『美術手帖』2018年4・5月合併号 「ART COLLECTIVE」特集: アート・コレクティブが時代を啓くを読んで

キュレーションの時代からコレクティブの時代へ

『美術手帖』2018年4・5月合併号 「ART COLLECTIVE」特集: アート・コレクティブが時代を啓くを購入し、読んだのは大分前の話だ。大分前の話なので大半の内容は忘れてしまっているが、雑誌という性質上読むべき場所は絞られているので、今回は4月の記事の締めとして取り上げてみたい。日本の現代美術シーンは現在群雄割拠の戦国時代の様相を呈しているが、その一つの象徴がコレクティブの乱立として立ち現れている。Anrealmsを立ち上げたのは2016年だが、当時は今ほどコレクティブという言葉取り上げられ、流通している状態ではなかったし、未だにコラボレーティブ・コレクティブと名乗っているコレクティブを国内では知らない。しかし現在ではコレクティブは現代美術関係者の誰もが知っている用語になっているだろうし、その注目度はかつてない程に高い。キュレーションの時代からコレクティブの時代へと拡張していく流れの中、その曖昧な定義と知られざる実態を明らかにし、現在における勢力図を示すというのが本誌の狙いになる。

三つの読むべき箇所

三つの読むべき箇所を以下に列挙する。

・「美術の制度をいかに浸食し続けるか?」 (パープルーム)

・「《作品の時代》とは何か?」 (原田裕規)

・「コレクティブはどこへ向かうのか?」 (宇川直宏×黒瀬陽平×SIDE CORE)

それぞれの内容について細かく取り上げることはしないが、手短に気になった部分について言及してみる。「美術の制度をいかに浸食し続けるか?」ではSNSの重要性が語られ、それぞれのメンバーにルールが課されており、厳密に運用されていることが明かされている。SNSといってもInstagramではなく、Twitterでなければならない部分に、パープルームの卒業という不確定な未来と花粉という概念の本質が潜在しているが、関係性の美学の拡張としても捉えられるパープルームの活動はやはり興味深い。「《作品の時代》とは何か?」は個人的な興味関心、最近考えていたことと近い内容であったという意味で、読んでいて一番面白かった。個人的な言葉も補足しつつ解釈し直せば、作品の拡張としてインスタレーションがあり、インスタレーションの拡張としてキュレーションがあり、キュレーションの拡張としてコレクティブがある。しかしこの限りない拡張の末に全てが作品化するのであれば、逆に全ては作品でなくなることにもなる。であれば作品、そして作品の時代とは何なのか?この問いに対する答えは各々がその活動と実践の中で見出だしていくしかないが、少なくとも現代における全ての作品はこの厳しい問いを前提として生み出されなければならないだろう。最後に「コレクティブはどこへ向かうのか?」。この鼎談ではコレクティブについてある程度の歴史の流れを含めて包括的に語られており、その向かうべき先についても朧気ながら示唆されているという意味で特にその潮流の真っ直中にいる人は読んでおいて損はないように思った。

コレクティブの再発見

最後にコレクティブという概念は近年になって再発見されたものであって、昔から似たような美術運動や共同体は存在していたし、それは海外にも多数存在している。現代におけるコレクティブの優位性はSNSとの親和性が高いことに加え、専門領域が蛸壺化した状態を打破する突破口になることや、作品の概念を拡張して多角的に提示し易いことにある。本誌に取り上げられていないコレクティブも当然あるし、将来的にはさらに多様なコレクティブが生まれてくることも予想される。ただ一つ気になったのはRhizomatiksとチームラボは取り上げても、Digital Nature Groupを取り上げていなかったところ。落合陽一は一見ソロのプレイヤーに見られがちであるが、研究室という形態でコレクティブ戦略を取っている代表的な人物の一人である。他にも渋家が取り上げられていなかったのも不思議に思ったが、何か事情があったのだろうか。いずれにせよ個人的にはコレクティブを音楽活動におけるバンドの変形として捉えており、人が集合すれば必ず役割や変遷や解散といった概念が付きまとう。本誌は全体的に見れば物足りない部分もあったが、Anrealmsの行く先を考える上で読んでおいて損はなかった。

『美術手帖』2018年4・5月合併号 「ART COLLECTIVE」特集: アート・コレクティブが時代を啓く
『美術手帖』2018年4・5月合併号 「ART COLLECTIVE」特集: アート・コレクティブが時代を啓く
編者: 美術手帖編集部

アーティストステイトメントについて: 枠組みからの逸脱、外れ値の可視化、現実感の統合

課題の泳ぎ方

本日新芸術校での3回目の授業が行われた。テーマはセルフプロデュースで、具体的に言えば三つの段階を通して授業が行われた。まず最初に制作において言語を扱うことについての説明、次に課題についての解説、最後に個々と全体のアーティストステイトメントについての講評。課題は10個の課題文から最も興味深いテキストを選択し、そのテーマに言及しながら自分のアーティストステイトメントを800字以上1500字以下でまとめること。しかし学生生活を終えても未だに一夜漬けと締め切りぎりぎりにやり始めて1分前に提出するという癖が直らない。死という不確定な要素が最終的な締め切りなのだとしたら、時間で区切られた確定的な締め切りは易しく優しいはずだ。しかし自分が動ける時間には徹底的にまとめてやることができるが、動けない時間には徹底的に何もできないというバイオリズムの中でしか生きられない身体なので、今後の課題もその自分のバイオリズムを把握した上で、その波を上手く泳いでいくしかないのだろう。

制作と言語

制作と言語

アートの制作に言語が必要なのは当然である。というより当然であるし、美大にその成分が不足していると思ったからこそ海外留学をし、ディベートも修得してきたわけだ。新芸術校もまたその言語の必要性を重要視する現場の一つである。授業において言及されていた内容を要約すれば、言語は制作に先行するものでも対立するものでもなく、仮説として、または道具として制作と共に書き直されながら前進していくものであるということだ。しかしこのような当然の前提を共有できる教育の場は美大や美術予備校を含めて日本にはほぼ存在しない一方で、海外ではクリティークと呼ばれる批評、講評が授業の大半を占め、教授と生徒の境界もなく作品について話し合われるというところに大きな違いを感じる。

原理のゲームと文脈のゲーム

また言語は現代美術の文脈を支える批評の役割とも密接に関わっているが、これに対する現代のアンチテーゼとしては落合陽一の主張が挙げられるだろう。彼は原理のゲームと文脈のゲームという分類をし、将来的に現代美術という文脈のゲームはテクノロジーによる原理のゲームによって塗り替えられると主張している。個人的にはこの主張は一定の説得力があり、パラダイムシフトの境界線にある主張として重く受け止めるべきかと思う。一方で彼の言う原理のゲーム礼賛、文脈のゲーム切り捨てという議論の荒さには疑問もある。彼の生存戦略は研究や論文や学会などの活動を通して原理のゲームを追求し、それを異なる文脈である現代美術に作品や展覧会を通して変換することによって、メディアアートとして成立させるところにある。しかし研究や論文や学会といったものも、結局は言語や人間のフィルターを通した積み重ねの活動であるという意味において、文脈のゲームであるとも言える。要するに彼はサイエンスという文脈を現代美術の文脈に翻訳し、作品として成立させているわけで、構造としては漫画やアニメという文脈を現代美術の文脈に翻訳し、作品として成立させた村上隆と同様の構造を持っている。もちろん文脈の異なり具合が離れていればいるほどそれは難易度が高い行為と言えるわけだが、ここで原理のゲームが成立し、文脈のゲームが無効になったという主張が成立しているかどうかは怪しい。

