「ZOZOSUIT」が届いたので体形採寸してみた

「ZOZOSUIT」届く

先日発送が遅れに遅れた「ZOZOSUIT」が遂に家に届いた。

袋を開封して中身を取り出した写真が以下。

断り書きにはセンサー方式からマーカー方式へと進化したと書いてあるが、これに関しては一先ず置いておく。「ZOZOSUIT」の上下を取り出し、計測用スマートフォンスタンドを組み立てる。

ここからはZOZOTOWNのアプリをダウンロードし、指示通りに計測していく。流れとしては「ZOZOSUIT」を着用し、時計回りに12回写真撮影が終了すると結果が表示されるようになっている。ただしテーブルの高さが低かったせいか、位置の前後が合わず、何度もアプリに注意される羽目に。さらには部屋の明かりが明るすぎてセンサーが読み取れないと言われたので、少しだけ暗くしたら暗すぎて無理ゲーと言われ、中々注文の多いアプリであることを把握する。計測結果に関してはここまで詳しく体系採寸したことがないので、どの程度の精度なのかはいまいち不明ながらも、大体正しそうな印象を受けた。最後に「あなたサイズ」の服と有名人がそれを着ている写真などをチラ見し、アプリを終了した。

センサー方式からマーカー方式へ

ここからは先程置いておいたセンサー方式からマーカー方式への進化について書く。進化は退化を伴うということは良く言われるが、ファッション的、もしくはコンセプトを体現するヴィジュアルとしては大分退化したというのが率直な感想。もちろん計測用なので別に問題はないのだが、こういう商品はブランドイメージが重要なので割とこの変更は痛い感じがする。初代「ZOZOSUIT」はセンサー方式でデザインも全く異なるものだったが、それは失敗に終わり、二代目「ZOZOSUIT」はマーカー方式でデザインが変更されていた。簡単に言えば前者はGantzのスーツのようなデザインだったが、後者はモーションキャプチャーの撮影用の服に水玉模様を鏤めたようなデザインになっている。また発送が大幅に遅れた代わりに送料など含めて無料になったのだが、それに関しては特に怒りも得をしたという感情もなく、色々大変ですねという感想を抱いた。

Maker Movementとビッグデータ

「ZOZOSUIT」に関して興味深いのは、Maker Movementで言われていたような流れに大企業が参入してきたということと、生体情報に関するビッグデータを収集した後にそれをどう活用していくのかということ。前者に関して言えば、デジタルファブリケーション的なカスタマイズ性により、個人に最適化した商品を生産することが鍵になるが、「ZOZOSUIT」はその流れを上手くファッション業界の中で活かそうとしている。また生体情報に関するビッグデータを応用すれば、それはファッションだけではなく医療や全く別の分野でも活用できるはずで、今後ZOZOTOWNがどのような方向性を打ち出していくのかは興味深い。単純にこの「ZOZOSUIT」を活用しようと思ったら、会員登録やアプリのダウンロードも自然に行わせることができるし、注文までの流れもスムーズに行く。しかしそういったビジネス上の上手さだけではなく、背後に隠された鉱脈をどう活用していくかによって、海外の大企業と競争できるようになるかどうかが決まるのではないかと思った。

VR瞑想のすゝめ

VRゴーグル = 瞑想の補助ツール

VRゴーグルは瞑想の補助ツールとして優秀である。根本的なことを言えば物理世界が存在するとして、人間は脳と心の情報世界のフィルターによってしか現実を認識できないので、人間は24時間365日瞑想空間の中に存在しているということができる。であるならば、本来はその情報空間に対して自覚的に自分自身 = 宇宙をハッキングしながら自分の理想の関係性 = 自我を世界に生じさせることを生きることと定義することもできる。そう考えると自我とは可変的なものであり、書き換え可能なものである。しかし多くの人間は自我についてそう認識してはおらず、自分の理想ではない世界を目の前に何度も出現させ、終わらない日常の中で悲劇的なループを繰り返している。そのループする世界線から脱出するために、VRゴーグルを使用したVR瞑想のすゝめについて今回の記事では取り上げてみたい。

快/不快とハードルの高さ

人は苦痛を感じたり、不快であったり、つまらないと思うことには取り組まない。たとえそう思う対象に無理して取り組んだとしても効率は著しく落ちるし、継続することは難しい。瞑想は多くの初心者にとって取り組みづらいものであることは確かであり、経験者の言うようなイメージや映像を五感を通して情報世界で体験することは難しい。つまり簡単に言えば瞑想がつまらなく感じたり、それを続けることが苦痛になったり不快に感じることは自然なことであると言える。そこでVRを使用して視覚と聴覚を使用した映像世界のイメージを補助輪とすることで、その最初のハードルを越えることは格段に容易になる。最終的にはその情報空間の上で理想的なドーパミンの経路を形成し、自分でコントロールできるようにすることが理想。ただしとりあえずVRの世界に没入してみることで、情報空間で運動するということがどういうことなのかという感覚を簡単に掴むことができるはずだ。要するにVR瞑想は通常は不快な状態を快の状態に変換することでハードルの高さを変更し、継続性を獲得するために有効な手段であるということができる。

