変なホテル東京 銀座に宿泊してみた

変なホテル

変なホテルという名前のホテルがある。自らを変と自己主張するものに限って割と普通という法則は、人生の経験則として普遍的なものだ。しかし、ホテルが変ということはアニミズム的な日本ならではの哀愁を感じなくもなく、そこには一定の愛着が湧いてくる。そのようなことを特に考えることもなく、日程と価格と場所の条件が合ったので変なホテルをポチッと予約した。実は変なホテルについては、数年前に長崎のハウステンボスにできた当初から知っていた。しかし今回予約した変なホテル東京 銀座は今年に入ってからできたかなり新しいものであり、「変なホテル」という名称と「銀座」という名称が組み合わさることで、メロンソーダとエスプレッソを混ぜたようなメロンプレッソ感が出ている。というわけで、今回の記事ではその変なホテル東京 銀座に宿泊した体験について書いてみようと思う。

変なホテル東京 銀座

まず初歩的なミスを犯す。変なホテル東京 銀座というホテル名を見て、銀座駅が最寄り駅と勘違いしていたのだ。実際には新富町駅が最寄り駅で築地に近いのだけれど、予約した際の地図には新豊駅と書いてあり、ますます混乱は深まる。結果到着するのに大分時間がかかった。若干遅れて変なホテルに到着すると、事前情報の通りロボットが接客すると思いきや、普通の人間が出現する。そして普通に予約の確認を済ませる。その間もずっと受付の人間をロボットかアンドロイドかと疑って警戒していたのだが、どこからどう見ても普通の人間だった。結局チェックインに関してロボットが関わったのは一瞬だけで、正直拍子抜けした。チェックインを済ませると、エレベーターを使用して部屋へ移動。良いところ、悪いところを箇条書きにしてみると、以下のようになる。

良いところ

・部屋は十分広い。
・風呂が綺麗。
・テレビが大画面で、スマホのYouTubeの映像を投影して楽しめる。

悪いところ

・変にテクノロジーを駆使しようとして、逆にUX/UIのクオリティが下がってしまっている。
・LG Stylerの音が大きい。
・変ではない。

結論

結論を言うと、変なホテルは変ではなかった。何もかもが凄く普通で、特段に良いところも、特段に悪いところもなく、無難な印象。変なホテルというハードルを掲げてしまっているのでこういう評価になってしまうが、別の名前だったらまた違う評価になったかもしれない。ただロボットを使用した接客にはまだまだ超えなければならないハードルが沢山あるのだろうな、と思わせるには十分な宿泊体験だった。実際不気味の谷も結構発動していたし、むしろ恐竜のロボットを見てみたかった感もある。「変わり続けることを約束するホテル」ということで、数年後に何もかもが変わった変なホテルへと変貌を遂げていることを期待したい。

Hailey’5 Café渋谷店に行ってきた

Hailey’5 Café渋谷店

Hailey’5 Café渋谷店に行ってきた。まず18歳以上限定かつ完全防音なので店内の雰囲気は落ち着きがあり、個室にも静寂が漂っている。雑音や騒音に過敏に反応してしまう自分のような人種にとっては、このルールと設備はありがたい。また平日の場合は9時〜18時までならフリータイム1500円で使用できるので、コスパも悪くなく、アイスを含めたドリンクバーの利用が可能で、漫画も読み放題である。一応事前に予約して部屋と時間を確保するのがベターで、1時間までなら外出も許可されている。予約するとQRコードと予約番号が発行されるのは便利だが、登録とクレジットカードでの支払いをカウンターで済ませるのは多少時間がかかった (現金の場合は機械で支払い可能)。個室が余りに快適なので食べ物などをかなり注文してしまったのだけれど、持ち込みや外出も可能なことから考えると無理に全てを内部で済ませる必要はないかもしれない。

『食戟のソーマ』

折角なので漫画を読むことにしたのだが、『食戟のソーマ』で久々に週刊少年ジャンプの世界観に浸った。料理バトル漫画の代表といえば週刊少年マガジンで連載されていた『中華一番!』が真っ先に思い浮かぶが、その審査員たちの顔芸とエロ芸の伝統、ジャンプ流の「友情、努力、勝利 、(血統)、(インフレ)」を引き継いでいるのが『食戟のソーマ』である。ただ主人公が勝つことを至上目的とせず、負けても挑み続ける姿勢、定食料理屋の息子という出自をフル活用すること (ワンピースのルフィで言えばゴム人間的な選択と集中) などには久々にベタな感動を覚えた。YouTuberの始祖たる『ONE PIECE』より『HUNTER×HUNTER』派の自分としては複雑な心境だが、分子ガストロノミーなどアーティストとしても興味深い主題を扱っており、そもそも料理とアートという関係性に興味のある自分としては面白く読んだ。

総合的な評価

結局予約の通り合計5時間30分程度利用したのだが、時間が経つのが相当早く感じた。24時間営業であり、別料金でシャワーも使えるので、宿泊用としても使いやすそう。また都内に渋谷店と池袋店の2店舗があるので、より近い方を選べるのも便利。総合的に見て満足度が高く、都内で落ち着いた雰囲気かつコスパがある程度良い漫画喫茶を探している場合は、選択肢に入れても良さそう。ちなみに今回はシアタールームを利用したが、ネットルーム (リクライニング) もあるようだ。この日はこの後、変なホテルに宿泊し、寿司ざんまいに行ったのだけれどそれらについてはまた後日。

「落合陽一、山紫水明∽事事無碍∽計算機自然」について

メディアアートと現代美術

メディアアートと現代美術が乖離して久しい。メディアアートの1ジャンルが現代美術、現代美術の1ジャンルがメディアアート、メディアアートによって現代美術は滅びる、現代美術とメディアアートは無関係など様々な意見はあれど、この両ジャンルが既に異なる生態系とロジックによって動いているという事実は誰もが認めるところだろう。そしてそれらの業界(1)この言葉は無駄な対立を作りやすいのでできれば使用したくないが、外部から客観的に見れば使用する妥当性がある。を含めて両者は互いに交わることなく黙殺し合い、対話することもなく、交わったとしても互いに互いを過小評価し合う中で無駄な揚げ足取り、文系理系という不毛な二項対立に基づいたポジショントークに終始しているように思える。メディアアートの側から見れば現代美術は時代遅れで滅びていくように見えるのだろうし、現代美術の側からみればメディアアートは浅く歴史を踏まえていないように見えるのだろう。

アート、サイエンス、デザイン、エンジニアリングのフレームワーク

ここでMITメディアラボ所長である伊藤穰一が提唱したアート、サイエンス、デザイン、エンジニアリングのフレームワークをおさらいしてみる。(2)MITメディアラボ・伊藤穰一所長が語る「デザインと科学」この四つのジャンルが「1人」の中にインストールされることで見えてくる風景というものがあり、その上で何処かに圧倒的な専門性がある個人が、集団として有機的に機能した時に達成できる何かがある。Anrealmsというコレクティブではその方向性を目指している。
メディアアートはアートとエンジニアリングを融合させた分野であり、リンク先の図で言えばあらゆる面で対極に位置する二つの分野を融合させていると言える。また落合陽一の場合はサイエンスの知見もメディアアートの中に取り入れているので、少なくとも三つの分野にある程度詳しくないと理解することは難しい。ただこの潮流自体は特段珍しいことではなく、例えばSputniko!がアンソニー・ダンが提唱したスペキュラティブデザインでアートとデザインの融合、バイオアートでアートとサイエンスの融合しながらテクノロジーと人間の関係性について思考しようとしていることもその一例として挙げられるだろう。一方で現代美術がマルセル・デュシャンを起源とするならば、哲学と相性の良い分野であると言うことはできるが、その歴史の累積もまた単純に切り捨てられるものではない。それどころかその歴史を知らない上で新規性を追求すれば無限ループに陥る危険性、もしくは経済性と大衆性を伴うが中身が空虚になってしまう危険性はある。