Cross Media ArtsとAnrealms

個人的にはCross Media ArtsやAnrealmsといったコラボレーションで異なる文脈同士を翻訳、接続して作品化しているという点で彼の作品と似たような構造を持っているのだが、その立場においても言語や文脈のゲームを学ぶ必要があると思っているのは上記のような理由からだ。一方でテクノロジーについて全く学ぼうとしない現代美術もまた時代遅れになる可能性が高く、この時代における生存戦略としてはできるだけ異なる文脈についての専門性を同時に高めていくしかない。また人間を計算機と捉えること自体は間違いとは言えないし、究極的にはそうなる可能性はあるものの、現代における脳科学やAI関連の研究をある程度知っていれば、理論的な記号を使用しての脳と心の記述が全く進んでいないこと、Deep Learningなどの科学技術の発展の先にシンギュラリティが存在していないことは容易に分かるはずであり、それらの現実を無視して広告、宣伝的にテクノロジーのみで全てを解決できるとは思わない。そういう意味で近代的な人間性が忘却され、デジタルネイチャーが来た後に、もう一度人間が人間であることの限界が訪れると予想しており、そこで東浩紀的な観点がもう一度見直される必要がある。エモいという言葉で捨象されてしまう繊細な言葉の中にも、言葉では表現できないエモさが隠されていることに気付かなければならない。

アーティストステイトメントについて

話が逸れてしまったので、ここからはアーティストステイトメントについての話に移行する。

解説と講評

全体のアーティストステイトメントについての解説と講評。

・課題文には直接言及していなくても良く、それが大半を占めるのは良くない。

・批評、論文形式ではなく、エッセイ、ナラティブ形式でもコンセプトが抽出されていれば良い。

・抱負は語っても意味がない。

全体的にエッセイ、ナラティブ形式が大半を占めていたのに驚いたのだが、そういう形式で書いても良いのだという気付きがあった。エモさを出すにはむしろそういった形式の方がやりやすいのだが、自分語りをしてしまう余りポエムになってしまったり、コンセプトの抽出が足りなくなる危険性もあるように思えた。

自分のアーティストステイトメントについての解説と講評。

・1段落目と2〜4段落目が課題文の読解と、三つの活動形態に沿った作品紹介に分裂している。

・包括的に全てに言及するのではなく、アーティストステイトメントのコンセプトに関係する箇所のみ言及すれば良い。

前回の自己紹介プレゼンで余りにも作品について紹介し忘れたことで、アーティストステイトメントというよりは活動形態と作品紹介になってしまい、それらの根底にあるコンセプトについてほとんど書いていなかった。また課題文に言及するという意識が強すぎた余り、最初の段落にまとめてそれ以降と断絶を生んでしまったのと、タイトルはこの課題文の読解についてであって自分の作品のコンセプトと関係がなかった。指摘されるだろうと思った部分を短時間で的確かつ網羅的に指摘されたので、前に進むための講評としては非常に役に立った。

枠組みからの逸脱、外れ値の可視化、現実感の統合

今回提出したテキストはそもそも推敲する時間が足りておらず、全体に通じるコンセプトを書いていないのでアーティストステイトメントになっていないという自己認識があった。また抽象度をもう1、2段下げた上でエッセイ的な要素も混ぜた方が良いと判断した。なので授業後に現時点でのアーティストステイトメントとして全面的に書き直してみた。

以下変更点、改善点を箇条書きでまとめる。

・タイトルの変更と名前の記述をした。

・課題文のテーマへの言及はしていない。

・タイトルなどを除き1500字以内に収めた。

・自分の作品、活動の根底にあるコンセプトをまとめ、最初から最後までそれについての論を具体的に展開、言及した。

NILの活動や作品の背景にあるコンセプト、もしくはアーティストステイトメントに興味のある方は以下のPDFで読めるので、是非参照してみてほしい。

枠組みからの逸脱、外れ値の可視化、異なる現実感の統合

「ワンデー アキュビュー オアシス」と「ワンデー アキュビュー トゥルーアイ」

久々の眼科検診

先日コンタクトレンズを購入した。コンタクトレンズは処方箋が必要な購入方法とそうでない購入方法があり、後者ならオンラインで購入可能な場合が多い。またその方が値段も安く済むことが多く、大抵の場合楽である。しかし近年眼科での検診を受けていなかったこともあり、久しぶりに検診を受けてみることに。その結果両目共に特に異常はなく、視力検査の結果は右目0.04、左目0.06だった。最後に視力検査したのは数年前のアメリカだったと記憶しているが、その時は両目共に0.03だったような朧気な記憶がある。もしかして視力が少し上がったのかと一瞬テンションが上がったが、正直誤差の範囲内というか記憶が曖昧すぎて何も変わってない可能性の方が高い。乱視も多少入っているが、乱視用コンタクトレンズが必要な程ではないので、特に特別なコンタクトレンズは使用していない。また左右で視力が多少違うことが気になったが、結果的にはBC: 9.0、Power: -6.00という以前オンラインで購入したコンタクトレンズと全く同じ数値のコンタクトレンズを購入することになった。

「ワンデー アキュビュー オアシス」と「ワンデー アキュビュー トゥルーアイ」

個人的なコンタクトレンズ歴

以前から1日使い捨ての「ワンデー アキュビュー」シリーズを愛用しており、「ワンデー アキュビュー」、「ワンデー アキュビュー モイスト」、「ワンデー アキュビュー トゥルーアイ」の三つは使用経験がある。「ワンデー アキュビュー」より以前は2週間交換のコンタクトレンズを使用していたのだが、終日装用タイプなのに就寝時の連続装用の癖が抜けず、洗ってもコンタクトレンズの汚れは完全に取れず、花粉症の時期は目が痒くなるということで1日使い捨ての「ワンデー アキュビュー」にした。「ワンデー アキュビュー」は昨年末に販売終了したが、「ワンデー アキュビュー モイスト」が発売されてからはそちらに移行した。また「ワンデー アキュビュー トゥルーアイ」が発売されてからしばらくは「ワンデー アキュビュー モイスト」の方が付け心地が良く感じたのでそちらを使用していたが、近年は「ワンデー アキュビュー トゥルーアイ」に目覚めていた。そして今回「ワンデー アキュビュー トゥルーアイ」と「ワンデー アキュビュー オアシス」の両方を試してみて、後者の方が付け心地が良く、楽に感じたのでこちらに移行した。

「ワンデー アキュビュー オアシス」と「ワンデー アキュビュー トゥルーアイ」

「ワンデー アキュビュー オアシス」と「ワンデー アキュビュー トゥルーアイ」の主な違いは酸素透過率 (DK/L値)と含水率である。酸素透過率とは酸素透過係数 (DK値) をコンタクトの厚み (L) で割った値になり、実際にコンタクトレンズを装着した際に目にどれだけ酸素が行き届くのかの評価値になる。この酸素透過率の値が高い方が目の負荷が少ない、つまりコンタクトレンズの付け心地が良く、目の疲れが減るということになる。「ワンデー アキュビュー オアシス」の酸素透過率は121、一方で「ワンデー アキュビュー トゥルーアイ」の酸素透過率は118となっており、前者の方が酸素透過率が多少高い。また含水率はコンタクトレンズに含まれる水分の値になるが、これは一長一短で多いと酸素透過率が上がるが、その分目が乾きやすくなってしまう。「ワンデー アキュビュー オアシス」の含水率は38%、一方で「ワンデー アキュビュー トゥルーアイ」の含水率は46%となっており、前者の方が目が多少乾きにくいのでドライアイ気味の人に向いている。他のメーカーではさらに酸素透過率が高いコンタクトレンズなども販売されており、また「ワンデー アキュビュー オアシス」の方が「ワンデー アキュビュー トゥルーアイ」より値段が高いから必ずしも良いというわけでもないので、実際に眼科で試しに装着して比較してみることをお勧めする。

