詩とリトグラフの展覧会「石版を丸呑みする回転木馬」を終えて

展覧会会期終了

本日をもって詩とリトグラフの展覧会「石版を丸呑みする回転木馬」の会期が無事終了した。昨年から半年以上の長期間にわたり作品制作、展覧会、イベントを行ってきたが、さすがにここまで大変だとは思わなかった。振り返ってみれば新しいチャレンジも沢山あり、数々の失敗と試行錯誤の末に何とか最低限の部分までは形にできたように思う。ただ作品制作に関しては特装限定版、受注生産版、版画詩、グッズを含めて完成していない部分もあり、今後も継続して制作することになる。今回は全体的に無理をしすぎたので、今後は全体的にペースを落とし、無理のない範囲でやっていく予定だ。制作費に関しても当初の予想を遙かに上回った部分があるので、英語版などの見本ができたらクラウドファンディングなどで費用集めをすることも検討している。

反省点と手応えと今後の課題

個人的な反省点を挙げれば告知/宣伝、作品数、人手、資金、スケジュールなどきりがない。しかし何とかやりきることができたことは、今後に繋がる可能性を感じた。また展覧会やイベントに来てくれた方、作品を知ってもらえた方にはかなりの確率で作品を購入してもらえているという手応えはあり、長年構想していたアートでありながら素人や玄人といった区別なく届く作品が遂に完成したのかもしれない。展覧会とイベントは終了したが、今後もアートフェア、ブックフェア、オンライン販売などを含めて様々な形で作品を宣伝していけたらと思っている。今回見えた課題としてはまず知ってもらうこと、コミュニティに接続することが大切だと分かったので、個人的にはその方向性で海外も視野に入れつつ動く予定。

『Onomatopoeia Ω』の改良点とコメント

また昨日行われた実験映像×アニメーション作品『Onomatopoeia Ω』上映会では、自分としても初めて濱中さんが映像に加えた部分を鑑賞した。それは限られた時間と制約の中で頓智を働かせながらも、予想を超える出来になっていた。映像を観ながら話し合う中で幾つか改良点があったので、以下にメモとして列挙。

・元からあった環境音と追加された音のミックスを変える。
・フォントを変更し、動き、ナレーションを付ける。
・キャラの種類を増やす。
・シーンの長さを変える。
・最後のクレジットを見易くする。

作品としてはオノマトペが主題だったのだが、まさか文字、文章でそれを表現してくるとは思ってなかった。当初の予定ではこちらが考案したオノマトペの名前と特徴を持つキャラクターを、濱中さんのアニメーションとして幾つか登場させる予定だったのだが、時間の制約でそれが不可能だったために違う方法で挑んだみたいだ。こちらとしても当初の予定では映像は普通で、その普通の映像に独自のオノマトペを付けるような作品にしようとしていたのだが、結果的に映像が実験映像になってしまったという意味で当初から予定とずれていたものがコラボレーションによって全く違うものに変貌を遂げたということになる。キャラの種類、動き、走る音の単調性については賛否両論ありそうで、統一感があるのと催眠的で良いという人もいるだろうし、もう少し変化がほしいという人もいるだろう。この辺りについては改良した後に良い環境で再上映したいと考えている。

写真と動画掲載

最後に実験映像×アニメーション作品『Onomatopoeia Ω』上映会の映像を工房内部、外部から観た写真と上映した動画を掲載して締めたい。展覧会風景としても映像が窓を切り取ったように独特のインスタレーションとして機能しており、今後もこの手法は使えそうだ。自分としては一つの区切りが付いたということで、このキャラクターのように次の次元に向けて走り出してみようと思う。

上映会風景 (工房内部)

上映会風景 (工房外部)

実験映像×アニメーション作品『Onomatopoeia Ω』

実験映像×アニメーション作品『Onomatopoeia Ω』

イベントの告知をします。明日3月31日(土)の午後6時からダイナミックサイクルで実験映像×アニメーション作品『Onomatopoeia Ω』上映会があります。上映会に関しては午後6時からの上映に間に合わない場合でも、午後8時までに来て下さった場合は個別に映像を上映することも可能になりますので、その場合は現地で気軽に声を掛けて下さい。また明日は「石版を丸呑みする回転木馬」展覧会最終日となるため、興味のある方、見逃したくない方は明日の午後8時までにダイナミックサイクルまでお越し下さい。さらに現在「石版を丸呑みする回転木馬」の普及版の販売、受注生産版と特装限定版の予約を受け付けていますので、そちらの方も興味のある方は現地で尋ねてもらうか、CONTACTからメッセージを送ってもらえればと思います。

