日本に帰国して編み出した五つの処世術

日本脱出と日本帰国

今回の記事では日本に帰国して学んだ五つの処世術を紹介してみようと思う。自分はそもそも日本社会に性質が全く合わず、社会不適合者であり、海外留学はこの国から脱出するような気持ちで挑んだ。結果として留学生の多くが経験するとされるホームシックになることもなく、完全に悠々自適な生活を送っていたのだが、後に日本という国のポテンシャルや素晴らしさに国外に出たことで気付くことができ、その他の理由もあって数年前に日本に帰国した。そこからの人生は苦難の連続だった。人間、仕事、社会との関係を含めてすれ違いの連続が生まれ、その溝は過去に日本を脱出した時よりも深くなってしまったように思った。しかしそれでも諦めずに自分なりの方法を実験/実践し続けた結果、五つの処世術が生まれたので、今回はそれらについて解説してみたい。これは日本社会に元々適応できている人ではなく、日本社会には全く適応できないが、それでも日本社会と関わって生き抜く術が必要な人にこそ参考になる内容になっているはずだ。

五つの処世術

「正論」と「同調」

まず一つ目の処世術のキーワードは「正論」と「同調」。その内容を一言で表現すると以下のようになる。

正面から「正論」をぶつけて敵を作るのではなく、相手を味方に付けた上で「同調」効果を利用して目的を達成する

本音と建て前が支配する日本社会の構造において、正面から「正論」をぶつけるのは得策ではない。あくまで表面上は相手に賛同しているし、自分は相手の味方であるという意思表示をする必要がある。それをしておかないと最初から敵認定され、村八分に遭ってしまうのでそもそもの目的が達成できない。そしてその土台が整った上で「同調」効果を利用して自分の要求を伝えると、すんなり通ることが多い。要するにここでは言っていることの「正しさ」や内容はそれが通るかどうかとほとんど関係ないので、一旦相手に「同調」したようでいて、結果的に相手に「同調」させるということを非言語のレベルを含めて行うということだ。ちなみに海外では最初から「正論」をぶつけずに相手に「同調」したように見せかけた時点で勝負が決まってしまう場合が多いので、この真逆の方法を行う必要がある。本音より建前を言うことが優しさと考えられている文化もあれば、本音を言うことが優しさと考えられている文化もある。日本の外交がいつまで経っても上手くならないのは恐らくこの方法論と考え方の違いに原因があるが、環境によって適切に使い分けるのがベストだろう。

「解像度」

二つ目の処世術のキーワードは「解像度」。その内容を一言で表現すると以下のようになる。

「解像度」の高すぎる細かいことは言及しない

「解像度」が高いということはその分だけ粗が見えるし、違いが生まれるということだ。しかしその細かい部分を一々指摘していると物事が前に進まなくなるし、共感を得られなくなってくる。例えば音楽において好きなジャンルはメタルだとする。さらに掘り下げるとブラックメタルの中でもシンフォニックブラックメタルやブラックゲイズが好きだとする。最初の時点の「解像度」ではメタラーという括りでひとまとめにできたが、ブラックメタル > シンフォニックブラックメタル/ブラックゲイズと進むにつれて共感できる人はどんどん減っていく。そこまで細かい「解像度」で捉えられるということ自体は素晴らしいことなのだが、通常はメタルが好き、もしくは音楽が好きという部分で間口を広げておいた方が得策である。これはコミュニケーションにおいても同様で、相手の発言内容や考え方おいて「解像度」を細かくした場合に粗が見えたとしても、一々それを指摘することでコミュニケーションが円滑にいかなくなる場合がある。そういう場合はある場面においてどの「解像度」が適切なのかを考えた上で発言するべきだ。そして迷ったときは常に細かいことを言及しない方向を選ぶか、もしくは自分の「解像度」とは合わない場所と思って場所自体を変えることをお勧めする。

「知性」と「論理」と「エモさ」

三つ目の処世術のキーワードは「知性」と「論理」と「エモさ」。その内容を一言で表現すると以下のようになる。

「知性」は秘めるもの、「論理」は埋め込むもの、「エモさ」は表に出すもの

「知性」は秘めるものである。能ある鷹は爪を隠すという言葉があるように、本物の「知性」は秘められていてもいざという時には表に滲み出てくるものである。またこれは謙虚であれということとは少し意味が異なる。謙虚にへりくだる必要はないが、「知性」を無理して出そうとする必要もなく、自然体でいれば良いということだ。次に「論理」は埋め込むものである。「論理」とは言語における概念同士の繋がりを構築する鎖のようなものだ。これは数学、プログラミング言語、自然言語を問わず言語を構成する上で基本となる構成要素の一つである。「論理」は世界共通語であるが故にそれを習得している人にとっては再現性があるが、それが分からない人にとっては再現性はない。そのことに注意しながらも、特定の人間には精度高く伝わるものとして「論理」は言語に埋め込んでおくと良い。最後に「エモさ」は表に出すものである。これは万人に伝わるイメージとして「エモさ」を表に出すことで伝わる可能性が高くなる。というよりどれだけの「知性」を秘め、どれだけ「論理」を埋め込んだとしても「エモさ」がなければ多くの人に伝わることはない。時には記号としてその「エモさ」は諸刃の剣にもなり得るが、誤解されることすら折り込み済みで「エモさ」は表に出すべきものと言えるだろう。

「救済」と「革命」

四つ目の処世術のキーワードは「救済」と「革命」。その内容を一言で表現すると以下のようになる。

人を「救済」しようとせず、社会を「革命」によって変えようとしない

人を「救済」し、社会を「革命」によって変えようとすることは、個人のエゴの肥大化である。まず相手が本当にその「救済」を望んでいるのか、また社会がその「革命」を経て本当により良い社会に変わるのかは不明である。その上で自分の考えを押しつけるのだとすれば、それは時に暴力に変わる。しかし自分のやるべきこと、やりたいことを見つけてそれに精進した結果、人が勝手に「救済」され、社会に勝手に「革命」が起きているということはあり得るだろう。本来はそういった流れの中で「救済」と「革命」は起きるべきなのであって、自らのエゴの肥大化としてあるべきではない。またこういったものは静かにレイヤーを変え、継続した活動の末に初めて起こり得ることなので、正面から「救済」や「革命」を唱えることも得策ではない。つまり「救済」も「革命」も結果として起こり得るものであって、原因としてそれらのために精進するというの最初からピントがずれていると言える。また原因として求めている場合は、名誉や賞賛などの小さい煩悩からそれらの達成を求めていないかも同時にチェックするべきだろう。

「ルール」

五つ目の処世術のキーワードは「ルール」。その内容を一言で表現すると以下のようになる。

「ルール」は従うものでなく、ハッキングするもの。

通常日本社会では「ルール」は従うものとされている。それ故にどれだけ不合理かつ不条理な「ルール」でも、「ルール」でありさえするならば従わない方が悪いという村社会の論理が最優先されてしまう。そこで海外のように「ルール」を変えようとするというのはある意味で正しいのだが、その方法論は日本では通用しづらい。何故ならば「ルール」を変更するというのは既得権益者にとっては害悪であり、村社会の住人にとっては迷惑であるからだ。よってそういった改革色の強い優秀な人物は歴史的に牢屋に入るか、追放されるかのどちらかの選択を迫られてきた。しかし「ルール」に従いたくもないし、「ルール」を変更するのもリスクが高すぎるとなると、残された選択肢はたった一つ。「ルール」をハッキングするということだ。「ルール」をハッキングするのであれば、「ルール」に従う必要も「ルール」を変える必要もなく、実質的に「ルール」を変更することができる。これは「正論」と「同調」、「解像度」、「知性」と「論理」と「エモさ」、「救済」と「革命」の項目全てをまとめ上げたような奥義である。要するに正面からぶつからず、細かいことは言及せず、エモさを操縦し、レイヤーを変えることで、ルールをハッキングするということだ。

社会不適合者に向けた一言

今回挙げた五つの処世術は、自分としても日本帰国当初は余りできていなかったことだ。それ故に数多くの問題を生んだが、最近これらを実践することで確実に自分の思い通りに物事が動くことが多くなってきた。その自らの血を流しながら考え、身に付けてきた処世術は日本社会で生きづらいと考えている人にとって参考になる部分があるはず。社会不適合者であることを変えなくたって良いし、それは誇るべきことだという考えは未だに変わっていない。しかしそれをそのまま貫いているだけではいつか社会に殺されてしまう。今回の記事は特に日本社会と折り合いが付けられない社会不適合者の人に向けて書いた記事なので、心当たりのある方は是非実践してみてほしい。

#DeleteFacebook: SNSノマドたちの行方

#DeleteFacebookとは?