不可逆的な手術と可逆的な手術

というわけで「ワンデー アキュビュー オアシス」を左右1ヶ月分試しに購入してみたのだが、最近は外出時にしかコンタクトレンズを装着しないので、これだけでも結構長持ちする可能性がある。コンタクトレンズと眼鏡では見た目の印象が全く変わるので、特に初対面の時はコンタクトレンズを使用する場合が多く、面倒くさい場合は眼鏡で外出することが多い。少しだけ焦ったのはコンタクトレンズを購入した際に「処方箋を無くしては困るので、預かっておいてもよろしいでしょうか?」という質問の流れが自然すぎたので、「はい」と答えてしまったこと。良く考えたら処方箋はオンラインでのコンタクトレンズの購入に使用するかもしれず、この場所で次回の購入を促すために処方箋を預かりたいのかもしれないとも思ったので、すぐさま処方箋持ち帰りに変更してもらった。それにしても不可逆的な手術であるレーシック手術には興味がないが、可逆的な手術であるICLには興味がある。手術において大事なのはそれが不可逆的であるか可逆的であるかで、円板状半月板損傷の際に手術を断ったのはそれが骨をS字に切除するという不可逆的な手術だったからだ。現在ではiPS細胞を利用した可逆的な手術が出てきており、一定の効果を生んでいるという意味では不可逆的な手術が流行した後に、可逆的な手術が出てくる可能性を待つというのも一つの手かもしれない。いずれにせよしばらくは「ワンデー アキュビュー オアシス」のお世話になる日常が続きそうだ。

ワンデーアキュビュー オアシス
ワンデーアキュビュー オアシス
アキュビュー

失敗作で出来損ないという可能性

認識と存在と評価

どうやら家族にとって自分は失敗作で出来損ないという認識をされているらしい。他人の評価には一面の真実が宿るので、ある側面から見れば確かにそうなんだろう。父親は最近庭で植物を育て始めた。子育てに失敗した代償行為として植物は裏切らないというのがその理由らしい。姉はそれに反発して子育てを失敗した原因を両親に求める。何故失敗したという前提を疑わないのか、仮に失敗だとして他人のせいにするのか、その失敗にこちらを勝手に含めているのかは良く理解できないが、自分は失敗しているという被害妄想が強いのだろうか。母親にとっては自ら事業を起こすこと、フリーランスとして働くこと、アート制作をすること、展覧会をすることなどは仕事をするうちに入らないらしい。日本に帰国してから何も働いたことがないと認識されていることにまず驚いたが、とりあえず会社に所属して働くという行為のみが彼女の認識する働くという行為になるようだ。確定申告をしようが、賞を受賞しようが、会社を設立しようが、作品が売れようが、何もかもが認識の範囲外なのでこの時空間においては特に何の効力も持たない。たとえMoMAで作品を展示しようが、ヴェネツィア・ビエンナーレに出展しようが、ノーベル賞を受賞しようがこの状況は全く変わらないだろう。認識しないことは存在しないことと同じであり、存在しないことは評価対象外であり、評価対象外であることは例外なく最悪の評価に等しいからだ。

夢の原則

自分としては人生の中で数限りない決断を下してきたが、その中で自分の最良の選択と思っている大きな選択は過去に一つの間違いもなく全て両親に否定されてきた。ということは逆に言えば両親に否定されるような決断をしているということは、自分は自らの定義する成功への道のりを歩いているということになる。自らの定義する成功とは何か、それは自分にとって好きなことをやり続けることだ。そこで諸事情により来年海外で活動する予定であることを両親に話してみたが、案の定全否定され、説教が始まった。そこで父親が未だに自分に公務員になってほしいという夢を諦めていないという衝撃の事実が明かされたが、その夢が叶うことは残念ながらないだろう。何故ならば夢とは自分で見て叶えるものであり、他人に押しつけるものではないからだ。この夢の原則さえ守っていれば夢は必ず実現していくが、この原則を守らない限りは夢が叶うことは永遠にない。色々文句を言いつつもやり続ければ最終的には応援してくれるという意味では、自分はただ自分の夢を信じて突き進めば良いだけだ。

復讐と親孝行

自分にとって自分は成功作で上出来である。自分の評価には一面の真実が宿るので、ある側面から見れば確かにそうなるはずだ。見た夢は全て叶えてきたし、これからもそうなるだろう。その意味では子育ては成功しているが、それに気付くことができるかどうかはまた別の話だ。人間はこの瞬間に既に全てを手にしている、ただ違いはそれに気付けるか気付けないかでしかない。また子どもを生むのは一種の暴力だと思っているし、未だにその考えは変わらない。何故なら存在するかどうかという最も原初的で根本的な部分に関して人間はその選択肢を持っておらず、その選択肢は半ば強制的に選択されてしまうからだ。そういう意味で世界は最初から不条理なものとして存在している。そんな不条理な世界においてただ生きているということの連続性、継続性を保っているという事実だけで他に何も必要ないくらい立派なことではないか。双極性障害を患っていると世界の不条理さと自分の不条理さの両方に揺さぶられることになるので、生き延びるということがとりあえず何よりの仕事であり達成なのである。そういう意味では引きこもり、ニートと分類される人であっても、例外なくこの生きるという途轍もない仕事をやってのけている。生まれてきたことに対する感謝は未だに両親に伝えることはできないが、失敗作で出来損ないとして生き延びること、これが両親に対する最大の復讐であり、最大の親孝行なのである。

宇佐美圭司壁画処分問題について: 冷たいヴァンダリズム

宇佐美圭司壁画処分問題

東京大学の本郷中央食堂にあった宇佐美圭司の壁画が廃棄処分されたとのこと。この世界にFake News以外でそんな単語の組み合わせがあり得るのかと思ったが、どうやら事実らしい。無限に散らばる可能世界の中で、この世界線では確かにそのようなこともあり得る伏線が多々張られていたようにも思うが、いざ実際に現実を目の当たりにすると大きな衝撃がある。現状幾つか不明な点があるが、既に不可逆な状態で二度と戻らないことは確定事項らしく、残された者にできる選択肢は限られている。宇佐美圭司についての説明は東京文化財研究所の紹介を読めば一通り分かるはずだが、特に重要なのは彼が既に故人であり、また今回処分された壁画は彼のモチーフである「記号化した人間の形」を象徴する大作として、代表作と呼んでも良いレベルのものであったことだろう。(1)東京文化財研究所: 宇佐美圭司要するに今から誰が何をしても取り返しのつかないことが、こともあろうに日本の知、学問を代表する機関である東京大学の内部で起こってしまったということだ。

原因究明と再発防止

既に起きてしまったことは仕方がないので、まずは原因究明と再発防止のための対策が必要だ。東京大学消費生活協同組合のWEBひとことカードによれば、今回作品が廃棄処分になってしまった背景には以下の二つの理由があると説明されている。(2)展示されていた宇佐美圭司の絵画は・・・