「VRヒーリング瞑想」

そこで今回の記事では一番簡単に取り組むことができる瞑想として、「VRヒーリング瞑想」を取り上げる。その手順は以下のようになる。

1. 自分の中で最もリラックスできるVR動画を選ぶ。動画の長さは5分以上15分以下程度、イメージだけではなく音もリラックスできるもので、没入感を高めるために360度VR動画であることが望ましい。

2. 個室でVRゴーグルを装着する。個室で行うのはできれば周囲の目が気にならない場所の方が良いから。

3. 姿勢は結跏趺坐や半跏趺坐でも良いが、椅子に座ったり、寝転がったり、途中で動いても構わない。

4. 呼吸法は逆腹式呼吸を行う。逆腹式呼吸とは腹式呼吸の逆で、呼気の時に腹を膨らませ、吸気の時に腹を引っ込ませる呼吸方法。

5. 準備が整ったら準備していたVR動画を流しながら瞑想する。過去のトラウマになった出来事や嫌な記憶を思い浮かべ、それらとリラックスしたイメージや音から想像される心地良い情動を結び付ける。

以上の五つの手順を守って「VRヒーリング瞑想」を行うことで、過去や日常の出来事によるストレスを軽減し、新鮮な気分でまた新しい生活を送ることができるようになる。本来ならば過去のトラウマや嫌な記憶と心地良い情動を自分の力だけでイメージし、結び付ける必要があるが、「VRヒーリング瞑想」ではVR動画を使用することで取り組み易くなっていることが特徴。VRゴーグルは使い方によっては現実逃避のツールにもなるが、一方で使い方によっては現実と向き合うためのツールにもなる。また上記のような手順を完全に守らなくても、ストレスを感じた時にVRゴーグルを使用し、リラックスできるVR動画に短時間没入するだけでも大分違うので、少しでも気になった方は是非試してみてほしい。

健康的な夜行性生活

夜行性という病

夜行性は病である。動物には夜行性と昼行性の2種類あるとされるが、人間の場合の夜行性には昼夜逆転生活を送るダメ人間というレッテルが貼られがちである。実際夜行性であることによって概日リズムが崩壊し、精神に悪影響を被ることもある。また社会的な生活を営む上で昼行性であることは必須のスキルであり、その枠組みから外れることは自己管理がなっていないとして自己責任の対象になる。自分としても長年自分が夜行性であることに対する罪悪感とその実害に苦しんできた。夜行性であることにより食事回数、睡眠時間などの生活習慣、リズムが崩れ、その結果として日常生活に支障をきたし、昼行性のリズムに戻すためには莫大な時間を要する。しかし、たとえそのリズムに戻ったとしても、一瞬の気の緩み、もしくは自分ではコントロール不可能な外部的な要因、スケジュールによってすぐに夜行性に戻ってしまうことが繰り返される。この無間地獄のループから脱出し、別の世界線に移行するために過去に様々な試みをしてきた。その結果数ヶ月単位で短期的には成功することもあったが、年単位で長期的に見れば、結局何をやっても元の世界線に収束してしまう。しかし今回はその夜行性を昼行性に矯正するという概念自体を疑い、夜行性という病に対する認識を改め、その執着を手放してみようと思う。

健康的な夜行性生活

突然だが健康的な夜行性生活を送ることは可能だろうか?この言葉に違和感を覚えるのは、通常健康的な生活と夜行性の生活は対立するものと考えられているからだ。しかし実際には健康と夜行性の概念は必ずしも対立するとは限らず、そう考えてしまうのは先入観の影響が大きい。例えばアイマスクや耳栓というアイテムがあれば、昼間に就寝していても夜間と似たような睡眠環境を作ることは可能だ。また光照射療法などで使用される高照度照明器具を使用することでメラトニンの分泌を促し、自分なりの概日リズムを作ることも可能になる。その生活リズムの基盤の上で健康的な生活を送れるのだとしたら、健康と夜行性は必ずしも対立する要素ではないことになり、就寝時間と起床時間は自分の好きな時間に設定できることになる。問題は仕事だが、これに関しては日本にいながら海外の仕事をする、夜間の仕事をする、もしくはフリーランスや経営者など自分で自分の働く時間をコントロールできる仕事に就けば良い。むしろ良くないのは夜行性であることに対して罪悪感を抱き、無理にがんばって昼行性に矯正しようとし、それに失敗することで負のループに入ってしまうことだ。例えば双極性障害に関しては治療するよりも創作活動に役立てるための授かり物と認識し、活動することで良い波に乗ることに成功した。それと全く同じ視点で夜行性についても認識し、活動すること。外部にチューニングを合わせるのではなく、自分の中にあるコアにチューニングを合わせること。自分を生活すること。それが健康的な夜行性生活という一見矛盾に満ちた生活を成立させる鍵になる。

