100年後の罪人

解釈のための枠組み

本日は新芸術校で「展示を企画する1」というレクチャー形式の授業があった。まずWikiと自伝と社交という貧しさを抱えた昨今のアート本批判を話のまくらとして、批評の前提となる作品の解釈の仕方について説明された。アート作品は作品によって解釈のための枠組み自体を変えなければならないことが多く、その枠組みが自分の中にインストールされていないと意味不明になる。また現段階ではまだ研究が十分になされていないために位置付けや評価が難しい作品もあるし、ある作品については解釈できても他の作品については別の枠組みが理解できないと分からないという事態にも陥る。例えば前半に解説されたPeter Halleyの作品についてはフォーマリズムとイコノロジーの両面を併せ持つ作品と言われればスッキリするが、そのフォーマリズム = 形式とイコノロジー = 象徴についてそれぞれ具体的な作品を通して理解していないと理解が難しい。故にまずはその型と歴史的な流れについて徹底的に押さえておく必要がある。

悪い場所とコレクティブ

前半で特に問題となったのが椹木野衣が提唱した悪い場所について。簡単にまとめると西洋美術と日本美術では似たような作品も多いが、その評価が圧倒的に異なるのは日本が敗戦国であり、前衛が存在するための基盤が存在しないからだという話。これは昨今のコレクティブブームとも完全に接続する話で、前衛が存在しない悪い場所である日本にどうやって前衛やマーケットを作るかという問題設定に対して、それぞれのコレクティブがそれぞれの方法論で社会実験、社会実装し始めているというのが現状。村上隆は悪い場所ではない海外に地盤を築き、その実績と方法論を逆輸入したGEISAIを開催することで悪い場所問題を解決しようとしたが、結局その志は挫折した。一方で若いアーティストたちは地方の空き家などを活用しつつ小さな場を作ることを選んだが、結局地方芸術祭などの公的な助成金を当てにした活動はアートではなく街興しにしかならず、表現は制限され、マーケットの問題は解決しなかった。そこでどうするのかという問題が問われるわけだが、天皇のようなハイアート、ローアートを区分する存在が鍵なのか、コレクティブ活動の延長線上に解決策があるのかは現段階ではまだ分からない。

サブカルと国威発揚

続いてサブカルの歴史の話に話題が移行する。現代美術が何の役割も果たせなかった一方で、サブカルがその抑圧の表象として文化の重要な役割を担ってきたという解釈は美大ではなく新芸術校ならではのもの。ただしその解釈の正しさはゴジラやうる星やつらなどの作品とディズニー作品、洋画などを見比べることではっきりする。個人的にはV系もサブカルの観点から捉えることが可能であり、そこにはオタクとメンヘラの相容れない性質がありながらも、多くの共通項もあると思っている。例えばサブカルの象徴である漫画やアニメが世界言語になったように、V系も日本の音楽で唯一世界言語になり得る可能性を持った日本発の音楽である。現在のV系は自己否定から自己肯定、化粧の自己目的化、内輪化によってジャンルとしての魅力はほとんど死滅したわけであるが、実はXRの時代にこそV系が再設定されなければならず、そこには可能性があると信じている。話は脱線したが、日本ではサブカルやエンタメが無意識な前衛として機能し、人々はそれがアートであると気付くことなく消費し、アートは後衛として美大予備校や美大によって無職を排出し、その学校の講師を再生産する介護施設として存在し続けているという倒錯した状況が現在も続いている。それにしても『桃太郎 海の神兵』が行っていた国威発揚のプロパガンダは衝撃的だったが、観ている途中でamazarashiの「多数決」が頭の中から流れてきて「罪悪も合法も多数決で決まるならもしかしたら百年後はもう全員罪人かもな」と歌っていた。100年後から見ればこの国策映画と似たようなことが現在進行形で行われているのだろうと考えたら妙に気持ち悪い気分になったが、その審判の場に対して時間の堆積の渦中にいるアーティストには何ができるのかと考え込んでしまった。