がマルセル・デュシャンを起源とするならば、哲学と相性の良い分野であると言うことはできるが、その歴史の累積もまた単純に切り捨てられるものではない。それどころかその歴史を知らない上で新規性を追求すれば無限ループに陥る危険性、もしくは経済性と大衆性を伴うが中身が空虚になってしまう危険性はある。

「落合陽一、山紫水明∽事事無碍∽計算機自然」について

コンセプトとステイトメント

前置きが長くなったが、「落合陽一、山紫水明∽事事無碍∽計算機自然」について。まずコンセプトとステイトメントは面白い。タイトルは山紫水明 (幽玄、侘寂) の世界観を時事無碍 (End to End) によって計算機自然として提示すると解釈した。それら三つの要素が相似の形態を持って通じているので、「∽」で結ばれている。また「工業社会のヴァナキュラー性」というステイトメントに出てくる文を、作品ではなく床の素材として表現しているのも展覧会としての拘りを感じさせる。コンセプトとステイトメントから考えると、落合陽一のメディアアートには哲学がないのではなく、彼なりの哲学があり、それが既存の現代美術で参照されるような哲学との相性が悪いために、齟齬が生じている。つまりテクノフォビアやテクノロジーの無理解といったものは表層上の問題であって本質ではなく、むしろ溝が生じるのは根本にある哲学の相違にあるように感じた。他にも全体的な展覧会構成と作品のコンセプトの一貫性があり、方向性としてはブレがない印象。逆に言えば一貫性が強く、統一感があるが故に、作品がコンセプトを逸脱して作家本人ですら辿り着けない領域に到達しているというような作品が無かったのは残念。

個別の作品

ここからは個別の作品について思ったことを書き連ねていく。

辻雄貴とのコラボ (藤の花)、「丸窓」、「にじり口」

今回の展覧会のコンセプトを徹底するならこれらはむしろ必要ないかと思った。日本的な古典美の象徴を意図的なモチーフとして使用せず、それが計算機と落合陽一の文化的/経験的な身体性によって無意識的に表現されてしまうから面白いのであって、これらをモチーフとして使用してしまうと全体のコンセプトが崩れる。さらに踏み込んで言えばこれらを入り口に配置するのは計算機自然というコンセプトに慣れない人のための、一種の言い訳として用意されているようにすら見えてしまう。辻雄貴とのコラボは日本的な古典美と計算機の単純な足し算に見えてしまうし (計算機自然の風景はこれではないはず)、「丸窓」から見える「Levitrope」は本来の「丸窓」の侘寂を超えていないし、「にじり口」に至っては大きすぎて「にじり口」の持つ境界/結界という機能の設計要件を満たしていない。また「Colloidal Display」と「波面としての古蛙」は壊れていたのか機能せず、評価以前の問題。落合陽一の展覧会では常に何かが壊れていて動かないという悲しい経験をしているのだが、メンテナンス要員を置くなどして対処できないものなのだろうか。特に「波面としての古蛙」で使用されている磁性流体は、個人的にも作品で使用したことがある思い入れのある素材であり、観ることができなくて残念だった。さすがに壊れて動かないことが侘寂という訳ではないはず。

「波の形,反射,海と空の点描」

通称サバ。サバの模様を遺伝子のプロセスをプリントした風景画として捉えるという発想は面白い。しかしこれを「波の形,反射,海と空の点描」と言われてしまうと、言葉に頼った力業に感じなくもない。今回の展覧会の作品全体を通して言えることだけれど、実際に観た作品よりもSNSやウェブサイトで紹介されている写真、動画の方が綺麗、もしくは魔法を感じさせるようになっていて、実物を見ると落差にガッカリするというものが多かった。それは恐らく知識の欠如などではなくて、一言で言うと「エモくない」ということだと思う。「エモい」という言葉を流行らせた落合陽一の作品が「エモくない」とはどういうことなのか。しかしその原因は何となく分かっていて、彼はコンテンツを意図的に抜いてメディア装置だけを展示することに拘っているからだろう。このメディアアートの定義は一般的なメディアアートの定義よりさらに狭い定義なのだが、それをやると魔法感と「エモさ」はむしろ失われるのかもしれない。またこの作品に関しては余りにそのままサバであり、それ以上でも以下でもないという印象で、同じコンセプトでもその模様の切り取り方によってはさらに興味深い作品になりそうなのだが、現状表現としては直接的過ぎて余韻がない印象を受けた。

「音の形, 伝達, 視覚的再構成」

音を光に変えるというのは共感覚者にとっては割と馴染みのあるテーマで、古くはモーツァルトから続く伝統的なテーマではある。そこでこの作品をモーツァルトの楽曲群と比較すると、超音波を使用している点で面白い部分はあるものの、超音波を光に変換したという事実とアウトプットされた模様がシンプルな故に作品としての深みに欠ける。モーツァルトは音を光に変換した上で、さらにその色彩を楽曲として建築のように構築したから凄いのであって、単純に超音波を光に変換しただけでは物足りない。あとイルカの超音波を使用しているのに、背景にイルカの画像を設置するのは直接的かつ説明的であって、そこに侘寂的な飛躍があった方がもっと面白くなるはず。

「計算機自然, 生と死, 動と静」

辻雄貴とのコラボ (モルフォ蝶の標本によるいけばな) の方は文句なく美しい。しかしコンセプト的にはデジタルの複製によるいけばながそれを超えていなければ成功とは言えない。そして実際に超えているとは思えなかった。まずデジタルの複製によるモルフォ超は偽物感が強く、実際のモルフォ蝶の美しさに遠く及ばず、生も死も感じさせない物としてそこにあった。しかしそこは問題ではなくて、実際に動いた時に美や生を感じられるかどうかだ。これは人によるのかもしれないが、少なくとも個人的には美も生も感じなかった。この作品は明らかに展覧会のメイン作品であり、計算機自然について語るときに両者のいけばなの差が感じられない、もしくはデジタルの方が動と美と生を感じさせるようでなければ展覧会のコンセプトやステイトメントとの整合性が取れない。むしろ計算機は頑張っても今の所ここまでが限界という逆の証明をしてしまっているようにも思え、この作品に関しては厳しく言えば展覧会全体の説得力を失いかねない出来になっていた。

「深淵の混, 内と外, 人称の変換工程」

この作品に関しては故障していたのか、体験の仕方を間違えたのか、中を覗いても特筆すべきものは何も見えなかった。なので残念ながら割愛。

「Levitrope」、「Silver Floats」

「Levitrope」は以前「Media Ambition Tokyo 2017」で観たことがあり、「Silver Floats」は初見。今回の展覧会の作品の中では「Silver Floats」が一番良かった。両作品には「浮遊」と「借景」という共通したキーワードがあるが、「波形」というコンセプトを取り込んだ「Silver Floats」は「Levitrope」からの正統進化形態に見えた。ただし「借景」については「浮遊」する物質の方が興味深いが故に、どうしても陰に隠れがちになる。後に言及する「Morpho Scenery」にも「借景」というコンセプトは見られるが、「借景」をするならばその借りてくる風景自体が興味深いか、作品との抽象的な繋がりがないと作品の深度が増さない。そういう意味で以前の「Media Ambition Tokyo 2017」での「Levitrope」の借景は余りにもベタだし、「Silver Floats」の背景にあるノイズ的な映像は余りにも普通でつまらない。これは金沢21世紀美術館で観たBCL「Ghost in the Cell」にも言えることだけれど、コンセプトやメインの物体としてのアウトプットは面白いのに、背景の映像がベタでインスタレーションとしての強度を落としているように感じた。

「魚鈴」、「虫鈴」

「魚鈴」と「虫鈴」に関しては落合陽一のフェティシズムが全開で、その享楽に応じて作品を創るということ自体は良いし、作家にとって重要なこと。ただこの種の作品はそのフェティシズム、享楽に共感できるかどうかが全てで、それができない人にとっては良さを感じることが難しい側面もある。プラズマ音によって魚と虫の存在を感じさせる試み自体は、SF的な侘寂が感じられて良い。注意点としては一方の作品は壊れてはいなかったと思うが、かなり聴こえにくかった。また装置自体の構造や配線を剝き出しににするというのは、落合陽一がInstagram掲載しているような写真の美学、哲学の延長線上にあるように感じた。

