アーティストステイトメントについて: 枠組みからの逸脱、外れ値の可視化、現実感の統合

課題の泳ぎ方

本日新芸術校での3回目の授業が行われた。テーマはセルフプロデュースで、具体的に言えば三つの段階を通して授業が行われた。まず最初に制作において言語を扱うことについての説明、次に課題についての解説、最後に個々と全体のアーティストステイトメントについての講評。課題は10個の課題文から最も興味深いテキストを選択し、そのテーマに言及しながら自分のアーティストステイトメントを800字以上1500字以下でまとめること。しかし学生生活を終えても未だに一夜漬けと締め切りぎりぎりにやり始めて1分前に提出するという癖が直らない。死という不確定な要素が最終的な締め切りなのだとしたら、時間で区切られた確定的な締め切りは易しく優しいはずだ。しかし自分が動ける時間には徹底的にまとめてやることができるが、動けない時間には徹底的に何もできないというバイオリズムの中でしか生きられない身体なので、今後の課題もその自分のバイオリズムを把握した上で、その波を上手く泳いでいくしかないのだろう。

制作と言語

制作と言語

アートの制作に言語が必要なのは当然である。というより当然であるし、美大にその成分が不足していると思ったからこそ海外留学をし、ディベートも修得してきたわけだ。新芸術校もまたその言語の必要性を重要視する現場の一つである。授業において言及されていた内容を要約すれば、言語は制作に先行するものでも対立するものでもなく、仮説として、または道具として制作と共に書き直されながら前進していくものであるということだ。しかしこのような当然の前提を共有できる教育の場は美大や美術予備校を含めて日本にはほぼ存在しない一方で、海外ではクリティークと呼ばれる批評、講評が授業の大半を占め、教授と生徒の境界もなく作品について話し合われるというところに大きな違いを感じる。

原理のゲームと文脈のゲーム

また言語は現代美術の文脈を支える批評の役割とも密接に関わっているが、これに対する現代のアンチテーゼとしては落合陽一の主張が挙げられるだろう。彼は原理のゲームと文脈のゲームという分類をし、将来的に現代美術という文脈のゲームはテクノロジーによる原理のゲームによって塗り替えられると主張している。個人的にはこの主張は一定の説得力があり、パラダイムシフトの境界線にある主張として重く受け止めるべきかと思う。一方で彼の言う原理のゲーム礼賛、文脈のゲーム切り捨てという議論の荒さには疑問もある。彼の生存戦略は研究や論文や学会などの活動を通して原理のゲームを追求し、それを異なる文脈である現代美術に作品や展覧会を通して変換することによって、メディアアートとして成立させるところにある。しかし研究や論文や学会といったものも、結局は言語や人間のフィルターを通した積み重ねの活動であるという意味において、文脈のゲームであるとも言える。要するに彼はサイエンスという文脈を現代美術の文脈に翻訳し、作品として成立させているわけで、構造としては漫画やアニメという文脈を現代美術の文脈に翻訳し、作品として成立させた村上隆と同様の構造を持っている。もちろん文脈の異なり具合が離れていればいるほどそれは難易度が高い行為と言えるわけだが、ここで原理のゲームが成立し、文脈のゲームが無効になったという主張が成立しているかどうかは怪しい。

Cross Media ArtsとAnrealms

個人的にはCross Media ArtsやAnrealmsといったコラボレーションで異なる文脈同士を翻訳、接続して作品化しているという点で彼の作品と似たような構造を持っているのだが、その立場においても言語や文脈のゲームを学ぶ必要があると思っているのは上記のような理由からだ。一方でテクノロジーについて全く学ぼうとしない現代美術もまた時代遅れになる可能性が高く、この時代における生存戦略としてはできるだけ異なる文脈についての専門性を同時に高めていくしかない。また人間を計算機と捉えること自体は間違いとは言えないし、究極的にはそうなる可能性はあるものの、現代における脳科学やAI関連の研究をある程度知っていれば、理論的な記号を使用しての脳と心の記述が全く進んでいないこと、Deep Learningなどの科学技術の発展の先にシンギュラリティが存在していないことは容易に分かるはずであり、それらの現実を無視して広告、宣伝的にテクノロジーのみで全てを解決できるとは思わない。そういう意味で近代的な人間性が忘却され、デジタルネイチャーが来た後に、もう一度人間が人間であることの限界が訪れると予想しており、そこで東浩紀的な観点がもう一度見直される必要がある。エモいという言葉で捨象されてしまう繊細な言葉の中にも、言葉では表現できないエモさが隠されていることに気付かなければならない。

アーティストステイトメントについて

話が逸れてしまったので、ここからはアーティストステイトメントについての話に移行する。

解説と講評

全体のアーティストステイトメントについての解説と講評。

・課題文には直接言及していなくても良く、それが大半を占めるのは良くない。

・批評、論文形式ではなく、エッセイ、ナラティブ形式でもコンセプトが抽出されていれば良い。

・抱負は語っても意味がない。

全体的にエッセイ、ナラティブ形式が大半を占めていたのに驚いたのだが、そういう形式で書いても良いのだという気付きがあった。エモさを出すにはむしろそういった形式の方がやりやすいのだが、自分語りをしてしまう余りポエムになってしまったり、コンセプトの抽出が足りなくなる危険性もあるように思えた。

自分のアーティストステイトメントについての解説と講評。

・1段落目と2〜4段落目が課題文の読解と、三つの活動形態に沿った作品紹介に分裂している。

・包括的に全てに言及するのではなく、アーティストステイトメントのコンセプトに関係する箇所のみ言及すれば良い。

前回の自己紹介プレゼンで余りにも作品について紹介し忘れたことで、アーティストステイトメントというよりは活動形態と作品紹介になってしまい、それらの根底にあるコンセプトについてほとんど書いていなかった。また課題文に言及するという意識が強すぎた余り、最初の段落にまとめてそれ以降と断絶を生んでしまったのと、タイトルはこの課題文の読解についてであって自分の作品のコンセプトと関係がなかった。指摘されるだろうと思った部分を短時間で的確かつ網羅的に指摘されたので、前に進むための講評としては非常に役に立った。

枠組みからの逸脱、外れ値の可視化、現実感の統合

今回提出したテキストはそもそも推敲する時間が足りておらず、全体に通じるコンセプトを書いていないのでアーティストステイトメントになっていないという自己認識があった。また抽象度をもう1、2段下げた上でエッセイ的な要素も混ぜた方が良いと判断した。なので授業後に現時点でのアーティストステイトメントとして全面的に書き直してみた。

以下変更点、改善点を箇条書きでまとめる。

・タイトルの変更と名前の記述をした。

・課題文のテーマへの言及はしていない。

・タイトルなどを除き1500字以内に収めた。

・自分の作品、活動の根底にあるコンセプトをまとめ、最初から最後までそれについての論を具体的に展開、言及した。

NILの活動や作品の背景にあるコンセプト、もしくはアーティストステイトメントに興味のある方は以下のPDFで読めるので、是非参照してみてほしい。

枠組みからの逸脱、外れ値の可視化、異なる現実感の統合