・吸音、意匠の問題から新中央食堂に飾ることができなかった。

・別の施設に移設するということもできなかった。

仮にこの二つの前提が正しかったとして、廃棄処分という不可逆な判断を下すまでには無限の段階とグラデーションがあるように思える。例えば物理的アーカイブが不可能だったとしても、最悪デジタルアーカイブなどの手法も存在している。さらにこの二つの前提も本当に正しかったのかどうかが不明である。これら吸音、意匠、移設の三つの理由に関しては、より具体的な話が出てこない限り現段階でそれが本当に不可能なことだったのかどうか判断しようがない。特に移設に関しては物理的に何をどうしても不可能であったのか、引取先がなかったという意味なのかすらも分からない。しかし少なくとも「新中央食堂へ飾ることができず(全体にわたって吸音の壁になることや)、意匠の面から)、また別の施設に移設するということもできないことから、今回、処分させていただくことといたしました。大変残念ではございますが、なにとぞご理解くださいますようお願い申し上げます。」という説明で納得することは難しく、誰の権限と責任により、またどのような経緯を経てこのような判断が行われたのかは再発防止のために明らかにする必要があるだろう。他にも今回の件は作品について調査し、作品の価値を認識した上で行われたのか、有名無名を問わず作品を廃棄処分することに対する判断基準は何なのか、東京大学消費生活協同組合と東京大学の間、もしくは本郷キャンパスと駒場キャンパスの間には連携があったのか、事前にどれだけ周知されていたのか、反対意見は無かったのかなど数多くの疑問が残る。

文化財のアーカイブ

高度に知的な作業

そもそも文化財のアーカイブは高度に知的な作業である。何故なら物理空間には容量の制限があり、まずどの作品をアーカイブするべきかを誰かが判断しなければならない。次にそれをどのような形でアーカイブするべきなのかを判断し、最良の方法で実行に移す必要がある。それらの判断を下すためには歴史的な文脈や将来の保存状況などを考えて、少なくとも数百年、数千年の単位で物事を考えられることが条件になる。生と死というのは人間にとっての一つの大きな時間的な区切りなわけであるが、文化財のアーカイブに関してはその区切りを超えた情報空間にアクセスしない限り、そもそもその仕事の重要性と意義を理解することすら困難な行為であるという意味で、高度に知的な作業であると言える。またマルセル・デュシャンの《花嫁は彼女の独身者たちによって裸にされて、さえも》(通称《大ガラス》) は《グリーン・ボックス》の中にその設計図が存在している。(3)28 芸術における「オリジナリティ」とは何かそれを元に自主制作された作品が駒場博物館に所蔵されている(4)美術博物館の沿革が、オリジナルの《大ガラス》は運搬の途中で割れており、デュシャンはその偶然性を喜んだという逸話がある。『デュシャン』という本を著し、彼の作品にも大きな影響を受けたであろう宇佐美圭司は、その割れていない《大ガラス》の近くの現場で自分の作品が廃棄処分になったという事実をどう受け止めるのだろうか。

熱いヴァンダリズムと冷たいヴァンダリズム

文化財がゴミ同然に破壊、汚染、処分されるという行為はヴァンダリズムとして知られている。近年において最も有名な例はターリバーンやイスラム国といったテロリストたちによるバーミヤン石仏、パルミラなどの世界遺産に対するヴァンダリズムだろう。一方で旧都庁にあった岡本太郎の一連の作品群が撤去、破壊されてしまった件や、今回の宇佐美圭司壁画処分問題に関しても性質の異なるヴァンダリズムとして捉えることが可能である。前者のような衝動的、破壊的、信仰的なヴァンダリズムを熱いヴァンダリズムとするならば、後者のような無関心、無邪気、業務的なヴァンダリズムは冷たいヴァンダリズムと呼ぶことができるだろう。岡本太郎の件については保存運動もあり、移転が難しい理由もはっきりしていたために今回の件とは多少状況が異なるが、今回のように何事も無かったかのように全てが終わっていたという事実に関しては昔よりさらに状況が悪化していると言わざるを得ない。またより抽象的に考えるならば、ザハ・ハディドの新国立競技場の件に関しても建築する前に行われた冷たいヴァンダリズムの一種として捉えることも可能かもしれない。また宇佐美圭司はその知名度において専門家と一般人の間に断絶を起こし易い境界線にいるようなアーティストだろう。専門家は知っていて当然だが、一般人は知らない人も多いといった境界線上の存在に対して、冷たいヴァンダリズムは機能し易い。恐らく今回の件は氷山の一角に過ぎず、世界中であらゆる濃度の熱いヴァンダリズムと冷たいヴァンダリズムが同時進行している。そして前者に関しては目立つために話題になるが、後者に関しては知性や教養の放棄によって静かに進行し、この世界を浸食し始めているのかもしれない。

作者の死と作品の死

アーティストは二度死ぬ。それは作者の死と作品の死によって。前者に関しては今の技術力では防ぐことができないが、後者に関しては2種類の死が考えられる。一つ目はアーカイブの忘却によって、二つ目はヴァンダリズムによって。その2種類の死の中でアーカイブの忘却に関してはまだ救いようがある。何故ならそれが起こる場合は作品自体の実力不足、もしくは専門家や鑑賞者の実力不足の場合もあるが、前者であれば忘却されても仕方ないし、後者であれば時間を経てその問題は解決する可能性があるからだ。一方でヴァンダリズムについては、より問題が深刻になる。その理由としては作品が物理的に破壊されてしまえば、その時点で残されていた資料からしか作品についての手がかりは消えてしまうし、そうなってくると復元することが困難、もしくは不可能になってくるからだ。将来的にはデジタルアーカイブの方法がより発達し、作品と全く同質のレプリカさえ作れるようになるかもしれない。しかし仮にそうだったとしてもそれはその時点で存在する作品に対してある条件下で可能になることであって、既に失われた作品に関しては修復も復元も再現もできないという意味で取り返しが付かないだろう。このような状況下において、アーティストは自分の作品のアーカイブについて真剣に考えなければならない。自分の作品を売らずに手元に置いておくアーティストについて以前は余り理解できなかったが、今回の件でその心情についても多少理解できた。しかし問題はたとえそのような対策をしたとしても、自分の死後に自分の作品を守れる保証はどこにもないということだ。またデュシャンの狙いは違う部分にあるだろうが、彼のように作品の設計図を残しておくというのはアーカイブを機能させるための有効な手段の一つかもしれない。公文書偽造、廃棄は民主主義の根幹を揺るがすが、冷たいヴァンダリズムは文化の根幹を揺るがす。「恒久設置とされておりました渋谷駅の連絡通路の壁画ですが、諸事情により処分させていただくことといたしました。」なんてことが今後起きないことを切に願う。

サイトブロッキング問題について整理してみた

音楽業界と漫画、動画業界

反復の構造

最近話題になっているサイトブロッキング問題については幾つかの文脈が複雑に入り乱れているので一見分かり辛いが、極めて単純に整理してしまえば音楽業界が辿ってきた道を漫画業界や動画業界が改めて辿っているという状況であり、同じような問題が反復して起こっているということになる。つまり音 (聴覚) と光 (視覚) という違いはあるものの、それらをデジタル化されたデータとして捉えれば同様であり、それらのコンテンツをどう扱い、販売するべきかという問題だ。音楽においてはCD販売からMP3やAACなどの圧縮ファイルによって海賊版が流行すると共に、ダウンロード販売が隆盛し、後にサブスクリプションモデルに移行して現在に至る。その流れを漫画に当てはめると、書籍販売からZipやRARファイルなどの圧縮ファイルによって海賊版が流行すると共に、電子書籍販売が隆盛し、現在はサブスクリプションモデルが待たれているが決定的なサービスが登場しないため、「漫画村」が流行したということになるだろう。同様の流れを動画業界に当てはめると、DVDやブルーレイ販売からMP4やAVIなどの圧縮ファイルによって海賊版が流行すると共に、ダウンロード販売が隆盛し、後にサブスクリプションモデルが登場したものの、「Anitube」、「MioMio」などが流行したということになる。