「落合陽一、山紫水明∽事事無碍∽計算機自然」について

コンセプトとステイトメント

前置きが長くなったが、「落合陽一、山紫水明∽事事無碍∽計算機自然」について。まずコンセプトとステイトメントは面白い。タイトルは山紫水明 (幽玄、侘寂) の世界観を時事無碍 (End to End) によって計算機自然として提示すると解釈した。それら三つの要素が相似の形態を持って通じているので、「∽」で結ばれている。また「工業社会のヴァナキュラー性」というステイトメントに出てくる文を、作品ではなく床の素材として表現しているのも展覧会としての拘りを感じさせる。コンセプトとステイトメントから考えると、落合陽一のメディアアートには哲学がないのではなく、彼なりの哲学があり、それが既存の現代美術で参照されるような哲学との相性が悪いために、齟齬が生じている。つまりテクノフォビアやテクノロジーの無理解といったものは表層上の問題であって本質ではなく、むしろ溝が生じるのは根本にある哲学の相違にあるように感じた。他にも全体的な展覧会構成と作品のコンセプトの一貫性があり、方向性としてはブレがない印象。逆に言えば一貫性が強く、統一感があるが故に、作品がコンセプトを逸脱して作家本人ですら辿り着けない領域に到達しているというような作品が無かったのは残念。

個別の作品

ここからは個別の作品について思ったことを書き連ねていく。

辻雄貴とのコラボ (藤の花)、「丸窓」、「にじり口」

今回の展覧会のコンセプトを徹底するならこれらはむしろ必要ないかと思った。日本的な古典美の象徴を意図的なモチーフとして使用せず、それが計算機と落合陽一の文化的/経験的な身体性によって無意識的に表現されてしまうから面白いのであって、これらをモチーフとして使用してしまうと全体のコンセプトが崩れる。さらに踏み込んで言えばこれらを入り口に配置するのは計算機自然というコンセプトに慣れない人のための、一種の言い訳として用意されているようにすら見えてしまう。辻雄貴とのコラボは日本的な古典美と計算機の単純な足し算に見えてしまうし (計算機自然の風景はこれではないはず)、「丸窓」から見える「Levitrope」は本来の「丸窓」の侘寂を超えていないし、「にじり口」に至っては大きすぎて「にじり口」の持つ境界/結界という機能の設計要件を満たしていない。また「Colloidal Display」と「波面としての古蛙」は壊れていたのか機能せず、評価以前の問題。落合陽一の展覧会では常に何かが壊れていて動かないという悲しい経験をしているのだが、メンテナンス要員を置くなどして対処できないものなのだろうか。特に「波面としての古蛙」で使用されている磁性流体は、個人的にも作品で使用したことがある思い入れのある素材であり、観ることができなくて残念だった。さすがに壊れて動かないことが侘寂という訳ではないはず。

「波の形,反射,海と空の点描」

通称サバ。サバの模様を遺伝子のプロセスをプリントした風景画として捉えるという発想は面白い。しかしこれを「波の形,反射,海と空の点描」と言われてしまうと、言葉に頼った力業に感じなくもない。今回の展覧会の作品全体を通して言えることだけれど、実際に観た作品よりもSNSやウェブサイトで紹介されている写真、動画の方が綺麗、もしくは魔法を感じさせるようになっていて、実物を見ると落差にガッカリするというものが多かった。それは恐らく知識の欠如などではなくて、一言で言うと「エモくない」ということだと思う。「エモい」という言葉を流行らせた落合陽一の作品が「エモくない」とはどういうことなのか。しかしその原因は何となく分かっていて、彼はコンテンツを意図的に抜いてメディア装置だけを展示することに拘っているからだろう。このメディアアートの定義は一般的なメディアアートの定義よりさらに狭い定義なのだが、それをやると魔法感と「エモさ」はむしろ失われるのかもしれない。またこの作品に関しては余りにそのままサバであり、それ以上でも以下でもないという印象で、同じコンセプトでもその模様の切り取り方によってはさらに興味深い作品になりそうなのだが、現状表現としては直接的過ぎて余韻がない印象を受けた。

「音の形, 伝達, 視覚的再構成」

音を光に変えるというのは共感覚者にとっては割と馴染みのあるテーマで、古くはモーツァルトから続く伝統的なテーマではある。そこでこの作品をモーツァルトの楽曲群と比較すると、超音波を使用している点で面白い部分はあるものの、超音波を光に変換したという事実とアウトプットされた模様がシンプルな故に作品としての深みに欠ける。モーツァルトは音を光に変換した上で、さらにその色彩を楽曲として建築のように構築したから凄いのであって、単純に超音波を光に変換しただけでは物足りない。あとイルカの超音波を使用しているのに、背景にイルカの画像を設置するのは直接的かつ説明的であって、そこに侘寂的な飛躍があった方がもっと面白くなるはず。

「計算機自然, 生と死, 動と静」

辻雄貴とのコラボ (モルフォ蝶の標本によるいけばな) の方は文句なく美しい。しかしコンセプト的にはデジタルの複製によるいけばながそれを超えていなければ成功とは言えない。そして実際に超えているとは思えなかった。まずデジタルの複製によるモルフォ超は偽物感が強く、実際のモルフォ蝶の美しさに遠く及ばず、生も死も感じさせない物としてそこにあった。しかしそこは問題ではなくて、実際に動いた時に美や生を感じられるかどうかだ。これは人によるのかもしれないが、少なくとも個人的には美も生も感じなかった。この作品は明らかに展覧会のメイン作品であり、計算機自然について語るときに両者のいけばなの差が感じられない、もしくはデジタルの方が動と美と生を感じさせるようでなければ展覧会のコンセプトやステイトメントとの整合性が取れない。むしろ計算機は頑張っても今の所ここまでが限界という逆の証明をしてしまっているようにも思え、この作品に関しては厳しく言えば展覧会全体の説得力を失いかねない出来になっていた。

「深淵の混, 内と外, 人称の変換工程」

この作品に関しては故障していたのか、体験の仕方を間違えたのか、中を覗いても特筆すべきものは何も見えなかった。なので残念ながら割愛。

「Levitrope」、「Silver Floats」

「Levitrope」は以前「Media Ambition Tokyo 2017」で観たことがあり、「Silver Floats」は初見。今回の展覧会の作品の中では「Silver Floats」が一番良かった。両作品には「浮遊」と「借景」という共通したキーワードがあるが、「波形」というコンセプトを取り込んだ「Silver Floats」は「Levitrope」からの正統進化形態に見えた。ただし「借景」については「浮遊」する物質の方が興味深いが故に、どうしても陰に隠れがちになる。後に言及する「Morpho Scenery」にも「借景」というコンセプトは見られるが、「借景」をするならばその借りてくる風景自体が興味深いか、作品との抽象的な繋がりがないと作品の深度が増さない。そういう意味で以前の「Media Ambition Tokyo 2017」での「Levitrope」の借景は余りにもベタだし、「Silver Floats」の背景にあるノイズ的な映像は余りにも普通でつまらない。これは金沢21世紀美術館で観たBCL「Ghost in the Cell」にも言えることだけれど、コンセプトやメインの物体としてのアウトプットは面白いのに、背景の映像がベタでインスタレーションとしての強度を落としているように感じた。