#DeleteFacebookが盛り上がりを見せている。このハッシュタグが何を意味するかと言えば、文字通りFacebookのアカウントを積極的に削除することを促すものだ。先日明らかになったのは、過去にFacebookの個人情報約5000万件が流出し、ケンブリッジ・アナリティカによって米国大統領選挙に政治的に悪用されていたという事実だった。これに対してMark Zuckerbergの対応の遅れなども重なり、Facebookの利用者の不信感が一気に募ったことで今回の運動に繋がったという流れになる。今回の記事ではこのニュースを出発点として、関連する事柄について幾つか思うところを書いてみたい。

個人的なFacebookの利用状況について

まずは個人的なFacebookの利用状況について。自分としては5年以上にわたり海外生活をしていたことと、その時期がFacebook全盛期だったことも重なり、過去にはFacebookの個人アカウントを中心に利用していた。しかし2015年、つまり日本に帰国してから1年以内に個人アカウントを削除した。当時としてはイノベーター理論におけるイノベーター並のスピードで辞めた実感がある。実際に多くの人には驚かれたし、もったいないとも言われたし、信じられないというような反応もあった。ただその時の自分にはFacebookはもう死んだという確信があり、自分には合わないという確信もあったので辞めたのであり、メリットとデメリットはあったものの、その決断自体を後悔はしてはいない。

Facebookを辞めた三つの理由

当時Facebookを辞めた理由は主に三つあった。それを以下に列挙してみる。

インターネット版連絡網としての機能以外に使い道が見出だせなかったから。

・実名のポリシーは良いが、日本人が個人のカウントを芸名で使用するとあらゆる制約があり、Facebook側が匿名と芸名の違いを理解しているように思えなかったから。

・他人の少し盛った日常の垂れ流しを見続けることや、Likeという機能などに疲れたから。

近年では若者のFacebook離れが叫ばれるようになり、アカウントを持っていても活用していない人が大半になっていった。その傾向は最近特に顕著であり、今回の件は投稿する人と何もしない人の間に大きな溝が出来つつあったようなタイミングだったようだ。

今回の件の本質

しかし今回の件の本質は個人情報流出でも、Mark Zuckerbergの対応の拙さでもない。Facebookの利用者の多くが何となく辞め時を探しており、その絶妙なタイミングで今回の件が起きたので辞めた、もしくは辞めても差し支えなのないSNSになったというのが本質である。仮にそれが正しいとするならば、Facebookは今回の件が起こる前に既に死んでいたということになる。SNSには同調圧力が存在し、ネットワークの性質上「数」が集まらないとその力を発揮できない。しかし今回の件でその力が逆向きに働いたとするならば、Facebookは今後窮地に立たされることになる。

SNSノマドたちの行方

エフェメラル系SNSとストック系SNS

ではFacebookを辞めたSNSノマドたちの行方はどこになるのだろうか?SNSを大別するとSnapchat、SNOW、Instagramなどのエフェメラル系SNSと、Facebook、Twitter、Mastodonなどのストック系SNSに分かれる。エフェメラル系SNSとは投稿後一定期間経過するとその投稿が消える機能を持つSNSのことで、ストック系SNSとは投稿後その投稿がずっと残って溜まっていく機能を持つSNSのこと。実際にはInstagramはStoriesという機能の一部がエフェメラル系で、その他はストック系なので両方の側面を持つSNSと言える。今後の潮流としては基本的にエフェメラル系SNSが強く、機会によってストック系SNSを使い分ける、もしくはストック系のSNSの一部は廃れていくという方向になりそうだ。SNSの力は大抵若者の使用率と全体の利用者の「数」で決まり、若者の使用率が高いSNSに全体の利用者の「数」が追いついてくるという構造になっている。なので当然若者の使用率が高いエフェメラル系の力が強くなっていくは容易に予想できる。ただし日本でのSNSはTwitterやLineのように独自進化を遂げる場合が多いので、今後の日本でのSNSの動向を簡単に予想することは難しい。

SNS時代におけるサーファー

自分がFacebookを辞めた時を振り返ってみると、海外の友達との連絡手段やアーティスト活動をしていく上で重要な人物とのコネクションを同時に失ったのは正直痛かった。しかしそれ以上に自分とは合わないSNSのために無駄な時間を使用しなくても良いという開放感もあった。今回の件でFacebookに止めが刺されるかどうかは分からないが、仮にFacebookが死ぬのだとしたら、それはもう不可逆の流れになる。何故ならmixiの例を見ても分かるように、一度死んだSNSが復活することは難しいからだ。そういう意味でSNSは本質的にノマド的なものであり、乗り換えることが前提のプラットフォームであると言える。そう考えると今流行っているSnapchatやInstagramもそのうち終わっていくのだろうし、その時にはまた新しいSNSが出現しているのだろう。その一瞬で押し寄せては消えていく波のフローの中で、ストックにもなり得る型を獲得していくことがSNS時代における良いサーファーの条件なのだろう。

エスカレーターの両側を詰めて乗るべきか、片側を空けて乗るべきか

エスカレーター議論

エスカレーターに乗る際に両側を詰めて乗るべきか、片側を空けて乗るべきかは議論になりやすい。安全性の確保のためにエスカレーターは基本的に歩かないことになっているが、実際には左右のどちらかが空いており、片側が歩かない人用、もう片側が歩く人用というのが暗黙の了解になっていることが多い。これに関しては地方によって空ける側が異なり、関東では主に右側を空け、関西では主に左側を空けるのが主流になっているようだ。しかし名古屋のように両側を詰めて乗る地域もあり、また他の地域でもエスカレーターの両側を塞ぎ、歩かない人もいる。今回はそんな賛否両論があり得るエスカレーターの利用法について考えてみたい。

全体最適と部分最適

ルールは一旦置いておいて、両側を詰める利用法が効率的だと考える人は全体最適を考えている人で、片側を空ける利用法が効率的だと考える人は部分最適を考えている人だと思われる。これは一体どういうことだろうか?一見両側を詰めるより片側を空けた方が効率的に思える。しかし全体的に見れば片側を一部しか利用しないということは、その分だけ非効率性が生じているということである。つまり後者の方法は一部の人のために大部分の人が犠牲になり、全体的にみれば非効率的な方法であると言える。一方で前者は多くの人のために一部の人が犠牲になり、全体的に見れば効率的な方法であると言える。つまり前者は全体最適であって、後者は部分最適なのである。

当たり前の結論

このような効率性、安全性、駅の公共性などを総合してから考えると、両側を詰めるというのがエスカレーターを利用する際の基本ルールであるべきだ。急いでいる人は階段を利用するか、一本前の電車に乗ることを心がける。しかし問題はそれでは解決しないだろう。何故なら人間は自己中心的な部分最適を中心に考える生き物だし、寝坊して遅刻するのが悪いと思ってもあがく生き物だし、そんな時にエスカレーターで両側を塞いでいる人を見かけるとイラッとする生き物だからだ。動く歩道であらゆる人にぶつかりながら先を急ごうとしている人を見かけたことがあるが、そのように視野狭窄になっている場合、隣の普通の道を走った方が早いということにも気づかないのが人間なのである。よって当たり前の結論が出たものの、その結論は人間には荷が重すぎることもまた事実だ。

縦横無尽に動くエレベーター

そこで色々と解決策を考えてみたが、どうも既存の構造では解決できそうにない。そこで横にも動くエレベーターを幾つか設置してみてはどうかと考えついた。駅では階段とエスカレーターに人が殺到するのを良く見かけるが、一方でエレベーターは比較的利用頻度が少ない気がする。技術的には既に可能なはずであるし、縦横無尽に動けるエレベーターを駅に設置すれば、人がもっと分散して結果としてより効率的になるはず。しかし最も簡単な解決法は多少の効率のことなど考えず、もっと有意義なことに頭をシフトさせることなのだろう。

