しりとりの修行を積んでみた

しりとりの修行

しりとりは奥が深い。しりとりが言語に依存することは言うまでもないが、そこには幾つかのルールと戦略のバリエーションが存在している。一番有名なルールは「ん」が付くと負けというものだが、実際には「ん」の付く言葉は皆無ではないので高度なルールでは「ん」の使用が許可されることもある。ここでしりとりのエッセンスを取り出すと、「言語空間と知識の制約を受けながら、言葉を紡ぎ出す連想ゲーム」ということになる。しかししりとりにとって重要なのはあくまで表面上の言葉であって、意味は完全に置き去りにされているということだ。ソシュール言語学で言うならば、シニフィアンが重要なのであってシニフィエは問われない。よってしりとりにおいては、その無意味な文字の連なり、突飛な連想ゲームが最終的に塊として出現することになる。そこでその塊は何かを示すことになるのかもしれず、そのことを検証するために今回はしりとりの修行として一人しりとりを異なる方法でやってみたいと思う。

100回しりとり

実演

しりとり → 陸上競技 → 擬態 → 板 → 体力測定 → インノケンティウス3世 → イタチ → チリ → 林檎 → ゴーストライター → 魂 → 椅子 → 水泳 → イスタンブール → ルミノール → ルール → ルクセンブルク → 鯨 → ライチ☆光クラブ → ブール関数 → 宇宙 → 鰻 → 餃子 → ザクロ → ロックンロール → ルービックキューブ → ブラジル → ルンバ → バミリ → 理化学研究所 → ヨーロッパ → パセリ → リュウグウノツカイ → インポテンツ → ツインビー → ビール → 流刑 → イチジク → 熊手 → 出口 → 地球 → 鬱血 → 津軽海峡 → 烏骨鶏 → イッテルビウム → ムー → 村 → 落雷 → イチョウ → 運動会 → インフルエンザ → 財務省 → 牛久 → 国木田独歩 → ポカホンタス → スマイリーキクチ → チャルメラ → 落花生 → イリジウム → 骸 → ろくろ首 → ビット → とんねるず → ズーラシア大陸 → 工藤新一 → 血 → 秩序 → 洋室 → 積み木 → キュウリ → リーマンショック → 空海 → インド → ドイツ → ツンドラ気候 → 馬 → マイクロメートル → ルイジアナ州 → 雲梯 → 命 → 超能力 → 苦海浄土 → 土木 → 苦行 → ウーマンラッシュアワー → ワニ → 虹 → 地雷 → 伊能忠敬 → 海上保安庁 → 浦島太郎 → うたた寝 → ネバーランド → ドリーム・シアター → 短冊 → クトゥルフ神話 → ワンダと巨像 → うちなーぐち。

分析

まず100回しりとりをやってみた。ルールとしては「ん」を付けることなく、単純に100回しりとりを繰り返すことができれば成功。やはり1人でやっている分、自分の知識や好みの傾向、偏りが出てくる。また「インノケンティウス3世」については、「インノケンティウスループ」というテクニックがある。これは何かと言えば、インノケンティウスは3世が特に有名だが、実際には1世〜13世まで存在しているので、「い」の付く言葉が来た時には13回これらの「インノケンティウスストック」を使用することが可能になる。欠点としてはその戦略がばれた時点で「インノケンティウスループ」が禁止される可能性があることと、「インノケンティウスループ」においては最後が「い」になるので、相手も同様にそのテクニックを使用してくることで、一気に「インノケンティウスストック」が消費されてしまう可能性があることだ。他には元素記号を覚えておくと有利なことと、「る」攻めの中でも特に「る」で開始して「る」で終わる「ルール」、「ルミノール」などは覚えておくと良い。個人的には地球 → 鬱血 → 津軽海峡 → 烏骨鶏 → イッテルビウムの流れが好き。

文字数増加しりとり

実演 (日本語)

絵 → エイ → イチゴ → ゴミ箱 → コカコーラ → ラウドロック → クロネコヤマト → 冬虫夏草 → ウクライナ航空 → ウッチャソナソチャソ → 総合人間学部 → 文豪ストレイドッグス → スマトラオオヒラタクワガタ → 大日本帝国憲法 → 宇宙戦艦ヤマトシリーズ。

実演 (英語)

I → it → toy → yell → light → tripod → darling → Gregoria → Arlington → navigation → nationality → youthfulness → sexualization → neurobiologist → troubleshooting.

分析

次に文字数増加しりとりを日本語と英語でやってみた。日本語に関しては濁点の使用や、〜シリーズの使用など際どいところもあるが、15文字が限界だった。英語に関しては初めての試みなのでやり方に戸惑い、動詞や形容詞を挙げたくなるところを我慢して名詞で頑張ったものの、こちらも15文字が限界だった。ただ単にそれらより長い単語なら思い付かないこともないのだが、しりとりという連なりの制約上難しいものがある。振り返ってみると特に日本語では「う」攻めで自爆し、英語では「n」攻めで自爆するなど勝手にどつぼにはまっていく過程が垣間見える。実演してみた結果、100回しりとりよりも文字数増加しりとりの方がシビアであり、特に最後の文字を何で終わるかが後の命運を分ける可能性がより高くなる印象を受けた

今回の記事のまとめ

今回の記事ではしりとりの修行ということで、100回しりとりと文字数増加しりとりを実演し、後に分析してみた。現代においては言葉や知識の重要性が相対的に低くなってきていることは確かであり、特に内容や意味を伴わない単語の羅列は人間の得意な領域でないことは確かだろう。しかし一方で自分の脳内の内蔵HDDに言葉や知識があることの重要性は変わらず存在している。それはつまり自分が使える画材が手元にあるということであり、また世界の解像度はそれらに依存するということであり、Google検索に入れる単語をそもそも知っていなければならないという問題への対処方法でもある。他にも連想で連なる単語から描ける想像力というものも存在している気がした。Wikipediaが存在している今、百科事典や辞典の意味も失われつつあるわけだが、一方でまとまった読み物として考えるならば、むしろそれらを今読んでみるのも面白いのかもしれない。