「魚鈴」、「虫鈴」

「魚鈴」と「虫鈴」に関しては落合陽一のフェティシズムが全開で、その享楽に応じて作品を創るということ自体は良いし、作家にとって重要なこと。ただこの種の作品はそのフェティシズム、享楽に共感できるかどうかが全てで、それができない人にとっては良さを感じることが難しい側面もある。プラズマ音によって魚と虫の存在を感じさせる試み自体は、SF的な侘寂が感じられて良い。注意点としては一方の作品は壊れてはいなかったと思うが、かなり聴こえにくかった。また装置自体の構造や配線を剝き出しににするというのは、落合陽一がInstagram掲載しているような写真の美学、哲学の延長線上にあるように感じた。

「Morpho Scenery」、「Morpho Scenery in GYRE」

「Morpho Scenery」に関しては先程も言及したように、「借景」をするならばその対象、もしくは対象と作品との抽象的な繋がりがほしい。もしくは何の変哲もない風景が、特殊なレンズによって波として興味深い風景に変わるという体験を提供したいならば、何かが足りない気がする。風景が枠組みによって規定され、反転し、色彩が変わる。その現象自体は興味深いのだが、この体験には何故か物足りない感覚が残ってしまう。キャンバスや風景画という既存の枠組みを認識のレベルでハッキングしたいという欲望は強く伝わってくるのだが、体験としてはあっさり塩味で、豚骨ラーメンのような濃厚な何かを期待するとその期待は裏切られることになる。また「Morpho Scenery in GYRE」に関しては「魚鈴」、「虫鈴」と同様に落合陽一のフェティシズムと享楽を明示した作品群になっている。「透明」というのもこの展覧会全体のキーワードであると思うが、こういった作品の「透明」な部分が一見汚れや傷が付いているように見えたのは少し戸惑った。

今回の記事の周縁情報と総括

「落合陽一、山紫水明∽事事無碍∽計算機自然」については、コンセプトとステイトメントは面白いが、作品としてアウトプットした際に齟齬がある、もしくは踏み込みが甘い面が多々見られた。また特にSNS上では展覧会や作品に対する批評的な言説はほぼ見られず、箕輪厚介の言うように落合陽一 (概念) は既にファッションとして消費されている(3)型破りな編集者・箕輪厚介が語る、閃き力の鍛え方と新しい働き方ように見えた。落合陽一の「批評家になるな」という言葉は生存戦略としては正しいが、彼の言説の多くはそう呼ばれてはいないものの実に批評的である。ならばポジションを取った後に批評をしろという順序の問題なのか、手を動かさない人の象徴、意識高い系批判の延長線上としての批評家という存在の否定なのか、批評をしたとしても批評とは呼ばないというブランディングの問題なのかでは大きな違いがある。そもそも落合陽一にとって重要なパートナーの一人である宇野常寛は批評家であり、その恩恵を受けながらこのような言説を行うことには矛盾を感じなくもない。

また落合陽一は過去に現代美術を「文脈のゲーム」、自身のメディアアートを「原理のゲーム」という言葉で切り分け、後者の優越性を論じている。しかし今回の展覧会の内外を含めて彼の作品説明にはナム・ジュン・パイク、アンディ・ウォーホル、マルセル・デュシャン、ジョン・ケージなど「文脈のゲーム」の代表格が登場している矛盾があり、しかも「原理のゲーム」で言われているような理屈抜きの感動、つまり「エモさ」が欠如しているのであれば展覧会や作品としては失敗していると言える。ちなみに「原理のゲーム」を支えているのは彼のサイエンスのバックグラウンドだと思われるが、サイエンスの論文、学会というシステムもまた「文脈のゲーム」の側面を持つことは否定できず、彼がサイエンスの文脈をアートの文脈に変換して作品化しているという構造は、村上隆が漫画やアニメといったサブカルチャーを西洋現代美術の文脈に翻訳した構造とも類似性がある。

個人的には乖離してしまったメディアアートと現代美術の回路を再び接続することにも興味があるのだが、その乖離は日を経るごとに広がっているように見えて悲しい。計算機自然が本当に侘寂の世界観を体現できるのであればそれは素晴らしいことだし、見てみたい風景である。また人類と計算機という二項対立に囚われないのであれば、最終的には一体誰に作品を見せるべきなのか (対象を人類に限定するのか) という問いも生まれてきそうだが、そう考えた時に「エモさ」とはまた違った評価軸が生まれてくる可能性もあるように感じた。最後に哲学を実装することという理念には共感するが、そこではまた実装の精度と深度も問われてくるはずだし、ジャンル違いの人種からも色々意見があって良いはずだし、「分からないけれど何だか凄い」以外の批評的な言説もあった方が面白い。「落合陽一、山紫水明∽事事無碍∽計算機自然」を観た帰りに、このような思考の断片を思い浮かべながら、TMTMTRさんとフィリピン料理を食べていた。

脚注

脚注
1 この言葉は無駄な対立を作りやすいのでできれば使用したくないが、外部から客観的に見れば使用する妥当性がある。
2 MITメディアラボ・伊藤穰一所長が語る「デザインと科学」この四つのジャンルが「1人」の中にインストールされることで見えてくる風景というものがあり、その上で何処かに圧倒的な専門性がある個人が、集団として有機的に機能した時に達成できる何かがある。Anrealmsというコレクティブではその方向性を目指している。
3 型破りな編集者・箕輪厚介が語る、閃き力の鍛え方と新しい働き方

「ニューロホップ – NEURO HOP」展: 「#鳩羽つぐをさがすオフ」について

西荻窪の引力

西荻窪は謎の引力を持つ。数年前「億光年のドライヴ」というグループ展に参加したのだが、その際の会場が西荻窪にあるURESICAだった。奇妙なことに、というより自分以外の人にとっては奇妙でも何でもないことなのだが、「ニューロホップ – NEURO HOP」展が開催されていた中央本線画廊はその西荻窪にあった。駅からの方角も同じであり、実際の距離も近い。さらに奇妙なことに、中央本線画廊はタバコ屋を改装してできた場所だという。以前「石版を丸呑みする回転木馬」という展覧会を開催したダイナミックサイクルもまた、タバコ屋を改装してできたものだ。そして西荻窪はVTuberの鳩羽つぐが住んでいる場所であるとされている。この奇妙な巡り合わせは何らかの力によって引き起こされたのかもしれないし、何の意味もないのかもしれない。ただ今ふと思い出したのだが、西荻窪にはそのような不思議な力を持っていそうなどんぐり舎というカフェがある。マスターも味があるので、行ったことのない人は是非訪れてみてほしい。

「#鳩羽つぐをさがすオフ」について

さて今回取り上げるのは、「ニューロホップ – NEURO HOP」展で観た「#鳩羽つぐをさがすオフ」という作品について。これは新芸術校出身の小林太陽とcottolinkによる映像インスタレーション作品で、一番興味を惹かれた作品でもある。鳩羽つぐについて簡単に説明すると、西荻窪に在住しているとされるVTuberであり、中性的な雰囲気を纏った少女。動画を観ても謎が多い存在であり、都市伝説や犯罪の匂いが漂う内容になっていることからインターネットを中心に様々な考察が生まれている。映像作品ではその鳩羽つぐをモチーフとしており、西荻窪周辺を歩き回りつつ、鳩羽つぐの痕跡や気配を探し求めていく。以前参加したフォーラム(1)「生きものの気配:芸術とロボットの領域」では、人間以外の存在の気配について語られていたが、今回はキャラ/VTuberの気配を探し求めるようなゲーム性の高い内容になっており、特に映像の終わり方は良いと思った。