見過ごされてしまうもの

人間には遺伝的要因を含めて先天的に生まれ持った性質、資質があり、一方で環境的要因を含めて後天的に獲得した性質、資質がある。夜行性についてもその両面の観点から考えることは重要だと思うが、経験上変えられないことを無理に変えて他に合わせようとするより、むしろその性質、資質を自分なりに解釈し直し、その道を突っ走っていった方が上手くいきやすい。つまりこれは病を作っている原因は全て自分の認識にあり、その執着を手放すことで初めて次のステージに行けるということでもある。過去には早寝早起き、短眠の生活などに憧れていたこともあったが、そういった一見理想的で得に見える生活の中で見過ごされてしまうものもある。夜道の静寂、暗闇の背徳感、夜行性の創造性、夜と朝の境界線、人間以外の生態系。雑音や大きな音が苦手な自分としては、夜は最も集中力を注げる時間帯でもある。もちろんこのような考え方が今後変わっていく可能性も否定しないが、今はその可能性を追求してみようと思う。自分なりに生き延びるという継続以外に、必要なものなど何もない。

歯と脳

歯医者さんと通過儀礼

「ギュウーン、ギュルギュルギュル、ガガガガガガッ!」

「ギュウーン、ギュルギュルギュル、ガガガガガガッ!」、脳髄に響き渡るその音は神経を研磨するように鳴り響く。歯は神経を通じて脳と接続しており、その実感は甲高い機械音と切り刻まれる体感を伴って身体に刻まれる。「虫歯もないし、残り2本の親知らずも今のところ問題ない。」歯科医師にそう告げられて安心したのも束の間、定期検診の一環として行われる歯のクリーニングに対する過敏性は、むしろ子どもの頃よりも高まっているようだ。歯医者さんと言えば子どもが嫌がる場所ベスト3には入る場所で、その恐怖心はマスクで覆われた顔の見えない医師と歯科衛生士、ホワイトキューブのように白く圧迫感のある空間、見慣れない銀色の機械と飛び交う機械音、歯が豪快に削れる音と鉄が匂う血の味、そしてそれらに対して自分が一切無抵抗な被験体になったかのような状態に置かれることに起因するのだろう。

ネゲンピーターパンとネゲンネオテニー

そう考えると歯医者さんとは一瞬の大人になるための通過儀礼と言えるのかもしれない。歯医者さんという人 (職業) と場所が未分化な言葉と歯科医師、歯科医院という人 (職業) と場所が分化した言葉、その言葉の間には確かに子どもと大人の境界線が引かれているように思える。通常は物心が付いてからの理性的判断により、我慢するという行為を覚え、不快感に対する耐性が増していく。しかし子どもの頃には大丈夫で、大人になってからダメになっていくという過程はここからは説明が付かない。それは恐らくアーティストであるという状態、認識と切り離すことができない。より具体的に言えば子どものまま大人になるというピーターパン、大人になるまでの成長が遅いネオテニーではなく、大人になるという通過儀礼を経てなおそこから子どもの性質を獲得していくこと、そこにアーティストであることの秘密がある。要するにピカソを見て子どもを礼賛する人は本質を分かっていなくて、むしろピカソが大人の性質を獲得した後に子どもの性質に還っていくこと。その変遷の中にアーティストの本質が宿っている。つまりアーティストはネゲンピーターパン (負のピーターパン) であり、ネゲンネオテニー (負のネオテニー) でなければならない。

非身体的な脳

豚の脳

歯と脳の繋がりは身体的な意識や体感を通じて感じられたわけだが、身体を持たない剝き出しの脳があったらそこに意識や体感は宿るのだろうか?先日豚の脳を身体から切り離し、36時間延命させたという研究結果が発表されたが、この研究は先程の問いに対する研究の第一歩を踏み出したように感じられる。(1)Ethics debate as pig brains kept alive without a bodyこの実験においてはその豚の脳が意識があったかどうかは不明であるが、仮にあったとしたら身体を持たない意識とは一体どのような体感を持ち得るのだろうか?脳はもちろん物質であり、身体の一部であるが、脳の機能的な側面を取り上げるのであれば、それは非身体的な脳 = 心と言い換えることができる。そしてその非身体的な脳は常に身体の存在を前提として存在しているわけであるが、その前提を失った心は夢や体外離脱、もしくは臨死体験のような状態に置かれると推測できる。一方で科学的には未解明だが、記憶転移と呼ばれる臓器移植によってドナーの記憶の一部がレシピエントに受け継がれる現象もあるとされており、それが仮に事実だとしたら脳だけに心が宿るという前提が正しいかどうかも分からなくなってくる。しかしそれらはあくまで推測や未検証な現象であって、体験した人がいない、もしくは科学的根拠がない以上現段階で実証することはできない。