すしざんまい 本店に行ってきた

築地の罠

築地といえば海鮮、海鮮といえば築地。豊洲市場の開場日は今年の10月11日に決定したようだが、築地にはどこか江ノ島と似たような雰囲気を感じていて愛着がある。しかし築地には罠がある。そう、時間の罠だ。夕食時に築地を訪れても、ほとんどの店が閉店してしまっており、選択肢が非常に限られてしまう。そして夕食難民として築地周辺を彷徨い歩く中、過去の記憶がフラッシュバックしてくる。以前の時は何とか夜まで営業している店を見付け、夕食を食べたのだが、折角築地に来ているのだから別の店に行きたい。また一旦候補の店を決め、もう一周して他に何もなかったらそこに決めようとしていたのだが、もう一周回ってきたら何とその店が混み合っていた。そこで店の前を通る度にちらついていたすしざんまいのイメージが脳内で浮かび上がってくる。結局Hailey’5 Café渋谷店 → 変なホテル東京 銀座 → すしざんまい 本店という鮮やかな流れに身を任せ、可能世界の世界線を収束することにした。

すしざんまい 本店

早速すしざんまい 本店に入る。余談だが本店という響きには魔力がある。別に本店だから何が優れているという保証もないのだが、何か凄いのではないかと思えるそのハッタリこそが食事にとって重要な要素だ。店内は中々混み合っていたが、特に待つこともなく2階席へ案内された。このタイプの店にしては店員の数が異常に多く、活気がある。客層としては年齢層も人種も様々で、多様性に溢れている。席に着くといかの塩辛と海鮮ちらし丼を注文した。どちらも結構美味く、特に海鮮ちらし丼は量的にも十分。そもそも外食で余り不味いと感じない人間なので非常に満足し、素早く食べ終え、会計を済ませて店内を出る。

変なホテルとすしざんまいのコンボ

はすしざんまい 本店は24時間・年中無休らしいので、築地で夕食難民化してしまった際にはここに行けば良いと思った。それ以外の有名店などに行きたい場合は、事前に調べるなどご利用は計画的に。今回は寿司を食べなかったけれど、見た感じ美味しそうな印象だった。また接客に関しても本店だけあって、レベルが高い。本店繋がりで言えば、来る道の途中に築地銀だこ 築地本店があり、行きの際は帰りにそれを食べようかなどと思っていたのだけれど、お腹いっぱいでそれどころではなかった。というより帰りの時間には既に閉店していた。ちなみに変なホテル東京 銀座からすしざんまい 本店までは歩いて行ける距離なので、この周辺に来る際にはそのコンボを決めてみてはいかがだろうか。

変なホテル東京 銀座に宿泊してみた

変なホテル

変なホテルという名前のホテルがある。自らを変と自己主張するものに限って割と普通という法則は、人生の経験則として普遍的なものだ。しかし、ホテルが変ということはアニミズム的な日本ならではの哀愁を感じなくもなく、そこには一定の愛着が湧いてくる。そのようなことを特に考えることもなく、日程と価格と場所の条件が合ったので変なホテルをポチッと予約した。実は変なホテルについては、数年前に長崎のハウステンボスにできた当初から知っていた。しかし今回予約した変なホテル東京 銀座は今年に入ってからできたかなり新しいものであり、「変なホテル」という名称と「銀座」という名称が組み合わさることで、メロンソーダとエスプレッソを混ぜたようなメロンプレッソ感が出ている。というわけで、今回の記事ではその変なホテル東京 銀座に宿泊した体験について書いてみようと思う。

変なホテル東京 銀座

まず初歩的なミスを犯す。変なホテル東京 銀座というホテル名を見て、銀座駅が最寄り駅と勘違いしていたのだ。実際には新富町駅が最寄り駅で築地に近いのだけれど、予約した際の地図には新豊駅と書いてあり、ますます混乱は深まる。結果到着するのに大分時間がかかった。若干遅れて変なホテルに到着すると、事前情報の通りロボットが接客すると思いきや、普通の人間が出現する。そして普通に予約の確認を済ませる。その間もずっと受付の人間をロボットかアンドロイドかと疑って警戒していたのだが、どこからどう見ても普通の人間だった。結局チェックインに関してロボットが関わったのは一瞬だけで、正直拍子抜けした。チェックインを済ませると、エレベーターを使用して部屋へ移動。良いところ、悪いところを箇条書きにしてみると、以下のようになる。

良いところ

・部屋は十分広い。
・風呂が綺麗。
・テレビが大画面で、スマホのYouTubeの映像を投影して楽しめる。

悪いところ

・変にテクノロジーを駆使しようとして、逆にUX/UIのクオリティが下がってしまっている。
・LG Stylerの音が大きい。
・変ではない。

結論

結論を言うと、変なホテルは変ではなかった。何もかもが凄く普通で、特段に良いところも、特段に悪いところもなく、無難な印象。変なホテルというハードルを掲げてしまっているのでこういう評価になってしまうが、別の名前だったらまた違う評価になったかもしれない。ただロボットを使用した接客にはまだまだ超えなければならないハードルが沢山あるのだろうな、と思わせるには十分な宿泊体験だった。実際不気味の谷も結構発動していたし、むしろ恐竜のロボットを見てみたかった感もある。「変わり続けることを約束するホテル」ということで、数年後に何もかもが変わった変なホテルへと変貌を遂げていることを期待したい。