「胡散臭い」という褒め言葉

評価の構造

「胡散臭い」という褒め言葉がある。「胡散臭い」という言葉は通常、雰囲気や言動について怪しい、疑わしいというような否定的な意味合いで使用される言葉である。では一体何故この言葉が褒め言葉になり得るのか。それを理解するためにはまず評価の構造についての前提を理解しなければならない。評価とはまず対象者、対象物などが存在し、それを評価する評価者が存在している。評価とは前者についての言及であるのでそこが注目されがちだが、見落とされがちなのは、後者の評価者についてであり、通常それに関しては透明な存在として扱われている。しかしNILOGでも何度も言及しているように、評価するということは否応なく評価者の視点や思考などを無防備な形でさらけ出してしまうという意味で、評価者について雄弁に語るのである。であるならば「胡散臭い」という評価に対してもその対象者、対象物ではなく、そう評価した評価者について考えなければならない。

評価者のフィルター

その上で「胡散臭い」という言葉は変人という言葉と共通点のある言葉である。つまり人は自分が理解できない壁を感じた時に「胡散臭い」という言葉を使用するのであって、理解できないという意味が自分より低レベルだからなのかそれとも自分を凌駕する高レベルだからなのかはその言葉だけからは判別不能である。であるならば、後者の意味合いにおいては「胡散臭い」という言葉が逆に褒め言葉になる可能性があるということだ。要するに対象者や対象物をありのままに捉えることは悟った人にしか不可能なのであって、通常は評価者の偏った認知や思考というフィルターを通して評価がアウトプットされるのであり、そこには多かれ少なかれ歪みが生じている。さらに真に革新的なものは通常の評価軸から外れた場所から勝手に出現するということから考えても、何かに対して「胡散臭い」と感じた場合はまず自分の思考のフレームワークや見ているレイヤー自体を一度疑ってみる必要があるということだ。

「胡散」と「黄金」

また「胡散臭い」の「胡散」という言葉の由来には諸説あり、有名な三つの説を列挙すると以下のようになる。

・「胡散臭い」と類似した言葉と意味を持つ「胡乱」から由来している。
・ポルトガル語で怪しいという意味を持つ「Vsanna」から由来している。
・天目茶碗である「烏盞」から由来している。

基本的には上記の三つの説が有名だが、他にも諸説あり、結局その言葉の由来は明確には分からない。しかし先程述べたように「胡散臭い」という評価は革新的であり、理解を超えている可能性があることを考えてみれば、「胡散臭い」と言われる人や物はそれをさらに超越して「胡散」そのものになってしまえば良い。何事も自分の色を消して迎合しようとした瞬間にその価値は消えるものだ。であるならば逆にその色を深め、出る杭は打たれるの次元を超えた地平に到達すれば、純度と希少性の高い「胡散」は「黄金」のようにその価値を高めることになるだろう。またこの仮説が正しいとするならば現在「胡散臭い」と言われる人物や物の中に実は「黄金」が潜んでいる可能性もあり、トレジャーハンター的にその価値を見出だす第一人者になってみるのも一興ではないだろうか。

成人式に行かなかった人による成人に贈る言葉

素朴な経験主義

“To go, or not to go, that is the question”

成人式には行かなかった記憶がある。成人式に行った方が良かったか、行かない方が良かったかはその過去を起点とした現在の自分の解釈が決めるので、成人なのだし各自判断して好きに決めれば良い。どちらが優れているわけでもなく、その時の自分の最善の判断があっただけだ。そもそも人類は人生一度きりのイベントという名目には滅法弱く作られているものだ。人生一度きりのイベントだからとりあえず経験しておいた方が良いという素朴な経験主義に対しては、そういったイベントを何度も繰り返した末に、それ自体には特に意味がないことに気付いたという経験主義で対抗できる。そもそも無限の可能世界に囲まれた我々は、気付いていない、もしくは認識していないだけで数々の人生一度きりのイベントを日常的に逃している可能性もある。また何かを選択すれば何かは選択できないということも良くあり、現在の我々は選択した可能世界の集積であると同時に、選択しなかった可能世界の集積でもある。

旅行における名所巡り

経験しないともったいないという精神性は、別の観点から言えば旅行における名所巡りに近いものがあるかもしれない。我々は旅行と言えばまず名所を調べ、その現地でインスタ映えする写真をとりあえず撮影し、そしてそれを記録として延々とシェアする、もしくはアーカイブする。元々記録とは記憶の外部装置としての役割を期待されていたものだが、次第にそれが自己目的化していくと、最終的には旅行の記憶より、記録するために名所をゾンビのように徘徊する観光客ができあがる。目的のない旅行は豊かなものだが、最初のきっかけとしてはそういったミーハーな動機で名所を巡るのは必ずしも悪いことではない。というよりそもそも全ての動機とは案外ミーハーなものであって、それを隠す必要はない。ただしスタンプラリーのように各地をただ記録のアーカイブとして巡るのではなく、その中に記憶するべき対象を見出だし、固有の経験を楽しむ方が豊かな経験であるとは言える。それは正しく先程の人生一度きりのイベントの話にも通じていて、別にそこに出席しなくても良いし、最初の動機としては記録のためだけに無機質にイベントに出席するというものであったとしても、最終的に記憶に残る何かがあればそれは自分にとって豊かな経験だったと言えるだろう。

「YOLO」の危険性

またこの話は一時期アメリカで流行した「YOLO」 = 「You Only Live Once」、つまり「人生一度きり」という言葉とも共通項があるように感じる。「YOLO」という言葉は何をしてもその行動を正当化するための言葉としても使用されており、悪用すれば危険な思想でもある。例えば「YOLO」だから人を殺しても良いという論理はその極端な一例として挙げることができるだろう。今思うとこの素朴な経験主義の台頭は、従来型の知性の放棄とエモさへの最適化の兆候としてPost-truthを予言していたのかもしれない。そう考えると素朴な経験主義というのは安易に肯定も否定もできない中々厄介な概念であることに気付く。例えばアメリカ滞在中に大麻を勧められたことがあるが、自分は瞑想でドーパミンを自由に分泌できるし、そちらの方が快感としては強いから必要ないと断ったことがある。ただその反論として、一度も経験していないことに対して何故比較できるのかというものがあった。一見確からしい反論ではあるが、実際に分泌されるドーパミン量を計測すれば瞑想の方が多いし、経験していないことを比較できないという考え方が正しいのだとすれば、知性や科学は究極必要ないということになってしまう。経験したことについて語り、判断することが必要なこともあれば、経験していないことについて語り、判断することが必要なこともあるという当然の認識を歪めてしまう可能性があるという意味で、「YOLO」は危険なのである。

「オオオニバス」の後悔

ただし自分の人生で唯一「YOLO」の精神に則って判断すべきだったと後悔していることがあるとすれば、それは子どもの頃に「オオオニバス」に乗らなかったことだ。成人式に行かなかったことへの後悔は一切無いが、「オオオニバス」に乗らなかったことは未だに頭の中にちらついて離れないことがある。「オオオニバス」は水面に大きな丸い葉を浮かせる植物のことだが、葉の浮力が強いので子どもを上に乗せるというイベントが良く開催されている。ただしこれには体重制限があり、通常大人は乗ることができない。そのイベントが開催されており、乗るかどうか聞かれた際に乗らないことを選択したことには、特に何の理由もなかった。ただそのすぐ後にそれは間違いだったのではないかという後悔の念が増してきたが、時既に遅しという感じだった。ちなみに最近知ったが、稀に大人用の「オオオニバス」が用意されていることもあるらしく、現在でも「オオオニバス」に乗るという可能性が完全に断たれたわけではなさそうだ。やらなかったことの後悔だけはしないで生きていきたい人生なので、「VRオオオニバス」でも自作するしかないかと思っていたが、いずれ何処かで「オオオニバス」に乗れる日が来るかもしれないと考えると今から楽しみである。

成人とは何か?