人間の頭部移植

またこちらは誤解を招き易い表現ではあるが、昨年人間の頭部移植に成功したと宣言する医師も出てきており、その論文も一般公開されている(2)First cephalosomatic anastomosis in a human model誤解を招き易い表現と言ったのは、人間の頭部移植は確かに行っているが、それは遺体同士のものであるということ。つまりこの試みはフランケンシュタインの怪物の頭部のみ、しかも生命を持たないバージョンを作り出したと言えば分かり易いかもしれない。将来的には生きた人間の頭部移植も可能としており、そのためのリハーサルとしての実験だったらしいが、こちらの実験も豚の脳の実験同様に倫理的な問題を孕んでいることは明白だろう。しかし人間は煩悩と好奇心には勝てない生き物であり、中国のような国は良くも悪くも倫理的な問題に関わらず突進していくので最終的には行くところまで行くだろう。そこにはマトリックス、シミュレーテッドリアリティ、水槽の脳、不老不死といったような哲学的、SF的な主題が科学技術によって現実になってくるような状況も予想されるが、今回の記事や論文を読んだ限りではその状態まではまだ程遠いように思えた。しかしそれでもAIと人間のチューリングテストがポストトゥルース以降のポリコレチェックのようにあらゆる局面で空気の存在のように無意識に行われていく日常を想像すれば、歯と神経と脳によって再現された現実が、本当はどこに存在しているのかという問いかけすら気にならなくなる日常というものが将来的に訪れるのだろうかと思わずにはいられない。

「ワンデー アキュビュー オアシス」と「ワンデー アキュビュー トゥルーアイ」

久々の眼科検診

先日コンタクトレンズを購入した。コンタクトレンズは処方箋が必要な購入方法とそうでない購入方法があり、後者ならオンラインで購入可能な場合が多い。またその方が値段も安く済むことが多く、大抵の場合楽である。しかし近年眼科での検診を受けていなかったこともあり、久しぶりに検診を受けてみることに。その結果両目共に特に異常はなく、視力検査の結果は右目0.04、左目0.06だった。最後に視力検査したのは数年前のアメリカだったと記憶しているが、その時は両目共に0.03だったような朧気な記憶がある。もしかして視力が少し上がったのかと一瞬テンションが上がったが、正直誤差の範囲内というか記憶が曖昧すぎて何も変わってない可能性の方が高い。乱視も多少入っているが、乱視用コンタクトレンズが必要な程ではないので、特に特別なコンタクトレンズは使用していない。また左右で視力が多少違うことが気になったが、結果的にはBC: 9.0、Power: -6.00という以前オンラインで購入したコンタクトレンズと全く同じ数値のコンタクトレンズを購入することになった。

「ワンデー アキュビュー オアシス」と「ワンデー アキュビュー トゥルーアイ」

個人的なコンタクトレンズ歴

以前から1日使い捨ての「ワンデー アキュビュー」シリーズを愛用しており、「ワンデー アキュビュー」、「ワンデー アキュビュー モイスト」、「ワンデー アキュビュー トゥルーアイ」の三つは使用経験がある。「ワンデー アキュビュー」より以前は2週間交換のコンタクトレンズを使用していたのだが、終日装用タイプなのに就寝時の連続装用の癖が抜けず、洗ってもコンタクトレンズの汚れは完全に取れず、花粉症の時期は目が痒くなるということで1日使い捨ての「ワンデー アキュビュー」にした。「ワンデー アキュビュー」は昨年末に販売終了したが、「ワンデー アキュビュー モイスト」が発売されてからはそちらに移行した。また「ワンデー アキュビュー トゥルーアイ」が発売されてからしばらくは「ワンデー アキュビュー モイスト」の方が付け心地が良く感じたのでそちらを使用していたが、近年は「ワンデー アキュビュー トゥルーアイ」に目覚めていた。そして今回「ワンデー アキュビュー トゥルーアイ」と「ワンデー アキュビュー オアシス」の両方を試してみて、後者の方が付け心地が良く、楽に感じたのでこちらに移行した。

「ワンデー アキュビュー オアシス」と「ワンデー アキュビュー トゥルーアイ」

「ワンデー アキュビュー オアシス」と「ワンデー アキュビュー トゥルーアイ」の主な違いは酸素透過率 (DK/L値)と含水率である。酸素透過率とは酸素透過係数 (DK値) をコンタクトの厚み (L) で割った値になり、実際にコンタクトレンズを装着した際に目にどれだけ酸素が行き届くのかの評価値になる。この酸素透過率の値が高い方が目の負荷が少ない、つまりコンタクトレンズの付け心地が良く、目の疲れが減るということになる。「ワンデー アキュビュー オアシス」の酸素透過率は121、一方で「ワンデー アキュビュー トゥルーアイ」の酸素透過率は118となっており、前者の方が酸素透過率が多少高い。また含水率はコンタクトレンズに含まれる水分の値になるが、これは一長一短で多いと酸素透過率が上がるが、その分目が乾きやすくなってしまう。「ワンデー アキュビュー オアシス」の含水率は38%、一方で「ワンデー アキュビュー トゥルーアイ」の含水率は46%となっており、前者の方が目が多少乾きにくいのでドライアイ気味の人に向いている。他のメーカーではさらに酸素透過率が高いコンタクトレンズなども販売されており、また「ワンデー アキュビュー オアシス」の方が「ワンデー アキュビュー トゥルーアイ」より値段が高いから必ずしも良いというわけでもないので、実際に眼科で試しに装着して比較してみることをお勧めする。

