「日常のゴールデンウィーク」と「人生がゴールデンウィーク」

ゴールデンウィークの過ごし方

自分にとってゴールデンウィークとはその他と何ら変わりのない日常である。というより日、週、月、年、曜日、休日、季節などの感覚が失われて久しいが、それらは電車の混み具合で、もしくは気温と服装の関係性を通して事後的に気付くものであって、事前に把握するものではなくなっている。さらに天気についても事前に天気予報を通して知るのではなく、他者を通して、もしくは土砂降りの雨が降ってきて初めて気付くものであって、そのびしょ濡れの気持ちよさは極めて原始的な感性と呼応し合っているように感じる。実際にはこれらの事柄は個人的なものであり、アーティストという言葉では括れない特徴だろう。一言にアーティストと言ってもサラリーマンもいれば、主婦もいれば、学生もいれば、人種も様々であるし、アーティストの自覚すらない人もいる。そこには人の数だけゴールデンウィークの過ごし方があり、自分としては混雑を避けるためにできるだけ外出を避けるというのがセオリーになっているというだけだ。

「日常のゴールデンウィーク」

そこで一つ閃いたのだが、「ゴールデンウィークの日常」ではなく「日常のゴールデンウィーク」と言ってしまったらどうか。「ゴールデンウィークの日常」と言ってしまうと、休んだり、外出したり、遊んだりしなければならないというある種の強迫観念が背景に存在することになる。この時期を逃したら次にいつその余暇と遊びの時間を取れるのか分からないというのがその原因だ。一方で「日常のゴールデンウィーク」という言葉には謎の爽快感と背徳感がある。これはただの言葉遊びの中に過ぎないのだが、言葉遊びには想像力を刺激する力がある。現代人は言葉遊びをしないし、詩的な文章を書くと直ぐに内容のないポエムと言って馬鹿にしたがる。しかし想像力が限りなく早く、また簡単に実現してしまう時代において重要なのはむしろ言葉遊びであり、詩を詠むことであり、言葉の世界に囚われないための言葉の使い方を身に付けることである。「ゴールデンウィークの日常」はハレの中のケの話だが、「日常のゴールデンウィーク」はケの中のハレの話である。ハレをケにしてしまうと退屈だが、ケをハレにしてしまったら楽しい。しかも「ゴールデンウィークの日常」は長くは続かないが、「日常のゴールデンウィーク」は毎週続けることが可能である。日常の中に潜むゴールデンウィークを探し続けること、それは人生の過ごし方と言っても過言ではない。

「人生がゴールデンウィーク」

そもそも生きていること自体が忙しいことなので、仕事や課題などがそこに加わったとしても大して変わりはない。生まれてくる前と死んでからの悠久の時間を考えれば、人間にとっては活動していない時間の方が遙かに長く、人間が活動している時間など些細な時間に過ぎない。このように「日常のゴールデンウィーク」を過ごしていると、忙しいという概念が根底から覆ってしまう。また人間として生まれてくると、とかく人間に注目しがちである。しかし一旦その中心軸を少しだけずらして、人間以外の要素に注目してみる。それは計算機かもしれないし、自然かもしれないし、原理かもしれないし、概念かもしれないし、まだ五感で体感したことのないものかもしれない。そういった事柄の輪郭を描き、ノイズを拾い、手触りを確かめ、匂いを嗅ぎ、舌で味わう。広大な空間には無限の時間軸が突き刺さり、それらは関係性として宙を漂っている。そんな瞑想空間が現実と重なり合う時、「日常のゴールデンウィーク」は「日常がゴールデンウィーク」に変わり、最終的には「人生がゴールデンウィーク」に変わるのである。