「Morpho Scenery」、「Morpho Scenery in GYRE」

「Morpho Scenery」に関しては先程も言及したように、「借景」をするならばその対象、もしくは対象と作品との抽象的な繋がりがほしい。もしくは何の変哲もない風景が、特殊なレンズによって波として興味深い風景に変わるという体験を提供したいならば、何かが足りない気がする。風景が枠組みによって規定され、反転し、色彩が変わる。その現象自体は興味深いのだが、この体験には何故か物足りない感覚が残ってしまう。キャンバスや風景画という既存の枠組みを認識のレベルでハッキングしたいという欲望は強く伝わってくるのだが、体験としてはあっさり塩味で、豚骨ラーメンのような濃厚な何かを期待するとその期待は裏切られることになる。また「Morpho Scenery in GYRE」に関しては「魚鈴」、「虫鈴」と同様に落合陽一のフェティシズムと享楽を明示した作品群になっている。「透明」というのもこの展覧会全体のキーワードであると思うが、こういった作品の「透明」な部分が一見汚れや傷が付いているように見えたのは少し戸惑った。

今回の記事の周縁情報と総括

「落合陽一、山紫水明∽事事無碍∽計算機自然」については、コンセプトとステイトメントは面白いが、作品としてアウトプットした際に齟齬がある、もしくは踏み込みが甘い面が多々見られた。また特にSNS上では展覧会や作品に対する批評的な言説はほぼ見られず、箕輪厚介の言うように落合陽一 (概念) は既にファッションとして消費されている(3)型破りな編集者・箕輪厚介が語る、閃き力の鍛え方と新しい働き方ように見えた。落合陽一の「批評家になるな」という言葉は生存戦略としては正しいが、彼の言説の多くはそう呼ばれてはいないものの実に批評的である。ならばポジションを取った後に批評をしろという順序の問題なのか、手を動かさない人の象徴、意識高い系批判の延長線上としての批評家という存在の否定なのか、批評をしたとしても批評とは呼ばないというブランディングの問題なのかでは大きな違いがある。そもそも落合陽一にとって重要なパートナーの一人である宇野常寛は批評家であり、その恩恵を受けながらこのような言説を行うことには矛盾を感じなくもない。

また落合陽一は過去に現代美術を「文脈のゲーム」、自身のメディアアートを「原理のゲーム」という言葉で切り分け、後者の優越性を論じている。しかし今回の展覧会の内外を含めて彼の作品説明にはナム・ジュン・パイク、アンディ・ウォーホル、マルセル・デュシャン、ジョン・ケージなど「文脈のゲーム」の代表格が登場している矛盾があり、しかも「原理のゲーム」で言われているような理屈抜きの感動、つまり「エモさ」が欠如しているのであれば展覧会や作品としては失敗していると言える。ちなみに「原理のゲーム」を支えているのは彼のサイエンスのバックグラウンドだと思われるが、サイエンスの論文、学会というシステムもまた「文脈のゲーム」の側面を持つことは否定できず、彼がサイエンスの文脈をアートの文脈に変換して作品化しているという構造は、村上隆が漫画やアニメといったサブカルチャーを西洋現代美術の文脈に翻訳した構造とも類似性がある。

個人的には乖離してしまったメディアアートと現代美術の回路を再び接続することにも興味があるのだが、その乖離は日を経るごとに広がっているように見えて悲しい。計算機自然が本当に侘寂の世界観を体現できるのであればそれは素晴らしいことだし、見てみたい風景である。また人類と計算機という二項対立に囚われないのであれば、最終的には一体誰に作品を見せるべきなのか (対象を人類に限定するのか) という問いも生まれてきそうだが、そう考えた時に「エモさ」とはまた違った評価軸が生まれてくる可能性もあるように感じた。最後に哲学を実装することという理念には共感するが、そこではまた実装の精度と深度も問われてくるはずだし、ジャンル違いの人種からも色々意見があって良いはずだし、「分からないけれど何だか凄い」以外の批評的な言説もあった方が面白い。「落合陽一、山紫水明∽事事無碍∽計算機自然」を観た帰りに、このような思考の断片を思い浮かべながら、TMTMTRさんとフィリピン料理を食べていた。

脚注

脚注
1 この言葉は無駄な対立を作りやすいのでできれば使用したくないが、外部から客観的に見れば使用する妥当性がある。
2 MITメディアラボ・伊藤穰一所長が語る「デザインと科学」この四つのジャンルが「1人」の中にインストールされることで見えてくる風景というものがあり、その上で何処かに圧倒的な専門性がある個人が、集団として有機的に機能した時に達成できる何かがある。Anrealmsというコレクティブではその方向性を目指している。
3 型破りな編集者・箕輪厚介が語る、閃き力の鍛え方と新しい働き方

「ニューロホップ – NEURO HOP」展: 「#鳩羽つぐをさがすオフ」について

西荻窪の引力

西荻窪は謎の引力を持つ。数年前「億光年のドライヴ」というグループ展に参加したのだが、その際の会場が西荻窪にあるURESICAだった。奇妙なことに、というより自分以外の人にとっては奇妙でも何でもないことなのだが、「ニューロホップ – NEURO HOP」展が開催されていた中央本線画廊はその西荻窪にあった。駅からの方角も同じであり、実際の距離も近い。さらに奇妙なことに、中央本線画廊はタバコ屋を改装してできた場所だという。以前「石版を丸呑みする回転木馬」という展覧会を開催したダイナミックサイクルもまた、タバコ屋を改装してできたものだ。そして西荻窪はVTuberの鳩羽つぐが住んでいる場所であるとされている。この奇妙な巡り合わせは何らかの力によって引き起こされたのかもしれないし、何の意味もないのかもしれない。ただ今ふと思い出したのだが、西荻窪にはそのような不思議な力を持っていそうなどんぐり舎というカフェがある。マスターも味があるので、行ったことのない人は是非訪れてみてほしい。

「#鳩羽つぐをさがすオフ」について

さて今回取り上げるのは、「ニューロホップ – NEURO HOP」展で観た「#鳩羽つぐをさがすオフ」という作品について。これは新芸術校出身の小林太陽とcottolinkによる映像インスタレーション作品で、一番興味を惹かれた作品でもある。鳩羽つぐについて簡単に説明すると、西荻窪に在住しているとされるVTuberであり、中性的な雰囲気を纏った少女。動画を観ても謎が多い存在であり、都市伝説や犯罪の匂いが漂う内容になっていることからインターネットを中心に様々な考察が生まれている。映像作品ではその鳩羽つぐをモチーフとしており、西荻窪周辺を歩き回りつつ、鳩羽つぐの痕跡や気配を探し求めていく。以前参加したフォーラム(1)「生きものの気配:芸術とロボットの領域」では、人間以外の存在の気配について語られていたが、今回はキャラ/VTuberの気配を探し求めるようなゲーム性の高い内容になっており、特に映像の終わり方は良いと思った。

現代美術の速報性と後追いの構造について

まず現代美術の速報性と後追いの構造について。鳩羽つぐ、VTuberというモチーフを現代美術で取り上げるのは、反応速度としては早いはず。ただVTuber界隈の多様化と流れが早過ぎて、それと比較してしまうと今この話題を取り上げるのが早いのか遅いのかも既に良く分からない。もちろん早い、遅いは評価基準としてはどちらが良いというものではないが、モチーフの変化が早い場合は反応速度は重要になってくる。またYouTuberやゲーム実況者などがコンテンツや商品を消費するタイプのクリエイターであるとするならば、鳩羽つぐは純粋にコンテンツを作り出しているように思える。しかしそこで鳩羽つぐを「さがす」のであれば、構造的には後追いの消費するタイプのクリエイターとどうしても被ってしまい、鳩羽つぐというコンテンツを消費しているようにも見えてしまう。そこの動詞の変更には可能性がありそうで、こういった作品によって逆に鳩羽つぐの今後の映像内容に影響を及ぼしてしまうような作品が提示できれば強い

ホモセクシュアルとホモソーシャルについて

またこれは勘違いかもしれないのだが、作品の説明を聞いていて、ホモセクシュアルとホモソーシャルという単語が出てきたのだけれど、その辺りの概念が多少混同されているように感じた。ホモセクシュアルは性的指向のことで、ホモソーシャルは社会的な関係性のことを指す。ホモソーシャルはむしろホモフォビアと結び付き易い概念で、これらの立場は対立することが多い。ホモソーシャル的に振る舞いながら実態はホモセクシュアルであるということも良く見られる現象なので、そこも含めて一筋縄ではいかない。ただ仮に作品として結び付けるならそこはもう少し掘り下げるか、テーマとの結び付きがないならばっさり切り捨てるかどちらかにした方が良さそう。男性2人の生活空間と切り離せない作品になっていたので、緩い繋がりはある気がするのだけれど、本格的には切り込んでいない感じがした。

