「批評再生塾第4期キックオフ&第3期大反省会」に行ってきた

「制作」と「批評」

「批評再生塾第4期キックオフ&第3期大反省会」に行ってきた。自らの過去を振り返ると、過去に美大を飛び出して海外留学をしたり競技ディベートに参加した動機は、制作の現場に「批評」が足りないという意識があったからだった。「制作」は「批評」を前進させるし、「批評」は「制作」を前進させる。この当たり前の循環のループに対して余りにも鈍感な環境が存在しており、巷では単純な敵対視の関係、もしくは自己満足に近い「制作」、「批評」が溢れていた。現在はその観点を「制作」、「批評」にテクノロジーを加えた三つの観点から捉え直しており、それぞれが本来は有機的に結びついていなければならないのに、各要素と人の集合が水と油のように反発しており、界面活性剤のように仲を取り持つ環境が構築できていない状態をどう再構築するかということに興味がある。テクノロジーについては独学、もしくは金銭的な面から仕事の現場で学ぶべきと考えているが、新芸術校に参加している身から考えると、コラボ授業があるということ以上に上記のような考えから批評再生塾には興味があった。もちろん自分のソロ活動、コラボ活動、コレクティブ活動の三つの軸をしっかり行い、日々生存戦略を試行錯誤しながら生き延びた上で参加するということに意味がある。

トークイベントについて

前半と後半の断絶

「批評再生塾第4期キックオフ&第3期大反省会」の前半と後半には大きな断絶がある。前半は佐々木敦、吉田雅史、渋革まろんによる鼎談形式で開始された。内容を一言でまとめれば批評再生塾の紹介なのに、「批評が不在」という不毛なものだったので割愛する。内輪ウケの馴れ合いだけを延々と見せられたので、ここに来るまでにかかった交通費と滞在時間の浪費具合が気になり始める。急激に面白くなったのは後半に東浩紀が前半のトークに対して、登壇者に対して、ゲンロンという会社に対して、批評再生塾に対して、自らに対して批評性を持って介入してから。そこに市川真人による佐々木敦に対して、もしくは批評再生塾に対する鋭いロールプレイ、批判があり、佐々木敦のコアが掘り出され、最終的に津田大介が吉田雅史が本来成すべきだった司会の役割を果たす教育的介入をした。しかし最後まで埋まらなかったギャップがあり、それは「危機感」という言葉に集約される。

「危機感」と「欲望」について

優れた制作者や批評家の素質があるかどうかは、現状に対してどれだけ「危機感」があるかどうかで決まる。そもそも「危機感」がなければ「制作」や「批評」というような表現行為を行う必要すらないだろう。そして現状の何に対してどの程度の「危機感」があり、それをどんな手段でどうやって表現し、人々を感染させるかという観点が大事になってくる。ここでいう「危機感」は「欲望」と密接な関係性がある。自らの根源的な「欲望」に対して現状が上手く対応していないからこそ「危機感」が生まれるわけだし、「危機感」があるからこそその現状を超えるような「欲望」が生まれるわけだ。その「危機感」と「欲望」の大きさは通常比例するのだが、鈍感になろうと思えばどこまでも鈍感になることも可能だ。外部の視点からそれを指摘していた市川真人と津田大介を除き、というより彼らは現場の「危機感」のなさに驚いて乱入してくれたわけであるが、そのことについて自覚的であったのは東浩紀ただ1人であった。

「ディレクター」と「プロデューサー」について

また制作者の行き着く先が「ディレクター」なのだとしたら、批評家の行き着く先は「プロデューサー」である。東浩紀が「批評再生塾」のことを「総合メディアプロデューサー養成塾」と表現し、良くある「ライター養成塾」との違いを強調したのはここに真意がある。彼の意図するような「誤配の場」を形成するためには、一見「批評」と関係ありそうな賢そうな知識、難解で綺麗な文章、独特の言い回しなどは無関係であり、一見「批評」と関係なさそうな経営の視点、人材のマネジメントの視点などを含めたプロデューサー的な観点が重要である。よってそのような人材を育成したいのであれば、ニコ生配信があるとはいえ、今のような文章主体のプログラムから大幅に構成を変える必要があるのかもしれない。少なくとも登壇していた批評再生塾総代たちにそのような資質があったかどうかにはかなりの疑問を感じた。

