失敗作で出来損ないという可能性

認識と存在と評価

どうやら家族にとって自分は失敗作で出来損ないという認識をされているらしい。他人の評価には一面の真実が宿るので、ある側面から見れば確かにそうなんだろう。父親は最近庭で植物を育て始めた。子育てに失敗した代償行為として植物は裏切らないというのがその理由らしい。姉はそれに反発して子育てを失敗した原因を両親に求める。何故失敗したという前提を疑わないのか、仮に失敗だとして他人のせいにするのか、その失敗にこちらを勝手に含めているのかは良く理解できないが、自分は失敗しているという被害妄想が強いのだろうか。母親にとっては自ら事業を起こすこと、フリーランスとして働くこと、アート制作をすること、展覧会をすることなどは仕事をするうちに入らないらしい。日本に帰国してから何も働いたことがないと認識されていることにまず驚いたが、とりあえず会社に所属して働くという行為のみが彼女の認識する働くという行為になるようだ。確定申告をしようが、賞を受賞しようが、会社を設立しようが、作品が売れようが、何もかもが認識の範囲外なのでこの時空間においては特に何の効力も持たない。たとえMoMAで作品を展示しようが、ヴェネツィア・ビエンナーレに出展しようが、ノーベル賞を受賞しようがこの状況は全く変わらないだろう。認識しないことは存在しないことと同じであり、存在しないことは評価対象外であり、評価対象外であることは例外なく最悪の評価に等しいからだ。

夢の原則

自分としては人生の中で数限りない決断を下してきたが、その中で自分の最良の選択と思っている大きな選択は過去に一つの間違いもなく全て両親に否定されてきた。ということは逆に言えば両親に否定されるような決断をしているということは、自分は自らの定義する成功への道のりを歩いているということになる。自らの定義する成功とは何か、それは自分にとって好きなことをやり続けることだ。そこで諸事情により来年海外で活動する予定であることを両親に話してみたが、案の定全否定され、説教が始まった。そこで父親が未だに自分に公務員になってほしいという夢を諦めていないという衝撃の事実が明かされたが、その夢が叶うことは残念ながらないだろう。何故ならば夢とは自分で見て叶えるものであり、他人に押しつけるものではないからだ。この夢の原則さえ守っていれば夢は必ず実現していくが、この原則を守らない限りは夢が叶うことは永遠にない。色々文句を言いつつもやり続ければ最終的には応援してくれるという意味では、自分はただ自分の夢を信じて突き進めば良いだけだ。

復讐と親孝行

自分にとって自分は成功作で上出来である。自分の評価には一面の真実が宿るので、ある側面から見れば確かにそうなるはずだ。見た夢は全て叶えてきたし、これからもそうなるだろう。その意味では子育ては成功しているが、それに気付くことができるかどうかはまた別の話だ。人間はこの瞬間に既に全てを手にしている、ただ違いはそれに気付けるか気付けないかでしかない。また子どもを生むのは一種の暴力だと思っているし、未だにその考えは変わらない。何故なら存在するかどうかという最も原初的で根本的な部分に関して人間はその選択肢を持っておらず、その選択肢は半ば強制的に選択されてしまうからだ。そういう意味で世界は最初から不条理なものとして存在している。そんな不条理な世界においてただ生きているということの連続性、継続性を保っているという事実だけで他に何も必要ないくらい立派なことではないか。双極性障害を患っていると世界の不条理さと自分の不条理さの両方に揺さぶられることになるので、生き延びるということがとりあえず何よりの仕事であり達成なのである。そういう意味では引きこもり、ニートと分類される人であっても、例外なくこの生きるという途轍もない仕事をやってのけている。生まれてきたことに対する感謝は未だに両親に伝えることはできないが、失敗作で出来損ないとして生き延びること、これが両親に対する最大の復讐であり、最大の親孝行なのである。