成年 = 18歳以上という世界的な潮流

そもそも成人とは何だろうか?通常は成年した人を成人と呼び、成年か否かは通常年齢によって決まるとされるが、その年齢は世界中で統一されているわけではない。例えば日本では成年は20歳となっているが、むしろこれは少数派であり、割合としては国際条約である「児童の権利に関する条約」に則り、18歳以上を成年とする国が圧倒的多数である。ちなみにアメリカ合衆国では州ごとに成年と判断される年齢が異なり、基本的に酒の飲酒が合法になるのは共通して21歳以上と定められている。近年では日本でも「18歳選挙権」が施行され、18歳以上を成年とする民法改正案が提出されるなど、成年を18歳以上と定義するのが世界的な潮流ではある。

年齢と成長のグラデーション

しかし良く考えてみれば年齢も成長もグラデーションであり、少年法のようにたった数日から数ヶ月の誕生日の違いで法律上の扱いが全く変わることへの違和感はある。そもそも世界には完全性は存在し得ないので、法律は完全ではないものの妥当と思えるようなラインを延々と引く作業と考えてみれば、その作業の難しさと理不尽さと必要悪が混ざり合った世界が見えてくる。また平均寿命が50年、100年、200年、不老不死の各場合における成人の妥当な年齢は異なるのが当然だろう。しかし人類は今のところ死 = 有限性の存在であり、その逃れられない終着点が我々の活動の豊かさを支えていると仮定するならば、ある程度乱暴であったとしても成人式のような通過儀礼を行うという妥当性はあるように思える。逆に言えば対象年齢に到達する以前に既に成人になってしまっている、もしくは自分のタイミングで成人になることを選んだ人に対しては成人式という通過儀礼は必要ないのであって、成人式とはそれ以外の人のためにある。

引きこもり = 内面宇宙学習の時期

冒頭で述べたように自分は成人式には行かなかった。何故成人式に行かなかったかは正確には覚えていないが、確かその時期はまだ引きこもり、言い換えれば内面宇宙学習の真っ最中だったので、特に家から外に出たいとは思っていなかったのだと思う。もしくは先程述べたように自分のタイミングで成人になることを選びたかったという気持ちがあったのかもしれない。また当時は世界をシンギュラリティ的な立場から見ていたため、不老不死という概念へのリアリティがあったことも一因かもしれない。仮に人類が物理空間から離れ情報空間に群的な存在としてアップロードされて生き延びる方向の進化を辿るのだとすれば、その過渡期においては完全なる不老不死と言わないまでも、少なくとも寿命は脳の機能限界である200歳程度までは伸びるだろうと思っていた。また肉体の寿命を延ばす技術で毎年のように寿命が延びている間に、脳を情報空間にエミュレートする技術が確立すれば不老不死に限りなく近づく可能性は高いだろうとも考えていた。その場合20歳という年齢は赤子同然であり、生涯学習というよりは常時アップデートをし続ける世界観が前提となった場合、引きこもりやニートに代表されるようなネオテニー性はもう一回りし、成人という概念自体が消失するかもしれない。その場合重要なのは年齢の大小ではなく、いかに変わり続けることができるかになる。当時さすがにそこまでは考えていなかったが、ベーシックインカムやAIなどの議論を見ているとそこまで飛躍した発想でもないかなと思えてくる。

成人式に行かなかった人による成人に贈る言葉

最後に成人式に行かなかった人による成人に贈る言葉を述べて今回の記事の締めとしたい。若さとは宇宙速度である。最低でも第一宇宙速度を持って地球を飛び出す、できれば第二宇宙速度で地球の重力を振り切る、理想的には第三宇宙速度で太陽系外にまで解き放たれていってほしい。まず第一宇宙速度に到達するためには生意気で迷惑で初期衝動があること、つまり勢いが必要だ。宮崎駿の言うように若くて無名で貧乏であるというのはクリエイティブであるための三大条件であるが、生意気で迷惑で初期衝動があることが若い頃における才能であり、馬鹿であることが勢いに変わる。次に第二宇宙速度に到達するためには第一宇宙速度の条件に加えて宇宙の中で自分にしかできない役割を見つけ、それをゴールとすることが必要になる。ゴールは巨大であれば巨大であるほど良いが、そういったゴールは最初は見えないものなので、とりあえず暫定的に考えつく限りの大きなゴールを設定し、後にずらしていくという手法が有効になるだろう。最後に第三宇宙速度に到達するためには、第一宇宙速度と第二宇宙速度の条件に加えて複数の現場で動き続ける中で常に幾つもの仮説を立て、手を動かしながら検証し、常時アップデートすることを継続的に繰り返していく必要がある。つまり変わり続けるという根本だけは変えてはならないし、場とレイヤーを複数持ちながら移動し続けることが重要になる。複利的な成長曲線より重要な成功法則など存在しないということは、多くの偉人たちの軌跡が既に証明済みだ。少なくとも第一宇宙速度に到達していれば出る杭は打たれる状態から脱出できるだろう。しかし出過ぎた杭は打たれないというよりは、成人たちが全員全く異なる多様な角度から自分なりの限界の宇宙速度で射出されて宇宙を探求していくような世界であれば、未来は限りなく明るい。

21世紀における奴隷解放宣言

奴隷とは何か?

好きなことをして働いていない全ての人類は奴隷である。そう定義した時、21世紀にもなって未だに総人口のほとんどの人類は奴隷として労働していると言える。かつての人類はその人生のほとんどの時間を捕食するか、捕食されるかという命のやりとりの中で暮らしてきた。しかし農業革命、産業革命、情報革命などの三大革命を経て、今ではほとんどの人類は捕食するか、捕食されるかという問題に怯える必要はなくなった。しかし未だに地球規模では飢餓、貧困、戦争、紛争、テロ、環境問題を含めた差別の問題などの未解決問題が数多く残されており、人類の大半は好きなことをして働いていない奴隷として働いている。

夢を持つこと

またある人は夢を持てと言う。そしてまたある人は夢を持つ必要はないと言う。夢を持てという人の大半は夢を叶えた人、もしくは夢を叶える途上にある人だろう。また夢を持つ必要はないという人の大半は夢を叶えたことがない人、もしくは自分は夢を叶えたけれど他の人は自分のように夢を叶えられないと思っている人だろう。自分としては夢は持つべきだと思う。それも他人から中二病や黒歴史と笑われるくらい大きな夢を持つべきだ。何故かと言えば夢が自分の最高到達点を決めるからだ。それ以下にはなれたとしても、自分の想像した限界の自分以上には絶対になれない。別の理由としてはそもそも人生を生きる意味は証明できないからだ。これは別にニヒリズムとして言っているのではなくて、逆説として人生を生きる意味を証明できないからこそ、夢を指針として生きる必要があるということだ。

人類と世界にとっての損失

アーティストを長年やっていると、数多くのアーティストと知り合う。彼らの大半は優れた才能を持っているが、金銭的に恵まれている人たちばかりではない。なので他の仕事をしたり、アルバイトをしたりしながら制作費を貯め、仕事が休みの時間を使って制作している人もいる。これは人類と世界にとっても大きな損失である。もちろん作品を販売してお金を稼げば良いという意見もあると思うが、良い作品が必ずしも売れる作品ではないし、売れる作品が必ずしも良い作品でもない。またどうせならそれを好きな人たちがあるだけの時間を注ぎ込んで切磋琢磨した方が全体としてのレベルも底上げされるはずだ。それは何もアーティストだけに限らない。スポーツ選手かもしれないし、料理人かもしれないし、学者かもしれないし、エンジニアかもしれないが、人々が好きなことに好きなだけ打ち込むことができる環境があれば、世界はもっと面白くなるし、幸福度も上がるだろう。もちろん他の仕事から学べることや、アルバイトから学べることもある。しかし、本質的にその仕事が好きでなければ生産性は上がらないし、やりたくない仕事はAIにやらせるべきだ。また昔テニスの球拾いや素振りをずっとやらせる意味が分からなかったが、今でもほとんど意味がないと思っている。球拾いや素振りをやる時間で一球でも多く球を打った方が遙かに上手くなるはずであり、好きではなく無意味なことは極力やらないようにすべきである。