現代美術の速報性と後追いの構造について

まず現代美術の速報性と後追いの構造について。鳩羽つぐ、VTuberというモチーフを現代美術で取り上げるのは、反応速度としては早いはず。ただVTuber界隈の多様化と流れが早過ぎて、それと比較してしまうと今この話題を取り上げるのが早いのか遅いのかも既に良く分からない。もちろん早い、遅いは評価基準としてはどちらが良いというものではないが、モチーフの変化が早い場合は反応速度は重要になってくる。またYouTuberやゲーム実況者などがコンテンツや商品を消費するタイプのクリエイターであるとするならば、鳩羽つぐは純粋にコンテンツを作り出しているように思える。しかしそこで鳩羽つぐを「さがす」のであれば、構造的には後追いの消費するタイプのクリエイターとどうしても被ってしまい、鳩羽つぐというコンテンツを消費しているようにも見えてしまう。そこの動詞の変更には可能性がありそうで、こういった作品によって逆に鳩羽つぐの今後の映像内容に影響を及ぼしてしまうような作品が提示できれば強い

ホモセクシュアルとホモソーシャルについて

またこれは勘違いかもしれないのだが、作品の説明を聞いていて、ホモセクシュアルとホモソーシャルという単語が出てきたのだけれど、その辺りの概念が多少混同されているように感じた。ホモセクシュアルは性的指向のことで、ホモソーシャルは社会的な関係性のことを指す。ホモソーシャルはむしろホモフォビアと結び付き易い概念で、これらの立場は対立することが多い。ホモソーシャル的に振る舞いながら実態はホモセクシュアルであるということも良く見られる現象なので、そこも含めて一筋縄ではいかない。ただ仮に作品として結び付けるならそこはもう少し掘り下げるか、テーマとの結び付きがないならばっさり切り捨てるかどちらかにした方が良さそう。男性2人の生活空間と切り離せない作品になっていたので、緩い繋がりはある気がするのだけれど、本格的には切り込んでいない感じがした。

中央本線画廊という場

「ニューロホップ – NEURO HOP」展では他にも興味深い作品が沢山あり、解説なども丁寧にしていただいたし、新芸術校生が数多く出展していたのも刺激になった。また以前批評再生塾の募集が再開したら申し込むと宣言しており、躁鬱状態の躁状態に入っていたこともあり、先日勢いで申し込んでしまったのだが、それを記念してTMTMTRさんにビールを奢ってもらった。中央本線画廊という場自体が面白いので、行ったことのない人は是非行ってみると良いと思う。西荻窪周辺も探索してみると面白い場所が沢山あるはずだし、URESICAも良い場所だ。自分としては空き家プロジェクトがストップしてしばらくが経過するけど、いつか自分のコレクティブのためのアトリエ兼ギャラリーを持ちたいと改めて思った。

東京国立博物館のツアーを通じての所感

東京国立博物館の常設展

新芸術校のツアー2で東京国立博物館の常設展に行ってきた。チケット売場は割と混雑しており、時間ぎりぎりだったので少し焦る。しかし途中で同じく新芸術校のTMTMTRさんと合流したので、少し落ち着く。ちなみに東京国立博物館の本館大階段は大変立派な見栄えになっているが、テレビドラマ『半沢直樹』でも使用されていたとのこと。今回はツアーの詳細な内容は書かないけれど、その内容をメディウムとして自らの思考をかすめた諸々の所感について簡単にまとめておく。

諸々の所感

・国宝、重要文化財などの認定について。元々「選別」という概念に興味があるので、近代国家的な枠組みで文化の価値が認定されるシステムの存在は興味深い。また国宝と重要文化財の間にヒエラルキーが存在しているのも面白いし、文部科学大臣が認定するという意味では、文部科学省の外局である文化庁が推進する先進美術館との関係性も射程に入ってくる。

・Museumは博物館、美術館を包摂する言葉。この日本語における言葉の分離が、美術館と博物館は同様の性質を持つという意識を忘却させる一因になっている。またアートと芸術、美術という言葉の意味、概念が包摂する範囲の乖離も凄まじいものがあるが、これらの問題に共通するのは翻訳と言葉の問題でもある。

・縄文土器はその古さが世界的に見ても異常。そして縄文土器と言えば岡本太郎が脳内にちらつき、連想ゲームのように白飯を炊いていたら嗅覚が犬以上になってヨガ離婚をしてしまう香取慎吾などが思い浮かんでしまった。「NAKAMA」という言葉には暴力性と狂気がある。

・曼荼羅について。以前制作した『石版を丸呑みする回転木馬』では「パリピ曼荼羅」という詩と絵があり、中々好評を博していた。ただこのような曼荼羅の概念の拡張は歴史的な潮流でもあったようで、信仰は現世利益と表裏一体であり、容易く消費へと変わる。その漂白され、記号と化した曼荼羅という概念は現代社会で言えば、密教的という意味も含めて「パリピ」が体現しているように思う。

・神仏習合という現象は概念レベルだけではなく、行動様式も含めて日本人に大きな影響を与えている。また本地垂迹説は基本的には同一だけれども、神より仏を少しだけ高い位置に置く。この考え方は微妙なヒエラルキーの差異を構築するという意味で、カースト制度や三位一体などの切り分け方とも違って面白い。

・貴族 → 宗教者 → 武士というクライアントの変化による最適化。それは面積やモチーフにも端的に表れる。また日本の屏風と西洋の壁画の対比は重要。前者は機能性や仕切りを重視し、後者は建築の内部にあるという静からタブローという動へと変化していく。そもそも日本は工芸が中心なので、西洋のような大画面は苦手とのこと。

・変わり兜は実は装飾性、ギャグ性というよりは、必死かつ真剣に使われていたという話。おまけのような形で展示されていたが、今回見た展示物で一番興味を惹かれた。現代版変わり兜やメタラーのための変わり兜など作ったら面白そう。

・大画面 + 形式重視の雪舟からの流れを受け継ぐ狩野派、琳派などのコレクティブについて。大規模な工房運営による過酷な労働、クライアントの民衆化、文人画からのツッコミなどを含めてメディアアートと現代美術の関係性を考える上で参考になりそう。

・浮世絵が肉筆画から版画へと変化していく過程と必然性について。浮世絵を日本人が評価できず、海外に先に評価を固められてしまったという問題は現代まで引き続いており、その原因は批評が弱いということ。サブカル的な漫画、アニメをアート化した村上隆とそこにネット時代のアーキテクチャのレイヤーを足したカオス*ラウンジはその流れへの逆襲だと捉えることができる。ただし前者はあくまで海外での資本主義的な現代美術への翻訳、後者は日本を土台としたコレクティブ活動を通しての前衛の再設定という差異がある。また個人的には毛色は違うが、似たような性質を持つV系という鉱脈には焦点を当てた方が良いと思っており、モチーフとして使用している。

・工芸の極地である蒔絵とリアリズムを獲得した鎌倉時代の仏像の強さが際立つ。正面の角度から見ることを想定していた仏像の話があったが、全天球イラスト、360度カメラ、VRの普及した現在、どの角度から見ても素晴らしいものを作るという意識は全体的に強まっている感覚がある。

千利休の政治性について。寸胴の宗易形が従来のものと比較して良いというのは根拠がないという話。古美術や現代美術は関わる人の数が少ないので、どうしたって政治性が出てくる。その点メディアアートは広告と相性が良く、マスに訴えかけるという意味でブランディングが重要。

