宇佐美圭司壁画処分問題について: 冷たいヴァンダリズム

宇佐美圭司壁画処分問題

東京大学の本郷中央食堂にあった宇佐美圭司の壁画が廃棄処分されたとのこと。この世界にFake News以外でそんな単語の組み合わせがあり得るのかと思ったが、どうやら事実らしい。無限に散らばる可能世界の中で、この世界線では確かにそのようなこともあり得る伏線が多々張られていたようにも思うが、いざ実際に現実を目の当たりにすると大きな衝撃がある。現状幾つか不明な点があるが、既に不可逆な状態で二度と戻らないことは確定事項らしく、残された者にできる選択肢は限られている。宇佐美圭司についての説明は東京文化財研究所の紹介を読めば一通り分かるはずだが、特に重要なのは彼が既に故人であり、また今回処分された壁画は彼のモチーフである「記号化した人間の形」を象徴する大作として、代表作と呼んでも良いレベルのものであったことだろう。(1)東京文化財研究所: 宇佐美圭司要するに今から誰が何をしても取り返しのつかないことが、こともあろうに日本の知、学問を代表する機関である東京大学の内部で起こってしまったということだ。

原因究明と再発防止

既に起きてしまったことは仕方がないので、まずは原因究明と再発防止のための対策が必要だ。東京大学消費生活協同組合のWEBひとことカードによれば、今回作品が廃棄処分になってしまった背景には以下の二つの理由があると説明されている。(2)展示されていた宇佐美圭司の絵画は・・・

・吸音、意匠の問題から新中央食堂に飾ることができなかった。

・別の施設に移設するということもできなかった。

仮にこの二つの前提が正しかったとして、廃棄処分という不可逆な判断を下すまでには無限の段階とグラデーションがあるように思える。例えば物理的アーカイブが不可能だったとしても、最悪デジタルアーカイブなどの手法も存在している。さらにこの二つの前提も本当に正しかったのかどうかが不明である。これら吸音、意匠、移設の三つの理由に関しては、より具体的な話が出てこない限り現段階でそれが本当に不可能なことだったのかどうか判断しようがない。特に移設に関しては物理的に何をどうしても不可能であったのか、引取先がなかったという意味なのかすらも分からない。しかし少なくとも「新中央食堂へ飾ることができず(全体にわたって吸音の壁になることや)、意匠の面から)、また別の施設に移設するということもできないことから、今回、処分させていただくことといたしました。大変残念ではございますが、なにとぞご理解くださいますようお願い申し上げます。」という説明で納得することは難しく、誰の権限と責任により、またどのような経緯を経てこのような判断が行われたのかは再発防止のために明らかにする必要があるだろう。他にも今回の件は作品について調査し、作品の価値を認識した上で行われたのか、有名無名を問わず作品を廃棄処分することに対する判断基準は何なのか、東京大学消費生活協同組合と東京大学の間、もしくは本郷キャンパスと駒場キャンパスの間には連携があったのか、事前にどれだけ周知されていたのか、反対意見は無かったのかなど数多くの疑問が残る。

文化財のアーカイブ

高度に知的な作業

そもそも文化財のアーカイブは高度に知的な作業である。何故なら物理空間には容量の制限があり、まずどの作品をアーカイブするべきかを誰かが判断しなければならない。次にそれをどのような形でアーカイブするべきなのかを判断し、最良の方法で実行に移す必要がある。それらの判断を下すためには歴史的な文脈や将来の保存状況などを考えて、少なくとも数百年、数千年の単位で物事を考えられることが条件になる。生と死というのは人間にとっての一つの大きな時間的な区切りなわけであるが、文化財のアーカイブに関してはその区切りを超えた情報空間にアクセスしない限り、そもそもその仕事の重要性と意義を理解することすら困難な行為であるという意味で、高度に知的な作業であると言える。またマルセル・デュシャンの《花嫁は彼女の独身者たちによって裸にされて、さえも》(通称《大ガラス》) は《グリーン・ボックス》の中にその設計図が存在している。(3)28 芸術における「オリジナリティ」とは何かそれを元に自主制作された作品が駒場博物館に所蔵されている(4)美術博物館の沿革が、オリジナルの《大ガラス》は運搬の途中で割れており、デュシャンはその偶然性を喜んだという逸話がある。『デュシャン』という本を著し、彼の作品にも大きな影響を受けたであろう宇佐美圭司は、その割れていない《大ガラス》の近くの現場で自分の作品が廃棄処分になったという事実をどう受け止めるのだろうか。