21世紀における奴隷解放宣言

問題の根源 = 差別

最初の話に戻るが、飢餓、貧困、戦争、紛争、テロ、環境問題を含めた差別と好きなことをして働いていない = 奴隷の問題には実は互いに関わりがある。これらの問題の大半は物理的にはエネルギー問題とも言えるのだけれど、別の観点から言えば心理的な問題であるからだ。まず飢餓、貧困、戦争、紛争、テロ、環境問題は究極的に言えば全て差別の問題である。例えば飢餓の問題に関して言えば既に人類が生産する食料の総カロリーは全人類が飢えずに暮らせる水準に到達しており、それが平等に分配されていないのは国境、人種など様々な区切りを付けて人が人を差別しているからである。これは貧困も同様で、物が余っている時代に貧困が原因で死ぬということは本来ありえないはずなのだが、最低限の富の分配がなされていないのは差別の意識が根本にあるからだ。また戦争、紛争、テロが何故起きるかと言えば、基本的には自分の大切な誰かより他の誰かの命を優先するという意識が根本にあるからであり、これも差別の意識と繋がっている。また環境問題も自分以外はどうなっても良いという意識の積み重ねがあるから深刻化するのであって、これもやはり差別の意識が根底にあると言える。もちろんこれらは政治、経済、宗教などを含めた様々な問題があるので全てを単純化して語れるわけではないが、差別というのはこれらの問題の一つの大きな根源になっていると言える。

新年の抱負

ではこういった差別が何故起こるかと言えば、その原因の一つとして考えられるのが大半の人類が好きなことをして働いていないからだ。好きなことをして働いていない人類 = 奴隷は他人も奴隷であることを喜ぶ性質に染まってしまう。そして奴隷でない人類を見るとそのルサンチマンを爆発させ、引きずり下ろそうとする力が働く。その力が嫉妬から次第に差別へと変化し、先程述べたような大きな問題に繋がっていく。自分の夢を叶えられない、もしくは夢を見ることすら許されない、好きなことをできないという負のエネルギーは莫大なものだ。もし仮に全人類がこの瞬間から自分の好きなことを好きなだけやれるようになったとしたらその瞬間に世界は大きく変わるだろう。それは世界がより面白くなるだけではなく、世界の未解決問題の大半を解決してしてしまうほどの力を持つはずだ。そして今のホワイトカラーの仕事の大半は既に人類がやらなくても良い仕事であるので、人々が意識を変えることさえできれば、一気に全てが変わる可能性があるということだ。身近な例で言えば、正月三が日が終わり、仕事の再開が憂鬱な人々が存在しない世界を作ること。自分一人の手には到底負えないが、21世紀における奴隷解放宣言として、好きなことをして働いていない全ての人類 = 奴隷を解放する。そんな世界が実現する手助けをすることを新年の抱負としてみたい。

荷物が届かない件について

実体験に基づいた話

以前運送業界狂想曲という記事を書いたことがあるが、その業界の闇は確実に顧客にも影響を与え始めたようだ。嫌な予感とは的中するもので、今回はその被害を間接的に被った顧客の立場から実体験に基づいた話を書いてみたい。ちなみに運送業界では何度か働いたことがあるので、その労働環境の異常性は大体把握している。その問題の大元は業界の構造自体にあり、サービスの質に対して対価が安すぎるのが問題。運送業界はAIが代替する仕事として向いている業界の一つだと思うので、将来的には状況は改善されるだろうが、しばらくの間はこの問題は続くだろう。というわけで個別の労働者に対しての文句は余りないが、顧客の側で対策を考えておくのがベストという結論は先に書いておく。

「Amazonプライム会員」の「お急ぎ便」

まず前提として私は年会費を支払って、「Amazonプライム会員」に登録している。「Amazonプライム会員」に関しては今のところサービスが充実している割に料金が安いので、概ね満足している。特に「お急ぎ便」が無料でオプションとして選択できることは大きな利点の一つだった。なので今回も商品をカゴに入れる際に「12/9 土曜日 にお届けするには、今から? 時間 ? 分以内にお急ぎ便を選択して注文を確定してください(有料オプション。Amazonプライム会員は無料)」という日時を確認し、注文を確定する際に「お急ぎ便 無料 明日 2017/12/9 土曜日 に お届けします」という選択肢を選んで確定した。これで商品は通常であれば12/9に届くはずだった。しかし届いていたら今回の記事は書かれていないので、当然届かなかった。メールでは最初お届け予定が「土曜日, 12/09」だったのだけれど、いつの間にか「日曜日, 12/10」に変更されていた。そして結局自分の予定には間に合わなかったので、再度他の手段を利用して届いた荷物を郵送することになった。

郵便局の「レターパックプラス」と「ゆうパック」

「レターパックプラス」と「ゆうパック」

次に利用したのは「レターパックプラス」と「ゆうパック」。両方「レターパックプラス」、もしくは「ゆうメール」で届いた荷物を送りたかったのだけれど、サイズと内容的に無理だった。そもそもこの送料は「お急ぎ便」が書いてある通りの日時に到着していれば負担する必要はなかったのだが、結局余分にお金を支払うことに。その際に今から思えば楽観的なミスを犯していた。「レターパックプラス」では「配達希望時間帯」が指定できないのだが、「ゆうパック」の「配達希望時間帯」を「希望しない」を選択してしまった。これは「配達希望時間帯」を「希望しない」方が一番早い時間に着くという経験をしていたのでそれを選択したのだが、「運送業界狂想曲」の演奏が盛り上がっている現状ではそれは明らかに悪手だった。「配達希望時間帯」を「希望しない」ということは、一番最後に回しても文句は言わないという意思表示に等しく、実際にそういう扱いをされた。結果として「レターパックプラス」の方が早く着き、「ゆうパック」の方は夕方の遅い時間に着くことになった。

再配達

さらに問題はこれでは終わらなかった。送り先では家に在宅していてインターホンが鳴って商品が到着した。なのでマンションの鍵を開けたのにも関わらず、商品が配達されずに不在票を残して帰られてしまったとのことだ。再配達は最悪その日の内にできないかもしれないということで、直接最寄りの郵便局に電話することに。郵便局だけの問題ではないが、そもそも「Amazonプライム会員」の「お急ぎ便」が遅れ、郵便局の「レターパックプラス」と「ゆうパック」で本来不必要だった追加の送料を支払い、荷物の到着がぎりぎりまで遅かった上に、家にいたのに不在票が置かれてその日のうちに再配達もされないという事態に見舞われたので、さすがに一本電話を入れてしまった。結局事情を伝え、ドライバーの人はその日の最後に再配達するとのことだったのでそれで一件落着した。一瞬鍵が開いていなかった、開いていたという水掛け論になりそうだったので、それはもうどっちでも良いから今日中に再配達すれば良いとだけ伝えておいた。

今回の記事のまとめ

簡単に今回の記事をまとめると、「運送業界狂想曲」に巻き込まれ、「Amazonプライム会員」の「お急ぎ便」が遅延し、郵便局の「レターパックプラス」と「ゆうパック」を有料で使用することになったが、「配達希望時間帯」を「希望しない」に選択したことによって荷物が最後に回され、さらに家にいたのに不在票が置かれたというのが一連の流れ。これを予防するにはまず遅延の可能性を考えて早めに注文し、「配達希望時間帯」は選択できるなら選択すること。「配達希望時間帯」というサービスは運送業界にとっては辛い制度なので、それが辛いのならばそんなサービスは廃止するべき。元はと言えば業界の構造とサービスに対する対価の安さの問題なので、この問題が即座に解決することはない。ちなみにマンションの場合、部屋の前まで配達するのが運送業者のサービスの基本である。顧客側の対策としては自分で勝手に予防するしかないが、この問題は日本におけるあらゆる問題の縮図を示しているので、この問題が解決した時何かが大きく変わるのかもしれない。