不可逆的な手術と可逆的な手術

というわけで「ワンデー アキュビュー オアシス」を左右1ヶ月分試しに購入してみたのだが、最近は外出時にしかコンタクトレンズを装着しないので、これだけでも結構長持ちする可能性がある。コンタクトレンズと眼鏡では見た目の印象が全く変わるので、特に初対面の時はコンタクトレンズを使用する場合が多く、面倒くさい場合は眼鏡で外出することが多い。少しだけ焦ったのはコンタクトレンズを購入した際に「処方箋を無くしては困るので、預かっておいてもよろしいでしょうか?」という質問の流れが自然すぎたので、「はい」と答えてしまったこと。良く考えたら処方箋はオンラインでのコンタクトレンズの購入に使用するかもしれず、この場所で次回の購入を促すために処方箋を預かりたいのかもしれないとも思ったので、すぐさま処方箋持ち帰りに変更してもらった。それにしても不可逆的な手術であるレーシック手術には興味がないが、可逆的な手術であるICLには興味がある。手術において大事なのはそれが不可逆的であるか可逆的であるかで、円板状半月板損傷の際に手術を断ったのはそれが骨をS字に切除するという不可逆的な手術だったからだ。現在ではiPS細胞を利用した可逆的な手術が出てきており、一定の効果を生んでいるという意味では不可逆的な手術が流行した後に、可逆的な手術が出てくる可能性を待つというのも一つの手かもしれない。いずれにせよしばらくは「ワンデー アキュビュー オアシス」のお世話になる日常が続きそうだ。

ワンデーアキュビュー オアシス
ワンデーアキュビュー オアシス
アキュビュー

体内に摂取せずに死んでも良いもの3選

逆転の発想

今回の記事では体内に摂取せずに死んでも良いもの3選を独断と偏見の元に紹介する。通常〜は経験せずには死ねないというものについては考えたことがあるだろうが、逆転の発想で〜は経験しないで死んで良いというものについて余り真剣に考えることはない。また体内に摂取するものは自分の身体に大きな影響を与えるという意味で非常に重要な意味を持っているが、それについても日常的に真剣に考えることは少ない。よって今回はそれら二つの要素を組み合わせて、体内に摂取せずに死んでも良いもの3選を真剣に考えて紹介してみることにした。

体内に摂取せずに死んでも良いもの3選

ゲテモノ

まずはゲテモノ。これに関してはエモさ満載で書き綴ってみる。ゲテモノという言葉が示す範囲は実に曖昧であり、その定義は自分が生まれ育った環境における食文化、人生経験、先入観などに大きく左右される。つまりゲテモノとされる範囲は人により多様性がある。また近未来では昆虫食が当たり前になっているという話は良く聞くが、その時代の価値観から見れば昆虫はゲテモノに分類されないだろう。さらに100年後、1,000年後、10,000年後の未来から見れば、過去の人間たちが肉を食べていたという事実自体がゲテモノ食いの象徴かもしれず、肉食自体が犯罪行為になっているかもしれない。それでも言わせて欲しい。

ただしゲテモノ、テメーはダメだ。

自分がどのようなものをゲテモノと判定してるかと言えば、やはりゴキブリ、バッタ、イナゴなどを含む昆虫、ワニ、サソリなどだろう。少なくとも自分の日常生活において食べる必然性も必要性もなく、食べたいとも思わなければ食べたら気持ち悪いと思うものをゲテモノと判定している。将来的に五感を完全に操作可能で、見た目や味や食感を含めて元素材が全く判別できないような状態でゲテモノを美味しく食べられるということにならない限りゲテモノは食べたくない。そういう意味でまずはゲテモノを体内に摂取せずに死んでも良いものとして選んでみた。

麻薬

次に麻薬。要するにこれを使用する目的としては結果として気持ちいい快感、素晴らしい爽快な気持ち、日常を超えた世界が脳と心の中に再現したいという煩悩によるものだろう。瞑想によりドーパミンを自由に分泌できる体質になってしまった自分としては、麻薬を試すことなく大体の効果が予想できるのでやる必然性がない。また麻薬は通常瞑想よりも効果がないとされている割にリスクが高く、条件によっては犯罪行為であるという意味で積極的に体内に摂取する理由が見当たらない。過去に一度麻薬を試したことがないのに瞑想と比較することができるのかと問われたこともあるが、科学的な実験によりそれぞれのドーパミンの分泌量は判明している。実際に体験しなくても分かることは幾らでもあり、それが科学や知の力なので、それを有効活用しない手はない。ちなみに例えば海外の大麻が合法化されている場所であったとしても、日本人が大麻を吸引することは普通に違法であり、今まで逮捕されていないのは証拠が見つかりにくいという意味でグレーになっているだけなので注意が必要だ。

