「落合陽一、山紫水明∽事事無碍∽計算機自然」について

メディアアートと現代美術

メディアアートと現代美術が乖離して久しい。メディアアートの1ジャンルが現代美術、現代美術の1ジャンルがメディアアート、メディアアートによって現代美術は滅びる、現代美術とメディアアートは無関係など様々な意見はあれど、この両ジャンルが既に異なる生態系とロジックによって動いているという事実は誰もが認めるところだろう。そしてそれらの業界(1)この言葉は無駄な対立を作りやすいのでできれば使用したくないが、外部から客観的に見れば使用する妥当性がある。を含めて両者は互いに交わることなく黙殺し合い、対話することもなく、交わったとしても互いに互いを過小評価し合う中で無駄な揚げ足取り、文系理系という不毛な二項対立に基づいたポジショントークに終始しているように思える。メディアアートの側から見れば現代美術は時代遅れで滅びていくように見えるのだろうし、現代美術の側からみればメディアアートは浅く歴史を踏まえていないように見えるのだろう。

アート、サイエンス、デザイン、エンジニアリングのフレームワーク

ここでMITメディアラボ所長である伊藤穰一が提唱したアート、サイエンス、デザイン、エンジニアリングのフレームワークをおさらいしてみる。(2)MITメディアラボ・伊藤穰一所長が語る「デザインと科学」この四つのジャンルが「1人」の中にインストールされることで見えてくる風景というものがあり、その上で何処かに圧倒的な専門性がある個人が、集団として有機的に機能した時に達成できる何かがある。Anrealmsというコレクティブではその方向性を目指している。
メディアアートはアートとエンジニアリングを融合させた分野であり、リンク先の図で言えばあらゆる面で対極に位置する二つの分野を融合させていると言える。また落合陽一の場合はサイエンスの知見もメディアアートの中に取り入れているので、少なくとも三つの分野にある程度詳しくないと理解することは難しい。ただこの潮流自体は特段珍しいことではなく、例えばSputniko!がアンソニー・ダンが提唱したスペキュラティブデザインでアートとデザインの融合、バイオアートでアートとサイエンスの融合しながらテクノロジーと人間の関係性について思考しようとしていることもその一例として挙げられるだろう。一方で現代美術がマルセル・デュシャンを起源とするならば、哲学と相性の良い分野であると言うことはできるが、その歴史の累積もまた単純に切り捨てられるものではない。それどころかその歴史を知らない上で新規性を追求すれば無限ループに陥る危険性、もしくは経済性と大衆性を伴うが中身が空虚になってしまう危険性はある。

「落合陽一、山紫水明∽事事無碍∽計算機自然」について

コンセプトとステイトメント

前置きが長くなったが、「落合陽一、山紫水明∽事事無碍∽計算機自然」について。まずコンセプトとステイトメントは面白い。タイトルは山紫水明 (幽玄、侘寂) の世界観を時事無碍 (End to End) によって計算機自然として提示すると解釈した。それら三つの要素が相似の形態を持って通じているので、「∽」で結ばれている。また「工業社会のヴァナキュラー性」というステイトメントに出てくる文を、作品ではなく床の素材として表現しているのも展覧会としての拘りを感じさせる。コンセプトとステイトメントから考えると、落合陽一のメディアアートには哲学がないのではなく、彼なりの哲学があり、それが既存の現代美術で参照されるような哲学との相性が悪いために、齟齬が生じている。つまりテクノフォビアやテクノロジーの無理解といったものは表層上の問題であって本質ではなく、むしろ溝が生じるのは根本にある哲学の相違にあるように感じた。他にも全体的な展覧会構成と作品のコンセプトの一貫性があり、方向性としてはブレがない印象。逆に言えば一貫性が強く、統一感があるが故に、作品がコンセプトを逸脱して作家本人ですら辿り着けない領域に到達しているというような作品が無かったのは残念。

個別の作品

ここからは個別の作品について思ったことを書き連ねていく。

辻雄貴とのコラボ (藤の花)、「丸窓」、「にじり口」

今回の展覧会のコンセプトを徹底するならこれらはむしろ必要ないかと思った。日本的な古典美の象徴を意図的なモチーフとして使用せず、それが計算機と落合陽一の文化的/経験的な身体性によって無意識的に表現されてしまうから面白いのであって、これらをモチーフとして使用してしまうと全体のコンセプトが崩れる。さらに踏み込んで言えばこれらを入り口に配置するのは計算機自然というコンセプトに慣れない人のための、一種の言い訳として用意されているようにすら見えてしまう。辻雄貴とのコラボは日本的な古典美と計算機の単純な足し算に見えてしまうし (計算機自然の風景はこれではないはず)、「丸窓」から見える「Levitrope」は本来の「丸窓」の侘寂を超えていないし、「にじり口」に至っては大きすぎて「にじり口」の持つ境界/結界という機能の設計要件を満たしていない。また「Colloidal Display」と「波面としての古蛙」は壊れていたのか機能せず、評価以前の問題。落合陽一の展覧会では常に何かが壊れていて動かないという悲しい経験をしているのだが、メンテナンス要員を置くなどして対処できないものなのだろうか。特に「波面としての古蛙」で使用されている磁性流体は、個人的にも作品で使用したことがある思い入れのある素材であり、観ることができなくて残念だった。さすがに壊れて動かないことが侘寂という訳ではないはず。