Nildonでの五つのTootを紹介

SNS全般と個人的な活用の話

今回の記事では個人的に運営しているMastodonのインスタンスである、Nildonでの五つのTootを紹介する。Facebookを辞め、Twitterもほぼ更新せず、最近ではブログのみを更新している日々だったのだけれど、実は密かに先月からNildonでは毎日Tootしていた。まずSNS全般の話をしておくと、FacebookとTwitterを名刺代わりにしているコミュニティもあり、基本的にSNSは銀行口座のようなものなので、持っておくと信頼が貯蓄されていくという利点はある。そういう意味でフリーでやっていく人はSNSをある程度活用するべきなのだが、普通に生きていく分にはSNSがない生活の方が優れている点はあり、そこは個人の選択になるだろう。個人的にSNSを余り活用していない最大の理由は、芸名、複数プロジェクト、日本語/英語という3点を運用の労力を考慮した上で高度に解決できる手段が見つからないから。ただそこに関しては今後取り組んでいくべき課題なんだろうとは思っている。

SNSの発言などのブログ記事への埋め込み

またブログ記事にSNSの発言などを埋め込むと、いざSNSを辞めてデータを消去した際に、ブログ記事にまで影響が出るので余りやりたくない。実際にMastodonのインスタンスを移行した際に、以前埋め込んだ発言は消えてしまった。なのでSNSの発言をブログ記事に埋め込む際は、できるだけバックアップを取得し、消えても影響のないような内容にするべきかもしれない。ただ今回はMasto.HostのHugoが確実にデータを管理してくれていると信じているので、特に何もしない。

Nildonでの五つのToot

「お吸い物」

名付けといえばまずソシュール言語学でいう、シニフィアン、シニフィエが想起される。これを「お吸い物」に当てはめればシニフィアンという文字、もしくは音声は「お吸い物」であり、シニフィエは「お吸い物」のイメージや概念ということになる。ソシュールはそのシニフィアンとシニフィエの結びつきは恣意的、つまり偶然であるのにも関わらず、ある言語体系では必然であるかのように振る舞うのは面白いね的な提言をして、哲学者の間でヒットを飛ばした。ただ今回の発言はそんな高尚なものではなく、「お吸い物」って名前を良く考えたら何だか凄い名前に感じたということだ。「飲む」ではなく、「吸う」ことを前提とし、その動詞的な行為が名詞的なものに変換されているように見える。「お飲み物」と言えば様々な飲み物を指すが、「お吸い物」は一つしか指さない。また通常は「お」を付けて呼ぶのも何だかお洒落だ。他にも「肝吸い」っていうのも中々ホラーな名称だし、「お吸われ物」とかを味わってみたいとも思い始めたが、段々「お吸い物」がゲシュタルト崩壊してきたのでこの辺にしておく。

「字数制限テスト」

これはどちらかと言えば内容よりも、 字数制限を試したくて投稿した内容。日本は言語の性質上対象外だけれど、他国では実験的にTwitterの字数制限を140字から280字に拡張する流れもある。Mastodonは最初から字数制限が500字なので、文字数に関してストレスを感じることはほぼない。実際はTwitterのように短いTootが多くなるけれど、いざという時に最大文字数が多いというのは役に立つ。

ちなみに新井紀子が考案し、実施したテストがどのようなものであったかは以下のPDFファイルで知ることができる。

リーディングスキルテストで測る読解力とは

「意味と時間軸」

これはTootの内容の通り。以前からこれに似た主張をブログなどでもしていた気がするので、キーワードでブログ内検索をしたら以下の記事に書いてあった。該当しそうな部分だけ引用しておくけど、引用部分の方が長くなってしまった。本末転倒だが気にしない。

「スマホで“朝生”」第3弾「AI時代の“幸せな生き方”」違和感の掘り下げ

「役に立つ、役に立たないという話で常々思っているのが時間軸の問題で、大半の場合役に立つと言われているものは同時代的、近視眼的、つまり自分が生きている間くらいの短い時間軸の中で役に立つと言っている場合が多い。例としてはビジネス、デザイン、エンジニアリングなどが挙げられるだろう。100年後に同じビジネスモデルが通用する可能性は低いし、同じデザインのシャツが流行している可能性は低いし、同じプログラミング言語が使用可能な可能性は低い。逆に役に立たないと言われているものは、未来的、巨視的、つまり自分の死後から永遠の時間くらいの長い時間軸の中では、今役に立つと言われているものより圧倒的に役に立つものである可能性が高い。例としては哲学、アート、科学と言われるものは時代を超えて価値観を提供するわけで、同時代的にすぐに役立たなくても長い時間軸の中では役立っているとも言える。仏教の空と縁起の思想は未だに最先端であるし、「モナ・リザ」は時空を超えて人々に感動を与えているし、相対性理論がなければGPSも使えない。なので、役に立つ、役に立たないという話は時間軸という観点を入れると立場が逆転する可能性が高い。」

「起床と就寝のウロボロス」

哲学的で意味深なToot。人類に必要なものが全てこの8字に入っている。「起きる」ことを原因として「寝る」という結果があり、「寝る」ことを原因として「起きる」という結果があるのであれば、ここに無限の円環、つまりウロボロスが完成する。この無限の円環が完成した時、意識と引き替えに日常は少しだけ素敵なものに変化する。

「Suicaとの別れと出会い」

これに関しては以下の記事参照。

悲報3連発: 「IPHONE SE」逝く/「東京駅開業100周年記念SUICA」紛失/「発狂の名残」再発

さすがにこのブログ記事を書いた後にまた紛失したわけではない。ただSuicaの再発行を行うために緑の窓口を訪れた際に、過去にも紛失したSuicaがあることが判明した。しかも紛失したSuicaのうちの1枚は、手数料よりチャージ金額の方が低いので、再発行より新しくSuicaを作った方が安い。なので永久に再発行しないことになった。また「東京駅開業100周年記念Suica」をヤフオク!で購入するかもと言ったけれど、今のところは別のSuicaで代用することにした。これに関してはまだ諦めたわけではない。とりあえずSuicaを紛失すると色々面倒くさいことになることが分かったので、次は紛失しないように気を付けていきたい。

象一択

読者の方でMastodonをやっている人はほぼいない気がするけれど、もしやっている方はこのアカウントをリモートフォローすると上記のような役に立たないTootが毎日流れてきます。ブログはツッコミ要素が強くなっているので、最近は制作を重視しつつ、Mastodonでは主にボケと日常を垂れ流していこうかと。Mastodonに関しては移行の際にインスタンスとアカウントのデータが消失したけれど、何故か以前フォロー関係にあったアカウントは相手のアカウントを見るとデータが残っていたりする。でも実際には現在はフォロー関係ではないという意味不明な捻れ現象が起きている。これに関しては何とかしたいのだけれど、どうにもならなさそうなので現状放置している。ただ連合タイムラインというシステムがあるので、フォローしようがしまいが別のアカウントの情報が入ってくるのは楽しい。Facebook、Twitter、Instagramをどうにかしないとなぁと思いつつ、今日も象に戻っていく私を許してください。

NIL (Nildonアカウント)

「日本社会の解剖学」

目次

1. 「日本社会の解剖学」
2. 一つ目の疑問: 「何故人は選挙に行くべきなのか?」
2.1. 選挙での投票は義務か否か

2.2. 一票の格差と無効票

3. 二つ目の疑問: 「何故人は台風の日に仕事に行くべきなのか?」
3.1. 積極的に嫌々出社する人々

3.2. 思考停止と生産性の欠如

4. 一つの仮説: 「決められたルールに従い、ルールを守ることは他の何よりも優先される」
4.1. ルール絶対主義

4.2. 説得力と迷惑の構造

5. 日本社会を構成する五つのキーワード
5.1. 「忖度」

5.2. 「社畜」

5.3. 「エモさ」

5.4. 「時間厳守」

5.5. 「空気を読め」

6. 今回の記事のまとめとその結論から発展した考察
6.1. 今回の記事のまとめ

6.2. 結論から発展した考察

「日本社会の解剖学」

今回の記事は「日本社会の解剖学」ということで、日本社会の構成要素について要素還元主義的に分解し、その結果をゲシュタルトの創発性に従って解釈してみる。要するに日本社会全体を一つの大きな建築物とみなした上で、パズルや積み木のピースのようにパーツごとにばらばらに分解し、それを再度部分と全体性の関係において日本人の行動指針のメカニズムを捉え直すという試みをしてみたい。何故この試みをしようと思ったかというと、その動機は簡単に言えば最近起きた二つの出来事において、周囲を観察する上で浮かんだ具体的な二つの疑問と一つの仮説に起因する。なのでまずはその二つの疑問と一つの仮説について説明した後に、「日本社会の解剖学」についての話を進めていきたい。