「教育」について

最後に「教育」について。まず前提としてEducationとLearningは違う。そしてEducationよりLearningを求めてきたというのは自分の経歴を見ても明らかだし、ブログを通して何度も強調してきたことだ。要するに基本は独学であり、ゴールは自分で決めるし、自分でやってみること。そのフィードバックループを繰り返していくしかない。トーク中言われていた「こっち側においでよ」とはつまり当事者意識とその実践のことであり、マイナーな趣味を持つ人々のための場作り、友達作りをしようということではない。社会に容赦なくさらされ、誰も守ってくれない中で、1人でも生き抜ける力を付けること以外の生存戦略などない。逆説的に言えばそれができる個人が集まって初めて、有機的に機能する場や人間関係が生まれる。そうでなければその集団や場はただの烏合の衆と化すしかない。これは自分のコラボ活動、コレクティブ活動を通して、またフリーランスとしての活動を通して学んできたことでもある。自分としては浅田彰的な「全ての教師は反面教師、教育の場は廃墟であれ」という持論を支持するが、それでも新芸術校という芸術運動に参加したのはLearningを主体とした個人が集まる場があれば、それは従来のEducationもLearningも超えることができるかもしれないと考えたからだ。さらに個人的な考えを言えば、教育の成果は教育者を超える人材が出るか否かで決まると考えている。要するに新芸術校はカオス*ラウンジ、もしくは黒瀬陽平を超える人材、批評再生塾は佐々木淳を超える人材、ゲンロンスクール全体からは東浩紀を超える人材が出るか否かでその成否は判断される。もちろん金賞や総代を狙うということは奨励されるべきだが、それだけではただ単純に褒められたいという承認欲求のレベルから出られない。本来受講生はそれを圧倒的に超えるスケールで物事を考え、実践しなければならないわけで、そうでないのならばただの客か傍観者かワナビーとして群れ合うしかない。

追記

批評再生塾第4期は募集を中止するとのことで、再開は未定。トークイベントの動画を非公開にすることを含めて非常にスピーディで良い決断だと思った。作品を売った経験がある人ならわかるだろうが、誰が何を言葉として言おうが作品を購入してくれないならそれはそこまでの評価ということであり、その評価は前作から引き続いたものであり、そのシビアさに敏感でなければ生き残ることはできない。そういう意味で第4期の募集がふるわないという時点でトークイベントのゲーム内容自体が変わってしまったのであり、そこに対してアドリブ的に対応する能力を含めて生き残る力が試される。それに対する一部の批評再生塾生の甘えが露呈していたのは非常に残念だが、生き残りたいならば自分の身は自分で守るし、自分で盛り上げて自分で責任を取るという当たり前の現実に直面する良い機会が与えられたと解釈することもできる。ちなみに批評再生塾第4期のプログラムの内容はゲンロン 佐々木敦 批評再生塾 2018を見れば分かるが、チューター制度創設、実作者を含めた豪華な講師陣を見るだけでも破格の内容であることが分かる。それに加えて仮に第4期が「総合メディアプロデューサー養成塾」のような観点を追加しつつ再募集するようなことがあったとしたら、それは素晴らしいプログラムになるだろう。批評再生塾が第3期で終了する可能性があり、新芸術校に参加するための費用の借金を未だに抱えた状態でこういうのもなんだが、借金を返し終え、自分の経済的状況、他の活動との両立が可能と判断し、さらに募集が再開するという奇跡のような状況が起こったならば、その時は改めて申し込んでみようと思う。