Hailey’5 Café渋谷店に行ってきた

Hailey’5 Café渋谷店

Hailey’5 Café渋谷店に行ってきた。まず18歳以上限定かつ完全防音なので店内の雰囲気は落ち着きがあり、個室にも静寂が漂っている。雑音や騒音に過敏に反応してしまう自分のような人種にとっては、このルールと設備はありがたい。また平日の場合は9時〜18時までならフリータイム1500円で使用できるので、コスパも悪くなく、アイスを含めたドリンクバーの利用が可能で、漫画も読み放題である。一応事前に予約して部屋と時間を確保するのがベターで、1時間までなら外出も許可されている。予約するとQRコードと予約番号が発行されるのは便利だが、登録とクレジットカードでの支払いをカウンターで済ませるのは多少時間がかかった (現金の場合は機械で支払い可能)。個室が余りに快適なので食べ物などをかなり注文してしまったのだけれど、持ち込みや外出も可能なことから考えると無理に全てを内部で済ませる必要はないかもしれない。

『食戟のソーマ』

折角なので漫画を読むことにしたのだが、『食戟のソーマ』で久々に週刊少年ジャンプの世界観に浸った。料理バトル漫画の代表といえば週刊少年マガジンで連載されていた『中華一番!』が真っ先に思い浮かぶが、その審査員たちの顔芸とエロ芸の伝統、ジャンプ流の「友情、努力、勝利 、(血統)、(インフレ)」を引き継いでいるのが『食戟のソーマ』である。ただ主人公が勝つことを至上目的とせず、負けても挑み続ける姿勢、定食料理屋の息子という出自をフル活用すること (ワンピースのルフィで言えばゴム人間的な選択と集中) などには久々にベタな感動を覚えた。YouTuberの始祖たる『ONE PIECE』より『HUNTER×HUNTER』派の自分としては複雑な心境だが、分子ガストロノミーなどアーティストとしても興味深い主題を扱っており、そもそも料理とアートという関係性に興味のある自分としては面白く読んだ。

総合的な評価

結局予約の通り合計5時間30分程度利用したのだが、時間が経つのが相当早く感じた。24時間営業であり、別料金でシャワーも使えるので、宿泊用としても使いやすそう。また都内に渋谷店と池袋店の2店舗があるので、より近い方を選べるのも便利。総合的に見て満足度が高く、都内で落ち着いた雰囲気かつコスパがある程度良い漫画喫茶を探している場合は、選択肢に入れても良さそう。ちなみに今回はシアタールームを利用したが、ネットルーム (リクライニング) もあるようだ。この日はこの後、変なホテルに宿泊し、寿司ざんまいに行ったのだけれどそれらについてはまた後日。

「人狼ジャッジメント」で遊んでみた

「人狼ゲーム」とは何か?

今年の2月から配信開始され、流行りすぎて既に衰退の兆しも見える「人狼ジャッジメント」。今回はそのアプリで遊んだ経験を元に、「人狼ゲーム」と「人狼ジャッジメント」について自分なりの考え方を簡単にまとめてみた。まず「人狼ゲーム」のルールや遊び方について知らない人は各自調べてみてほしいが、この記事ではそこからさらに一歩踏み込み、「人狼ゲーム」とは一体何なのかについて考えてみたい。それでは早速「人狼ゲーム」の要素、流れについてまとめると、以下の三つのようになる。

1. 人々の発言を元に、様々な役職、陣営の視点からの幽体離脱/憑依を繰り返すことにより、論理的な考察を進める。

2. その視点整理から導かれる考察を元に、自陣営に有利になるように、エモさを考慮しつつ発言と選択を繰り返す。

3. 敵対する陣営同士が最善を尽くすことにより、協力し合って勝敗を付ける。

反面教師の実例を通しての学び

幽体離脱/憑依

「人狼ジャッジメント」を実際にプレイしている中で、上記の3要素を考える上で反面教師の実例になるような出来事があったので、それについて書いてみたい。まず個人的にはその他の人の役職、陣営の視点になって考察することを、1のように幽体離脱/憑依と呼んでおり、意外とこれができない人が多い印象を持っている。「人狼ゲーム」では特殊な能力を持たない一般人を含め、全ての人に役職が与えられている。その役職は通常本人にしか分からず、また特殊な能力を持っている場合はその役職持ちの視点でしか分からない事実が存在することになる。そこでまずは自分の役職、陣営の視点を整理し、他人の発言を元に誰がどの役職なのかを論理的に考察を進めることが第一歩。しかしそこで止まっていてはダメで、さらにそこから違う役職、陣営の視点であったら今この状況はどういう盤面なのかを考察することがこのゲームの深みになっている。つまり自分視点だけ考えていてはダメで、限られた時間内で数多くの可能性と確率を幽体離脱/憑依を繰り返してトレースしていくことに「人狼ゲーム」の楽しさがある。

占い師の主張

ここで一つ実例を挙げるとする。市民3、人狼2、占い師1、霊能者1、狩人1、狂人1のデフォルト9人村での出来事。初日占い師が2人CO、霊能者が1人COして、初日占いの結果グレーが4人だった。そこでそのグレーの中から昼に1人が吊られ、夜にベグで占い師の1人が襲撃された。そして夜が明けた次の日の占いでグレーの中から黒出しされ、霊能者の結果は白。この状況で残った方の占い師が強く真を主張し、その黒を吊るしかない場面だと言っている。これに対して村はどう対応するべきか?まず村としては自分の役職、陣営の立場、つまり村目線で考えてここで残った方の占い師の黒出しを吊り、それが白だった場合の可能性を考える。すると狩人が既に死んでいる場合か、生きていてもGJが出なかった場合はPP、もしくは狩人がGJを出したとしてもRPPの場面ということが分かる。また初日囲いの可能性も考えると、襲撃されなかった方の占い師はどうしても怪しく見えてしまうという意味でも、占い師ロラが安定と考える。ただし最初に噛まれた占い師が明らかに人狼陣営の疑いが濃い、もしくは残った占い師が信用に値する発言をしている場合は思い切って黒吊りもあり。また狩人COも考えられる場面だが、狩人COはない。