一つ目の疑問: 「何故人は選挙に行くべきなのか?」

選挙での投票は義務か否か

一つ目の疑問は「何故人は選挙に行くべきなのか?」事実ベースの話を進めていくと、まず日本は義務投票制を採用していないので、投票は義務ではない。よって投票する人と投票しない人は立場上同じであり、投票しないからといって何からしらの罰則があるわけでもなく、政治に関する権利が剥奪されるわけでもない。しかしSNS上の意見を眺めてみると、「選挙に行かない人間に政治を語る資格はない」、もしくは「選挙に行かずんば人に非ず」というような過激な意見が多数見られ、それは一定の支持を得ているように見えた。また投票棄権に関しては以前、以下のリンクでまとめたのでそちらを参照してほしい。

投票棄権した際のテンプレートな反対意見に対する反論

一票の格差と無効票

そもそも現状の選挙制度において一票の格差の問題は解決しておらず、無効票の割合も多い。一票の格差の問題は小選挙区制の問題でもあるので、選挙制度を比例代表制に一本化するなどの変更をする必要がある。比例代表制においてはそもそも一票の格差は存在し得ない。また参議院選挙の非拘束名簿式のように政党・政治団体名だけでなく個人名での投票も認めることで、より自分と近い立場の人を選ぶこともできるし、他にもマイナーチェンジで解決できる問題がありそうだ。デメリットとしては比例代表制の非拘束名簿式の場合は全国的な知名度の高いタレント議員が強く、小選挙区制の場合は地元に基盤を持つ世襲議員が強いという特徴があるが、これに関してはどっちもどっちだろう。無効票の割合が多いことに関しては日本が先進国の中でほぼ唯一記号式投票を採用していないことに原因があり、書き間違いの多い自書式投票は即刻止めた方が良い。個人的には投票率を増加させようとするより、上記の2点を改善した方が遙かに簡単かつ早く、改善効果が高いように思う。

二つ目の疑問: 「何故人は台風の日に仕事に行くべきなのか?」

積極的に嫌々出社する人々

二つ目の疑問は「何故人は台風の日に仕事に行くべきなのか?」台風22号が日本列島に上陸して猛威を振るい、各地で川が氾濫し、事故が起こり、電車が止まる中、それでも出勤しようとする人々の意志は止められなかった。これには経済的合理性を優先した結果という見方で説明が付く部分もあるが、それだけでは説明不可能な何かを感じた。人々はテレビで報道される運休情報を鵜呑みにせず、インターネットを駆使し、さらには自らの足を使って積極的に駅に出向き、時には運休情報の誤りを指摘して拡散していた。またこうすれば出社できる、こうすれば時間短縮できるというような情報も大量に流され続けていた。確かに仕事が楽しくて楽しくて仕方がないという望ましい状態であるならばその行動にも一定の理解はできるが、大半の人々は義務感に支配されながら積極的に嫌々出社していくという異様な状態に見えた。

思考停止と生産性の欠如

仮に自分が社長で、台風の日に何の疑問も抱かずに積極的に出社してくる社員がいたとしたらその場で首にするかもしれない。何故なら真面目で実直であることは必ずしも有能であることを意味せず、現場に来るリスクを考えず、訓練された奴隷のように集ってくる行動には一種の思考停止を感じるからだ。確かに業種によっては絶対に休めない仕事というものもあるのだろうが、全ての人の仕事がそのような種類の仕事であるとは考えにくい。そもそも残業の多さと長さに定評のある日本人だが、2016年度の1人当たり名目GDPが世界で22位というランキングにおいてその生産性の低さは示されてしまっている。またブラック企業をはじめとする労働においては労働時間の長さで解決しようとする場合が目立つが、休むべき時は休んだ方が結果として生産性が高まることは事実だ。

一つの仮説: 「決められたルールに従い、ルールを守ることは他の何よりも優先される」

「ルール絶対主義」

上記の二つの疑問から導かれる、日本人の行動指針となる仮説はこうだ。「決められたルールに従い、ルールを守ることは他の何よりも優先される」。つまり「何故人は選挙に行くべきなのか?」という疑問、または「何故人は台風の時に仕事に行くべきなのか?」という疑問に対する答えは、「ルールで決められているから」だ。それ以外にも細かい理由はあるだろうが「選挙に行かない」ことも、「台風の日に仕事に行かない」ことも、「ルールに疑問を持っている」、もしくは「ルールを破っている」という点においてその他の全ての理由を超越して罪深いということだ。つまりこれは柔軟性に欠けた「ルール絶対主義」であり、この信仰は宗教のレベルで根深く、日本人の深層心理の奥深い部分に存在している。

説得力と迷惑の構造

ちなみに筆者は選挙に行ったが、この補足情報によって、先程の選挙に関する意見の説得力が変わるという人は一定数存在するだろう。だとしたらその「選挙に行った」という事実が担保している力は一体何なのかということだ。もしくは積極的に嫌々出社する理由の一つとして、他人に迷惑をかけるからという理由があり得ると思う。しかし迷惑というのは主観的かつ相対的な概念であって、他人に迷惑をかけるからという理由で全員が出社することによって、全員に迷惑がかかるという現状もある。そのロジックによって他の会社が通常通り稼働しているから、それと関連する他の会社も稼働しなければならず、結果として日本全体で誰も休めないという状況が作り上げられる。言い換えればここにはゲーム理論における囚人のジレンマのような構造が発生しているとも言える。

日本社会を構成する五つのキーワード

先程は「何故人は選挙に行くべきなのか?」と「何故人は台風の日に仕事に行くべきなのか?」という二つの疑問から、「決められたルールに従い、ルールを守ることは他の何よりも優先される」、つまり「ルール絶対主義」という一つの仮説が導かれた。ではこの仮説から導かれる日本社会を構成するキーワードとは何だろうか?それを以下に五つ挙げてみる。

「忖度」

まず日本の社会が「忖度」が基盤となって構成されている社会であることは自明だ。また「ルール絶対主義」と「忖度」はとても相性が良い。どちらも原理主義に近づけば近づくほど自己犠牲の精神が強くなる。つまりルールを設定したことによって達成したい理念よりも、ルールを守ることの方が自己目的化し、「忖度」をすることによって達成したい理念よりも、「忖度」をすることの方が自己目的化する。またどちらもルールの外側や権威に対しては盲目であり、それらに対する疑念や逸脱するものに対しては厳しい対応を取ることも共通している。

「社畜」

「社畜」は労働者が経営者を「忖度」した結果生まれる。例えばブラック企業が本当にブラック企業であるならば、辞めるか労働基準監督署にでも行けば良いのであって、それらをしていないという時点で、労働者が消極的にでも経営者に対して協力していると捉えることができる。また「社畜」は先程も挙げた台風でも積極的に嫌々出社するという行動や、残業の問題とも当然密接な関わりがあるだろう。「社畜」を支えている思い込みの一つに、恐らく会社を辞めたら「食べていけない」というものがある。ただしこれは思い込みに過ぎないのであって、そもそも日本国民には日本国憲法第25条において「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」があり、社会保障もあるので文字通り「食べていけない」というのは知識不足の思い込みに過ぎない。

「エモさ」

「エモさ」は日本人の最も特徴的な性質の一つである。そもそも日本における「エモさ」の優位性は日本語における情緒の表現のし易さと、論理の表現のしづらさに一因がありそうだ。ただし現代においては世界中が「エモさ」に溢れ始めているので、実は何周遅れか日本の方が早すぎた、もしくは遅すぎたことによって世界がその境地に追いついてきたとも言える。実は「エモさ」というのはAIが進出する社会において最も重要な指標の一つであり、ある意味で人類の大多数はこの「エモさ」に最適化する群になりつつあるという仮説は以前も紹介したことがある。そういう意味で「エモさ」の重要性はこれからも上がっていくのだが、これがポピュリズムやPost-truthを形成している最も大きな要因であることも疑いようがない事実だ。