サブスクリプションモデル

こういった海賊版サイトが流行している状況に対して対症療法的に対処する方法として、サイトブロッキングが考案されたという流れになる。その是非に関しては一旦脇に置くとして、人間は一度得た利便性から後戻りすることはできないと考えると、一度は無料で漫画や動画を体験することができた経験を持つ人間が「漫画村」、「Anitube」、「MioMio」などのサイトが閉鎖したからといって今後漫画や動画を購入するようになるかどうかは疑わしい。よって漫画や動画を購入する方向へ誘導するよりは、サブスクリプションモデルで海賊版サイトと似たような利便性を確保した上で、収益化できるようなサービスの登場が待たれる。サブスクリプションモデルに関しては作者への還元率が度々問題になるように、プラットフォームとコンテンツ提供者の力関係の問題が常に付きまとう印象があり、採算が取れるかという問題もあるが、現実的に考えて他の方法が思い付かない以上そこに真剣に取り組んでいくしかないだろう。

サイトブロッキングに関する四つの問題

単純に表層に見えている部分だけを整理すれば上記のような結論になるが、先程言及した通り、サイトブロッキング問題に関しては幾つかの文脈が複雑に入り乱れている。それらを整理すると大別して技術的、効力的な問題、代替案の問題、法律的な問題、政治的な問題の四つの問題に集約される。

技術的、効力的な問題

まず第一に技術的、効力的な問題が挙げられる。今回のサイトブロッキングで使用されるのはDNSブロッキングという方法だ。ブロッキングには大別すればフィルタリングとブロッキングが存在し、前者は事前にユーザーの同意を得る、後者は事前にユーザーの同意を得ないという違いがある。このサイトブロッキングにはISPの協力が不可欠であり、幾つか穴はあるものの、技術的には実現可能な方法である。しかしたとえ技術的にはサイトブロッキングが可能だとして、この方法では無関係なサイトが遮断されるオーバーブロッキングと関係あるサイトが遮断されないアンダーブロッキングの問題が必ず付きまとう。つまりサイトブロッキングに関するリストは半永久的に更新され続けなければならないが、そのコストは誰が支払い、その妥当性はどのように判断するのかが不明瞭である。またそこまでのコストをかけてサイトブロッキングをしたとして、現在抜け道の存在しないサイトブロッキングの方法は確立されておらず、最終的にはいたちごっこの徒労に終わる可能性がある。例えばDNSブロッキングに対してはIPアドレス直打ちで回避する方法(1)DNSブロッキングは筋が悪いのか?やパブリックDNSサービスなどを使用することで回避できる(2)海賊版サイトのブロッキングは“抜け穴“だらけ 実効性に疑問の声 (2/3)。そう考えるとサイトブロッキングが最良の方法かは疑問の余地が残る。

代替案の問題

またサイトブロッキングに対する有力な代替案としては広告収入源を絶つということが考えられる。これは要するに海賊版サイトに共犯的に協力する広告代理店や広告主に対する法律的な規制を作ることで、海賊版サイトが金銭的に儲からないようにするということだ。これに関しては相手が海外のアドネットワークを使用していたり、モラルが欠如している場合は従わない、また収入源を気にしない場合は効力を持たないという川上量生による指摘は正しい。(3)ブロッキングについてただ彼も認めているように、それらの状況に当てはまらない場合は一定の効力は見込めるはずなので、今回の件に限らず広告収入源を絶つという方向性での立法化は進めていくべきだろう。他にも「DMCA」を活用した方法なども考えられるが、確実にいたちごっこになることと、そもそも「DMCA」は原理的に悪用を防ぐことが難しいという意味で代替案としては弱い。

法律的な問題

さらにサイトブロッキングは法律的には確実に問題を抱えている。その問題の中心にあるのが「通信の秘密」についてだ。そもそもサイトブロッキングをするべき理由は海賊版サイトによる著作権侵害にあるわけだが、サイトブロッキングという手段を講じることにより、通信、検閲、表現に関する憲法や法律を侵害する可能性がある。この問題に関しては主に日本国憲法第21条2項と電気通信事業法第4条1項に書かれており、オーバーブロッキングに対して違法阻却事由である正当行為、正当防衛、緊急避難が適用されるかどうかが争点になる。(4)ブロッキングの法律問題そもそも海外という日本の憲法、法律の効力が及ばない範囲にある海賊版サイトに対しては超法規的措置によって対処するしかないという主張は一定の説得力を持つ。しかし法律は前例に縛られるし、一度前例ができあがってしまえばそれが乱用されるリスクがある。もちろんサイトブロッキングが現状の法律上問題ないと解釈する立場もあるが、これに関しては今後も議論が続くはずの論題であり、超法規的措置はできるだけ作らない方が良いというのは確かなことだろう。

政治的な問題

そして先日NTTが海賊版3サイトに対してサイトブロッキングを実施する旨を発表した。(5)インターネット上の海賊版サイトに対するブロッキングの実施についてここで既に閉鎖され、機能停止している海賊版3サイトに対してサイトブロッキングをする合理的な理由は何なのだろうか?これはあくまで推測の話になるが、NTTが今回の決断をするのに至った理由としてはドワンゴとの関わりが大きいと見られ、そうだとすれば業界の面子を立てるという意味が考えられる。もう一つの理由としては見せしめとしてサイトブロッキングの前例を作ることで、これ以上の海賊版サイトの拡大を防ぐためと、今後登場する海賊版サイトや現在存在している海賊版サイトに対する牽制の意味合いがあると考えられる。これらに関する是非は置いておいたとしても、この政治的な問題が法律的な問題よりも優先して考えられた結果がNTTの発表に繋がったと考えるのが妥当だろう。

今回の記事のまとめ

今回の記事を書いてみて思ったが、サイトブロッキング問題は体罰問題と似ている面があると感じた。体罰は法律で禁止されており、倫理的に考えても禁止されることは妥当である。一方で教師は体罰を禁止されていることで不良生徒に舐められ、モラルに訴えかけても指導が行き届かない現状もある。要するにサイトブロッキング肯定派は体罰肯定派と立場が類似しており、教師を舐める不良生徒が海賊版サイトの運営者という構図になる。また体罰以外の方法での解決を探る立場が広告収入源を絶つなどの立場になるだろう。今回の件ではどうせ何をしても手出しはできないと高を括っていた不良生徒が、法律の壁を超えて教師がガチで殴りにきたことにビビり、一目散に逃げていったという流れになった。そういう意味ではサイトブロッキングをするという発表自体には一定の効果があったのだろう。しかしだからといって体罰を肯定すべきかどうかは別の問題だし、乱用すべき方法でないことは確かであり、今後も有効な方法であるとも限らない。これを別の観点から大雑把に言えば、手続き論と内容論の対立の問題だと言い換えることができる。また今回の件に関しては作品を制作する立場、消費する立場、プラットフォームを作る立場、それぞれの立場から考えさせられたことが多い。その中で正当な対価が正当な場所へ流れる、そのたった一つのことを実現することが何故こんなにも難しいことなのかを考えた際に、貨幣経済やインターネットという仕組み自体が根本的にそれに向いていないんじゃないかという仮説に想いを巡らせながら、今回の記事を締めたいと思う。