自分目線への拘りと村目線の欠如

ここで重要なのが占い師の発言なので、何人かの人がそのPP、RPPの可能性を伝えた。そうするとその占い師はPP、RPPなどはどうでも良く、自分は真で黒出しをしたんだから信じて黒を吊ってくれという発言を繰り返していた。既にお気付きの方もいると思うが、この占い師の発言は全く村目線ではない。仮にこの占い師が真だとすれば幽体離脱/憑依が全くできておらず、自分視点で正しいことをただ正しいと伝えているに過ぎない。まずその占い師が真であるという事実を知っているのは自分だけなので、その事実を知ることができない村人陣営からすれば、村目線で見て負けが確定するかもしれない選択を強引に進めようとする占い師は狂人に見える。結果としてその占い師は真だったのだが、村の選択としては占い師ロラが実行されることになった。この場合この占い師は1がそもそもできていなかったことと、2の「自陣営に有利になるように」という発想が抜けていたと言える。なので他人からは確信できない自分の視点だけに拘り、村目線で考察することを放棄し、他人を上手く説得することができなかった。論理的な考察をして村目線で考えたとしても、エモさを考慮に入れていないために逆に怪しまれたり伝わらないことがある。そういったもどかしさや難しさを含めて「人狼ゲーム」は面白いのだが、今回の場合はそれ以前の問題だった。

村目線の発言例

最終的にその占い師は墓場で罵倒を繰り返し、負け確定と騒いでいたが、結局村人陣営が勝利した。勝利した後も自分を信じずに吊った人に対して謝罪を求めるように言っていたが、結果的に勝利したということはそもそも吊って正解だったということなので村人側は何も悪くない。というよりそもそも「人狼ゲーム」は騙し合うゲームなので謝罪も何もなく、信じてもらないのは自分の実力不足でもあるし、墓場の神視点で人を断罪したり、罵倒したりするのは問題外である。むしろ残った占い師が狂人っぽい振る舞いをしたことは利敵行為とまでは言わないまでも、自ら吊られる要因を作ってしまっているし、論理的な考察や村目線では考察できない占い師を残していても村利は少ない。よってあの場面では「村目線で見ればPP、RPPの可能性があるので、今夜私が吊られることは覚悟しています。狩人のCOがあるなら、今のうちに出てもらいたいです。」「遺言としては私目線で〜は黒で、他にも人狼が1匹いるので、できれば次の日は〜を吊ってほしいし、ラインを探してほしいです。またその時点で霊能が残っていれば色を見て判断してほしいです。占い師はもういなくなりますが、村人陣営頑張ってください。」などと発言していれば、少なくとも村目線で発言していると思われたはず。その場合も狂人が村目線で惑わす発言をしているとも取れるので、吊りの運命は変わらなかったかもしれないが、もしかしたらPP、RPP対策し過ぎるのもつまらないね的な展開になったかもしれない。

敵対する陣営同士の協力プレイ

また「人狼ジャッジメント」に関しては基本的に試合放棄や利敵行為をしてはいけない。自分の気に入らない役職だから放棄、仲間の人狼をバラすなどは全員のやる気を削ぐ。ただしたまにアプリが落ちることがあり、自分の経験としても何度も接続し直してようやく復活した頃には吊りが決定していたことがあったが、その場合は素直に状況を伝えて謝れば良い。そもそも「人狼ゲーム」は敵味方の陣営を問わず、参加者全員が協力して最善を尽くさないと面白くならない。そういう意味では3に書いたように、「人狼ゲーム」は自陣営とだけ協力すれば良いのではなく、敵陣営との協力プレイが本質とも言える。勝ち負けに拘るのは結構だが、その前提を忘れると敵陣営だけではなく、自陣営にも迷惑をかけることもあるので、ゲームを楽しむためにもその大局を忘れないようにしたい。

「人狼ジャッジメント」への要望

最後に人狼ジャッジメントのオンライン対戦 > 全国対戦への要望を二つ書いておく。

1. 屋敷に関して初心者部屋、中級者部屋、上級者部屋への参加は、レート制に基づいて選択できるようにしてほしい。

2. 墓場チャットの表示/非表示を観戦者が選択できるようにして欲しい。

レート制の導入

1に関しては現状初心者部屋、中級者部屋、上級者部屋、誰でも部屋が選択できるが、特にレートなどが設定されていないため、レベルが合っていない人同士がマッチングしてしまい、終始噛み合わない状況を度々見掛ける。上のレートの人は下のレートの部屋にも参加できるようにしても良いが、基本的にレベルに関係なく遊びたい人は誰でも部屋で遊ぶようにすれば良いと思う。荒らしに対してはブロックである程度対処できるけれど、レベルの違いは現状自己認識による。そして実力が低いうちは客観的に自分の実力を把握できないのもまた当然なので、そういった事故を防ぐためにもレート制の導入はありだと思う。レートのポイントは何をどうすれば上がる、もしくは下がるのかは幾つか実装してみなければ分からないけれど、少なくとも何も指標がないよりはましなはず。ただ「人狼ゲーム」は基本的に個人戦ではないし、レートのポイントによるマウンティングなどが流行してもつまらないので、基本的にはレートは隠れていて、ある一定の閾値に上がり下がりすると入れる部屋が変わるというくらい緩い設定をしても良いかもしれない。

墓場チャットの表示/非表示

2に関しては今後のアップデートで変更になるかもしれないけれど、現状の全国対戦では観戦者が墓場で発言ができないし、墓場チャットは丸見えになっている。それについて考慮してくれるプレイヤーもおり、墓場でのネタバレ禁止をしてくれることもあるのだけれど、これは誰か1人でも破ると無意味なので、基本的には結構な確率でネタバレが起こっている。また何故か観戦者は墓場チャットを見ることができないようにアップデートされたというデマが広がっており、ネタバレしても大丈夫だね的な発言を見ることが度々あるのだけれど、その発言も含めてしっかり見えている。これに関しては観戦者が墓場チャットの表示/非表示を選べるようにするべき。そうすれば墓場の人々は安心してネタバレをして楽しむことができるし、観戦者はネタバレしながら見たいなら表示、したくないなら非表示を選択すれば良い。また参加者の中で墓場のネタバレを見たくないという人もいるかもしれないので、その場合は参加者にも非表示があっても良い。ただその場合は他の墓場の人の発言を無視する形になるかもしれず、悩ましいところ。