「波の形,反射,海と空の点描」

通称サバ。サバの模様を遺伝子のプロセスをプリントした風景画として捉えるという発想は面白い。しかしこれを「波の形,反射,海と空の点描」と言われてしまうと、言葉に頼った力業に感じなくもない。今回の展覧会の作品全体を通して言えることだけれど、実際に観た作品よりもSNSやウェブサイトで紹介されている写真、動画の方が綺麗、もしくは魔法を感じさせるようになっていて、実物を見ると落差にガッカリするというものが多かった。それは恐らく知識の欠如などではなくて、一言で言うと「エモくない」ということだと思う。「エモい」という言葉を流行らせた落合陽一の作品が「エモくない」とはどういうことなのか。しかしその原因は何となく分かっていて、彼はコンテンツを意図的に抜いてメディア装置だけを展示することに拘っているからだろう。このメディアアートの定義は一般的なメディアアートの定義よりさらに狭い定義なのだが、それをやると魔法感と「エモさ」はむしろ失われるのかもしれない。またこの作品に関しては余りにそのままサバであり、それ以上でも以下でもないという印象で、同じコンセプトでもその模様の切り取り方によってはさらに興味深い作品になりそうなのだが、現状表現としては直接的過ぎて余韻がない印象を受けた。

「音の形, 伝達, 視覚的再構成」

音を光に変えるというのは共感覚者にとっては割と馴染みのあるテーマで、古くはモーツァルトから続く伝統的なテーマではある。そこでこの作品をモーツァルトの楽曲群と比較すると、超音波を使用している点で面白い部分はあるものの、超音波を光に変換したという事実とアウトプットされた模様がシンプルな故に作品としての深みに欠ける。モーツァルトは音を光に変換した上で、さらにその色彩を楽曲として建築のように構築したから凄いのであって、単純に超音波を光に変換しただけでは物足りない。あとイルカの超音波を使用しているのに、背景にイルカの画像を設置するのは直接的かつ説明的であって、そこに侘寂的な飛躍があった方がもっと面白くなるはず。

「計算機自然, 生と死, 動と静」

辻雄貴とのコラボ (モルフォ蝶の標本によるいけばな) の方は文句なく美しい。しかしコンセプト的にはデジタルの複製によるいけばながそれを超えていなければ成功とは言えない。そして実際に超えているとは思えなかった。まずデジタルの複製によるモルフォ超は偽物感が強く、実際のモルフォ蝶の美しさに遠く及ばず、生も死も感じさせない物としてそこにあった。しかしそこは問題ではなくて、実際に動いた時に美や生を感じられるかどうかだ。これは人によるのかもしれないが、少なくとも個人的には美も生も感じなかった。この作品は明らかに展覧会のメイン作品であり、計算機自然について語るときに両者のいけばなの差が感じられない、もしくはデジタルの方が動と美と生を感じさせるようでなければ展覧会のコンセプトやステイトメントとの整合性が取れない。むしろ計算機は頑張っても今の所ここまでが限界という逆の証明をしてしまっているようにも思え、この作品に関しては厳しく言えば展覧会全体の説得力を失いかねない出来になっていた。

「深淵の混, 内と外, 人称の変換工程」

この作品に関しては故障していたのか、体験の仕方を間違えたのか、中を覗いても特筆すべきものは何も見えなかった。なので残念ながら割愛。

「Levitrope」、「Silver Floats」

「Levitrope」は以前「Media Ambition Tokyo 2017」で観たことがあり、「Silver Floats」は初見。今回の展覧会の作品の中では「Silver Floats」が一番良かった。両作品には「浮遊」と「借景」という共通したキーワードがあるが、「波形」というコンセプトを取り込んだ「Silver Floats」は「Levitrope」からの正統進化形態に見えた。ただし「借景」については「浮遊」する物質の方が興味深いが故に、どうしても陰に隠れがちになる。後に言及する「Morpho Scenery」にも「借景」というコンセプトは見られるが、「借景」をするならばその借りてくる風景自体が興味深いか、作品との抽象的な繋がりがないと作品の深度が増さない。そういう意味で以前の「Media Ambition Tokyo 2017」での「Levitrope」の借景は余りにもベタだし、「Silver Floats」の背景にあるノイズ的な映像は余りにも普通でつまらない。これは金沢21世紀美術館で観たBCL「Ghost in the Cell」にも言えることだけれど、コンセプトやメインの物体としてのアウトプットは面白いのに、背景の映像がベタでインスタレーションとしての強度を落としているように感じた。