・上村松園の《焔》について。美人をモチーフに絵を描く作家の幽霊画。椎名林檎がメンヘラのコスプレ (コスプレなので思想はなく、着脱可能)、Coccoがメンヘラガチ勢 (ガチ勢故に表現活動を継続すると浄化される)、鬼束ちひろが狂人の憑依を現実化した神の子 (演じているうちに自我が変貌してしまう) だとすれば、松井冬子の絵画がメンヘラのコスプレかな?と思わせるくらいには上村松園の《焔》には抑圧した狂気が感じられた。

・高村光雲の《老猿》について。以前皇居外苑にある楠木正成像を見てきたので、ある意味タイムリーな作品。日本での彫刻は絵画と比較して地位が低いという話があった。また岡倉天心による学校をアトリエ、仕事場として使っても良いという教育思想は未だに美大教育の弊害として残っているという話は、新芸術校やパープルームなどの運動体がその潮流への創造的反論でもあることと接続している。

・明治時代の政策が未だにオリンピックや地域アートといった行政の関わるイベントに地続きの問題として表出してくるという話。海外に関わるビジネスマンの教養としてのアートみたいな潮流が現在流行りつつあるが、これに関しても同型の問題を抱えており、結局日本は近代教育の枠組みの中で失敗し続けているという証明。間口は広い方が良いので入り口としてはそれでも良いのだけれど、官僚もビジネスマンも既得権益や人脈獲得といった現世利益を追求するためのツールとしてしかアートを見ることができないというのは、端的に言って教養の欠如だと思う。

今回の記事のまとめ

東京国立博物館に来たのは初だと勘違いしていたが、過去に「国宝 阿修羅展」に行ったことを思い出した。あの時はまだ自分が現代美術やアートと呼ばれるものにここまで関わるとは思っておらず、小学生の頃に読んだタカシトシコ『魔法使いが落ちてきた夏』に登場する阿修羅のモチーフとしてイメージを膨らませながら見ていた記憶がある。しかしそれは捏造された記憶かもしれない。正直まだこの分野に関わって日が浅いので勉強することが沢山あるのだが、単純に説明されたことをメモするだけではなく、自分なりに色々結び付けて考えることを実践してみた。同日に「ニューロホップ – NEURO HOP」展と「落合陽一、山紫水明∽事事無碍∽計算機自然」にも行ってきたのだけれど、それらについては長くなりそうなのでまた後日。

「人狼ジャッジメント」で遊んでみた

「人狼ゲーム」とは何か?

今年の2月から配信開始され、流行りすぎて既に衰退の兆しも見える「人狼ジャッジメント」。今回はそのアプリで遊んだ経験を元に、「人狼ゲーム」と「人狼ジャッジメント」について自分なりの考え方を簡単にまとめてみた。まず「人狼ゲーム」のルールや遊び方について知らない人は各自調べてみてほしいが、この記事ではそこからさらに一歩踏み込み、「人狼ゲーム」とは一体何なのかについて考えてみたい。それでは早速「人狼ゲーム」の要素、流れについてまとめると、以下の三つのようになる。

1. 人々の発言を元に、様々な役職、陣営の視点からの幽体離脱/憑依を繰り返すことにより、論理的な考察を進める。

2. その視点整理から導かれる考察を元に、自陣営に有利になるように、エモさを考慮しつつ発言と選択を繰り返す。

3. 敵対する陣営同士が最善を尽くすことにより、協力し合って勝敗を付ける。

反面教師の実例を通しての学び

幽体離脱/憑依

「人狼ジャッジメント」を実際にプレイしている中で、上記の3要素を考える上で反面教師の実例になるような出来事があったので、それについて書いてみたい。まず個人的にはその他の人の役職、陣営の視点になって考察することを、1のように幽体離脱/憑依と呼んでおり、意外とこれができない人が多い印象を持っている。「人狼ゲーム」では特殊な能力を持たない一般人を含め、全ての人に役職が与えられている。その役職は通常本人にしか分からず、また特殊な能力を持っている場合はその役職持ちの視点でしか分からない事実が存在することになる。そこでまずは自分の役職、陣営の視点を整理し、他人の発言を元に誰がどの役職なのかを論理的に考察を進めることが第一歩。しかしそこで止まっていてはダメで、さらにそこから違う役職、陣営の視点であったら今この状況はどういう盤面なのかを考察することがこのゲームの深みになっている。つまり自分視点だけ考えていてはダメで、限られた時間内で数多くの可能性と確率を幽体離脱/憑依を繰り返してトレースしていくことに「人狼ゲーム」の楽しさがある。

占い師の主張

ここで一つ実例を挙げるとする。市民3、人狼2、占い師1、霊能者1、狩人1、狂人1のデフォルト9人村での出来事。初日占い師が2人CO、霊能者が1人COして、初日占いの結果グレーが4人だった。そこでそのグレーの中から昼に1人が吊られ、夜にベグで占い師の1人が襲撃された。そして夜が明けた次の日の占いでグレーの中から黒出しされ、霊能者の結果は白。この状況で残った方の占い師が強く真を主張し、その黒を吊るしかない場面だと言っている。これに対して村はどう対応するべきか?まず村としては自分の役職、陣営の立場、つまり村目線で考えてここで残った方の占い師の黒出しを吊り、それが白だった場合の可能性を考える。すると狩人が既に死んでいる場合か、生きていてもGJが出なかった場合はPP、もしくは狩人がGJを出したとしてもRPPの場面ということが分かる。また初日囲いの可能性も考えると、襲撃されなかった方の占い師はどうしても怪しく見えてしまうという意味でも、占い師ロラが安定と考える。ただし最初に噛まれた占い師が明らかに人狼陣営の疑いが濃い、もしくは残った占い師が信用に値する発言をしている場合は思い切って黒吊りもあり。また狩人COも考えられる場面だが、狩人COはない。

自分目線への拘りと村目線の欠如

ここで重要なのが占い師の発言なので、何人かの人がそのPP、RPPの可能性を伝えた。そうするとその占い師はPP、RPPなどはどうでも良く、自分は真で黒出しをしたんだから信じて黒を吊ってくれという発言を繰り返していた。既にお気付きの方もいると思うが、この占い師の発言は全く村目線ではない。仮にこの占い師が真だとすれば幽体離脱/憑依が全くできておらず、自分視点で正しいことをただ正しいと伝えているに過ぎない。まずその占い師が真であるという事実を知っているのは自分だけなので、その事実を知ることができない村人陣営からすれば、村目線で見て負けが確定するかもしれない選択を強引に進めようとする占い師は狂人に見える。結果としてその占い師は真だったのだが、村の選択としては占い師ロラが実行されることになった。この場合この占い師は1がそもそもできていなかったことと、2の「自陣営に有利になるように」という発想が抜けていたと言える。なので他人からは確信できない自分の視点だけに拘り、村目線で考察することを放棄し、他人を上手く説得することができなかった。論理的な考察をして村目線で考えたとしても、エモさを考慮に入れていないために逆に怪しまれたり伝わらないことがある。そういったもどかしさや難しさを含めて「人狼ゲーム」は面白いのだが、今回の場合はそれ以前の問題だった。