「人狼ジャッジメント」のまとめと『レイジングループ』

YouTuber (ゲーム実況者) のおかげなのか、現在大盛況の「人狼ジャッジメント」。しかし人が大量流入するにつれて、深夜〜朝の時間帯しかまともにプレイできないようになっているようにも感じる。「ワンナイト人狼」などは比較的少人数でも行えるけれど、1人でも参加できるし、部屋もすぐ見付かる「人狼ジャッジメント」は良いアプリだと思う。また基本無料でプレイできるのはありがたいけれど、逆にもっと課金などで儲けなくて大丈夫なのかと心配してしまう。今回の記事では「人狼ゲーム」についての大きな枠組みと、「人狼ジャッジメント」の実例を通して説明したけれど、気が向いたら今後基本戦略や自分がやっていることについて解説することもあるかもしれない。最後に「人狼ゲーム」が好きな人は『レイジングループ』も絶対に好きなはずなので、必ずやってみてほしい。ホラーやグロが苦手な人でも比較的大丈夫なはず。また『レイジングループ』は今年の夏〜秋頃に続編が出るらしいので今から期待しつつ、しばらくは死のスケジュールの合間に「人狼ジャッジメント」で殺戮の現場を楽しもうと思う。

ほしい物リストの福音

時間と精神と肉体

この時期になると毎年誕生日というものを迎えるようだ。年齢に関しては一般的な解釈とは異なっている自覚があり、かなり独自の見解を持っている。簡単に言えば肉体的にも精神的にも年下でも実質上年上な人があり得るし、その逆もあり得ると思っている。また精神的の在り方が肉体に与える影響も大きいと思っており、その意味では顔の美醜というよりは顔付きのようなものに人生が反映されることもあるし、肉体年齢にも大きな影響を与えていると信じている。この考え方の根本には年齢というよりは時間に関する考え方と、精神と肉体におけるホメオスタシスの考え方の影響がある。まず時間の稠密度は人によって異なるという意味で時間の流れは誰にも平等ではない。それは例えば短眠などによる単位時間の区切りが平等な上での違いではなく、一定の単位時間の区切りの中での密度が違うということだ。また精神が肉体に影響を与えるのであれば、同じだけの時間を経過した人をまとめて同じ年齢で数えるという根本の概念自体がおかしいのではないかとも思っている。確かに社会的にはその方が管理し易いのだが、本質は異なり、年齢を経るごとに違いは顕在化してくる。そういう意味で10代の老人もあり得るし、50代の若者もあり得るだろう。実は日本社会には拝金主義と年齢差別が至るところに埋め込まれているのだが、その構造を変えることが難しいのならば、一方でその同調圧力をエネルギーとして変換して生き延びる術を身に付けなければならない。

感染力

生命時間は常に足りない。実現したいことに対して肉体の数が足りない。1人の人間が処理能力を極限まで磨いたとしても、そこにはやはり限界が存在する。よって理念を共にするチームを作ろうとする。しかし自分の性質とチームの相性を考えた際に、自らの才能だけでは足りないものに気付く。1対1の人間関係を深めることができても、1対多の人間関係を深めたり、広げたりすることには他の才能を持った人材が必要になる。そのような人材を手に入れるためには自分がさらに自分の色を濃くし、またその理念に同調するように人々を感染させなければならない。0から1では足りない、1から100でも足りない。0から100が最低限、そして願わくば時空を超えてその感染がミームとして情報空間の遺伝子に組み込まれていくように全力を尽くさなければならない。自分だけでは足りないことが分かっている、しかし現段階でチームを動かしても無理なことも分かっている。約1年前にその出発点から出発し、今年はさらにその深淵へと踏み込んでいくだろう。その先に見える景色はまだ見たことがないが、大きな挫折の後には必ず大きな達成があることを知っている。それは躁鬱の波の形に相似しているが、それ故にそのリズムは崩れているようで大局的に見れば安定している。その経験と好奇心だけが今の自分を支えている。

ほしい物リストの福音

ありがたいことに今年もNILのほしいものリストからプレゼントが届いた。一つはAmazonでもダントツに評価が高い「VOX PLUS BE 3DVR ゴーグル」というVRゴーグル。もう一つは『地域アート: 美学/制度/日本』という本。これらは両方以前から欲しかったものであり、欲しい物リストの福音を崇め奉るばかりである。「VOX PLUS BE 3DVR ゴーグル」は入門にぴったりのVRゴーグルとして良さそうに思っていたし、以前「VR ZONE Project i Can」を体験した時からVRコンテンツも大分進化してきた感があるので気になっていた。また地域アート: 美学/制度/日本で扱っているテーマに関しては自分も当事者として近い現場にいたし、その現場の問題点も感じていた。本書はその日本特有の現代美術に纏わる問題とそれに関連する諸情報をまとめた本として、必読の書だろう。本日はVRゴーグルを少しだけ体験し、本も読んでみたがどちらも素晴らしい体験だったので、後日改めて一つずつ詳細に記事にまとめてみようと思う。

NIL百科事典を作ろう 3

言語表現としてのNIL百科事典

NIL百科事典についての連載記事も遂に第3弾となり、いよいよ本格的に継続していく兆しを見せている。ブログ記事はできるだけその日に起きたこと、体験したこと、やったこと、考えたことなどを元に書くことにしているが、NIL百科事典などの記事は日付とは余り関係がないので、調整のためのクッションとして役割を果たすことが多い。またたまに気になった言葉とその言葉に対しての自分なりの解釈、考察をメモることもあるが、大体は即興で出てきたもの勝負といった感じだ。しかし即興であるからこそ、日常考えていることや思っていることが出やすく、その集積の一瞬の表出が真空パックされることもある。そういった感覚は詩を書いたり、川柳を詠む感覚と似ており、この一連の記事はやはり自分の中では言語表現として捉えているようだ。それでは早速いつも通り10の言葉を紹介していきたい。