「時間厳守」

「時間厳守」は「ルール絶対主義」から演繹して導き出せる決まりの一つ。ただこれに関しては実際には「社畜」として残業をしまくっているという現状があるので、実は「時間厳守」は全くしていないとも言える。開始の時間には圧倒的に厳しいのに、終了の時間には圧倒的に緩いというのが日本的な「時間厳守」の一つの特徴である。また「ドタキャン」に異常に厳しいのもこの「時間厳守」の原則があるからで、逆に無駄な会議で人々の時間を延々と無駄にすることに対しては余り罪の意識がない。この「時間厳守」は義務教育において幼少期からすり込まれた原則なので、基本的には大人になってからも変わることはなさそうだ。

「空気を読め」

「空気を読め」は「忖度」とほぼ同じ意味だが、日本社会を構成する上で非常に特徴的かつ強い概念なので改めて言及することにした。「空気が読めない」という宣告は日本社会において死刑宣告並に重いものであるが、「空気を読む」ことは局所最適であっても、全体最適ではないことが多い。これはどういうことかと言うと、例えばある会社の会議において、社長の意見に対して誰もがおかしいと思っているのに「空気を読んで」指摘しない状態が続くとする。その場では全会一致になり、場を乱さないという意味での局所最適はなされるかもしれない。ただその状態が長く続くことで、結果として離職率が上がり、業績が落ち、会社が倒産したとしたらそれは全体最適ではないということになる。また進化の過程においては常に「空気が読めない」個体だけが進化を促してきたという経緯がある。水中の魚が全て「空気を読む」個体ばかりであったとしたら、陸上に上がることは永遠になかっただろう。つまり陸上に上がった魚は「空気が読めない」が故に進化を促したとも言える。

今回の記事のまとめとその結論から発展した考察

今回の記事のまとめ

今回の記事では「日本社会の解剖学」として、日本人の行動指針のメカニズムを明らかにすることを目的としていた。そして「何故人は選挙に行くべきなのか?」と「何故人は台風の日に仕事に行くべきなのか?」という二つの疑問から、「決められたルールに従い、ルールを守ることは他の何よりも優先される」という「ルール絶対主義」の仮説が導かれた。この仮説を元にして日本社会を構成要素する五つのキーワードである「忖度」、「社畜」、「エモさ」、「時間厳守」、「空気を読む」を見出だした。最終的にはこれらの疑問、仮説、キーワードを辿ることによって、日本社会は解剖され、その病理と本質が見えてきた。

結論から発展した考察

ここでその結論から発展した意見を述べると、日本社会においては「ルールを守り続ける」ことに対するリスクが考えられていないというセキュリティホールの存在に気付く。ルールはそれを守ることで達成したい理念があるから守るのであって、様々な物事に対する流動性が高い現代においては、ルールを無自覚かつ無批判に守り続けることはリスクに他ならない。またこういった意見もタブーである「ルール批判」であるので、「忖度」、もしくは「空気が読めない」としてそのセキュリティホールを埋めることが難しいというリスクも同時に存在している。「忖度」や「社畜」や「時間厳守」によってルールを律儀に守る仕事や業界が丸ごと消え去り、「空気を読め」という声によってイノベーションの芽が速攻で潰されたとしても、AIの日進月歩の進化によって新しい環境の開発と適応が絶え間なく求められる社会において、ある種の自然淘汰は人間の意志とは無関係に着々と進んでおり、気付いた時には何も残されていないという「エモさ」が将来的に出現するのだとしたら、それは一つの個体群における局所最適としての選択に対する責任の引き受け方として甘受すべきだと考える私もまた、間違いなく「エモい」日本人の1人なのだろう。

Talking to You

昨日Linkin ParkのヴォーカリストであるChester Benningtonが亡くなった。今年の5月18日に自殺したとされているChris Cornellと死因が同じで、彼の誕生日と同日であったことと、これまでの発言から後追い自殺であった可能性があるそうだ。Linkin Parkとの出会いはまだCDショップが街の至るところにあった時代、The Usedの『In Love and Death』と一緒に『Meteora』をジャケ買いしたのを覚えている。そのアルバムが気に入ったので、後にデビューアルバムである『Hybrid Theory』も遡って聴いていた。彼らの曲の中では特に『Breaking The Habit』が好きで、Music Videoも良く見ていた記憶があるし、Chester Benningtonの透き通ったシャウトは当時衝撃的だった。Linkin Parkは学生時代Sum 41、Evanescence、Slipknot、Kornなどと共に洋楽を聞くきっかけになったバンドだったし、アメリカ留学中も知ってる人が多かったので話題としても助かった。3rdアルバムからは余り聴かなくなってしまったのだけれど、1曲ごとにここまで確立した世界観があるバンドはそう多くない。

自殺については悲しいけれど何も言えない。表面がどれだけ理知的に見えても内面に多様な感受性を持っている人もいるし、感受性の豊かさを過剰にアピールする人は胡散臭いと思っているし、その人の人生を生きたことがない以上外側から安易に判断することはできないし、感受性なんてものは計量できるものでも他人と比較するものでもない。自殺を考えたときに分かった顔で自殺するなという意見が溢れるとさらに死にたくなる。一方でKornのギタリストBrian Welchのように、作品を通して影響力の大きいメッセージを発信したきた人がファンを裏切って自殺することを批判する意味も良く分かる。負のエネルギーや自殺衝動を昇華して制作することは良くあることで、衝動的もしくはそのエネルギーが制御できなかった際に自殺に至る場合もある。

個人的には元々躁鬱病と統合失調症の気質が強いアーティストである一方で、海外で競技ディーべートをやった経験から感受性と論理が両立すると考えていない人からは様々な誤解を受けることが多いのだけれど、外側の固定化された物差しから見ればそんなものなんだろう。建設的な批判を人格に対する中傷で返されることもあるし、人を傷つけるなという言葉で人を傷つける人、迷惑という言葉で迷惑をかける人も良く見掛ける。大切なのは相手に対しても自分に対しても常に誤解をしているはずだという自己批判意識があることと、命については相対化しないこと。自殺を肯定する理由、否定する理由なんて考えていたらそれこそ矛盾なく幾らでも挙げられるのであって、そもそもこのテーマを議論の俎上に載せること自体が間違いだ。生きる意味も同じで、最初からそんなものは存在しないし、存在すると主張するものは宗教か洗脳であって、それは最終的には自ら作り出すしかない。悟った人間を例外として、人は幻想に生きて、幻想に死ぬし、それを恥じる必要なんてどこにもない。安楽死についてもこれからどんどん議論が進んでいくのだろうけど、それこそ不老不死の時代になったら「死ぬ権利」は今以上に議論され始めるのかもしれない。

最近は死に触れることが多くて、その場合仕事も何も手に付かなくなることがある。そんな時はできる範囲で休む、3食食事を取る、早寝早起きをするのが一番だ。死にたくなった際は自分の中にルーチンワーク的な流れを持っていると対処し易いし、局所的に病院や薬に頼るのもありだ。もしくは坂口恭平の「新政府いのっちの電話」(090-8106-4666) に電話をかければ良い。心が追い詰められている場合は視野が狭くなっているので、極限まで一人で悩んでいると雁字搦めになって閉じ込められてしまう。現代社会は極度のストレス社会なので、死にたくなるのがむしろ鋭敏かつ正常で、死にたくならないのは鈍感で異常なのだ。しかし、社会が鈍感で異常であることを前提に作られてしまっている以上、そこから外れた方が無理矢理合わせることを強要され、社会が間違っていると指摘する人は狂人か精神病か落伍者の烙印を押されるしかない。もしくはアーティストやミュージシャンなどのクリエイティブな活動を通してそれを昇華するかだ。

大切なのは本来ただ生きているというだけでそれは大仕事であり、何にも代替できない価値があり、誰に何を言われようがそれを正面から絶対的に肯定することだ。逃げたいなら何処まででも逃げれば良いし、休みたいなら休みたいだけ休めば良い。それを許さないなら、許さない側が狂っているのだから気にする必要などない。それでも救われない命はあって、その場合の死は解放である。なので残された側は大変だっただろうけれど、お疲れ様と死を悼んで先へと進んでいくしかない。作品は死後も残り続け、次の世代へ影響を与え続ける。そういう意味では、彼は死後も生き続けていく。

R.I.P. Chester Bennington.

「Talking To Myself」