『Onomatopoeia Ω』について

この作品は以前「Onomatopoeia Ω」の制作という記事で書いたように、NILが数ヶ月前に制作した実験映像とアイディアを土台として濱中さんにオノマトペのキャラクターの3Dアニメーションを付けてもらった作品になる。ただし現在個人的な事情により忙殺されており、濱中さんとの連絡が余り取れていないので自分としても完成作品を観るのは明日が初めて。また以前言及していたCMに関しては時間の関係上厳しそうという連絡はもらっているので、今回の上映会ではCMなしのバージョンで上映する可能性も高い。個人的にもこの作品に関しては現状どのようなものになるのか全く予想が付かず、今回は完成版というよりはデモ版的な上映になるかもしれないが、いずれ将来的にどこかで再上映することもあるかもしれない。

『Onomatopoeia Ω』の原石

最後に多少ネタバレになるかもしれないが、濱中さんが手を加える前の映像を動画として掲載しておく。万華鏡的な異次元は自分の実験映像の特徴の一つだが、今回の作品でもその特徴を活かして単独の作品としても成立するように制作してある。また元は4Kの映像なのだが、ウェブサイトでは重すぎる可能性があるのでフルHDに圧縮してからアップしている。ちなみに途中で1分間何もない黒い画面が延々と流れるが、その部分はCMになる部分の空白なのであしからず。それでは明日現地に来られる方はダイナミックサイクルでお目にかかりましょう。

過去作品紹介シリーズ 1: 《Forms of Emotions》

過去作品紹介シリーズ

自分が過去に撮影した写真を眺めながらふと思い返してみれば、自分が今現在取り組んでいる作品やプロジェクトはブログを通して紹介しているが、過去作品については余り言及したことがなかった。またポートフォリオサイトも以前から制作しようと思っているのだが、中々その時間も取れていない。ということで今回からは不定期に過去作品紹介シリーズという連載記事を通して、自分が過去に制作してきた作品を写真付きで掲載してみようと思う。それらの過去の記憶の断片を掘り起こし、現在や未来に向けて再接続することで以前とは違った見取り図が見えてくるだろうし、読者の方にも自身の作品や活動についての輪郭を知ってもらうことができるだろう。

《Forms of Emotions》

昔から作品制作の過程や作品、展覧会の写真については意識的に残してきた方であるが、作品に関しては海外で制作したものが多く、やむを得ず廃棄したものが多々存在している。今回はそんな中でも既に破棄してしまった陶芸彫刻作品を紹介したいと思う。この作品群は焼いたときに全て壊れて消失、色を付けた際に気に入らなくて自分の中で消失、既に全て破棄したという意味で消失という3重の意味で消失している作品でもある。しかし当時の写真が残っていたので、それらを掲載しつつ簡単に作品紹介をしてみる。

《Forms of Emotions》

これから紹介する作品群には《Forms of Emotions》という総称が付けられている。これはEternal Myth名義で出した『Sounds of Emotions』という八つの相反する感情をテーマとしたアルバムに対応した陶芸彫刻作品になる。展示した際には中央にスピーカーを置いてそのアルバムをループ再生していたので、その展示に使用した小さくて丸いスピーカーの置き場所用に制作したのがこの作品。宝玉を手で掌握しているようなイメージで制作した。ちなみにこれらの作品は全てアメリカの学生時代の授業で、学内個展をした際に制作した作品である。