10の言葉

天才

個人の天災的に突出したパラメーターと社会や時代の環境要因が激しく衝突した結果、時空を超越する巨大なミームが発生し、人類全体が感染するエモい現象、またはその偶像化された個人のこと。

味がある

何かを評価する際、相手を傷付けたくはないが褒められもしない場合、当たり障りのない言葉として重宝される言葉。

人狼

人と狼という概念が極限まで拡張された結果、人でも狼でもない人外が跋扈する現代の人外魔境と化した、真実と嘘の有効な使い方を習得するための知的心理ゲーム。

物質、もしくは情報の形態を取り、人間に寄生してその精神を支配することに長け、時にはその命すら左右することもある人類の共同幻想。

地球の面積の約7割を占め、波の反復のリズムと構造は起源と進化の象徴であり、その成分は人類の身体にも取り込まれてもいる、物理空間でありながら瞑想空間でもある不思議な場所。

空気

組成のほとんどがN2とO2から成る気体であり、人類にとっては吸う対象だが、その無色透明な性質は時に読むことに使用されたり、詠むことに使用されたりする。

謝罪会見

御輿に乗せられていた人物が御輿を担いでいた人物たちによりリンチを受ける様を風物詩として公共の電波で拷問のように垂れ流す電波ジャック。

VTuber

情報的身体のリアリティ強化によって情報的実質であるキャラが物理的身体の制約を離れ、パラメーター/役割の分離と統合により存在として認識できるまでに進化した姿、もしくはその裏方のこと。

協会

権力と既得権益を素材としてバランス良く混ぜ合わせ、ハラスメントと老害をスパイスに加えることで完成する箱庭の楽園。

きのこの山・たけのこの里

この世界からたとえ戦争がなくなったとしてもきのこの山かたけのこの里かという戦争は終わることがないが、それよりもむしろチョコレート味かメープルバニラ味/はちみつバター味かの方が大きな違いなのではと思えるような世界の不条理をパッケージ化した商品のこと。

今回の記事のまとめ

今回取り上げた言葉は、割と最近NILOGでも取り上げてきたような題材やそれに纏わる言葉、もしくは最近の生活に関係のある言葉が多かった印象がある。既に第3弾なので自分の中でのストックはもう存在していないのだが、書こうと思えば幾らでも書いていける感覚もあった。1文で書くという自然発生したルールも守っている。一方でNIL百科事典で言葉について自分なりの世界観で解説することは、その言葉やそれに関連する物事についてかなり詳しく知っていなければ難しい。何故なら辞書的な説明や要約はあくまでフックとして使用するだけであって、基本的には世界を捉える解像度を上げて、自分なりの解釈で切り取った世界を提示しなければ面白くないからだ。最終的に言葉が数百〜数千までストックされたらイラストなどを付けて、タイトルも含めて編集しつつ、一つの本にしてみたら面白いはず。ある程度ストックが溜まったら、誰か絵を描いてくれる奇特な人を募集しようかなぁなどと妄想している今日この頃である。

NIL百科事典を作ろう: 連載記事リンク

NIL百科事典を作ろう 1

NIL百科事典を作ろう 2

NIL百科事典を作ろう 3

散歩は麻薬である

散歩の語源

散歩は麻薬である。もちろん比喩的にではあるが、散歩が精神に与える影響とその常習性を考えると麻薬と似た性質を持っていると言える。毎回同じ道を同じように歩いているのに、五感を通して得られる情報と経験がダイナミックに変わり、またその結果として脳内で無意識に蓄積していた情報同士が作用し合い、新しい発想の種が生まれる。その体験は瞑想に近いと言えるが、身体を自然と動かす運動であること、また物理的に遠くの自然や風景がプラネタリウム、もしくはスピーカーのように存在しているという意味では環境からの刺激が多い分、1人静かな場所で行うタイプの瞑想とは違った体験が得られる。実際に散歩の語源は「五石散」と呼ばれる、古代中国で使用されていた麻薬と関係が深い。「五石散」を服用すると発散と呼ばれる発熱を起こすが、その発散が起こらないと中毒死を引き起こすために歩くことが奨励されており、それを「行散」と呼んだ。これが散歩の語源となっている。現代では状況が異なるが、運動不足や情報過多な状態が慢性中毒になっているような場合、散歩をして毒気を抜くというのも一つの手段になるだろう。

自動販売機とアート

散歩をしていると様々なものが目に付く。その一つが自動販売機だ。自動販売機はコカコーラ、サントリー、伊藤園などメーカーの違いもあるが、フルオペレーションかセミオペレーションという設置の方法の違いもある。前者は基本的に業者にお任せだがその分マージンを多く取られる、後者は基本的に自分で全てやる必要があるがその分売り上げは自分のものになる。以前からアートをアートと呼称しないで売ることに興味があるのだが、それは日本ではアートと呼称してしまった時点で作品を購入するという高すぎるハードル、心理障壁になるからだ。「iPhone」が何故これ程までに受け入れられたかと言えば、それは電話の延長線上にある携帯電話として販売したからであり、コンピュータとして販売していたらあれ程に売れていないはずだ。そういう意味で自動販売機やガチャや福袋などでアートを販売することには興味がある。

