歯と脳

歯医者さんと通過儀礼

「ギュウーン、ギュルギュルギュル、ガガガガガガッ!」

「ギュウーン、ギュルギュルギュル、ガガガガガガッ!」、脳髄に響き渡るその音は神経を研磨するように鳴り響く。歯は神経を通じて脳と接続しており、その実感は甲高い機械音と切り刻まれる体感を伴って身体に刻まれる。「虫歯もないし、残り2本の親知らずも今のところ問題ない。」歯科医師にそう告げられて安心したのも束の間、定期検診の一環として行われる歯のクリーニングに対する過敏性は、むしろ子どもの頃よりも高まっているようだ。歯医者さんと言えば子どもが嫌がる場所ベスト3には入る場所で、その恐怖心はマスクで覆われた顔の見えない医師と歯科衛生士、ホワイトキューブのように白く圧迫感のある空間、見慣れない銀色の機械と飛び交う機械音、歯が豪快に削れる音と鉄が匂う血の味、そしてそれらに対して自分が一切無抵抗な被験体になったかのような状態に置かれることに起因するのだろう。

ネゲンピーターパンとネゲンネオテニー

そう考えると歯医者さんとは一瞬の大人になるための通過儀礼と言えるのかもしれない。歯医者さんという人 (職業) と場所が未分化な言葉と歯科医師、歯科医院という人 (職業) と場所が分化した言葉、その言葉の間には確かに子どもと大人の境界線が引かれているように思える。通常は物心が付いてからの理性的判断により、我慢するという行為を覚え、不快感に対する耐性が増していく。しかし子どもの頃には大丈夫で、大人になってからダメになっていくという過程はここからは説明が付かない。それは恐らくアーティストであるという状態、認識と切り離すことができない。より具体的に言えば子どものまま大人になるというピーターパン、大人になるまでの成長が遅いネオテニーではなく、大人になるという通過儀礼を経てなおそこから子どもの性質を獲得していくこと、そこにアーティストであることの秘密がある。要するにピカソを見て子どもを礼賛する人は本質を分かっていなくて、むしろピカソが大人の性質を獲得した後に子どもの性質に還っていくこと。その変遷の中にアーティストの本質が宿っている。つまりアーティストはネゲンピーターパン (負のピーターパン) であり、ネゲンネオテニー (負のネオテニー) でなければならない。

非身体的な脳

豚の脳

歯と脳の繋がりは身体的な意識や体感を通じて感じられたわけだが、身体を持たない剝き出しの脳があったらそこに意識や体感は宿るのだろうか?先日豚の脳を身体から切り離し、36時間延命させたという研究結果が発表されたが、この研究は先程の問いに対する研究の第一歩を踏み出したように感じられる。(1)Ethics debate as pig brains kept alive without a bodyこの実験においてはその豚の脳が意識があったかどうかは不明であるが、仮にあったとしたら身体を持たない意識とは一体どのような体感を持ち得るのだろうか?脳はもちろん物質であり、身体の一部であるが、脳の機能的な側面を取り上げるのであれば、それは非身体的な脳 = 心と言い換えることができる。そしてその非身体的な脳は常に身体の存在を前提として存在しているわけであるが、その前提を失った心は夢や体外離脱、もしくは臨死体験のような状態に置かれると推測できる。一方で科学的には未解明だが、記憶転移と呼ばれる臓器移植によってドナーの記憶の一部がレシピエントに受け継がれる現象もあるとされており、それが仮に事実だとしたら脳だけに心が宿るという前提が正しいかどうかも分からなくなってくる。しかしそれらはあくまで推測や未検証な現象であって、体験した人がいない、もしくは科学的根拠がない以上現段階で実証することはできない。

人間の頭部移植

またこちらは誤解を招き易い表現ではあるが、昨年人間の頭部移植に成功したと宣言する医師も出てきており、その論文も一般公開されている(2)First cephalosomatic anastomosis in a human model誤解を招き易い表現と言ったのは、人間の頭部移植は確かに行っているが、それは遺体同士のものであるということ。つまりこの試みはフランケンシュタインの怪物の頭部のみ、しかも生命を持たないバージョンを作り出したと言えば分かり易いかもしれない。将来的には生きた人間の頭部移植も可能としており、そのためのリハーサルとしての実験だったらしいが、こちらの実験も豚の脳の実験同様に倫理的な問題を孕んでいることは明白だろう。しかし人間は煩悩と好奇心には勝てない生き物であり、中国のような国は良くも悪くも倫理的な問題に関わらず突進していくので最終的には行くところまで行くだろう。そこにはマトリックス、シミュレーテッドリアリティ、水槽の脳、不老不死といったような哲学的、SF的な主題が科学技術によって現実になってくるような状況も予想されるが、今回の記事や論文を読んだ限りではその状態まではまだ程遠いように思えた。しかしそれでもAIと人間のチューリングテストがポストトゥルース以降のポリコレチェックのようにあらゆる局面で空気の存在のように無意識に行われていく日常を想像すれば、歯と神経と脳によって再現された現実が、本当はどこに存在しているのかという問いかけすら気にならなくなる日常というものが将来的に訪れるのだろうかと思わずにはいられない。