スコヴィル値の高すぎる食品

最後にスコヴィル値の高すぎる食品。これは良く芸人やYouTuberが悶絶したリアクションをするためだけに使用されているものだ。個人的には辛いものが苦手という意識は一切ないのだが、リアクションが必要ない状況で辛すぎる食品を食べる必要性を感じない。また辛さと痛みは余り変わらないという認識なので、辛すぎるものが好きな人は痛覚を感じない人、もしくはマゾなのではないかと思っている。過去に唐辛子で真っ赤になった煎餅を食べて数十分間洗面台の前から離れられなくなった経験があるが、それは少しトラウマになっているかもしれない。辛さはあくまでも美味さのスパイスになるものであって、美味さを殺すほどの辛さは必要がない。よって早食いや大食いと同じくスコヴィル値の高すぎる食品は誰かが食べる様子を見るためにあるのであって、自分で試すものではない。そういう意味で三つ目の体内に摂取せずに死んでも良いものは、スコヴィル値の高すぎる食品に決定した。人によって様々な意見がありそうだが、体内に摂取せずに死んでも良いもの3選を挙げろと言われたらあなたは一体何を選ぶだろうか?

三つの花粉症対策: 眼鏡とアカモクとヨーグルト

花粉症ハードコアと花粉症(仮)

花粉症には辛い季節である。長年花粉症には苦しめられてきたが、アメリカ滞在中と日本帰国後しばらくは症状が出なくなっていた。しかしそんな安寧の日々は過ぎ去り、最近またもや花粉症の症状が出始めた。といっても花粉症ハードコアの方々とは違い、くしゃみ、鼻水、鼻づまり、目のかゆみなどに関して大した症状は未だに出ていない。つまり現状花粉症(仮)程度の症状であると言って良いだろう。

三つの花粉症対策

今回はそんな花粉症(仮)である私が花粉症対策として実践している三つの事柄について紹介してみたい。

眼鏡

まずは眼鏡。これは視力が悪くない人にとってはほぼ関係のない話なので、該当しない方は読み飛ばしてもらってもOK。視力が悪い人は眼鏡かコンタクトレンズを日常的に付けていることが多いはず。しかし花粉症の時期は花粉がコンタクトレンズに付着するために、コンタクトレンズの使用が目のかゆみの原因になる。一方で眼鏡の場合はレンズに付着した花粉は拭き取れば良く、目に直接レンズを装着する訳でもないので目のかゆみが多少ましになる。そういう意味で花粉症の時期はできるだけコンタクトレンズより眼鏡を使用するのが良い。

アカモク

次にアカモク。近年健康に良いとして話題のアカモクだが、この海藻は花粉症対策にも効果がある。具体的にはアカモクに含まれるフコイダンが免疫細胞を正常に整えることで抗アレルギー効果があるとされている。食べ方としては味噌汁などの中に1日1回入れて食べると良い。注意点としてはアカモクには無機ヒ素が含まれているので、生で摂取することは絶対にしないこと。必ず下処理として茹でこぼしをするか、その処理が済んでいるアカモクを購入する必要がある。

ヨーグルト

最後にヨーグルト。これはヨーグルトに含まれている乳酸菌、ビフィズス菌などの善玉菌が花粉症対策に良いとされている。そもそも花粉症の原因は免疫細胞であるTh1とTh2のバランスの崩れである。善玉菌はこのTh1とTh2の崩れたバランスを整える効果があり、それが結果的に花粉症対策になるということだ。ただし注意したいのは善玉菌による腸内環境の改善にはある程度の期間継続してヨーグルトを摂取する必要があり、花粉症の時期になってからというよりはその前から実践していた方がより効果が望める。ヨーグルトは花粉症対策以外にも健康に良い食品なので、日頃から食習慣の中に取り入れておくのが良いかもしれない。

今回の記事のまとめ

以上、三つの花粉症対策として眼鏡とアカモクとヨーグルトを紹介した。個人的にはアカモクがダークホースで、毎日摂取し始めてからは花粉症の症状がかなり抑えられているように感じる。他にも舌下免疫療法や海外移住してしまうなどの方法も考えられるが、今回紹介した方法は比較的誰にでも実践可能で効果が出るものに絞った。日本人の花粉症による経済的損失は計り知れないものがあり、また毎年訪れるその苦しみは本来存在しなくて良かった苦しみでもある。今回紹介した方法が万人に効果があるかは分からないが、花粉症で苦しんでいる方は是非実践してみてほしい。