中央本線画廊という場

「ニューロホップ – NEURO HOP」展では他にも興味深い作品が沢山あり、解説なども丁寧にしていただいたし、新芸術校生が数多く出展していたのも刺激になった。また以前批評再生塾の募集が再開したら申し込むと宣言しており、躁鬱状態の躁状態に入っていたこともあり、先日勢いで申し込んでしまったのだが、それを記念してTMTMTRさんにビールを奢ってもらった。中央本線画廊という場自体が面白いので、行ったことのない人は是非行ってみると良いと思う。西荻窪周辺も探索してみると面白い場所が沢山あるはずだし、URESICAも良い場所だ。自分としては空き家プロジェクトがストップしてしばらくが経過するけど、いつか自分のコレクティブのためのアトリエ兼ギャラリーを持ちたいと改めて思った。

東京国立博物館のツアーを通じての所感

東京国立博物館の常設展

新芸術校のツアー2で東京国立博物館の常設展に行ってきた。チケット売場は割と混雑しており、時間ぎりぎりだったので少し焦る。しかし途中で同じく新芸術校のTMTMTRさんと合流したので、少し落ち着く。ちなみに東京国立博物館の本館大階段は大変立派な見栄えになっているが、テレビドラマ『半沢直樹』でも使用されていたとのこと。今回はツアーの詳細な内容は書かないけれど、その内容をメディウムとして自らの思考をかすめた諸々の所感について簡単にまとめておく。

諸々の所感

・国宝、重要文化財などの認定について。元々「選別」という概念に興味があるので、近代国家的な枠組みで文化の価値が認定されるシステムの存在は興味深い。また国宝と重要文化財の間にヒエラルキーが存在しているのも面白いし、文部科学大臣が認定するという意味では、文部科学省の外局である文化庁が推進する先進美術館との関係性も射程に入ってくる。

・Museumは博物館、美術館を包摂する言葉。この日本語における言葉の分離が、美術館と博物館は同様の性質を持つという意識を忘却させる一因になっている。またアートと芸術、美術という言葉の意味、概念が包摂する範囲の乖離も凄まじいものがあるが、これらの問題に共通するのは翻訳と言葉の問題でもある。

・縄文土器はその古さが世界的に見ても異常。そして縄文土器と言えば岡本太郎が脳内にちらつき、連想ゲームのように白飯を炊いていたら嗅覚が犬以上になってヨガ離婚をしてしまう香取慎吾などが思い浮かんでしまった。「NAKAMA」という言葉には暴力性と狂気がある。

・曼荼羅について。以前制作した『石版を丸呑みする回転木馬』では「パリピ曼荼羅」という詩と絵があり、中々好評を博していた。ただこのような曼荼羅の概念の拡張は歴史的な潮流でもあったようで、信仰は現世利益と表裏一体であり、容易く消費へと変わる。その漂白され、記号と化した曼荼羅という概念は現代社会で言えば、密教的という意味も含めて「パリピ」が体現しているように思う。

・神仏習合という現象は概念レベルだけではなく、行動様式も含めて日本人に大きな影響を与えている。また本地垂迹説は基本的には同一だけれども、神より仏を少しだけ高い位置に置く。この考え方は微妙なヒエラルキーの差異を構築するという意味で、カースト制度や三位一体などの切り分け方とも違って面白い。

・貴族 → 宗教者 → 武士というクライアントの変化による最適化。それは面積やモチーフにも端的に表れる。また日本の屏風と西洋の壁画の対比は重要。前者は機能性や仕切りを重視し、後者は建築の内部にあるという静からタブローという動へと変化していく。そもそも日本は工芸が中心なので、西洋のような大画面は苦手とのこと。

・変わり兜は実は装飾性、ギャグ性というよりは、必死かつ真剣に使われていたという話。おまけのような形で展示されていたが、今回見た展示物で一番興味を惹かれた。現代版変わり兜やメタラーのための変わり兜など作ったら面白そう。

・大画面 + 形式重視の雪舟からの流れを受け継ぐ狩野派、琳派などのコレクティブについて。大規模な工房運営による過酷な労働、クライアントの民衆化、文人画からのツッコミなどを含めてメディアアートと現代美術の関係性を考える上で参考になりそう。

・浮世絵が肉筆画から版画へと変化していく過程と必然性について。浮世絵を日本人が評価できず、海外に先に評価を固められてしまったという問題は現代まで引き続いており、その原因は批評が弱いということ。サブカル的な漫画、アニメをアート化した村上隆とそこにネット時代のアーキテクチャのレイヤーを足したカオス*ラウンジはその流れへの逆襲だと捉えることができる。ただし前者はあくまで海外での資本主義的な現代美術への翻訳、後者は日本を土台としたコレクティブ活動を通しての前衛の再設定という差異がある。また個人的には毛色は違うが、似たような性質を持つV系という鉱脈には焦点を当てた方が良いと思っており、モチーフとして使用している。

・工芸の極地である蒔絵とリアリズムを獲得した鎌倉時代の仏像の強さが際立つ。正面の角度から見ることを想定していた仏像の話があったが、全天球イラスト、360度カメラ、VRの普及した現在、どの角度から見ても素晴らしいものを作るという意識は全体的に強まっている感覚がある。

千利休の政治性について。寸胴の宗易形が従来のものと比較して良いというのは根拠がないという話。古美術や現代美術は関わる人の数が少ないので、どうしたって政治性が出てくる。その点メディアアートは広告と相性が良く、マスに訴えかけるという意味でブランディングが重要。

・上村松園の《焔》について。美人をモチーフに絵を描く作家の幽霊画。椎名林檎がメンヘラのコスプレ (コスプレなので思想はなく、着脱可能)、Coccoがメンヘラガチ勢 (ガチ勢故に表現活動を継続すると浄化される)、鬼束ちひろが狂人の憑依を現実化した神の子 (演じているうちに自我が変貌してしまう) だとすれば、松井冬子の絵画がメンヘラのコスプレかな?と思わせるくらいには上村松園の《焔》には抑圧した狂気が感じられた。

・高村光雲の《老猿》について。以前皇居外苑にある楠木正成像を見てきたので、ある意味タイムリーな作品。日本での彫刻は絵画と比較して地位が低いという話があった。また岡倉天心による学校をアトリエ、仕事場として使っても良いという教育思想は未だに美大教育の弊害として残っているという話は、新芸術校やパープルームなどの運動体がその潮流への創造的反論でもあることと接続している。

・明治時代の政策が未だにオリンピックや地域アートといった行政の関わるイベントに地続きの問題として表出してくるという話。海外に関わるビジネスマンの教養としてのアートみたいな潮流が現在流行りつつあるが、これに関しても同型の問題を抱えており、結局日本は近代教育の枠組みの中で失敗し続けているという証明。間口は広い方が良いので入り口としてはそれでも良いのだけれど、官僚もビジネスマンも既得権益や人脈獲得といった現世利益を追求するためのツールとしてしかアートを見ることができないというのは、端的に言って教養の欠如だと思う。

今回の記事のまとめ

東京国立博物館に来たのは初だと勘違いしていたが、過去に「国宝 阿修羅展」に行ったことを思い出した。あの時はまだ自分が現代美術やアートと呼ばれるものにここまで関わるとは思っておらず、小学生の頃に読んだタカシトシコ『魔法使いが落ちてきた夏』に登場する阿修羅のモチーフとしてイメージを膨らませながら見ていた記憶がある。しかしそれは捏造された記憶かもしれない。正直まだこの分野に関わって日が浅いので勉強することが沢山あるのだが、単純に説明されたことをメモするだけではなく、自分なりに色々結び付けて考えることを実践してみた。同日に「ニューロホップ – NEURO HOP」展と「落合陽一、山紫水明∽事事無碍∽計算機自然」にも行ってきたのだけれど、それらについては長くなりそうなのでまた後日。