『テヅカ・イズ・デッド』: 「マンガ表現論」の扉

本書の概要

伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド: ひらかれたマンガ表現論へ』を読了した。本書の概要としては「マンガの神様」、「戦後まんが」の起源として手塚治虫を語り続けてきた従来の枠組みが「マンガ表現史」の不在の原因を作っていたと分析し、むしろその従来の枠組みからは取りこぼされてきた視点を拾い集め、マンガをシステム論的、包括的な枠組みによって言語化し、捉え直すことにより、「マンガ批評」、「マンガ評論」を復興させ、閉ざされた「マンガ表現論」の扉を開くという壮大な内容になっている。まえがき、あとがきなどを除けば全部で5章になっており、一部細かな語り落としや分かりづらい部分もあるものの、その大風呂敷を広げた大胆な取り組みと、全体の論旨を支える様々な構造的な視点の導入は非常にスリリングなものだった。

本書の要約

以下に本書の要約として第1章〜第5章までの内容を手短にまとめてみる。

第1章

従来の「メジャー/マイナー」、「少女マンガ/少年マンガ」といったマーケット区分が機能不全に陥り、現状の多様性に対応できずに出現した「つまらなくなった」言説、共通認識を前提とした「ぼくらのマンガ」といった批評も機能不全に陥っている。しかしそのようにマンガの方に責任を負わせるのではなく、マンガをジャンルとして捉え直す包括的なフレームワークを再設定することによってしかこの負のループを脱出する術は存在しない。

第2章

いがらしみきお『ぼのぼの』の実践は東浩紀『動物化するポストモダン』の理論を予見していた。つまりここでは大きな物語の終焉とデータベースモデルがポストモダン的に提示されている。それはより具体的に言えば「キャラ」が「テクスト」から遊離するという切断線が引けるということを意味する。つまりマンガの三つの構成要素としては従来的な「絵」、「コマ」、「言葉」ではなく、「キャラ」、「コマ構造」、「言葉」の三要素について考えることが重要になる。またシステム論的に言えば「作者」、「作品」、「ジャンル (環境)」、「読者」の四者のフィードバックシステムがマンガ表現の総体を形成していると言える。

第3章

「キャラ」と「キャラクター」は別々の概念である。簡単に言えば前者は「図像」、「固有名」、「人格」といった要素を持ち、物語とは独立して存在し得る。一方で後者はキャラを基盤として「身体」、「人生」、「生活」といった要素を持ち、物語とは独立して存在し得ない。

第4章

近代的リアリズムは、「キャラ」のリアリズムの隠蔽の元に、その代償として別のリアリズムに接続される。具体的に言えば「コマ構造」、「言葉」のリアリティは映画的リアリズムを起源とする「同一化技法」や映画とは決定的に異なる「フレームの不確定性」によって探求されてきた。

第5章

「キャラ」の隠蔽と、それを起源とした近代的リアリズムが「マンガ表現史」を書くことを困難にしていた原因であり、その結果として手塚治虫が「マンガの起源」として象徴化された。しかし本書のフレームワークの再設定と隠蔽の暴露によって史実に沿わない「手塚治虫という円環」を乗り越えることが可能であり、「マンガ表現史」の新しい扉が開放される。

本書の所感

起源の隠蔽

手塚治虫と聞くと、誰もが反射的に「マンガの神様」という言葉を脳内に浮かべるだろう。しかしそのレッテルが隠蔽してしまったものによって、「マンガ表現史」の歪みが作られてきたこともまた事実。本書はその事実を「ぼくら語り」になることを慎重に避けつつ、引用や客観的な記述を元に明らかにする。ただし「キャラ」、「コマ構造」、「言葉」という三つの構成要素の提案は本書のテーマに沿っているという点でも秀逸だが、「絵」を排除してしまったことにより、その他の線を使用した要素、例えば「背景」などの語り落としが生まれてしまう危険性は感じた。また「プロトキャラクター態」、「プロトキャラクター性」などの部分に関してはもう少し分かり易く明確に説明可能な気もする。それでも大きなフレームワークで「マンガ表現論」を再構築しようとする試みとしては成功しており、今挙げたような欠点はその功績と比較すればむしろ些細な問題なのかもしれない。

キュレーションの無限の入れ子構造

また本書は「マンガ表現論」の扉を開くという観点以外にも、全ての作品を体験することが不可能になった時代における批評の在り方としても読むことができる。現代ではあらゆる分野で毎日大量の作品が作られており、AIの創作補助といった観点も含めて考えれば、消費よりも生産のスピードが上回る時代が訪れ始めていると言える。そういった時代においてあるジャンルについて包括的に語ることは可能なのか。あらゆるメディアでキュレーションやまとめサイトが流行しているのも、人生時間に対する消費スピードが追いつかないからであり、将来的にはキュレーションのキュレーションのキュレーションのキュレーションといったようなキュレーションの無限の入れ子構造が生まれてくることが予想される。本書はまず起源や構造といったものに焦点を当て、モダンとポストモダンの枠組みに慎重に取り組みつつ、あえて「マンガ」にのみ対象を絞ることによって、その他のジャンルにも通用するような批評を目指した。たとえ「マンガ」に興味が無かったとしても、その姿勢から学べるものは多いのではないだろうか。

テヅカ・イズ・デッド: ひらかれたマンガ表現論へ
テヅカ・イズ・デッド: ひらかれたマンガ表現論へ
著者: 伊藤剛

ブログ改造日記 12: カテゴリ整理

カテゴリ/ジャンル分けについて

検索とゲシュタルト

まず今回の記事の主題に入る前に、個人的なカテゴリ/ジャンル分けについての考え方を書いてみる。結論から言えば基本的に情報的にカテゴリ/ジャンル分けをすることは不必要、無駄だと考えている。何故なら情報は日々加速度的に増加しており、その情報を随時加えたゲシュタルトによって全体と部分を含めた関係性が常時更新される続ける必要性があるからだ。何が最適解なのかは全体と部分の関係性、つまりゲシュタルトで決定するので正解は存在しないし、それは常に変化していく。つまりある時間軸、状況下で最適に思えたカテゴリ/ジャンル分けは、次の瞬間には全く的外れで役に立たないものに変化する可能性があるということだ。またカテゴリ/ジャンル分けの象徴としてはフォルダ、タグなどが考えられるが、フォルダはこうもり問題を解決できないし、タグは無限に増え続けて収拾が付かなくなる。(1)過ログの盲点と「こうもり問題」についてそういう意味では分類せずとも検索できることと、常にゲシュタルトを構築できることが重要なのであって、カテゴリ/ジャンル分けは情報が増加し続け、常時アップデートが必須の時代にそぐわないと言える。

カテゴリ整理のメリット

しかし今回はその前提を踏まえた上でブログのカテゴリ整理を行った。つまりカテゴリ整理は本質的には無意味だったとしても、実質的なメリットがあると判断したことになる。まずはその二つのメリットについて書いてみたい。