伊勢志摩産 アカモク
伊勢志摩産 アカモク
伊勢鳥羽志摩特産横丁

森永ビヒダスヨーグルトBB536
森永ビヒダスヨーグルトBB536
森永製菓

シャーペンの芯が刺さった時の対処法: 包容力のある蜂蜜と強制的な他者による治癒

それは先日のダイナミックサイクルでの作業中のことだった。いつものように大きなマットを敷き、その上に紙を置き、カッターナイフと定規を用意した。正確に紙を裁断するためには印を付ける必要があるので、これまたいつものように鉛筆とシャーペンを用意しようと探していた。そして非常に細めの芯を使用する細身のシャーペンを見付け、手に取った。そのシャーペンの芯を出すために、ノックボタンを押す。ブスッ!ん?「カチッ」ではなく、「ブスッ」?思考が一瞬混乱しながらも、次の瞬間親指に視線を移すとそこには親指に突き刺さったシャーペンの芯が黒く佇んでいた。これが全ての悲劇の始まりだった。

親指に黒く佇むシャーペンの芯

この事件が何故起きたかは、考えてみれば単純なことだった。ノックボタンとガイドパイプの部分を真逆に持ち、そのまま押してしまったのだ。ピンセットを持っていたので、その場でシャーペンの芯を抜こうとするが、少しだけさらに押し込んでしまうという状態になったので一旦諦めることに。そして作業をしていたダイナミックサイクルから帰宅し、早速ググる。「シャーペン 芯 刺さる」。ググった末のリサーチ結果をまとめると、どうやら放っておいても大丈夫な場合もあるが、危険な場合もあり、場合によっては病院で対処してもらった方が良いようだ。最初の時点ではかなり楽観的に考えていたものの、この時点で多少の緊張が走る。また幾つかのウェブサイトの記述でハチミツを患部に塗ると取れる場合があるとの情報を得たので、早速試してみることに。

ヒマラヤンアカシア純粋はちみつ

台所を探索すると、長年放置されていたと思われる「ヒマラヤンアカシア純粋はちみつ」を発見した。とりあえずこれで蜂蜜を買いに行く必要はなさそうだ。

包容力のある蜂蜜

この包容力のある蜂蜜を患部に塗布する。何度も何度も塗り、放置してはピンセットで芯を抜くことを試みる。その時間恐らく2〜3時間。しかし多少の浮き上がりはあったものの、結局芯は抜けずに諦めて就寝することに。

強制的な他者による治癒

そして朝を迎える。起きたら芯が抜けているというミラクルはなかったものの、昨日寝る前よりは多少また芯が浮上しているような気がした。寝る前に蜂蜜をたっぷり塗っておいたのが良かったのかもしれない。しかし自分では思い切り自分の肉を摘むことができないため、強制的異な他者による治癒が必要と考えた。私はその旨を相手に伝え、刺さった芯の周囲の肉を思い切り挟んで押し出すように指で摘んでもらった。相当な痛みが親指から伝わってきたが、数回のトライの後、遂に芯が抜けた!最終的には多少の色素が残ったが、そもそも芯が刺さるというのは黒鉛の色素が真皮に到達している場合、刺青とほぼ同じ原理なので中々消えないようだ。数年〜数十年の後には消えるかもしれないが、それまでは親指にシャーペンの芯を突き刺した跡のない人物がNILと名乗る場合、全て偽物と思ってほしい。とりあえずみなさんの肉体の何処かにシャーペンの芯が刺さった場合の対処法としては、包容力のある蜂蜜と強制的な他者による治癒をお勧めする。

健康的な希死念慮

「吾輩は死にたい。理由はまだない。」

久しぶりに希死念慮と格闘している。理由は分からない。もしかしたらブックケースの土台を30個制作するという極めて神経を使う単純作業を繰り返したからかもしれないし、仮想通貨の暴落のバイオリズムと身体バイオリズムが同期してしまったのかもしれないし、単純に冬だからなのかもしれない。分からないというよりは、そもそも理由なんてないのかもしれない。本来生きる理由も死ぬ理由もなくて、ただ単純に目の前の現実とそれに対する自分の解釈が存在しているだけだ。なので希死念慮には理由などなく、あるとすればそれは全て後付けの理由である可能性が高い。これを夏目漱石の『吾輩は猫である』風に言えば「吾輩は死にたい。理由はまだない。」といったところだろうか。肉体的にも精神的にも生涯病気と闘ってきた夏目漱石なら、そういった気持ちも理解してくれるかもしれない。