時事ネタ3連発: 先進美術館の後進性について/日大アメフト問題のストレス回避/栗城史多と記号消費社会

人生の消耗

久しぶりの時事ネタ3連発は、先進美術館の後進性について、日大アメフト問題のストレス回避、栗城史多と記号消費社会という三つのテーマで書いてみる。最近思うのは次から次へと暴風雨のように襲ってくるニュースの山にいちいち付き合っていたら、それらを凌いでいるだけで人生が終わってしまうということ。なのでできるだけ客観的な情報を集め、自分なりの見解を手短にまとめた後は、もうそのニュースについては追わないというような切断ができるかどうかは割と重要なスキルである。自分の人生とは本来無関係な事柄について接続過多になってしまうと疲れるだけでなく、他人の人生を生きることと変わらなくなってしまう。その結果自分の本当にやりたいこと、やるべき仕事に集中する時間が減少してしまっては本末転倒ということになる。そんなことを念頭に置きながら、それぞれの話題について簡潔に思うところをまとめてみた。

先進美術館の後進性について

先進美術館 (リーティング・ミュージアム) はこの国の美術に対する考え方の後進性を象徴した提案である。日本のアートマーケットは脆弱であるということは過去にも散々言われてきたことだし、現在も変わらない事実だ。ただしこの問題はお金の問題ではなく、教育の問題であるということがこの案の提案者には理解されていないように思う。もしくはそんなことは百も承知であるが、刹那的な利権さえ握れれば文化など滅びても構わないというような資本主義の帰結を体現しようとしているのかもしれず、どちらにせよそれは関わる全ての人にとって不幸なことだ。先進美術館の構想を一言で言うならば、美術館という価値保存、研究、展示のための場をコマーシャル・ギャラリーに変貌させ、マッチポンプ商法のように一部の既得権益者が儲けようという構想のこと。この構想が実現するということは、要するに文化が経済に決定的に敗北するということでもある。その結果海外に流出した作品はもう戻らないだろうし、先進美術館のキュレーターは独裁者のような権力を持つことになる。この構想を考えた人間はアート・バーゼル香港などを見学する前に一度『ガチョウと黄金の卵』を読んだ方が良いだろうが、そのような教養が共有される前にアーティスト = ガチョウが刈り尽くされてしまう可能性もある。まずアートは何のためにあるのか、美術館は何のためにあるのか、それに関わる人々の役割は何なのかという根本に立ち戻る以外に解決策はないが、そのために残された時間は少ない。

日大アメフト問題のストレス回避

日大アメフト問題に関しては日本全体の病を象徴していると思うが、流石に報道が過熱し過ぎている。日本人全体がアメリカンフットボールのことについて関わる必要はないし、日大の理事会、監督、コーチなどに怒りを感じ続ける必要もない。震災などが起きた際にその映像を見続けるだけもPTSDになってしまう可能性があることは一部で知られているが、今回の報道ではそこまでは至らないまでも似たような現象が多かれ少なかれ起きているはず。人間の潜在意識は物理と情報の境界線を意識しないので、そこに対して感情を刺激し、ストレスの溜まるような情報を流し続けるとメンタルに悪影響を及ぼすことは明らかだ。これは食生活と非常に良く似ていて、例えば普段から栄養の少ないジャンクフードを食べ続けていると生活習慣病になりやすいのと同じく、普段からノイズの多い情報を摂取し続けていると知らない間に潜在的なストレスが溜まり、それは最終的には物理的な身体にも悪影響を及ぼす。日大アメフト問題は当然アメフトだけではなく、日大、もしくは日本全体の旧態依然としたシステムの破綻の問題であるし、そこには何層にも張り巡らされた病巣が存在していることは確かである。しかし実際に自分が関わりを持てる範囲にその解決の糸口がないのであれば、この件を反面教師とし、自分なりの人生を生きることに時間を割いた方が、結果として感情と時間を消耗して日大アメフト問題に関するテレビやネットのニュースを漁り続けるより、遙かに健全で有意義な人生を送れるように思う。

栗城史多と記号消費社会

登山家である栗城史多は現代の記号消費社会における成功を象徴したような人物だった。彼の志と実際の実力、彼のイメージと彼の実態が全く違ったものであることは様々な専門家に指摘されていることであるが、そんな事実は彼の記号的なブランドイメージの前に何の意味も成さない。人々はブランドやイメージを消費するのであって、その実態がただの石油の塊であろうが、アマチュアであろうが特に関係はなく、それが現代社会における本質である。一言で言えばその金になる状況をスポンサーが見逃すはずもなく、その限りなく乖離していく理想と実態の標高差が彼を死に追いやった。そもそも挑戦することと無謀であることとには大きな差がある。前者は積み上げがあり、後戻りもできるかもしれないが、後者は積み上げがなく、再チャレンジできる確証はない。確かに根拠のない自信は何かを成し遂げるために必要で、自信というのは根拠がないから意味があるとすら言える。それは原動力であり、推進力であり、自分を違うステージに連れて行ってくれるものだ。しかしその自信を力として現実の自分の位置を引き上げなければ意味がなく、そこで自分の位置を引き上げられないと知った人間は嘘という逃げ道に走るようになり、次第に自分を客観視する指標を失う。彼については詳しく知っているわけではないので印象論に過ぎないかもしれないが、現代の記号消費社会における一つの悲劇的な寓話として彼は語り継がれるべきかもしれない。

映画館で『レディ・プレイヤー1』を観てきた

核となるメッセージ

久しぶりに映画館に行き、話題の『レディ・プレイヤー1』を観てきた。結論から言うと見て損はない映画なので未見の方は是非。ここから先は多少のネタバレを含むので、気になる方は先に観てから読んだ方が良いかもしれない。ただし推奨はするものの、内容については絶賛するという訳ではなく、一番核となるメッセージであろう部分には正直賛同できなかった。そのメッセージとは簡単に言えば「VRは現実世界とは違う。VRはあくまで仮想世界であって、現実世界の方にしか現実はない」という古いパラダイムを引きずった「最近の若者はダメだ」論の構造から一歩も外に出ないものだった。スティーヴン・スピルバーグ監督の年齢を考えるとこのテーマに対する限界があることも分かるし、実際に『レディ・プレイヤー1』でVRと言われているものがVRの技術の延長線上にあるものかどうかも微妙な部分が多い。しかしそういった欠点に目を瞑ればエンタメとしては普通に楽しめるし、日本の漫画、アニメを含めたオマージュのパラダイスは爽快感があることも確か。3DでVRをテーマにした映画を映画館で観るというのも中々変な気分だったが、数人しかいない映画館でボーッとしながら巨大スクリーンを眺めるというのは気分転換には丁度良い。

映画館 = マゾ的な体験装置

先程のメッセージの部分について拡張して話すと、「VRを現実世界だと思えばそこが現実である」というのが昨今の「ダメな若者」の共通認識であるはずだし、それは幾ら年長者に説教されても科学的に見れば正しい。そもそもVirtualを仮想と翻訳したのが間違いという話は少し調べれば幾らでも出てくるし、人間が脳と心というフィルターを通してしかこの宇宙を認識できないのであれば、自分がリアルだと感じた世界が現実であるという認識は自然と受け入れられるはず。その情報空間に対するリアリティ拡張装置としてXR技術全般は成長してきているわけだし、VRをテーマにするならば、その前提の元にVRを描かなければ根本的におかしな話になってしまう。その前提の元で「VRをテーマにした作品をわざわざ映画というメディアを通して表現する意味は何なのか」というところにまで踏み込まなければ、この作品を映画にする意味そのものが薄く、曖昧なものになる。そもそも映画館とは数時間も暗い暗室に人を閉じ込め、基本的には巨大な平面を見続けることに対してお金を払って体験するという、未来から見たらかなりマゾ的な体験装置であることは間違いない。映画館では家で映画を観るのと違って巻き戻すことも早送りすることもできないし、何度も観るためにはもう一度お金を支払う必要がある。またXRの世界では映像はホログラム的な表現が主流になると考えれば、映画はかなり時代遅れな表現方法と考えることもできるが、そこに対する明確な回答は用意されているように思えなかった。

エンタメ的な観点

ただしエンタメ的な観点から言えば物語は王道そのもので、単純に安心して楽しめるような作りになっている。身近な人物の死、ヒロインとの恋愛、三つの鍵探しの冒険、権力との闘争といったハリウッド映画の王道的な展開と、俺TUEEEE、仲間との友情などのオタクが世界を救う的な展開、少年漫画的な展開が綺麗に織り交ぜられて特に何も考えることなく楽しむことができる。レース、ドローン、戦闘のシーンなどの演出に関しても迫力ある映像になっているし、次にどのオマージュがでてくるのか、次にどのキャラが出てくるのかという楽しみ方はある程度メタ的な楽しみ方として用意されてもいる。物語の起承転結もお手本のような展開と着地を見せ、少なくともこの映画を観て退屈で仕方がないということにはならないだろう。全てが綺麗事と言えばそうなるけれど、全てが綺麗事だから物語は楽しいとも言える。また将来ここは確かにこうなる、ここは絶対にこうはならない、監督は絶対VR理解してないなどと考えながら観る楽しみ方も用意されており、エンタメとして見れば非常にレベルが高い。

