100枚ドローイング展示・講評会

堀浩哉×黒瀬陽平

新芸術校の「作品を作る1」の授業では堀浩哉×黒瀬陽平によるレクチャーの後、100枚ドローイング展示・講評会が行われた。レクチャーの内容で興味深かった部分を幾つか抜粋すると、まず前衛という概念を疑うという部分。前衛が成り立つためには中衛、後衛がなければならず、それらが成立していない状態で前衛が存在するということ自体への疑念があったとのこと。その近代からポストモダンに接続される過程でこのような切断があったということが重要なのであって、結果としてその試みは流産し、失敗に終わったが、未だにその問題意識は消えていないという話。その延長線上の話でアーティストとしての岡本太郎やもの派の作品などがかなり否定的に語られていたが、こういう話は同時代を生きたアーティストにしか語れない部分がある。また1970年に催された大阪万博がその当時のアーティストたちにとって大きなターニングポイントであったことは確かだが、2020年に東京オリンピックを控え、2025年に再度大阪万博誘致へと動いている現在、その過去の出来事は決して他人事とは思えない。他にもかつて呼称すらされることなく、ジャンルとしても成立していなかったはずの表現や作品が現在サウンドアートやメディアアートという言葉で問い直され、囲い直されている現状については、それを引き受けた上で、現代に合わせてアップデートすることの大切さが語られていた。確かに本当の意味での前衛をやってしまったならば、最初はそれ自体に与えられる言葉すらないのは当たり前であって、前衛と呼ばれているものはその安全圏に安住しているという意味で既にぬるいのかもしれない。

100枚ドローイング展示

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100枚ドローイング展示では、自分の中で選択して淘汰しなかったドローイングを壁に貼り出し、淘汰されたドローイングをまとめて机の上に置いておいた。正直展示のことまで余り気が回っていなかったので、ガムテープで貼り付けたら講評中に何度かドローイングの一部が落下するなどしてしまった。場所に関しては意外とスムーズに決まり、特に争奪戦などもなく、棲み分けが自然とできていた印象。本当は本の状態にまとめて展示しようとも思っていたのだけれど、それは展示し終わってから自主的にやれば良いということで、このような展示形態になった。そもそもドローイングや絵のような平面のものを展示することが少なかったので、自分としては妙な感覚が残った

100枚ドローイング講評会

講評会では30人程度講評されたように記憶しているのだけれど、最後から3番目だったので待ち時間だけで相当消耗してしまった。待ち時間が長いと薄い緊張感のようなものがずっと続く感じで、中々辛いものがある。自分以外の講評を聞いているだけでも参考になったことは多々あったが、講評会では褒められるか厳しいことを言われるかよりも、どれだけさらけ出して、正面からぶつかり合うことができるかが大事。自分の講評について簡単にまとめると以下の3点になる。

・今までの経歴や活動の振り幅が大きく、それは面白い。

・絵よりはデジタルの作品の方が面白いが、方法論が明瞭なのは武器になる。

・淘汰した方のドローイングの方が、淘汰しなかった方のドローイングより面白い。

そもそも周囲の人を含めて大体デジタル作品か淘汰した方のドローイングの方にしか反応がなかったので、自分でも大体そういう方向になるのだろうなとは思っていた。そして3番目の淘汰したドローイングの方が〜についてはステイトメントでも言及していたことであり、そこに関してはその前提を踏まえて上手く殴り返していればもう少し発展性のある話になったかもしれない。1番目については結局カミングアウトの話であると思っていて、飲み会でも幻聴、幻覚を含んだ発狂の話や過去の話をして盛り上がったが、そういった要素を作品に盛り込むということに対して自分の中で近年明らかにセーブしている部分があると思う。というか初期に散々そういう作品をやってきたのと、日本では否定され続けて拒絶癖みたいなものが付いているのかもしれない。キャラに関しても上手くその辺を出せると良いのかもしれないけれど、これはこの1年の大きな課題になりそうだ。自分語りのような要素を濃く入れてしまうと、それは結局誰も否定することができないものになるし、一歩間違えると感動ポルノに近いものになってしまう。またカミングアウト的な作品は最初はインパクトがあっても毎回やっていると必ず強度が落ちるし、自分が自覚的にやるようになると客を興醒めさせる原因にもなる。今回自覚したのは自分は今完全にスランプの渦中にいるということであるけれど、得意不得意含めて割と早い段階で自覚できたのは結果として良かった。いずれにせよこれだけ成長にとって意味のある殴り方をしてくれる講評会というのは珍しいので、そういう意味でも貴重な体験だった。