村目線の発言例

最終的にその占い師は墓場で罵倒を繰り返し、負け確定と騒いでいたが、結局村人陣営が勝利した。勝利した後も自分を信じずに吊った人に対して謝罪を求めるように言っていたが、結果的に勝利したということはそもそも吊って正解だったということなので村人側は何も悪くない。というよりそもそも「人狼ゲーム」は騙し合うゲームなので謝罪も何もなく、信じてもらないのは自分の実力不足でもあるし、墓場の神視点で人を断罪したり、罵倒したりするのは問題外である。むしろ残った占い師が狂人っぽい振る舞いをしたことは利敵行為とまでは言わないまでも、自ら吊られる要因を作ってしまっているし、論理的な考察や村目線では考察できない占い師を残していても村利は少ない。よってあの場面では「村目線で見ればPP、RPPの可能性があるので、今夜私が吊られることは覚悟しています。狩人のCOがあるなら、今のうちに出てもらいたいです。」「遺言としては私目線で〜は黒で、他にも人狼が1匹いるので、できれば次の日は〜を吊ってほしいし、ラインを探してほしいです。またその時点で霊能が残っていれば色を見て判断してほしいです。占い師はもういなくなりますが、村人陣営頑張ってください。」などと発言していれば、少なくとも村目線で発言していると思われたはず。その場合も狂人が村目線で惑わす発言をしているとも取れるので、吊りの運命は変わらなかったかもしれないが、もしかしたらPP、RPP対策し過ぎるのもつまらないね的な展開になったかもしれない。

敵対する陣営同士の協力プレイ

また「人狼ジャッジメント」に関しては基本的に試合放棄や利敵行為をしてはいけない。自分の気に入らない役職だから放棄、仲間の人狼をバラすなどは全員のやる気を削ぐ。ただしたまにアプリが落ちることがあり、自分の経験としても何度も接続し直してようやく復活した頃には吊りが決定していたことがあったが、その場合は素直に状況を伝えて謝れば良い。そもそも「人狼ゲーム」は敵味方の陣営を問わず、参加者全員が協力して最善を尽くさないと面白くならない。そういう意味では3に書いたように、「人狼ゲーム」は自陣営とだけ協力すれば良いのではなく、敵陣営との協力プレイが本質とも言える。勝ち負けに拘るのは結構だが、その前提を忘れると敵陣営だけではなく、自陣営にも迷惑をかけることもあるので、ゲームを楽しむためにもその大局を忘れないようにしたい。

「人狼ジャッジメント」への要望

最後に人狼ジャッジメントのオンライン対戦 > 全国対戦への要望を二つ書いておく。

1. 屋敷に関して初心者部屋、中級者部屋、上級者部屋への参加は、レート制に基づいて選択できるようにしてほしい。

2. 墓場チャットの表示/非表示を観戦者が選択できるようにして欲しい。

レート制の導入

1に関しては現状初心者部屋、中級者部屋、上級者部屋、誰でも部屋が選択できるが、特にレートなどが設定されていないため、レベルが合っていない人同士がマッチングしてしまい、終始噛み合わない状況を度々見掛ける。上のレートの人は下のレートの部屋にも参加できるようにしても良いが、基本的にレベルに関係なく遊びたい人は誰でも部屋で遊ぶようにすれば良いと思う。荒らしに対してはブロックである程度対処できるけれど、レベルの違いは現状自己認識による。そして実力が低いうちは客観的に自分の実力を把握できないのもまた当然なので、そういった事故を防ぐためにもレート制の導入はありだと思う。レートのポイントは何をどうすれば上がる、もしくは下がるのかは幾つか実装してみなければ分からないけれど、少なくとも何も指標がないよりはましなはず。ただ「人狼ゲーム」は基本的に個人戦ではないし、レートのポイントによるマウンティングなどが流行してもつまらないので、基本的にはレートは隠れていて、ある一定の閾値に上がり下がりすると入れる部屋が変わるというくらい緩い設定をしても良いかもしれない。

墓場チャットの表示/非表示

2に関しては今後のアップデートで変更になるかもしれないけれど、現状の全国対戦では観戦者が墓場で発言ができないし、墓場チャットは丸見えになっている。それについて考慮してくれるプレイヤーもおり、墓場でのネタバレ禁止をしてくれることもあるのだけれど、これは誰か1人でも破ると無意味なので、基本的には結構な確率でネタバレが起こっている。また何故か観戦者は墓場チャットを見ることができないようにアップデートされたというデマが広がっており、ネタバレしても大丈夫だね的な発言を見ることが度々あるのだけれど、その発言も含めてしっかり見えている。これに関しては観戦者が墓場チャットの表示/非表示を選べるようにするべき。そうすれば墓場の人々は安心してネタバレをして楽しむことができるし、観戦者はネタバレしながら見たいなら表示、したくないなら非表示を選択すれば良い。また参加者の中で墓場のネタバレを見たくないという人もいるかもしれないので、その場合は参加者にも非表示があっても良い。ただその場合は他の墓場の人の発言を無視する形になるかもしれず、悩ましいところ。

「人狼ジャッジメント」のまとめと『レイジングループ』

YouTuber (ゲーム実況者) のおかげなのか、現在大盛況の「人狼ジャッジメント」。しかし人が大量流入するにつれて、深夜〜朝の時間帯しかまともにプレイできないようになっているようにも感じる。「ワンナイト人狼」などは比較的少人数でも行えるけれど、1人でも参加できるし、部屋もすぐ見付かる「人狼ジャッジメント」は良いアプリだと思う。また基本無料でプレイできるのはありがたいけれど、逆にもっと課金などで儲けなくて大丈夫なのかと心配してしまう。今回の記事では「人狼ゲーム」についての大きな枠組みと、「人狼ジャッジメント」の実例を通して説明したけれど、気が向いたら今後基本戦略や自分がやっていることについて解説することもあるかもしれない。最後に「人狼ゲーム」が好きな人は『レイジングループ』も絶対に好きなはずなので、必ずやってみてほしい。ホラーやグロが苦手な人でも比較的大丈夫なはず。また『レイジングループ』は今年の夏〜秋頃に続編が出るらしいので今から期待しつつ、しばらくは死のスケジュールの合間に「人狼ジャッジメント」で殺戮の現場を楽しもうと思う。

「ZOZOSUIT」が届いたので体形採寸してみた

「ZOZOSUIT」届く

先日発送が遅れに遅れた「ZOZOSUIT」が遂に家に届いた。

袋を開封して中身を取り出した写真が以下。

断り書きにはセンサー方式からマーカー方式へと進化したと書いてあるが、これに関しては一先ず置いておく。「ZOZOSUIT」の上下を取り出し、計測用スマートフォンスタンドを組み立てる。

ここからはZOZOTOWNのアプリをダウンロードし、指示通りに計測していく。流れとしては「ZOZOSUIT」を着用し、時計回りに12回写真撮影が終了すると結果が表示されるようになっている。ただしテーブルの高さが低かったせいか、位置の前後が合わず、何度もアプリに注意される羽目に。さらには部屋の明かりが明るすぎてセンサーが読み取れないと言われたので、少しだけ暗くしたら暗すぎて無理ゲーと言われ、中々注文の多いアプリであることを把握する。計測結果に関してはここまで詳しく体系採寸したことがないので、どの程度の精度なのかはいまいち不明ながらも、大体正しそうな印象を受けた。最後に「あなたサイズ」の服と有名人がそれを着ている写真などをチラ見し、アプリを終了した。

センサー方式からマーカー方式へ

ここからは先程置いておいたセンサー方式からマーカー方式への進化について書く。進化は退化を伴うということは良く言われるが、ファッション的、もしくはコンセプトを体現するヴィジュアルとしては大分退化したというのが率直な感想。もちろん計測用なので別に問題はないのだが、こういう商品はブランドイメージが重要なので割とこの変更は痛い感じがする。初代「ZOZOSUIT」はセンサー方式でデザインも全く異なるものだったが、それは失敗に終わり、二代目「ZOZOSUIT」はマーカー方式でデザインが変更されていた。簡単に言えば前者はGantzのスーツのようなデザインだったが、後者はモーションキャプチャーの撮影用の服に水玉模様を鏤めたようなデザインになっている。また発送が大幅に遅れた代わりに送料など含めて無料になったのだが、それに関しては特に怒りも得をしたという感情もなく、色々大変ですねという感想を抱いた。