「魚鈴」、「虫鈴」

「魚鈴」と「虫鈴」に関しては落合陽一のフェティシズムが全開で、その享楽に応じて作品を創るということ自体は良いし、作家にとって重要なこと。ただこの種の作品はそのフェティシズム、享楽に共感できるかどうかが全てで、それができない人にとっては良さを感じることが難しい側面もある。プラズマ音によって魚と虫の存在を感じさせる試み自体は、SF的な侘寂が感じられて良い。注意点としては一方の作品は壊れてはいなかったと思うが、かなり聴こえにくかった。また装置自体の構造や配線を剝き出しににするというのは、落合陽一がInstagram掲載しているような写真の美学、哲学の延長線上にあるように感じた。

「Morpho Scenery」、「Morpho Scenery in GYRE」

「Morpho Scenery」に関しては先程も言及したように、「借景」をするならばその対象、もしくは対象と作品との抽象的な繋がりがほしい。もしくは何の変哲もない風景が、特殊なレンズによって波として興味深い風景に変わるという体験を提供したいならば、何かが足りない気がする。風景が枠組みによって規定され、反転し、色彩が変わる。その現象自体は興味深いのだが、この体験には何故か物足りない感覚が残ってしまう。キャンバスや風景画という既存の枠組みを認識のレベルでハッキングしたいという欲望は強く伝わってくるのだが、体験としてはあっさり塩味で、豚骨ラーメンのような濃厚な何かを期待するとその期待は裏切られることになる。また「Morpho Scenery in GYRE」に関しては「魚鈴」、「虫鈴」と同様に落合陽一のフェティシズムと享楽を明示した作品群になっている。「透明」というのもこの展覧会全体のキーワードであると思うが、こういった作品の「透明」な部分が一見汚れや傷が付いているように見えたのは少し戸惑った。

今回の記事の周縁情報と総括

「落合陽一、山紫水明∽事事無碍∽計算機自然」については、コンセプトとステイトメントは面白いが、作品としてアウトプットした際に齟齬がある、もしくは踏み込みが甘い面が多々見られた。また特にSNS上では展覧会や作品に対する批評的な言説はほぼ見られず、箕輪厚介の言うように落合陽一 (概念) は既にファッションとして消費されている(3)型破りな編集者・箕輪厚介が語る、閃き力の鍛え方と新しい働き方ように見えた。落合陽一の「批評家になるな」という言葉は生存戦略としては正しいが、彼の言説の多くはそう呼ばれてはいないものの実に批評的である。ならばポジションを取った後に批評をしろという順序の問題なのか、手を動かさない人の象徴、意識高い系批判の延長線上としての批評家という存在の否定なのか、批評をしたとしても批評とは呼ばないというブランディングの問題なのかでは大きな違いがある。そもそも落合陽一にとって重要なパートナーの一人である宇野常寛は批評家であり、その恩恵を受けながらこのような言説を行うことには矛盾を感じなくもない。

また落合陽一は過去に現代美術を「文脈のゲーム」、自身のメディアアートを「原理のゲーム」という言葉で切り分け、後者の優越性を論じている。しかし今回の展覧会の内外を含めて彼の作品説明にはナム・ジュン・パイク、アンディ・ウォーホル、マルセル・デュシャン、ジョン・ケージなど「文脈のゲーム」の代表格が登場している矛盾があり、しかも「原理のゲーム」で言われているような理屈抜きの感動、つまり「エモさ」が欠如しているのであれば展覧会や作品としては失敗していると言える。ちなみに「原理のゲーム」を支えているのは彼のサイエンスのバックグラウンドだと思われるが、サイエンスの論文、学会というシステムもまた「文脈のゲーム」の側面を持つことは否定できず、彼がサイエンスの文脈をアートの文脈に変換して作品化しているという構造は、村上隆が漫画やアニメといったサブカルチャーを西洋現代美術の文脈に翻訳した構造とも類似性がある。

個人的には乖離してしまったメディアアートと現代美術の回路を再び接続することにも興味があるのだが、その乖離は日を経るごとに広がっているように見えて悲しい。計算機自然が本当に侘寂の世界観を体現できるのであればそれは素晴らしいことだし、見てみたい風景である。また人類と計算機という二項対立に囚われないのであれば、最終的には一体誰に作品を見せるべきなのか (対象を人類に限定するのか) という問いも生まれてきそうだが、そう考えた時に「エモさ」とはまた違った評価軸が生まれてくる可能性もあるように感じた。最後に哲学を実装することという理念には共感するが、そこではまた実装の精度と深度も問われてくるはずだし、ジャンル違いの人種からも色々意見があって良いはずだし、「分からないけれど何だか凄い」以外の批評的な言説もあった方が面白い。「落合陽一、山紫水明∽事事無碍∽計算機自然」を観た帰りに、このような思考の断片を思い浮かべながら、TMTMTRさんとフィリピン料理を食べていた。

脚注

1 この言葉は無駄な対立を作りやすいのでできれば使用したくないが、外部から客観的に見れば使用する妥当性がある。
2 MITメディアラボ・伊藤穰一所長が語る「デザインと科学」この四つのジャンルが「1人」の中にインストールされることで見えてくる風景というものがあり、その上で何処かに圧倒的な専門性がある個人が、集団として有機的に機能した時に達成できる何かがある。Anrealmsというコレクティブではその方向性を目指している。
3 型破りな編集者・箕輪厚介が語る、閃き力の鍛え方と新しい働き方