メリット 1: 読者

一つ目のメリットは読者。読者にとってはカテゴリ整理がしっかりしていた方が読みやすい。最近ではGoogle検索にも無事記事がインデックスされるようになり、検索流入やSNSを通してのアクセスも増えてきた。また記事の数も一度では到底読み切れないレベルの分量になりつつある。そこで類似の内容の記事を読みたいとなった際に、カテゴリ整理が適当だと非常に読みづらい。折角ブログに興味を持ってもらい、別の記事も読もうと思ったのに、カテゴリ整理が雑なので離脱という状況は避けたい。その状況を避けるためにはカテゴリ整理をした方が良いだろうと考えた。

メリット 2: 進度/軌跡のバロメーター

二つ目のメリットは進度/軌跡のバロメーター。NILOGを予約投稿、遅延を含めて毎日更新ペースで更新していると、1日単位でのリズムができてくる。そして次第にそのリズムに沿ってNILOGで実践している内容を、メディアミックスのように展開していく流れを作りたいと考えるようになった。大げさに言えばその1日1日の積み重ねの連続が人生そのものになるというような。確かに考えていること、やっていることの全てをブログに書いているわけではないのだが、それでも何をどれだけやっているかの積み重ねはある程度ブログを通して可視化されることになる。そこでカテゴリ整理をすることで、その進度/軌跡のバロメーターとしてカテゴリが機能するようになると考えた。特に今回は後述するように自分のゴールを含めて視野に入ってほしい情報を上手く分類できるようにカテゴリ分けしたので、そういう意味ではこのカテゴリを振り返ることが自分の活動履歴と興味の度合いを可視化することになるだろう。

カテゴリ整理のルール

親カテゴリと子カテゴリ

今回は親カテゴリと子カテゴリを使用して分類している。そして親カテゴリは以下の三つになる。

・Disciplines

・Projects

・Balance Wheel

最初はSEOの観点から親カテゴリと子カテゴリを分けたくなかったのだが、そもそもカテゴリをインデックスしていなかったので気にしないことにした。さらに親カテゴリは整理の度合いと分かり易さから三つか四つに絞りたかった。また近年の考えでは概念は四つより三つで整理するべきであるという感覚があるのだが、今現在考えられるゲシュタルトを構築してみたら丁度上記の三つになったという流れがある。Disciplinesは専門分野、学問分野という意味を持ち、ここに自分の書いた記事の分野が当てはまれば分類する。次にProjectsは自分の制作活動やプロジェクトなどに関する記事を分類する。最後にBalance Wheelは自分の多様なゴールの中に含まれる分野についての記事を分類する。子カテゴリについては発展途上だが、随時追加、削除などを繰り返して数を絞る予定。以前の分類の仕方だとカテゴリが無限に増えていったり、偏ったり、またカテゴリ/ジャンル分けを意識しない分類の仕方によりこうもり問題が発生しやすい構造になっていた。しかし今回はそれが発生しにくい構造に変えたことと、1記事につき1カテゴリと決定したこともあり、カテゴリ整理がスムーズに行く予感がしている。

カテゴリ整理をしてみた感想

カテゴリ整理をしてみた感想としては、ブログを開始した当初はこのようなカテゴリ整理の発想は不可能だったと断言できるので、やりながら常時アップデートすることの大切さを感じた。読者のことを考えたらカテゴリ名は英語ではなく日本語に統一した方が良いのかもしれないが、それについては個人的な拘りがあるのであしからず。前回の記事から設定し始めたTwitter Cardと共に、これから再度過去に遡ってカテゴリ整理をする必要があるが、それに関しては気長に待っていてほしい。また現在のカテゴリ整理の方法が完璧とも思っていないので、変更点があれば追記などしようかと思っている。

ブログ改造日記: 連載記事リンク

ブログ改造日記 1: デザインの変更と機能の追加

ブログ改造日記 2: ブログに関する問題点

ブログ改造日記 3: 自滅としてのグーグル八分

ブログ改造日記 4: 「Table of Contents Plus」の限界と自作目次の導入

ブログ改造日記 5: 「All in One SEO」から「Yoast SEO」へ

ブログ改造日記 6: Googleのインデックスに関する問題点

ブログ改造日記 7: 「Broken Link Checker」の導入と自作目次の改善

ブログ改造日記 8: 両端揃えの導入

ブログ改造日記 9: Headerの高さを調整してみた

ブログ改造日記 10: Twitter Cardの設定

ブログ改造日記 11: footnotesというプラグインで脚注を導入してみた

ブログ改造日記 12: カテゴリ整理

ブログ改造日記 13: IFTTTとInstagram Feedの設定

東京国立近代美術館「MOMAT コレクション」と皇居外苑・楠木正成像

東京国立近代美術館「MOMAT コレクション」

東京「国立」「近代」美術館

新芸術校のツアーで東京国立近代美術館「MOMAT コレクション」を観てきた。まず重要なのはここは東京「国立」「近代」美術館ということで、「国」が設立、運営しているということと、「近代」という時代区分の美術を収集して展示している場所ということ。そうなってくると当然日本の美術作品が中心になり、キュレーションの質も高いものが求められ、「近代」以前でも以降でもないという意味で「近代」とは何かが問われてくる。西洋と東洋という区分で見ればそれぞれの「近代」には当然異なる文脈とその発展の仕方があり、同じ「近代」として一括りにはできない。そして「近代」になる過程においては人工的に成立した「国家」の枠組みが最重要であり、日本においては西洋における遠近法などの「技法」をどのようにして日本古来からの文化や文脈に接続し、折衷するのかという「形式」と「内容」の統合に試行錯誤する過程が重要になってくる。つまりこのコレクションとして飾られている絵画は全てが成功例というわけではなく、ある試行錯誤の方向の象徴的な結果、典型例としての役割を果たしている絵画も多い。

アートの鑑賞教育

基本的には上記のような前提を基盤として黒瀬陽平解説によるツアーが行われていた。他にも1人称的なカメラの有無の話、イズムの出尽くした後の時代の話、文脈から外れた絵画の話、西洋的な視点の話、戦争画の実験性の話、リアリズム論争とルポルタージュ絵画の話など、年代とテーマのキュレーションの混同の話、横山大観や平山郁夫の技巧と生存戦略の話など興味深い話が沢山語られていた。東京国立近代美術館には最後におまけ程度の現代美術の部屋もあるのだが、そこには李禹煥、田中功起、鈴木理策などの作品も展示されていた。また私小説的な写真とキャプションの話が否定的にされていたが、その問題意識は日本ではずっと感じていて、以前観たアニメーションや他の展覧会のキャプションなどを総合してみてもかなり根の深い病理なのではないかと思う。しかし本質的な問題はこういったアートを鑑賞するための教育が公的な教育では一切なされないということだろう。私語厳禁の方針の美術館が多いことが既に驚くべきことだが、1回で良いからこのようなアートを解説するツアーなどを子どもの頃に体験する授業があれば、日本におけるアートの受容のされ方はかなり変わるはず。そうは言ってもそれがなされるわけもないので新芸術校のような場が代替の場として機能しているのだが、今そういった取り組みを積極的にしていかなければ、日本では数十年後になってもアート = 分からないもの、アーティスト = 趣味人といったような認識の枠組みは変わらないだろう。

皇居外苑・楠木正成像

自我の無限ループ → 異なる世界線

ツアーはほぼ2時間立ちっぱなしでだったので、かなり身体的に疲れた。しかし同じく新芸術校に参加している國冨君が皇居外苑にある楠木正成像に興味があるということで、一緒に皇居を訪れてみることにした。昔から自分には盲点になっている他人が興味を持っているものに興味があり、人に勧められたものはとりあえず可能な限り何でも体験するし、軽いノリで行き先を変更したりする。それは一般的には偶有性やセレンデピティと言われるようなものかもしれないが、自分の中ではランダム性を極大化し、隠された関係性を見出だすことだと思っていて、そういった縁起を通してしかむしろ自我は発見できない。簡単に言えば自我の無限ループから脱出し、異なる世界線に到達するためには、まず徹底的に自我を殺して他人の視点を受け入れることから始めるしかないということだ。

