東京国立近代美術館「MOMAT コレクション」と皇居外苑・楠木正成像

東京国立近代美術館「MOMAT コレクション」

東京「国立」「近代」美術館

新芸術校のツアーで東京国立近代美術館「MOMAT コレクション」を観てきた。まず重要なのはここは東京「国立」「近代」美術館ということで、「国」が設立、運営しているということと、「近代」という時代区分の美術を収集して展示している場所ということ。そうなってくると当然日本の美術作品が中心になり、キュレーションの質も高いものが求められ、「近代」以前でも以降でもないという意味で「近代」とは何かが問われてくる。西洋と東洋という区分で見ればそれぞれの「近代」には当然異なる文脈とその発展の仕方があり、同じ「近代」として一括りにはできない。そして「近代」になる過程においては人工的に成立した「国家」の枠組みが最重要であり、日本においては西洋における遠近法などの「技法」をどのようにして日本古来からの文化や文脈に接続し、折衷するのかという「形式」と「内容」の統合に試行錯誤する過程が重要になってくる。つまりこのコレクションとして飾られている絵画は全てが成功例というわけではなく、ある試行錯誤の方向の象徴的な結果、典型例としての役割を果たしている絵画も多い。

アートの鑑賞教育

基本的には上記のような前提を基盤として黒瀬陽平解説によるツアーが行われていた。他にも1人称的なカメラの有無の話、イズムの出尽くした後の時代の話、文脈から外れた絵画の話、西洋的な視点の話、戦争画の実験性の話、リアリズム論争とルポルタージュ絵画の話など、年代とテーマのキュレーションの混同の話、横山大観や平山郁夫の技巧と生存戦略の話など興味深い話が沢山語られていた。東京国立近代美術館には最後におまけ程度の現代美術の部屋もあるのだが、そこには李禹煥、田中功起、鈴木理策などの作品も展示されていた。また私小説的な写真とキャプションの話が否定的にされていたが、その問題意識は日本ではずっと感じていて、以前観たアニメーションや他の展覧会のキャプションなどを総合してみてもかなり根の深い病理なのではないかと思う。しかし本質的な問題はこういったアートを鑑賞するための教育が公的な教育では一切なされないということだろう。私語厳禁の方針の美術館が多いことが既に驚くべきことだが、1回で良いからこのようなアートを解説するツアーなどを子どもの頃に体験する授業があれば、日本におけるアートの受容のされ方はかなり変わるはず。そうは言ってもそれがなされるわけもないので新芸術校のような場が代替の場として機能しているのだが、今そういった取り組みを積極的にしていかなければ、日本では数十年後になってもアート = 分からないもの、アーティスト = 趣味人といったような認識の枠組みは変わらないだろう。

皇居外苑・楠木正成像

自我の無限ループ → 異なる世界線

ツアーはほぼ2時間立ちっぱなしでだったので、かなり身体的に疲れた。しかし同じく新芸術校に参加している國冨君が皇居外苑にある楠木正成像に興味があるということで、一緒に皇居を訪れてみることにした。昔から自分には盲点になっている他人が興味を持っているものに興味があり、人に勧められたものはとりあえず可能な限り何でも体験するし、軽いノリで行き先を変更したりする。それは一般的には偶有性やセレンデピティと言われるようなものかもしれないが、自分の中ではランダム性を極大化し、隠された関係性を見出だすことだと思っていて、そういった縁起を通してしかむしろ自我は発見できない。簡単に言えば自我の無限ループから脱出し、異なる世界線に到達するためには、まず徹底的に自我を殺して他人の視点を受け入れることから始めるしかないということだ。

皇居外苑・楠木正成像

日比谷駅からGoogleマップを元に適当に歩いていく。100mの規制もあり、高すぎる建物は存在しないが、その自然と低い建築物の人工的な風景はどこか海外の空間を思わせる。そして歩き続けていると遂に皇居外苑・楠木正成像の後ろ姿が見えてきた。銅像自体は錆びながらも立派なものだったが、楠木正成は正義、もしくは悪という評価が2分されている人物らしく、何故彼が選択されたのかには興味深い真実がありそうだ。また彼は明らかに皇居の方角を向いており、守護者のような立ち位置として存在していた。彼の向いている方角に興味があったので、桜田門などを訪れつつ皇居の方角へ。最終的には交番の前で立ち入り禁止ということで、東京駅付近も探索しつつ一連の探索を終えた。皇居周辺を歩いていると奇妙で美しい場所に迷い込んだと思えるような感覚が残り、京都の碁盤の目とは違った意味で上手く誘導されているように感じた。そして最終的にその感覚は「お洒落」という暴力的な言葉に収束した。日本を代表する場所なのに海外の街並みを思わせ、張りぼてのような東京駅からの一直線の風景で結婚写真が撮影される程に「お洒落」だがその実態は謎に包まれている。宮内庁をCIAやFBIのような比喩で考えるならば、その謎にこそモナリザのようなアートの源泉が眠っているのかもしれない。