夕景の富士と海のリズム

夕景の富士

そんなことを考えているうちに橋の上から見えた夕景の富士を経て、海に到着する。生きていると絶え間ない無意識の意識化と意識の無意識化の循環が行われるわけだが、海に来ると精神の深いリズムが身体を支配して心地良くなってくる。それは海にリズムがあるからだ。寄せては返す波のリズムは太古の記憶と共鳴し合っているように感じる。実際に羊水の成分は海水の成分と似ているとされており、人間は血液や体液の形で海水の成分を身体に取り込んでいる。また脊髄、延髄、橋、小脳、中脳、間脳、大脳という脳の進化の過程は、少しずつ反復を繰り返しながらレイヤーを重ねていくという構造を取り、その類似した構造はジャンルを問わず社会のあらゆる文脈や歴史や都市の中に見出だせる。全く同じ反復でもつまらないし、異質すぎるレイヤーは排除されて残ることがない。この絶妙なバランスに人間の進化の秘密が隠されている。そういえば散歩の帰り道に鴉がゴミを漁っている場面を見つけた。ハリー・ポッターに出てくるレイブンクローは英語ではRavenclaw、分解するとraven (大鴉) とclaw (爪) で「大鴉の爪」という意味になる。だが例えばRavencrowだったら、分解するとraven (大鴉) とcrow (鴉) で「大鴉鴉」となる。 デュシャンの《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも (大ガラス)》をもじった吉村益信の《大ガラス》は元々《旅鴉》という名称だったらしいが、後にデュシャンの文脈を意識して改名された。この「大鴉の爪」と「大鴉鴉」という発想の繋がりもむしろ日本語的な発想からしか出てこないななどと思いつつ、少々麻薬が効きすぎた散歩を終えた。

「日常のゴールデンウィーク」と「人生がゴールデンウィーク」

ゴールデンウィークの過ごし方

自分にとってゴールデンウィークとはその他と何ら変わりのない日常である。というより日、週、月、年、曜日、休日、季節などの感覚が失われて久しいが、それらは電車の混み具合で、もしくは気温と服装の関係性を通して事後的に気付くものであって、事前に把握するものではなくなっている。さらに天気についても事前に天気予報を通して知るのではなく、他者を通して、もしくは土砂降りの雨が降ってきて初めて気付くものであって、そのびしょ濡れの気持ちよさは極めて原始的な感性と呼応し合っているように感じる。実際にはこれらの事柄は個人的なものであり、アーティストという言葉では括れない特徴だろう。一言にアーティストと言ってもサラリーマンもいれば、主婦もいれば、学生もいれば、人種も様々であるし、アーティストの自覚すらない人もいる。そこには人の数だけゴールデンウィークの過ごし方があり、自分としては混雑を避けるためにできるだけ外出を避けるというのがセオリーになっているというだけだ。

「日常のゴールデンウィーク」

そこで一つ閃いたのだが、「ゴールデンウィークの日常」ではなく「日常のゴールデンウィーク」と言ってしまったらどうか。「ゴールデンウィークの日常」と言ってしまうと、休んだり、外出したり、遊んだりしなければならないというある種の強迫観念が背景に存在することになる。この時期を逃したら次にいつその余暇と遊びの時間を取れるのか分からないというのがその原因だ。一方で「日常のゴールデンウィーク」という言葉には謎の爽快感と背徳感がある。これはただの言葉遊びの中に過ぎないのだが、言葉遊びには想像力を刺激する力がある。現代人は言葉遊びをしないし、詩的な文章を書くと直ぐに内容のないポエムと言って馬鹿にしたがる。しかし想像力が限りなく早く、また簡単に実現してしまう時代において重要なのはむしろ言葉遊びであり、詩を詠むことであり、言葉の世界に囚われないための言葉の使い方を身に付けることである。「ゴールデンウィークの日常」はハレの中のケの話だが、「日常のゴールデンウィーク」はケの中のハレの話である。ハレをケにしてしまうと退屈だが、ケをハレにしてしまったら楽しい。しかも「ゴールデンウィークの日常」は長くは続かないが、「日常のゴールデンウィーク」は毎週続けることが可能である。日常の中に潜むゴールデンウィークを探し続けること、それは人生の過ごし方と言っても過言ではない。

「人生がゴールデンウィーク」

そもそも生きていること自体が忙しいことなので、仕事や課題などがそこに加わったとしても大して変わりはない。生まれてくる前と死んでからの悠久の時間を考えれば、人間にとっては活動していない時間の方が遙かに長く、人間が活動している時間など些細な時間に過ぎない。このように「日常のゴールデンウィーク」を過ごしていると、忙しいという概念が根底から覆ってしまう。また人間として生まれてくると、とかく人間に注目しがちである。しかし一旦その中心軸を少しだけずらして、人間以外の要素に注目してみる。それは計算機かもしれないし、自然かもしれないし、原理かもしれないし、概念かもしれないし、まだ五感で体感したことのないものかもしれない。そういった事柄の輪郭を描き、ノイズを拾い、手触りを確かめ、匂いを嗅ぎ、舌で味わう。広大な空間には無限の時間軸が突き刺さり、それらは関係性として宙を漂っている。そんな瞑想空間が現実と重なり合う時、「日常のゴールデンウィーク」は「日常がゴールデンウィーク」に変わり、最終的には「人生がゴールデンウィーク」に変わるのである。

NILクイズ 3: 「サイコパスと桃太郎」

サイコパスと「三脚理論」

この世界には一生懸命なろうとしてもなりきれないものがある。自分にとってその象徴的なものの一つはサイコパスである。そもそもサイコパスは脳の構造自体が異なっている。サイコパスは主に扁桃体と内側前頭前皮質 (眼窩前頭皮質と内側前頭前皮質) の領域における活動の低下が見られる一方で、背側前頭前野皮質の領域における活動は活発であることにより、共感性の欠如と反社会性の顕在化に加えて、極めて冷静で論理的な思考能力を持っていることになる。ただしジェームス・ファロンの「三脚理論」によれば、脳、遺伝子、環境の三つの要因が揃わなければ、反社会的な行動を起こすサイコパスにはならないとされている。そういう意味でイメージ先行で単純に一括りにされがちなサイコパスの中にも、多様なグラデーションが存在していることが分かる。

社会との関わり

「クィア理論」

ここでいつも考えるのは、生まれつきの特徴として変えられないものを持って生まれ、それが社会に受け入れられない、もしくは害を与えると判断される場合、社会はその人物とどう向き合うべきか?という問いだ。その問いに関しては「クィア理論」の蓄積、つまりLGBTQと社会の関わり方が参考になる。LGBTQに関しては既に受け入れない方がおかしく、むしろ反対する姿勢が害であるという認識が一般的になってきている。恐らくこの潮流は時代の変化と共にさらに広がっていくだろうし、それ自体は非常に良いことだと思う。しかし一方で社会的に実害を及ぼすかもしれないサイコパスや性的倒錯者などについてはどうなのだろうか?