映画館の未来

他には特に言うことはないのだけれど、今回映画館に行ってみて驚いたのは映画館の余りの廃れぶり。平日の夜とはいえ観客は数人しかいなかったし、映画館自体もあらゆる機能が縮小し、自動化され、ハレの空間であるという幻想は微塵も感じられなかった。これは結構深刻な事態で、音楽に関してはCDの衰退と共にライブやグッズの隆盛があり、ストリーミングなども合わせて何とか業界が成り立っている。しかし映画に関してはDVDやBlu-rayは売れないし、映画館の上映は音楽のライブのような生演奏の付加価値というものがないので、こちらに関してもこのままだと衰退していくしかない。そもそもYouTubeなどの影響かは分からないけれど、数時間に及ぶ映像を見続けること自体のハードルは日に日に上がっており、自分的にも映画を見るのが辛いと感じることが多い。そこにOculus Goなどの大衆向けのハイクオリティVRヘッドセットなどが安く買えるとなると、映画館には全く勝ち目がなくなる。例えばイメージフォーラムなどで上映されているマニアックで、そこでしか観ることのできない映像というのなら見に行く必然性はあるけれど、それ以外に映画館に行く必然性がない。またチケットの販売も自動化されていたけれど、少し高齢の方は購入の仕方が分からないらしく、逆に店員とのやりとりが必要になることで総合的な手間とストレスが増えていた。他にも映画上映前に個人を含めてホームパーティ的に映画館の貸し切りを提案するCMが流れていたけれど、ホームシアター的な環境を構築することが誰にでも可能な時代にその付加価値の提案は弱い。よって再現性のない生の体験を映画館が提供する以外には生き残る道はない。今回の映画鑑賞ではVRの未来を観に行ったはずなのだが、最終的には映画館の未来について深く考えてしまった。

100年後の罪人

解釈のための枠組み

本日は新芸術校で「展示を企画する1」というレクチャー形式の授業があった。まずWikiと自伝と社交という貧しさを抱えた昨今のアート本批判を話のまくらとして、批評の前提となる作品の解釈の仕方について説明された。アート作品は作品によって解釈のための枠組み自体を変えなければならないことが多く、その枠組みが自分の中にインストールされていないと意味不明になる。また現段階ではまだ研究が十分になされていないために位置付けや評価が難しい作品もあるし、ある作品については解釈できても他の作品については別の枠組みが理解できないと分からないという事態にも陥る。例えば前半に解説されたPeter Halleyの作品についてはフォーマリズムとイコノロジーの両面を併せ持つ作品と言われればスッキリするが、そのフォーマリズム = 形式とイコノロジー = 象徴についてそれぞれ具体的な作品を通して理解していないと理解が難しい。故にまずはその型と歴史的な流れについて徹底的に押さえておく必要がある。

悪い場所とコレクティブ

前半で特に問題となったのが椹木野衣が提唱した悪い場所について。簡単にまとめると西洋美術と日本美術では似たような作品も多いが、その評価が圧倒的に異なるのは日本が敗戦国であり、前衛が存在するための基盤が存在しないからだという話。これは昨今のコレクティブブームとも完全に接続する話で、前衛が存在しない悪い場所である日本にどうやって前衛やマーケットを作るかという問題設定に対して、それぞれのコレクティブがそれぞれの方法論で社会実験、社会実装し始めているというのが現状。村上隆は悪い場所ではない海外に地盤を築き、その実績と方法論を逆輸入したGEISAIを開催することで悪い場所問題を解決しようとしたが、結局その志は挫折した。一方で若いアーティストたちは地方の空き家などを活用しつつ小さな場を作ることを選んだが、結局地方芸術祭などの公的な助成金を当てにした活動はアートではなく街興しにしかならず、表現は制限され、マーケットの問題は解決しなかった。そこでどうするのかという問題が問われるわけだが、天皇のようなハイアート、ローアートを区分する存在が鍵なのか、コレクティブ活動の延長線上に解決策があるのかは現段階ではまだ分からない。

サブカルと国威発揚

続いてサブカルの歴史の話に話題が移行する。現代美術が何の役割も果たせなかった一方で、サブカルがその抑圧の表象として文化の重要な役割を担ってきたという解釈は美大ではなく新芸術校ならではのもの。ただしその解釈の正しさはゴジラやうる星やつらなどの作品とディズニー作品、洋画などを見比べることではっきりする。個人的にはV系もサブカルの観点から捉えることが可能であり、そこにはオタクとメンヘラの相容れない性質がありながらも、多くの共通項もあると思っている。例えばサブカルの象徴である漫画やアニメが世界言語になったように、V系も日本の音楽で唯一世界言語になり得る可能性を持った日本発の音楽である。現在のV系は自己否定から自己肯定、化粧の自己目的化、内輪化によってジャンルとしての魅力はほとんど死滅したわけであるが、実はXRの時代にこそV系が再設定されなければならず、そこには可能性があると信じている。話は脱線したが、日本ではサブカルやエンタメが無意識な前衛として機能し、人々はそれがアートであると気付くことなく消費し、アートは後衛として美大予備校や美大によって無職を排出し、その学校の講師を再生産する介護施設として存在し続けているという倒錯した状況が現在も続いている。それにしても『桃太郎 海の神兵』が行っていた国威発揚のプロパガンダは衝撃的だったが、観ている途中でamazarashiの「多数決」が頭の中から流れてきて「罪悪も合法も多数決で決まるならもしかしたら百年後はもう全員罪人かもな」と歌っていた。100年後から見ればこの国策映画と似たようなことが現在進行形で行われているのだろうと考えたら妙に気持ち悪い気分になったが、その審判の場に対して時間の堆積の渦中にいるアーティストには何ができるのかと考え込んでしまった。

ブログ改造日記 13: IFTTTとInstagram Feedの設定

IFTTTとInstagram Feedの設定

今回の記事ではIFTTTとInstagram Feedの設定について書いてみる。それぞれを一言で説明するとIFTTTは異なるWebサービス同士を連携するために使用するサービスで、Instagram FeedはInstagramに投稿した写真や動画をWordPressで表示するためのプラグイン。IFTTTは以前からInstagramに投稿した際に、Twitterに画像付きで自動投稿するために使用していた。その設定の仕方については以前記事で紹介したので、その時に参照したリンク先を紹介しておく。(1)Instagramの写真をtwitterに反映! IFTTTをまだ知らないの?最近Cross Media ArtsをX Media Artsに改名し、TwitterやInstagramなどのアカウント名もそれに合わせたので、今回はIFTTT上でのそれぞれのアカウント名の変更の仕方を紹介する。またInstagram Feedについては、以前からサイドバーにInstagramのFeedを掲載したいと思っていたので、そのやり方について紹介する。

IFTTTでTwitterとInstagramのアカウント名を変更する方法

それでは早速、IFTTTでTwitterとInstagramのアカウント名を変更する方法について説明していく。IFTTTにアクセスし、サインインする。

IFTTT: Twitter

Twitter > Settings > Edit Connectionで変更可能。

IFTTT: Instagram

Instagram > Settings > Edit Connectionで変更可能。

それぞれ無事に変更できた場合はConnected asの部分が新しいアカウント名に変わっているはずで、View Activity Logを見ると変更の履歴が載るはず。

InstagramのFeedをサイドバーに掲載する方法

続いてInstagramのFeedをサイドバーに掲載する方法について。まずInstagram Feedをダウンロードし、Plugins > Add New > Upload Plugin > Choose Fileで先程のzipをそのままアップロードする。次にActivateを押してプラグインを有効化する。それができたらInstagram Feed > ConfigureでLog in and get my Access Token and User IDをクリックする。そしてそこで取得したUser IDの数値を入力し、Save Changesをクリックする。その後はWidgetsでTextをBlog Sidebarに追加し、以下のように記述する。

Title: Instagram
Text: Instagram Feed > Display Your Feedに書いてあったショートコード。(instagram-feedを[]で囲ったもの)