熱いヴァンダリズムと冷たいヴァンダリズム

文化財がゴミ同然に破壊、汚染、処分されるという行為はヴァンダリズムとして知られている。近年において最も有名な例はターリバーンやイスラム国といったテロリストたちによるバーミヤン石仏、パルミラなどの世界遺産に対するヴァンダリズムだろう。一方で旧都庁にあった岡本太郎の一連の作品群が撤去、破壊されてしまった件や、今回の宇佐美圭司壁画処分問題に関しても性質の異なるヴァンダリズムとして捉えることが可能である。前者のような衝動的、破壊的、信仰的なヴァンダリズムを熱いヴァンダリズムとするならば、後者のような無関心、無邪気、業務的なヴァンダリズムは冷たいヴァンダリズムと呼ぶことができるだろう。岡本太郎の件については保存運動もあり、移転が難しい理由もはっきりしていたために今回の件とは多少状況が異なるが、今回のように何事も無かったかのように全てが終わっていたという事実に関しては昔よりさらに状況が悪化していると言わざるを得ない。またより抽象的に考えるならば、ザハ・ハディドの新国立競技場の件に関しても建築する前に行われた冷たいヴァンダリズムの一種として捉えることも可能かもしれない。また宇佐美圭司はその知名度において専門家と一般人の間に断絶を起こし易い境界線にいるようなアーティストだろう。専門家は知っていて当然だが、一般人は知らない人も多いといった境界線上の存在に対して、冷たいヴァンダリズムは機能し易い。恐らく今回の件は氷山の一角に過ぎず、世界中であらゆる濃度の熱いヴァンダリズムと冷たいヴァンダリズムが同時進行している。そして前者に関しては目立つために話題になるが、後者に関しては知性や教養の放棄によって静かに進行し、この世界を浸食し始めているのかもしれない。

作者の死と作品の死

アーティストは二度死ぬ。それは作者の死と作品の死によって。前者に関しては今の技術力では防ぐことができないが、後者に関しては2種類の死が考えられる。一つ目はアーカイブの忘却によって、二つ目はヴァンダリズムによって。その2種類の死の中でアーカイブの忘却に関してはまだ救いようがある。何故ならそれが起こる場合は作品自体の実力不足、もしくは専門家や鑑賞者の実力不足の場合もあるが、前者であれば忘却されても仕方ないし、後者であれば時間を経てその問題は解決する可能性があるからだ。一方でヴァンダリズムについては、より問題が深刻になる。その理由としては作品が物理的に破壊されてしまえば、その時点で残されていた資料からしか作品についての手がかりは消えてしまうし、そうなってくると復元することが困難、もしくは不可能になってくるからだ。将来的にはデジタルアーカイブの方法がより発達し、作品と全く同質のレプリカさえ作れるようになるかもしれない。しかし仮にそうだったとしてもそれはその時点で存在する作品に対してある条件下で可能になることであって、既に失われた作品に関しては修復も復元も再現もできないという意味で取り返しが付かないだろう。このような状況下において、アーティストは自分の作品のアーカイブについて真剣に考えなければならない。自分の作品を売らずに手元に置いておくアーティストについて以前は余り理解できなかったが、今回の件でその心情についても多少理解できた。しかし問題はたとえそのような対策をしたとしても、自分の死後に自分の作品を守れる保証はどこにもないということだ。またデュシャンの狙いは違う部分にあるだろうが、彼のように作品の設計図を残しておくというのはアーカイブを機能させるための有効な手段の一つかもしれない。公文書偽造、廃棄は民主主義の根幹を揺るがすが、冷たいヴァンダリズムは文化の根幹を揺るがす。「恒久設置とされておりました渋谷駅の連絡通路の壁画ですが、諸事情により処分させていただくことといたしました。」なんてことが今後起きないことを切に願う。