東京国立博物館のツアーを通じての所感

東京国立博物館の常設展

新芸術校のツアー2で東京国立博物館の常設展に行ってきた。チケット売場は割と混雑しており、時間ぎりぎりだったので少し焦る。しかし途中で同じく新芸術校のTMTMTRさんと合流したので、少し落ち着く。ちなみに東京国立博物館の本館大階段は大変立派な見栄えになっているが、テレビドラマ『半沢直樹』でも使用されていたとのこと。今回はツアーの詳細な内容は書かないけれど、その内容をメディウムとして自らの思考をかすめた諸々の所感について簡単にまとめておく。

諸々の所感

・国宝、重要文化財などの認定について。元々「選別」という概念に興味があるので、近代国家的な枠組みで文化の価値が認定されるシステムの存在は興味深い。また国宝と重要文化財の間にヒエラルキーが存在しているのも面白いし、文部科学大臣が認定するという意味では、文部科学省の外局である文化庁が推進する先進美術館との関係性も射程に入ってくる。

・Museumは博物館、美術館を包摂する言葉。この日本語における言葉の分離が、美術館と博物館は同様の性質を持つという意識を忘却させる一因になっている。またアートと芸術、美術という言葉の意味、概念が包摂する範囲の乖離も凄まじいものがあるが、これらの問題に共通するのは翻訳と言葉の問題でもある。

・縄文土器はその古さが世界的に見ても異常。そして縄文土器と言えば岡本太郎が脳内にちらつき、連想ゲームのように白飯を炊いていたら嗅覚が犬以上になってヨガ離婚をしてしまう香取慎吾などが思い浮かんでしまった。「NAKAMA」という言葉には暴力性と狂気がある。

・曼荼羅について。以前制作した『石版を丸呑みする回転木馬』では「パリピ曼荼羅」という詩と絵があり、中々好評を博していた。ただこのような曼荼羅の概念の拡張は歴史的な潮流でもあったようで、信仰は現世利益と表裏一体であり、容易く消費へと変わる。その漂白され、記号と化した曼荼羅という概念は現代社会で言えば、密教的という意味も含めて「パリピ」が体現しているように思う。

・神仏習合という現象は概念レベルだけではなく、行動様式も含めて日本人に大きな影響を与えている。また本地垂迹説は基本的には同一だけれども、神より仏を少しだけ高い位置に置く。この考え方は微妙なヒエラルキーの差異を構築するという意味で、カースト制度や三位一体などの切り分け方とも違って面白い。

・貴族 → 宗教者 → 武士というクライアントの変化による最適化。それは面積やモチーフにも端的に表れる。また日本の屏風と西洋の壁画の対比は重要。前者は機能性や仕切りを重視し、後者は建築の内部にあるという静からタブローという動へと変化していく。そもそも日本は工芸が中心なので、西洋のような大画面は苦手とのこと。

・変わり兜は実は装飾性、ギャグ性というよりは、必死かつ真剣に使われていたという話。おまけのような形で展示されていたが、今回見た展示物で一番興味を惹かれた。現代版変わり兜やメタラーのための変わり兜など作ったら面白そう。

・大画面 + 形式重視の雪舟からの流れを受け継ぐ狩野派、琳派などのコレクティブについて。大規模な工房運営による過酷な労働、クライアントの民衆化、文人画からのツッコミなどを含めてメディアアートと現代美術の関係性を考える上で参考になりそう。

・浮世絵が肉筆画から版画へと変化していく過程と必然性について。浮世絵を日本人が評価できず、海外に先に評価を固められてしまったという問題は現代まで引き続いており、その原因は批評が弱いということ。サブカル的な漫画、アニメをアート化した村上隆とそこにネット時代のアーキテクチャのレイヤーを足したカオス*ラウンジはその流れへの逆襲だと捉えることができる。ただし前者はあくまで海外での資本主義的な現代美術への翻訳、後者は日本を土台としたコレクティブ活動を通しての前衛の再設定という差異がある。また個人的には毛色は違うが、似たような性質を持つV系という鉱脈には焦点を当てた方が良いと思っており、モチーフとして使用している。

・工芸の極地である蒔絵とリアリズムを獲得した鎌倉時代の仏像の強さが際立つ。正面の角度から見ることを想定していた仏像の話があったが、全天球イラスト、360度カメラ、VRの普及した現在、どの角度から見ても素晴らしいものを作るという意識は全体的に強まっている感覚がある。

千利休の政治性について。寸胴の宗易形が従来のものと比較して良いというのは根拠がないという話。古美術や現代美術は関わる人の数が少ないので、どうしたって政治性が出てくる。その点メディアアートは広告と相性が良く、マスに訴えかけるという意味でブランディングが重要。

・上村松園の《焔》について。美人をモチーフに絵を描く作家の幽霊画。椎名林檎がメンヘラのコスプレ (コスプレなので思想はなく、着脱可能)、Coccoがメンヘラガチ勢 (ガチ勢故に表現活動を継続すると浄化される)、鬼束ちひろが狂人の憑依を現実化した神の子 (演じているうちに自我が変貌してしまう) だとすれば、松井冬子の絵画がメンヘラのコスプレかな?と思わせるくらいには上村松園の《焔》には抑圧した狂気が感じられた。

・高村光雲の《老猿》について。以前皇居外苑にある楠木正成像を見てきたので、ある意味タイムリーな作品。日本での彫刻は絵画と比較して地位が低いという話があった。また岡倉天心による学校をアトリエ、仕事場として使っても良いという教育思想は未だに美大教育の弊害として残っているという話は、新芸術校やパープルームなどの運動体がその潮流への創造的反論でもあることと接続している。

・明治時代の政策が未だにオリンピックや地域アートといった行政の関わるイベントに地続きの問題として表出してくるという話。海外に関わるビジネスマンの教養としてのアートみたいな潮流が現在流行りつつあるが、これに関しても同型の問題を抱えており、結局日本は近代教育の枠組みの中で失敗し続けているという証明。間口は広い方が良いので入り口としてはそれでも良いのだけれど、官僚もビジネスマンも既得権益や人脈獲得といった現世利益を追求するためのツールとしてしかアートを見ることができないというのは、端的に言って教養の欠如だと思う。

今回の記事のまとめ

東京国立博物館に来たのは初だと勘違いしていたが、過去に「国宝 阿修羅展」に行ったことを思い出した。あの時はまだ自分が現代美術やアートと呼ばれるものにここまで関わるとは思っておらず、小学生の頃に読んだタカシトシコ『魔法使いが落ちてきた夏』に登場する阿修羅のモチーフとしてイメージを膨らませながら見ていた記憶がある。しかしそれは捏造された記憶かもしれない。正直まだこの分野に関わって日が浅いので勉強することが沢山あるのだが、単純に説明されたことをメモするだけではなく、自分なりに色々結び付けて考えることを実践してみた。同日に「ニューロホップ – NEURO HOP」展と「落合陽一、山紫水明∽事事無碍∽計算機自然」にも行ってきたのだけれど、それらについては長くなりそうなのでまた後日。