Maker Movementとビッグデータ

「ZOZOSUIT」に関して興味深いのは、Maker Movementで言われていたような流れに大企業が参入してきたということと、生体情報に関するビッグデータを収集した後にそれをどう活用していくのかということ。前者に関して言えば、デジタルファブリケーション的なカスタマイズ性により、個人に最適化した商品を生産することが鍵になるが、「ZOZOSUIT」はその流れを上手くファッション業界の中で活かそうとしている。また生体情報に関するビッグデータを応用すれば、それはファッションだけではなく医療や全く別の分野でも活用できるはずで、今後ZOZOTOWNがどのような方向性を打ち出していくのかは興味深い。単純にこの「ZOZOSUIT」を活用しようと思ったら、会員登録やアプリのダウンロードも自然に行わせることができるし、注文までの流れもスムーズに行く。しかしそういったビジネス上の上手さだけではなく、背後に隠された鉱脈をどう活用していくかによって、海外の大企業と競争できるようになるかどうかが決まるのではないかと思った。

完璧主義の弊害に対する治療法

スロースターターとボトルネック

今回の記事では完璧主義の弊害をテーマに、その治療法を含めて書いてみる。まず完璧主義の弊害の一つに、スロースターターというものが挙げられる。これが何故起こってしまうのかといえば、完璧主義な人は一度その物事に取り組むと、最終的に完璧に仕上げるまでにどれだけの時間と労力が必要なのかを潜在的に見積もってしまうために、中々取り組む気にならないということがある。またそのハードルを乗り越えて一旦取り組んだとしても、二つ先の物事をやるために一つ先の物事がボトルネックになっていることは良くある。そういったボトルネックが複数存在する場合、そのボトルネックの作業に必要以上に拘り、結局その先の全ての作業がストップしてしまうということがある。例えば油絵を描くためにはそのための画材が必要だ。そして画材には様々な種類とクオリティの差があり、どの画材が良いのかというリサーチを徹底的にしてしまうと、絵を描くという作業が先延ばしになるし、それだけで疲れてしまう。制作においては追い詰められれば追い詰められるほど火事場の馬鹿力的に良い作品が生まれてしまうという可能性は常にあり、そういったものに対する無意識の選択が働いてしまっている可能性もある。しかし基本的にはこういった準備に関する寄り道やスロースターターでいるよりも、24/7アトリエで生活/制作するような意識と手の動かしを止めない方が素早く成長する。なのでそうしないための言い訳になるならば、これは完璧主義の弊害ということになる。

ブリコラージュ的な発想

ではそんな状態を解消するためには何をすればいいかと言えば、一つはブリコラージュ的な発想を投入すること。ブリコラージュとは「身近にある物の寄せ集めで完成させる」という意味があり、これは日曜大工的な発想の延長線上にある。完璧主義的のシステムがトップダウン的な発想だとするならば、ブリコラージュ的なシステムはボトムアップ的に手を動かしながら考えるという発想になる。究極的にはトップダウン的な発想とボトムアップ的な発想は同時並列的に起こっているのが理想であり、様々な角度のコンセプトを考慮しつつも、手を動かしながら最適化を図るのが理想である。しかし完璧主義の傾向が強い人はトップダウン的に物事を考え過ぎる傾向にあり、その傾向が強すぎると何も完成させることができずに、時間だけが経過してしまうという状態になりかねない。それに対してブリコラージュ的な発想は、完璧主義の弊害に対する治療法として有効に機能する。

マイルストーンの組み合わせ

他にもマイルストーン的に小さく分割した目標を設定し、それに沿って動く、もしくは異なるマイルストーン同士を組み合わせるというのもありだ。例えば掃除に関しては、一度取り組み始めると徹底的に綺麗にしないと満足しないために、むしろ日常的に部屋を汚くしてしまうということはあり得る。それに対処するためには、ある程度のところまでやって、途中で止めるという考え方が必要である。そのためには異なる小さなマイルストーン同士を組み合わせることが有効に機能する。具体的には部屋が汚いので、制作に必要なハサミが見付からないという状況があったとする。その場合はハサミが見付かるまで、部屋の掃除を続けるというマイルストーンの組み合わせを設定してみる。するとハサミを見付けるという小さな目標と、部屋を掃除するという小さな目標が重なり合い、一石二鳥の状態を作ることができる。しかも一つ一つのタスクは労力が小さいので、取り組みやすいというメリットもある。これによって汚い部屋で延々とハサミを探し続けるという不毛な労力と、部屋を完璧に片付けなければならないという不毛なストレスから解放され、両方を効率良く行いながら目標を達成することができる。この目標を小さく分割し、組み合わせるという発想、途中で止めるという切断、適当であるという自由さは完璧主義に効く薬である。

負けず嫌いという成長の阻害要因

最後に完璧主義に付随しがちな性質である、負けず嫌いについて。これは例えばスコアに関して一度でも負けたら全てを無にするためにリセットしたい、自分の技術がある程度上がるまでは人前で一切見せたくないなどの心情/態度と深い関わりがある。こういった心情/態度は実は物事を学習するためには一番有害かつ非効率的なものだ。自分が全くできない状態で上級者たちが群がっている場に食らい付き、最初は笑われながらも上を目指していく姿勢というものが学習にとっては必要であり、最終的には一番成長が早い。成長にとっては別に何回負けたっていいし、何度失敗してもいいから最終的にそこに到達するという根拠のない自信と、場違いな中でその現場に居続け、物事に取り組み続けることが最も重要なファクターだ。もちろん完璧主義で負けず嫌いであるという性質は悪いことばかりではなく、そういった性質があるから常人には考えられないレベルに到達している人は沢山いる。なので大事なのはそれらの性質を無理に変えようとするのではなく、むしろメリットとデメリットを客観的に認識し、いかにメリットを活かしつつデメリットを武器に変えていくかという発想の転換にあるのだ。

VR瞑想のすゝめ

VRゴーグル = 瞑想の補助ツール

VRゴーグルは瞑想の補助ツールとして優秀である。根本的なことを言えば物理世界が存在するとして、人間は脳と心の情報世界のフィルターによってしか現実を認識できないので、人間は24時間365日瞑想空間の中に存在しているということができる。であるならば、本来はその情報空間に対して自覚的に自分自身 = 宇宙をハッキングしながら自分の理想の関係性 = 自我を世界に生じさせることを生きることと定義することもできる。そう考えると自我とは可変的なものであり、書き換え可能なものである。しかし多くの人間は自我についてそう認識してはおらず、自分の理想ではない世界を目の前に何度も出現させ、終わらない日常の中で悲劇的なループを繰り返している。そのループする世界線から脱出するために、VRゴーグルを使用したVR瞑想のすゝめについて今回の記事では取り上げてみたい。

快/不快とハードルの高さ

人は苦痛を感じたり、不快であったり、つまらないと思うことには取り組まない。たとえそう思う対象に無理して取り組んだとしても効率は著しく落ちるし、継続することは難しい。瞑想は多くの初心者にとって取り組みづらいものであることは確かであり、経験者の言うようなイメージや映像を五感を通して情報世界で体験することは難しい。つまり簡単に言えば瞑想がつまらなく感じたり、それを続けることが苦痛になったり不快に感じることは自然なことであると言える。そこでVRを使用して視覚と聴覚を使用した映像世界のイメージを補助輪とすることで、その最初のハードルを越えることは格段に容易になる。最終的にはその情報空間の上で理想的なドーパミンの経路を形成し、自分でコントロールできるようにすることが理想。ただしとりあえずVRの世界に没入してみることで、情報空間で運動するということがどういうことなのかという感覚を簡単に掴むことができるはずだ。要するにVR瞑想は通常は不快な状態を快の状態に変換することでハードルの高さを変更し、継続性を獲得するために有効な手段であるということができる。