健康的な希死念慮

そもそも死にたいと願うこと = 希死念慮は極めて正常であり、健康的な思考である。例えば「あなたが虚しく生きた今日は昨日死んでいった者があれほど生きたいと願った明日」という言葉があるが、それを別の側面から見てみれば「あなたが虚しく生きた今日は昨日自殺した者があれほど死にたいと願った明日」かもしれないのだ。現代はノイズとストレスが極端に多い時代であり、そこから逃れるためにはある種の鈍感さが必要になってくる。しかしそこで鈍感さに適応せずに鋭敏であり続けることを選択した人は、希死念慮や精神的な病に苛まれることもある。その時に自分だけが異常であると考えたり、自分が間違っているからと無理に社会に適応しようとする必要はない。何故なら鈍感である方が実際にはチューニングが狂っているのであり、ノイズとストレスに溢れた時代に希死念慮や精神的な病に苛まれることは、正常、もしくは健康的な証拠でもあるからだ。

死にたい時に死にたいと宣言すること

また死にたい時に死にたいと宣言することも大切だ。むしろそれを恥ずかしいことだと思ったり、嘘つきと思われたり、大したことないのに大げさに言っていると思われるから嫌だと思って心の奥底にしまってしまうことの方が問題である。もちろんこういう発言はある特定の人には全く理解されないものでもあるので、その大切な気持ちを無下に否定してくるような他人に対して宣言する必要はない。むしろ他人より自分自身に対して宣言するのだ。死にたいという言葉は強い言葉ではあるが、他のあらゆる感情と同じく感情は止めることができないし、それを無理矢理否定する必要もなければ、むしろその気持ちも自分の一部として尊重することが重要だ。これは自殺を肯定しているわけでは全くなく、むしろ一旦その気持ちを宣言し、受け入れ、そして今までの人生において嫌なことがあっても全て乗りこえてきた自分の偉大さを考えてみること。たとえ自殺したいという希死念慮が過去に何度あったとしても、一瞬ごとにその気持ちが再燃してきたとしても、その状態と延々と格闘して全勝してきたのが現在の自分だ。でなければとっくに今ここにこうして存在していることはない。個人的には死にたいと勝手に呟いていることがあるので、それを一つの肉体、あるいは精神からのシグナルとして捉えることにしている。そのモードに入った場合は寝る他に極力何もしない生活をするか、創作活動をして昇華することになる。そうこうしているうちに、生きていて良かったと思える瞬間は訪れるが、そんな瞬間を常に求める必要などない。死にたいときは死にたいと素直に宣言すること。一見ネガティブに見えてポジティブなこの宣言によって、世界は再起動する。そういう意味で健康的な希死念慮もまた、味わい深い人生の一欠片なのである。

死と眠りについて

意識と無意識

今この瞬間、非常に眠い。眠すぎて頭が働かず、何かを考えているのか考えていないのかも良く分からないでこの文章を書いている。なので自分の文章を何度読み返しても大して頭に入らないし、文体もいつもとは若干変わるかもしれない。そもそも考えることと思うことは違い、考えることは意識的だが思うことは無意識的なので、むしろ頭が働かないと思っている時の方が思考しているのではないかと思う。そしてその考え方は意外に人生における核心を突いているのかもしれないと確信し始める。何かを意識的に求めても永遠に辿り着けないが、無意識的に放っておくと勝手に辿り着いていたりする。何かを意識的に掴もうとしても綺麗にすり抜けられてしまうが、無意識的に何もしないでいると勝手に集まってくる。

思考について

しかし今は何も思考したくないのだ。「今は」というよりは、もう永遠に思考を放棄したいとすら思い始めている。何故なら思考には癖があり、それは繰り返す度に強化されていき、幾ら思考が自由だと思っていても、その道筋からいつの間にか出られなくなっていることがあるからだ。だからそのある程度決められてしまった道筋から外れてみたい。それは自分が自分でなくなるということかもしれない。またそれは死という概念と一見不可分な主張にも思えるが、そこには差異がある。思考という概念がどこまでの範囲の抽象的、情報的な活動を指すのか完全には分からない。ただ思考を放棄したとしても生きることはできるし、徹底的に思考することと、思考を放棄することは一見正反対に見えて実は近いことのようにも思える。

死と眠りについて

また死と眠りは近しい意味を持つ概念として互いに使用されやすい。その証拠に例えば眠るように死んだ、もしくは死んだように眠るというような比喩は良く使用される。ではこれらの概念の差異は何かと言えば、死は無限性、永続性を前提としており、眠りは有限性、一時性を前提としていることだ。死ぬ者にとっては明日は来ないことが前提であり、一方で眠る人にとっては明日は来ることが前提となっている。逆に死と眠りが状態として近いかどうかは体験としては誰も死んだことがないので分からないが、前者は過去の記憶などを元に走馬燈が、後者は過去の記憶などを元に夢が構築されることは良く知られている。だとすれば日常生活と眠るという行為は全て、最後の死の走馬燈の一瞬が永遠に引き延ばされた情報空間と時空を体感するための予行練習と捉えることもできる。その最後の一瞬を後悔しない永遠にするために、いつ眠るように死んでも良いように、できれば今日は死んだように眠りたいと思う。