皇居外苑・楠木正成像

日比谷駅からGoogleマップを元に適当に歩いていく。100mの規制もあり、高すぎる建物は存在しないが、その自然と低い建築物の人工的な風景はどこか海外の空間を思わせる。そして歩き続けていると遂に皇居外苑・楠木正成像の後ろ姿が見えてきた。銅像自体は錆びながらも立派なものだったが、楠木正成は正義、もしくは悪という評価が2分されている人物らしく、何故彼が選択されたのかには興味深い真実がありそうだ。また彼は明らかに皇居の方角を向いており、守護者のような立ち位置として存在していた。彼の向いている方角に興味があったので、桜田門などを訪れつつ皇居の方角へ。最終的には交番の前で立ち入り禁止ということで、東京駅付近も探索しつつ一連の探索を終えた。皇居周辺を歩いていると奇妙で美しい場所に迷い込んだと思えるような感覚が残り、京都の碁盤の目とは違った意味で上手く誘導されているように感じた。そして最終的にその感覚は「お洒落」という暴力的な言葉に収束した。日本を代表する場所なのに海外の街並みを思わせ、張りぼてのような東京駅からの一直線の風景で結婚写真が撮影される程に「お洒落」だがその実態は謎に包まれている。宮内庁をCIAやFBIのような比喩で考えるならば、その謎にこそモナリザのようなアートの源泉が眠っているのかもしれない。

JINRO presents 岡崎体育ワンマンツアー「密着!謎のメンタリストRYOMAを追え!」に参戦してきた

お笑いライブと音楽ライブ

JINRO presents 岡崎体育ワンマンツアー「密着!謎のメンタリストRYOMAを追え!」に参戦してきた。岡崎体育のライブ自体初参戦だったのだけれど、いきなりのツアーセミファイナル。Music Videoは新作が出れば見ていて、過去曲やアルバム曲は幾つか知っている程度の知識だったので、客層やノリを含めて全く未知数の世界だった。ライブが開始されると謎のメタな身内コントが始まり、要するにこれはお笑いライブなのだと把握する。しかしその後に本編が始まり、「BASIN TECHNO」な音楽や光などの演出、口パクが解き放たれると一気にそのギャップで音楽ライブの側面が強調される。ゴールデンボンバー以降の世界線において口パクは手抜きではなく、むしろ演出効果を高めるための戦略であり、一つの立派なパフォーマンスである。そして観客の感情を揺さぶる音楽ライブとしてのパフォーマンスが終わると、MCと言う名の休憩とお笑いライブが開催されることになる。もちろん音楽ライブの中にも映像を含めてお笑いの要素やネタがふんだんに盛り込まれている部分があるのだが、基本的にはこの緊張と緩和の構成が続くことになり、時々本当にマイクを通して歌ったりする。ライブの最後はMCなしで連続で音楽を流すと宣言したことに対して、ある種のもったいない感があったのはMCという名のお笑いライブがおまけというクオリティの範疇では収まっていなかったということだ。またあれだけのパフォーマンスをしながら歌うのは至難の業かと思うが、歌に関しては今より上手くなればさらにギャップが引き立つことかと思う。しかし強調しておきたいのは彼は芸人ではなく、あくまでミュージシャンであるということだ。最初にお笑いライブと言ったが、あくまで音楽ライブの枠組みの中でお笑いライブをやるから面白いのであって、そこに彼の生存戦略がある。

「異なる文脈の昇華」と「ギャップの渋滞」

彼の生存戦略は通常は異なる文脈を全て音楽の文脈に強引に押し込んで昇華させ、そのギャップによって見事な相乗効果を生むという戦略である。つまりこの「異なる文脈の昇華」と「ギャップの渋滞」が彼の生存戦略なのである。例えば彼が今回のライブと同じようなことをお笑いライブというラベリングで行ったとしたら、評価はまた全く違ったものになるだろう。しかし彼はあくまで音楽ライブという前提の元に行っている。そして彼の音楽の才能は飛び抜けている。それはバックグラウンドとしての引き出しの多さに加えて、異なる性質を持つ音楽を自分のスタイルとして昇華できる才能にある。アドリブでの3Words即興ソングは音楽理論、演奏技術、笑いの才能、頭の回転などいくつかの複合的な才能がないと成立しない (ちなみに今回の3Wordsは「ゴリラ」、「門外不出」、「還暦」だった)。その音楽の才能があればあるほどそのギャップとして笑いが生まれるし、笑いが洗練されればされるほど、音楽が引き立つ。また音楽の文脈では彼の洗練された曲に対する彼のルックスは足を引っ張ることにもなりかねないが、そこはお笑いの文脈を取り入れることによって見事に武器にしている。さらにお笑いではパペットマペット → てっくんという文脈を引き継いでいたり、「Wall of Death」→「Walk of Death」やアイドルのグッズといった音楽の中でも異なる文脈を自分に引きつけて解釈し直すことによって、それらのファンも引きつけるとともにさらなるギャップを生むというポジティブな連鎖を生んでいる。異なる文脈に沿って異なるアウトプットをするという生存戦略もあるが、異なる文脈を音楽という一つの文脈に沿って昇華するという生存戦略は上手くはまれば破壊力が大きい。

自己プロデュース力

最後にこれまで述べてきたような彼の類い希なる才能を一言で表現するならば、自己プロデュース力が桁外れであるということになるだろう。SNSやMusic Videoなどは宣伝のためのツールであると共に、彼の世界観をそのまま体現したかのように戦略が練られており、バズることに対する貪欲さが凄い。そして実際に成果を出している点も凄いが、情報空間においてはクオリティ云々の前にバズらなければ死んでいるのと同様であり、彼はそのことに自覚的なミュージシャンであると言える。ミュージシャンとしては以前はメジャーデビューのような流れに対し否定的で、独立してやるインディペンデントミュージシャンのような流れが流行したことがあったが、彼はその次の世代のミュージシャンであり、メインストリームに登ることに対する抵抗がない。それは今回のライブのようにJINRO presentsを全面に押しだしてライブの最後の曲として演奏したり、企業案件としてMusic Videoを作ったり、その成果として今度企画アルバム『OT WORKS』が出ることにも象徴されている。確かにインディペンデントであることは尊いかもしれないが、金銭的にも人脈的にもメジャーでなければできないことというのはあり、それに対してリアリズムを持って上手く活用している彼はやはり賢い。例えばYouTuberという仕事は広告業であり、ステマという言葉が懐かしくなるほどに現代は宣伝したり、企業とコラボしたりすることをファンが受け入れ易い時代である。そういった時代においてはむしろ裏舞台のお金の流れなどを隠してイメージを保とうとするより、全てをさらけ出した上でいかに楽しくするか、一緒に協力して何かをやり遂げるかという方が受け入れられやすい。そのゴールとして埼玉スーパーアリーナという場所が設定されている。こういったことから考えても、この時代の象徴的な存在として岡崎体育の自己プロデュース力は頭一つ抜けている。これだけ楽しいというより面白いライブは初めての経験だったが、それにしても結局謎のメンタリストRYOMAって一体何だったのか?謎は深まるばかりである。あとてっくんソロ曲 (以下略)。