「VRヒーリング瞑想」

そこで今回の記事では一番簡単に取り組むことができる瞑想として、「VRヒーリング瞑想」を取り上げる。その手順は以下のようになる。

1. 自分の中で最もリラックスできるVR動画を選ぶ。動画の長さは5分以上15分以下程度、イメージだけではなく音もリラックスできるもので、没入感を高めるために360度VR動画であることが望ましい。

2. 個室でVRゴーグルを装着する。個室で行うのはできれば周囲の目が気にならない場所の方が良いから。

3. 姿勢は結跏趺坐や半跏趺坐でも良いが、椅子に座ったり、寝転がったり、途中で動いても構わない。

4. 呼吸法は逆腹式呼吸を行う。逆腹式呼吸とは腹式呼吸の逆で、呼気の時に腹を膨らませ、吸気の時に腹を引っ込ませる呼吸方法。

5. 準備が整ったら準備していたVR動画を流しながら瞑想する。過去のトラウマになった出来事や嫌な記憶を思い浮かべ、それらとリラックスしたイメージや音から想像される心地良い情動を結び付ける。

以上の五つの手順を守って「VRヒーリング瞑想」を行うことで、過去や日常の出来事によるストレスを軽減し、新鮮な気分でまた新しい生活を送ることができるようになる。本来ならば過去のトラウマや嫌な記憶と心地良い情動を自分の力だけでイメージし、結び付ける必要があるが、「VRヒーリング瞑想」ではVR動画を使用することで取り組み易くなっていることが特徴。VRゴーグルは使い方によっては現実逃避のツールにもなるが、一方で使い方によっては現実と向き合うためのツールにもなる。また上記のような手順を完全に守らなくても、ストレスを感じた時にVRゴーグルを使用し、リラックスできるVR動画に短時間没入するだけでも大分違うので、少しでも気になった方は是非試してみてほしい。

時事ネタ3連発: 先進美術館の後進性について/日大アメフト問題のストレス回避/栗城史多と記号消費社会

人生の消耗

久しぶりの時事ネタ3連発は、先進美術館の後進性について、日大アメフト問題のストレス回避、栗城史多と記号消費社会という三つのテーマで書いてみる。最近思うのは次から次へと暴風雨のように襲ってくるニュースの山にいちいち付き合っていたら、それらを凌いでいるだけで人生が終わってしまうということ。なのでできるだけ客観的な情報を集め、自分なりの見解を手短にまとめた後は、もうそのニュースについては追わないというような切断ができるかどうかは割と重要なスキルである。自分の人生とは本来無関係な事柄について接続過多になってしまうと疲れるだけでなく、他人の人生を生きることと変わらなくなってしまう。その結果自分の本当にやりたいこと、やるべき仕事に集中する時間が減少してしまっては本末転倒ということになる。そんなことを念頭に置きながら、それぞれの話題について簡潔に思うところをまとめてみた。

先進美術館の後進性について

先進美術館 (リーティング・ミュージアム) はこの国の美術に対する考え方の後進性を象徴した提案である。日本のアートマーケットは脆弱であるということは過去にも散々言われてきたことだし、現在も変わらない事実だ。ただしこの問題はお金の問題ではなく、教育の問題であるということがこの案の提案者には理解されていないように思う。もしくはそんなことは百も承知であるが、刹那的な利権さえ握れれば文化など滅びても構わないというような資本主義の帰結を体現しようとしているのかもしれず、どちらにせよそれは関わる全ての人にとって不幸なことだ。先進美術館の構想を一言で言うならば、美術館という価値保存、研究、展示のための場をコマーシャル・ギャラリーに変貌させ、マッチポンプ商法のように一部の既得権益者が儲けようという構想のこと。この構想が実現するということは、要するに文化が経済に決定的に敗北するということでもある。その結果海外に流出した作品はもう戻らないだろうし、先進美術館のキュレーターは独裁者のような権力を持つことになる。この構想を考えた人間はアート・バーゼル香港などを見学する前に一度『ガチョウと黄金の卵』を読んだ方が良いだろうが、そのような教養が共有される前にアーティスト = ガチョウが刈り尽くされてしまう可能性もある。まずアートは何のためにあるのか、美術館は何のためにあるのか、それに関わる人々の役割は何なのかという根本に立ち戻る以外に解決策はないが、そのために残された時間は少ない。

日大アメフト問題のストレス回避

日大アメフト問題に関しては日本全体の病を象徴していると思うが、流石に報道が過熱し過ぎている。日本人全体がアメリカンフットボールのことについて関わる必要はないし、日大の理事会、監督、コーチなどに怒りを感じ続ける必要もない。震災などが起きた際にその映像を見続けるだけもPTSDになってしまう可能性があることは一部で知られているが、今回の報道ではそこまでは至らないまでも似たような現象が多かれ少なかれ起きているはず。人間の潜在意識は物理と情報の境界線を意識しないので、そこに対して感情を刺激し、ストレスの溜まるような情報を流し続けるとメンタルに悪影響を及ぼすことは明らかだ。これは食生活と非常に良く似ていて、例えば普段から栄養の少ないジャンクフードを食べ続けていると生活習慣病になりやすいのと同じく、普段からノイズの多い情報を摂取し続けていると知らない間に潜在的なストレスが溜まり、それは最終的には物理的な身体にも悪影響を及ぼす。日大アメフト問題は当然アメフトだけではなく、日大、もしくは日本全体の旧態依然としたシステムの破綻の問題であるし、そこには何層にも張り巡らされた病巣が存在していることは確かである。しかし実際に自分が関わりを持てる範囲にその解決の糸口がないのであれば、この件を反面教師とし、自分なりの人生を生きることに時間を割いた方が、結果として感情と時間を消耗して日大アメフト問題に関するテレビやネットのニュースを漁り続けるより、遙かに健全で有意義な人生を送れるように思う。

栗城史多と記号消費社会

登山家である栗城史多は現代の記号消費社会における成功を象徴したような人物だった。彼の志と実際の実力、彼のイメージと彼の実態が全く違ったものであることは様々な専門家に指摘されていることであるが、そんな事実は彼の記号的なブランドイメージの前に何の意味も成さない。人々はブランドやイメージを消費するのであって、その実態がただの石油の塊であろうが、アマチュアであろうが特に関係はなく、それが現代社会における本質である。一言で言えばその金になる状況をスポンサーが見逃すはずもなく、その限りなく乖離していく理想と実態の標高差が彼を死に追いやった。そもそも挑戦することと無謀であることとには大きな差がある。前者は積み上げがあり、後戻りもできるかもしれないが、後者は積み上げがなく、再チャレンジできる確証はない。確かに根拠のない自信は何かを成し遂げるために必要で、自信というのは根拠がないから意味があるとすら言える。それは原動力であり、推進力であり、自分を違うステージに連れて行ってくれるものだ。しかしその自信を力として現実の自分の位置を引き上げなければ意味がなく、そこで自分の位置を引き上げられないと知った人間は嘘という逃げ道に走るようになり、次第に自分を客観視する指標を失う。彼については詳しく知っているわけではないので印象論に過ぎないかもしれないが、現代の記号消費社会における一つの悲劇的な寓話として彼は語り継がれるべきかもしれない。