これで設定は完了。

SNS更新について

ブログ改造日記を続ける中でTwitter Cardの設定ができるようになり、InstagramについてもTwitterとWordPressの連携が可能になった。これまでSNSを活用してこなかったのは、これらの設定を後回しにしてきたからという理由が大きい。しかし今回これらの問題が解決して色々準備が整ったので、これからはTwitterとInstagramを基本的に毎日更新する予定で、NILOGなどの更新情報もTwitterで流す予定。対象によっては日本語と英語を両方使用して実験していきたいが、これらのSNSはパブリックな意識が強いので、Mastodonの方は引き続きどうでも良いプライベートな情報のみをTootしていくつもり。よろしければFollow、Share、Likeなどお願いいたします。

追記

Instagramに投稿してからTwitterに反映されるまでに時差があることがあるので、その解消方法について追記しておく。

まず以下のページにアクセスし、My Appletsから使用しているInstagramのアプレットをクリック。

IFTTT: Instagram

Check nowをクリックする。

以上で即座に反映されるはず。このプロセスを踏む場合は自動投稿のメリットは消えるが、写真とリンク付きで投稿できるという機能は魅力的なので、もし投稿しても中々反映されないと困っている場合は試してみてはいかがだろうか。

ブログ改造日記: 連載記事リンク

ブログ改造日記 1: デザインの変更と機能の追加

ブログ改造日記 2: ブログに関する問題点

ブログ改造日記 3: 自滅としてのグーグル八分

ブログ改造日記 4: 「Table of Contents Plus」の限界と自作目次の導入

ブログ改造日記 5: 「All in One SEO」から「Yoast SEO」へ

ブログ改造日記 6: Googleのインデックスに関する問題点

ブログ改造日記 7: 「Broken Link Checker」の導入と自作目次の改善

ブログ改造日記 8: 両端揃えの導入

ブログ改造日記 9: Headerの高さを調整してみた

ブログ改造日記 10: Twitter Cardの設定

ブログ改造日記 11: footnotesというプラグインで脚注を導入してみた

ブログ改造日記 12: カテゴリ整理

ブログ改造日記 13: IFTTTとInstagram Feedの設定

「VOX PLUS BE 3DVR ゴーグル」の使用感とYouTubeお薦めVR動画5選

VRによる身体性と臨場感の拡張

VRは身体性の拡張装置であると共に臨場感の拡張装置でもある。物理空間から情報空間に広がる空間を全て瞑想空間、つまり人間の認知空間の範囲内だとするならば、その空間において身体性と臨場感を拡張し、運動することは元来達人や一部の天才にしかできなかった。しかしコンピュータが発明され、iPhoneやiPadなどのデバイスが発明され、VRゴーグルやMRゴーグルなどが発達し、XR (Cross Reality) が当たり前になる世界でにおいては誰もがその瞑想空間をリアルに体験することができる。例えば瞑想の達人はその情報空間におけるイメージで火傷を負う、ショック死するほどの臨場感を生成することが可能だが、デバイスによる身体性と臨場感の拡張により今では一般人がそれに近いレベルの体験をすることが可能になった。また例えば閉鎖された空間は懲罰の象徴であったが、独房に閉じ込められたとしても、瞑想の達人であればハワイのビーチでのんびり日光浴をすることが可能であっただろう。しかし今では囚人にVRゴーグルを渡せばそれと同じような体験をすることが簡単に可能になる。他にも自分の経験で言えば過去に「VR ZONE Project i Can」で「脱出病棟Ω」というホラー系VRコンテンツを体験したのだが、敵に捕まって処刑されそうになったことで真面目に死にかけ、一緒にプレイしていた友人に必死に助けを求めた。ホラー系はそこまで苦手な方ではないのだが、その時の経験からホラー系VRにはかなりの苦手意識がある。しかし逆に考えてみればVRゴーグルは従来のホラー体験で満足できない人の満足度を満たす可能性があるとも言える。このようにVRによる身体性と臨場感の拡張は万人の瞑想空間における体験を豊かにする効果がある。

「VOX PLUS BE 3DVR ゴーグル」の使用感

それでは本題の「VOX PLUS BE 3DVR ゴーグル」の使用感について、以下に箇条書きでまとめてみる。

・瞳孔間距離と焦点距離を調整できるため、近視、遠視に対応している。実際に近視であってもコンタクトや眼鏡を装着することなく楽しめた。ちなみに眼鏡と乱視には対応していないので注意が必要。

・VRは音の有無によって没入感が大きく変わるので、ヘッドフォンは必須。これに関してはゴーグルとヘッドフォンが一体化していてコードレスな快適さがあり、スマホとの接続と装着の仕方も簡単だった。またゴーグルを装着した後に音量調節をすることも可能。

・スマホを充電しながら使用できるのは便利。

・慣れの問題もあるが、動画の内容と長さによっては「VR酔い」をする。ただしこれはVRゴーグル一般の特徴なので、特にこのVRゴーグルに問題があるわけではない。

・ゴーグルを装着しながら画面をタップする操作のみ可能だが、それ以外の操作ができない。なのでゴーグルの蓋を毎回開けて、スマホ操作をしなければならないのが不便。ただしこれは別売のリモコンがあれば解決する問題。

「VOX PLUS BE 3DVR ゴーグル」については上記のように概ね良い印象を持ったし、デメリットの部分は仕方ない部分か解決可能な部分である。なのでコストパフォーマンスも含め、総合的に見て相当お買い得のVRゴーグルであると感じた。「Google Cardboard」よりは良いものが欲しいが、「Oculus Go」などを手に入れる前にワンクッション欲しい人、もしくはVRゴーグル初心者に特にお勧めの商品になっている。

YouTubeお薦めVR動画5選

それではここからはYouTubeお薦めVR動画5選ということで、個人的に体験した中で特に良かったYouTubeのVR動画を5個紹介して終わりたい。

リラクゼーション系

最初に紹介するのはリラクゼーション系の動画である、「360 VR VIDEO」。これはGLASS CANVASのためのPVであり、360度VR動画になっているため毎回違った風景を楽しめる。また実写ではなくCGをフル活用したウォータースライダーになっており、海、森、空を含んだ自然や海外の風景を含んだ新感覚の体験ができる。リラクゼーション系では他にも実写のスキューバダイビング系やビーチ系がお薦めだが、今回は様々な要素が盛り込んであり、繰り返し体験しても飽きないこの動画を選択した。

スカイダイビング系

次に紹介するのはスカイダイビング系の動画である、「SkyDive in 360° Virtual Reality via GoPro」。スカイダイビングを体験したことのない人は沢山いるだろうし、体験するのは怖いがどんなものなのか知りたいという人も多いかと思う。この動画はそのようなスカイダイビング未経験の人に特にお薦めの動画で、スカイダイビングの一連の流れがリアルに体験できる。スカイダイビング系の動画は他にも幾つか見たが、クオリティの面でこれがベストだった。

ホラー系

次に紹介するのはホラー系の動画である、「【360度動画】ホラーな世界を疑似体験 「後ろの正面だあれ…?」夜の小学校に潜む影」。360度VR動画とホラーは異様に相性が良いが、その理由はタイミングの予測不可能性にある。360度VR動画では周囲を見渡すことが可能であり、それ故に通常の動画と違って気を抜いたタイミングで突然恐怖の対象を発見してしまうことがある。恐怖と驚きは似て非なる感情ではあるが、互いに影響を与え合う感情でもあり、驚きのタイミングが分からないことにより、恐怖感もまた増していく。これは通常のホラー系の映像にはない特徴だ。またお化け屋敷よりも怖いと感じる部分があり、それはお化け屋敷には前提として恐怖の対象が自分に危害を加えることはないし、最悪いつでも逃げられるという安心感があるが、VR動画では本当に自分を襲ってきているような没入感があり、また耳元で音が鳴り続けることによって恐怖が持続し、逃げられない錯覚に陥る。今回紹介した動画はホラーではお約束の物語、展開を描いているものになるが、視点を動かさなくても怖いし、視点を動かす度に見てはいけないものを発見してしまう。360度動画なので見返す度に新しい発見があるはずだが、二度と観たくない。

映画系

次に紹介するのは映画系の動画である、「360 Google Spotlight Stories: HELP」。5分以内に終わる動画だが、一応物語に起承転結はあり、コンパクトにまとまっている。映画とVRの相性についてはもっと色々体験しなければ分からないことが多いが、VRの台頭によって映画館は別の付加価値を生み出さなければこの先生き残っていけないのは確か。現在音楽におけるライブの価値はCDの価値と反比例して上がっているが、映画における上映の価値はDVDやBlu-rayの価値と比例して下がっていく。またYouTubeなどの動画プラットフォームではある程度短い動画が歓迎される傾向にあり、そうなると長編映画は今後ますます厳しくなっていくかもしれない。ただむしろ自主制作の短編実験映像作品などは手軽に作れ、手軽に見られる状況になるかもしれず、VRなどを利用した実験的な作品に関しては新しい回路が開ける可能性もある。この作品はハリウッド的起承転結を短時間でまとめた作りになっており、一見の価値はある。