サイコパスと性的倒錯者

仮に「三脚理論」が正しいとするならば、サイコパスの要因のうち脳と遺伝子については生まれつきのものと考えられるし、環境に関しても虐待などは自分で選択して回避できるものではない。もちろん反社会的なサイコパスを生まれつきそうなのだから自由にすれば良いとは言えないが、治療することは難しく、また治療するべきなのかに関しても議論はあるだろうし、かといって全てがサイコパスの責任になるのかと言えばそれも違う気がする。これは性的倒錯者に関しても同様のことで、ある対象について欲情してしまうことそれ自体を禁止することはできないし、禁止するべきであるとも思えない。よって明確に犯罪行為を行った時点でそれらの特徴が顕在化し、法律の下に裁かれるということになる。しかしこういった特徴を持つ人物については、単純に社会が受け入れる/受け入れないという問題で片付けることができないし、責任の所在も曖昧であり、社会がどう向き合うべきかについては明快な答えを出すことが難しい

サイコパス診断

さて、サイコパスについての前置きを書いているうちに意外と真面目な話になってしまい、本題であったはずのクイズが後回しになってしまった。巷ではサイコパス診断というものがあり、これはサイコパスを戯画化した上で、エンターテインメント的にクイズ形式で回答し、サイコパスの回答例と比較して遊ぶものである。もちろんその信憑性はゼロに近いのだが、ある種の人間はサイコパスになりきって考えたとしてもサイコパスの回答例に近づくのが難しいという点が面白い。そこでサイコパス診断のようなクイズを考え、それに対する一般的な回答例と一生懸命サイコパスになりきって考えた回答例を考えてみたので以下に掲載しておく。

問題

むかし、むかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがありました。まいにち、おじいさんは山へしば刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました。 ある日、おばあさんが、川のそばで、せっせと洗濯をしていますと、川上から、「何か」が、 「ドンブラコッコ、スッコッコ。 ドンブラコッコ、スッコッコ。」 と流れて来ました。

その「何か」とは一体何でしょうか?

一般的な回答例

まずは一般的な回答例から。

「桃」

何をどう考えてもその答えは疑問の余地なく、「桃」。桃太郎を知っていようが、知らなかろうが、「桃」。それか「大きな桃」。それ以外の回答はあり得ないどころか、これが解答と言っても過言ではない。

一生懸命サイコパスになりきって考えた回答例

次に一生懸命サイコパスになりきって考えた回答例。

「おじいさん」

山へしば刈りに行った「おじいさん」は、しば刈りをしている最中に道から足を踏み外し、川に転落して見事な土左衛門と化してしまう。そして川上から「おばあさん」の元にその膨れ上がった体が「ドンブラコッコ、スッコッコ。 ドンブラコッコ、スッコッコ。」と流れて来た。

というのが一生懸命サイコパスになりきって考えた回答例になる。うん、何だかジャンルが違うが上手いこと言った気がする。

もしくは「おじいさんの首」とか?

「おじいさん」は、しば刈りをしている最中に誤って自分の首を切り落としてしまい、「おじいさんの首」が川に転落して〜以下略。

もしくは「おばあさん」もありかもしれない。

「おばあさん」は川で洗濯をしているふりをして、山へしば刈りに行った「おじいさん」を尾行していた。「おじいさん」にたんまりとかけていた保険金のことを考えると、「おばあさん」はそのしわくちゃな顔の皺をさらに歪めた笑みを浮かべた。しかし「おじいさん」を目の端で捉えた瞬間「おばあさん」は道から足を踏み外し、川に〜以下略。

それか「おばあさんの首」

以下略。

しかし良く考えてみれば「おばあさん」シリーズの回答例だと、「おばあさん」は洗濯をしていないので問題文に介入しているという点でいささかルール違反な気もする。このルールをいとも簡単に無視するという特徴がサイコパス的という考え方はあり得るが。もしくは「おばあさん」や「おばあさんの首」が川上から流れてくるところを目撃する「第2のおばあさん」の存在を仮定してみる。つまり問題文の前半 (むかし〜) の「おばあさん」と後半 (ある日〜) の「おばあさん」は全くの別人であり、通常想定される固有名としての「おばあさん」から、どこにでも存在するnとしての「おばあさん」へと話がいつの間にかシフトしているという考え方だ。そうなってくるとその「おばあさん」同士の関係性は正妻と愛人、もしくは赤の他人、ドッペルゲンガーなど問題文の中に「おばあさん」の可能世界が広がっていると言える。「おばあさん」という単語が継続して使用されているにも関わらず、全く別の存在を仮定できる思考こそがサイコパス的思考である。

などと考えてみたものの、ややこしくなるのでこの中では「おじいさん」がベスト回答ということで。

当初は「お前」「死体」といった回答例を考えてみたが、「お前」のように目の前の人物に対して警戒されるようなことを洗練されたサイコパスは言わないだろうと考えた。また「死体」については余りにもサイコパスとしてストレートすぎるのでやめた。これ以外の回答も無限に考えられると思うので、もし「これぞ洗練されたサイコパス」というような回答が思い浮かんだら是非教えてほしい。

NILクイズ: 連載記事リンク

NILクイズ 1: 「太陽は右から昇り、左に沈む」

NILクイズ 2: 「織姫と彦星」

NILクイズ 3: 「サイコパスと桃太郎」