時事ネタ3連発: 先進美術館の後進性について/日大アメフト問題のストレス回避/栗城史多と記号消費社会

人生の消耗

久しぶりの時事ネタ3連発は、先進美術館の後進性について、日大アメフト問題のストレス回避、栗城史多と記号消費社会という三つのテーマで書いてみる。最近思うのは次から次へと暴風雨のように襲ってくるニュースの山にいちいち付き合っていたら、それらを凌いでいるだけで人生が終わってしまうということ。なのでできるだけ客観的な情報を集め、自分なりの見解を手短にまとめた後は、もうそのニュースについては追わないというような切断ができるかどうかは割と重要なスキルである。自分の人生とは本来無関係な事柄について接続過多になってしまうと疲れるだけでなく、他人の人生を生きることと変わらなくなってしまう。その結果自分の本当にやりたいこと、やるべき仕事に集中する時間が減少してしまっては本末転倒ということになる。そんなことを念頭に置きながら、それぞれの話題について簡潔に思うところをまとめてみた。

先進美術館の後進性について

先進美術館 (リーティング・ミュージアム) はこの国の美術に対する考え方の後進性を象徴した提案である。日本のアートマーケットは脆弱であるということは過去にも散々言われてきたことだし、現在も変わらない事実だ。ただしこの問題はお金の問題ではなく、教育の問題であるということがこの案の提案者には理解されていないように思う。もしくはそんなことは百も承知であるが、刹那的な利権さえ握れれば文化など滅びても構わないというような資本主義の帰結を体現しようとしているのかもしれず、どちらにせよそれは関わる全ての人にとって不幸なことだ。先進美術館の構想を一言で言うならば、美術館という価値保存、研究、展示のための場をコマーシャル・ギャラリーに変貌させ、マッチポンプ商法のように一部の既得権益者が儲けようという構想のこと。この構想が実現するということは、要するに文化が経済に決定的に敗北するということでもある。その結果海外に流出した作品はもう戻らないだろうし、先進美術館のキュレーターは独裁者のような権力を持つことになる。この構想を考えた人間はアート・バーゼル香港などを見学する前に一度『ガチョウと黄金の卵』を読んだ方が良いだろうが、そのような教養が共有される前にアーティスト = ガチョウが刈り尽くされてしまう可能性もある。まずアートは何のためにあるのか、美術館は何のためにあるのか、それに関わる人々の役割は何なのかという根本に立ち戻る以外に解決策はないが、そのために残された時間は少ない。

日大アメフト問題のストレス回避

日大アメフト問題に関しては日本全体の病を象徴していると思うが、流石に報道が過熱し過ぎている。日本人全体がアメリカンフットボールのことについて関わる必要はないし、日大の理事会、監督、コーチなどに怒りを感じ続ける必要もない。震災などが起きた際にその映像を見続けるだけもPTSDになってしまう可能性があることは一部で知られているが、今回の報道ではそこまでは至らないまでも似たような現象が多かれ少なかれ起きているはず。人間の潜在意識は物理と情報の境界線を意識しないので、そこに対して感情を刺激し、ストレスの溜まるような情報を流し続けるとメンタルに悪影響を及ぼすことは明らかだ。これは食生活と非常に良く似ていて、例えば普段から栄養の少ないジャンクフードを食べ続けていると生活習慣病になりやすいのと同じく、普段からノイズの多い情報を摂取し続けていると知らない間に潜在的なストレスが溜まり、それは最終的には物理的な身体にも悪影響を及ぼす。日大アメフト問題は当然アメフトだけではなく、日大、もしくは日本全体の旧態依然としたシステムの破綻の問題であるし、そこには何層にも張り巡らされた病巣が存在していることは確かである。しかし実際に自分が関わりを持てる範囲にその解決の糸口がないのであれば、この件を反面教師とし、自分なりの人生を生きることに時間を割いた方が、結果として感情と時間を消耗して日大アメフト問題に関するテレビやネットのニュースを漁り続けるより、遙かに健全で有意義な人生を送れるように思う。

栗城史多と記号消費社会

登山家である栗城史多は現代の記号消費社会における成功を象徴したような人物だった。彼の志と実際の実力、彼のイメージと彼の実態が全く違ったものであることは様々な専門家に指摘されていることであるが、そんな事実は彼の記号的なブランドイメージの前に何の意味も成さない。人々はブランドやイメージを消費するのであって、その実態がただの石油の塊であろうが、アマチュアであろうが特に関係はなく、それが現代社会における本質である。一言で言えばその金になる状況をスポンサーが見逃すはずもなく、その限りなく乖離していく理想と実態の標高差が彼を死に追いやった。そもそも挑戦することと無謀であることとには大きな差がある。前者は積み上げがあり、後戻りもできるかもしれないが、後者は積み上げがなく、再チャレンジできる確証はない。確かに根拠のない自信は何かを成し遂げるために必要で、自信というのは根拠がないから意味があるとすら言える。それは原動力であり、推進力であり、自分を違うステージに連れて行ってくれるものだ。しかしその自信を力として現実の自分の位置を引き上げなければ意味がなく、そこで自分の位置を引き上げられないと知った人間は嘘という逃げ道に走るようになり、次第に自分を客観視する指標を失う。彼については詳しく知っているわけではないので印象論に過ぎないかもしれないが、現代の記号消費社会における一つの悲劇的な寓話として彼は語り継がれるべきかもしれない。