アート系

最後に紹介するのはアート系の動画である、「Dreams of Dali: 360º Video」。本動画はサルバドール・ダリによる《Archeological Reminiscence of Millet’s Angelus》を題材に、VR動画としてその世界を探索する内容になっている。このような試みをするためにはその絵画世界における想像力を拡張し、補助線を引きつつ再現する能力が必要となるが、本動画は元の題材を殺すことなく見事に昇華した作品となっている。また近年の潮流で言えばバイオアートやVRアートによってシュルレアリスムの復権の兆候がある。そういう意味ではアーティストは大竹伸朗などの感性丸出しの感覚をむしろ拡張するのも一つの方向性としてあるのではないかと思い始めており、その観点からも興味深い。ちなみに途中で出てくるアルベルト・ジャコメッティ的な細い足長の象が歩く様子は、Gotyeの「Eyes Wide Open」の世界観も連想させた。

また本動画では従来の絵画作品に奥行きを与える作品となっているが、この方向性を徹底したとすれば森村泰昌のセルフ・ポートレートのように作品の登場人物に「なる」という方向を別の方向に拡張できそうな感じもする。ついでにこの方向性と最も相性の良さそうな、ズジスワフ・ベクシンスキーの絵画で同じような試みをしている「beksinski360」というVR動画を発見したので、そのリンクも張っておく。

いずれにせよ、本動画はアートに興味のある方は一見して損はしない動画になっている。

今回の記事のまとめ

今回の記事をまとめると、まずVRは身体性と臨場感の拡張をする技術であることをまとめた。次に「VOX PLUS BE 3DVR ゴーグル」は総合的に見て満足できる商品であり、VRゴーグル初心者にお薦めであることを紹介した。最後にYouTubeお薦めVR動画5選ではリラクゼーション系、スカイダイビング系、ホラー系、映画系、アート系の5系統に分けて動画を掲載したが、今回紹介した動画以外にも定番のジェットコースター系やサメ系など楽しめるコンテンツは数多くある。未だにVRゴーグルを試して数日しか経過していないので、この先掘り下げればまだまだ興味深いものが沢山見つかるだろう。またアーティストとしてはVRを利用したコンテンツ作りには以前から興味があったので、この機会を活かして簡単な作品を作ってみようかと思っている。

VOX PLUS BE 3DVR ゴーグル
VOX PLUS BE 3DVR ゴーグル
VOX PLUS

「批評再生塾第4期キックオフ&第3期大反省会」に行ってきた

「制作」と「批評」

「批評再生塾第4期キックオフ&第3期大反省会」に行ってきた。自らの過去を振り返ると、過去に美大を飛び出して海外留学をしたり競技ディベートに参加した動機は、制作の現場に「批評」が足りないという意識があったからだった。「制作」は「批評」を前進させるし、「批評」は「制作」を前進させる。この当たり前の循環のループに対して余りにも鈍感な環境が存在しており、巷では単純な敵対視の関係、もしくは自己満足に近い「制作」、「批評」が溢れていた。現在はその観点を「制作」、「批評」にテクノロジーを加えた三つの観点から捉え直しており、それぞれが本来は有機的に結びついていなければならないのに、各要素と人の集合が水と油のように反発しており、界面活性剤のように仲を取り持つ環境が構築できていない状態をどう再構築するかということに興味がある。テクノロジーについては独学、もしくは金銭的な面から仕事の現場で学ぶべきと考えているが、新芸術校に参加している身から考えると、コラボ授業があるということ以上に上記のような考えから批評再生塾には興味があった。もちろん自分のソロ活動、コラボ活動、コレクティブ活動の三つの軸をしっかり行い、日々生存戦略を試行錯誤しながら生き延びた上で参加するということに意味がある。

トークイベントについて

前半と後半の断絶

「批評再生塾第4期キックオフ&第3期大反省会」の前半と後半には大きな断絶がある。前半は佐々木敦、吉田雅史、渋革まろんによる鼎談形式で開始された。内容を一言でまとめれば批評再生塾の紹介なのに、「批評が不在」という不毛なものだったので割愛する。内輪ウケの馴れ合いだけを延々と見せられたので、ここに来るまでにかかった交通費と滞在時間の浪費具合が気になり始める。急激に面白くなったのは後半に東浩紀が前半のトークに対して、登壇者に対して、ゲンロンという会社に対して、批評再生塾に対して、自らに対して批評性を持って介入してから。そこに市川真人による佐々木敦に対して、もしくは批評再生塾に対する鋭いロールプレイ、批判があり、佐々木敦のコアが掘り出され、最終的に津田大介が吉田雅史が本来成すべきだった司会の役割を果たす教育的介入をした。しかし最後まで埋まらなかったギャップがあり、それは「危機感」という言葉に集約される。

「危機感」と「欲望」について

優れた制作者や批評家の素質があるかどうかは、現状に対してどれだけ「危機感」があるかどうかで決まる。そもそも「危機感」がなければ「制作」や「批評」というような表現行為を行う必要すらないだろう。そして現状の何に対してどの程度の「危機感」があり、それをどんな手段でどうやって表現し、人々を感染させるかという観点が大事になってくる。ここでいう「危機感」は「欲望」と密接な関係性がある。自らの根源的な「欲望」に対して現状が上手く対応していないからこそ「危機感」が生まれるわけだし、「危機感」があるからこそその現状を超えるような「欲望」が生まれるわけだ。その「危機感」と「欲望」の大きさは通常比例するのだが、鈍感になろうと思えばどこまでも鈍感になることも可能だ。外部の視点からそれを指摘していた市川真人と津田大介を除き、というより彼らは現場の「危機感」のなさに驚いて乱入してくれたわけであるが、そのことについて自覚的であったのは東浩紀ただ1人であった。

「ディレクター」と「プロデューサー」について

また制作者の行き着く先が「ディレクター」なのだとしたら、批評家の行き着く先は「プロデューサー」である。東浩紀が「批評再生塾」のことを「総合メディアプロデューサー養成塾」と表現し、良くある「ライター養成塾」との違いを強調したのはここに真意がある。彼の意図するような「誤配の場」を形成するためには、一見「批評」と関係ありそうな賢そうな知識、難解で綺麗な文章、独特の言い回しなどは無関係であり、一見「批評」と関係なさそうな経営の視点、人材のマネジメントの視点などを含めたプロデューサー的な観点が重要である。よってそのような人材を育成したいのであれば、ニコ生配信があるとはいえ、今のような文章主体のプログラムから大幅に構成を変える必要があるのかもしれない。少なくとも登壇していた批評再生塾総代たちにそのような資質があったかどうかにはかなりの疑問を感じた。

「教育」について

最後に「教育」について。まず前提としてEducationとLearningは違う。そしてEducationよりLearningを求めてきたというのは自分の経歴を見ても明らかだし、ブログを通して何度も強調してきたことだ。要するに基本は独学であり、ゴールは自分で決めるし、自分でやってみること。そのフィードバックループを繰り返していくしかない。トーク中言われていた「こっち側においでよ」とはつまり当事者意識とその実践のことであり、マイナーな趣味を持つ人々のための場作り、友達作りをしようということではない。社会に容赦なくさらされ、誰も守ってくれない中で、1人でも生き抜ける力を付けること以外の生存戦略などない。逆説的に言えばそれができる個人が集まって初めて、有機的に機能する場や人間関係が生まれる。そうでなければその集団や場はただの烏合の衆と化すしかない。これは自分のコラボ活動、コレクティブ活動を通して、またフリーランスとしての活動を通して学んできたことでもある。自分としては浅田彰的な「全ての教師は反面教師、教育の場は廃墟であれ」という持論を支持するが、それでも新芸術校という芸術運動に参加したのはLearningを主体とした個人が集まる場があれば、それは従来のEducationもLearningも超えることができるかもしれないと考えたからだ。さらに個人的な考えを言えば、教育の成果は教育者を超える人材が出るか否かで決まると考えている。要するに新芸術校はカオス*ラウンジ、もしくは黒瀬陽平を超える人材、批評再生塾は佐々木淳を超える人材、ゲンロンスクール全体からは東浩紀を超える人材が出るか否かでその成否は判断される。もちろん金賞や総代を狙うということは奨励されるべきだが、それだけではただ単純に褒められたいという承認欲求のレベルから出られない。本来受講生はそれを圧倒的に超えるスケールで物事を考え、実践しなければならないわけで、そうでないのならばただの客か傍観者かワナビーとして群れ合うしかない。

追記

批評再生塾第4期は募集を中止するとのことで、再開は未定。トークイベントの動画を非公開にすることを含めて非常にスピーディで良い決断だと思った。作品を売った経験がある人ならわかるだろうが、誰が何を言葉として言おうが作品を購入してくれないならそれはそこまでの評価ということであり、その評価は前作から引き続いたものであり、そのシビアさに敏感でなければ生き残ることはできない。そういう意味で第4期の募集がふるわないという時点でトークイベントのゲーム内容自体が変わってしまったのであり、そこに対してアドリブ的に対応する能力を含めて生き残る力が試される。それに対する一部の批評再生塾生の甘えが露呈していたのは非常に残念だが、生き残りたいならば自分の身は自分で守るし、自分で盛り上げて自分で責任を取るという当たり前の現実に直面する良い機会が与えられたと解釈することもできる。ちなみに批評再生塾第4期のプログラムの内容はゲンロン 佐々木敦 批評再生塾 2018を見れば分かるが、チューター制度創設、実作者を含めた豪華な講師陣を見るだけでも破格の内容であることが分かる。それに加えて仮に第4期が「総合メディアプロデューサー養成塾」のような観点を追加しつつ再募集するようなことがあったとしたら、それは素晴らしいプログラムになるだろう。批評再生塾が第3期で終了する可能性があり、新芸術校に参加するための費用の借金を未だに抱えた状態でこういうのもなんだが、借金を返し終え、自分の経済的状況、他の活動との両立が可能と判断し、さらに募集が再開するという奇跡のような状況が起こったならば、その時は改めて申し込んでみようと思う。

『嘘喰い』: 「暴」と「知」を司るもの

『嘘喰い』完結

『嘘喰い』については以前からずっと取り上げたいと考えていたが、漫画が完結するまで待つことにしていた。そして数ヶ月前に遂に単行本の最終刊が発売され、その余韻に自分の中でようやく区切りが付いたので、今回はこの漫画について存分にその魅力を書き連ねてみようかと思う。現在連載中の漫画の中で一番続きが気になる漫画と言えば『HUNTER×HUNTER』になるが、『嘘喰い』はそれに勝るとも劣らないクオリティの漫画であり、『HUNTER×HUNTER』が休載中の期間は『嘘喰い』の連載によって何とか禁断症状の悪化を凌いできた。仮に『HUNTER×HUNTER』が好きで『嘘喰い』を未読の方は今すぐに全巻読んでみてほしいが、著者の迫稔雄はこの作品がデビュー作であるという点に末恐ろしい才能を感じる。また長編の連載漫画になると当初の目的を忘れる、伏線が破綻する、惰性で続くなどの状態が通常見られるものだが、『嘘喰い』は当初の目的と伏線を大枠で回収し、惰性で続けることなく全49巻でまとめ上げている。デビュー作にして代表作を創り上げてしまった迫稔雄がこの先何を描くのかは気になるが、次回作は是非流行のスピンオフ作品ではなく、全く新しい作品を読んでみたい。

バトルの概念の枠組み

『HUNTER×HUNTER』と『嘘喰い』が面白いのは、バトルの概念を枠組みから設定し直し、新しい枠組みを提示したことにある。またその新しい枠組みを提示するだけならまだしも、それが文句なく面白いというのが凄いところだ。

『HUNTER×HUNTER』のインフレ回避

まず『HUNTER×HUNTER』に関しては、『ドラゴンボール』を代表とする少年漫画が必ず通る道である、力のインフレを高度に回避することに成功している。例えば『ドラゴンボール』ではスカウターに代表されるように、力は数値的な上昇や見た目の変化により線形にステップアップしていくものと捉えられる。修行や闘技場はその象徴的なステップアップの場であり、行き着く先は敵を含めた力のインフレでしかない。このタイプの漫画では主人公は馬鹿であることが多く、馬鹿であることが強いというテーゼが繰り返される。一方で『HUNTER×HUNTER』では念能力の系統と能力の多様性により、単純に力が強いだけでは勝てず、そこには知性や理詰めの論理性を駆使したバトルが展開される。もちろん少年漫画であるので、血統の特殊性や力のゴリ押しによる勝利なども描かれる。しかし馬鹿であることが強いというよりは、馬鹿も特殊性として活かせる性質の一つとして描かれているのが特徴になる。

『嘘喰い』の「暴」と「知」

次に『嘘喰い』に関しては、「暴」と「知」のどちらが欠けていても一瞬で死ぬ。頭が良いだけで暴力や権力を持たない者は勝利した事実自体をねじ伏せられるし、暴力や権力を持つだけで頭が良くない者は出し抜かれる。もちろん一人の登場人物が全てを兼ね備えていなくても良く、チームとしての役割分担が出てくるわけだが、この「暴」と「知」の両面を兼ね備えなければ即死というリアリティはフィクションよりノンフィクションに近いスリルを提供してくれる。「暴」だけを追求すればインフレ、単純化が待っているし、「知」だけを追求すればリアリティとインパクトに欠ける。そういう意味で『嘘喰い』のバトルの概念の枠組みは、従来のバトル漫画の欠点を高度に解決していると言える。

「運」

そして『嘘喰い』における「暴」と「知」を司るものが「運」である。そう、この漫画は何を隠そうギャンブル漫画なのである。しかしこの漫画の特徴は、ギャンブルに付きものの「運」という要素を極限まで知性と論理性で回避しようとするところにある。それは試合が始まる前からの下準備、裏の取引、会話の内容、ボディランゲージ、演技、些細な記憶の断片などを含めたありとあらゆる要素を考慮に入れた上で頭がフル回転したギャンブルであり、実際には多くの人が「運」と呼んで縋ってしまう範囲のものは彼らにとっては「運」ではなく単純な準備不足、考察不足に過ぎない。ギャンブル漫画であるにも関わらず、「運」の要素を極限まで剝ぎ取るように動く登場人物たち。あっち向いてホイやハンカチ落としといった極めて単純そうに見えるゲームに設定を加え、高度な知的遊戯に変えてしまうその世界観は、ギャンブルを「運」でも「確率」でもない全く別のゲームに変えてしまう。

敵キャラの魅力

他にも『HUNTER×HUNTER』と『嘘喰い』の共通点を挙げれば、〜編のように分類できる小さな物語が複数存在した上で、大筋となる一つの大きな物語が存在していることが挙げられる。しかし中でも最も重要な共通点は敵味方を問わず魅力的なキャラが大量に出現し、そしてあっさりと死んでいくことだ。特に各漫画の敵キャラの魅力は際立っており、『HUNTER×HUNTER』で言えば幻影旅団、『嘘喰い』であれば倶楽部「賭郎」の存在がそれぞれの漫画の魅力を決定的なものにした。これらは両方ともある意味で主人公たちを食う程キャラ立ちしたキャラクターたちの集合体であり、誰も死んでほしくないと思える程魅力的なのだが、あっさり死ぬこともある。また主人公たちと対決した場合にはどちらが勝っても負けても嫌だと思えるような緊張感を漫画の中にもたらす。ちなみに倶楽部「賭郎」は主人公側にも付く中立の立場なので敵キャラと括るのは雑かもしれないが、一人一人のサブストーリーが知りたくなる程に濃いキャラばかりだった。

今回の記事のまとめ

今回の記事は『嘘喰い』について主に『HUNTER×HUNTER』との共通点を探りつつ、その魅力を書き連ねてみた。以下に箇条書きでその特徴をおさらいしてみる。

デビュー作かつ長編連載作品なのに当初の目的を見失わず、大枠の伏線を回収し、惰性で続けることなく綺麗に完結した

バトルの概念の枠組みを再設定し、「暴」と「知」の両面からリアリティを追求した

ギャンブル漫画の「運」の要素を解体し、高度な知的遊戯に変えた

敵キャラがその勝負の行方と死を含めて物語に魅力と緊張感をもたらした

最後に『嘘喰い』は掛け値なしにお薦めの漫画であり、まとめて何度も読まないと分かりづらい部分があるという意味も含めて、読んだことのない方はこの機会に是非読んでみてほしい。

嘘喰い
嘘喰い
著者: 迫稔雄