《Forms of Hate》

嫌悪の感情を形として表現した作品。自然とヘルメットか拷問器具のようになった。メタリックな感じを含めてネガティブ系の感情の中では一番のお気に入り。

《Forms of Anger》

憤怒の感情を形として表現した作品。棘が渦巻いているようなイメージ。クロワッサンっぽくもある。

《Forms of Sorrow》

悲哀の感情を形として表現した作品。欠落なのか、涙の滴なのか、穴が沢山空いている。また「もののけ姫」のこだまの影響を受けているのか、どこか愛嬌もある。

《Forms of Despair》

絶望の感情を形として表現した作品。《Forms of Sorrow》よりもサイズが小さいが、多くの穴が空いている。初期作品で出現率の高かった中央の目が特徴的。

《Forms of Hope》

希望の感情を形として表現した作品。翼のイメージを連想させる。翼のモチーフは最初期に制作した陶芸彫刻にも出てくるので、自分の中で反復するイメージなのかもしれない。

《Forms of Happiness》

幸福の感情を形として表現した作品。この作品は三つの要素から成立しているが、本来なら一つのイメージに収束するはず。個人的に余り気に入らなかったので破棄し、本番では全く違う形に作り直した。

《Forms of Love》

愛情の感情を形として表現した作品。大きさの違う二つの形が融合している。つるつるとした滑らかさがある。

《Forms of Joy》

悦楽の感情を形として表現した作品。作曲では「Sounds of Joy」は一番苦労したが、《Forms of Joy》は陶芸彫刻では一番楽に制作できた。軽快なダンスを踊っているようで、ポジティブ系の感情の中では一番のお気に入り。

ネガティブな感情の形

ネガティブな感情の形の集合写真。

ポジティブな感情の形

ポジティブな感情の形の集合写真。

《Forms of Emotions》と『Sounds of Emotions』

如何だっただろうか?この作品群を制作した際には陶芸も彫刻もほとんど経験が無かったのだが、自分の中の感情のイメージを膨らませて何とか完成させた。展覧会を翌日に控えて焼いた時に全て破壊され、1日で全て一から作り直したのは今となっては良い思い出。今見返すと未熟な部分も多いが、『Sounds of Emotions』はリトグラフを使用してCDをアート化して再制作しようとも思っているので、その時に《Forms of Emotions》も3Dプリンタで改良を加えて再現してみたいという想いもある。《Forms of Emotions》のそもそものテーマとなった『Sounds of Emotions』は以下のリンクから聴くことができるので、気になった方はそちらも聴いてみてほしい。シングルに収録した「Sounds of Hope」を除けばネガティブ系の感情だと「Sounds of Despair」、ポジティブ系の感情だと「Sounds of Happiness」、全体としては「Sounds of the Universe」がお薦め。

Eternal Myth – Discography – Sounds of Emotions

過去作品紹介シリーズ: 連載記事リンク

過去作品紹介シリーズ 1: 《Forms of Emotions》

意味を超越した何か

意味を超越した何か

本日のブログは初期のように思考を放出するように適当に書く。そもそも言いたいことなど何もないし、言いたいことがあるからブログを書いているわけでもない。書くという行為は言いたいことを言うことより遙かに深遠な行為であり、それはアートで自分の気持ちを自己表現しているうちはまだまだ未熟ということと全く同じだ。しかし日常を生きていると次第にそれを忘れてしまいがちなので、メッセージなどないという根本に立ち返ることは非常に大切なことだ。言いたいことなど何もないのに何故書くのかという問いに対しては、生きている意味など何もないのに何故生きるのかと問い返したい。そう全てのことは意味があるから行うわけでも、意味があるから存在しているわけでもない。それらは意味を超越した何かなのである。

刹那瞬の保存

そしていつも誰でもない自分のために書くことだ。他人のために書いているというのは嘘、もしくは幻想である。仮にそういうことを言う人がいたとしても、それは他人のために書いているという自分の欲望を満たすために書いているに過ぎない。また違う言い方をすれば他人のために行う行為は一時的にインパクトを獲得したとしても普遍性を獲得しない。逆に自分のために行う行為は長期的に他人のためになり、普遍性を獲得する可能性がある。たまにブログを書くことを頑張っていると言われることがあるが、全く頑張っていない。自分のためにやっている行為を通常頑張っているとは言わないからだ。また刹那瞬の概念で言えば一瞬前の自分と一瞬後の自分は現在の自分と同一だとは思えない。なのにも関わらずアイデンティティを保てるのは記憶の連続性、持続性があるからであり、本来は別々の自分が時間軸上に無数に存在している。その無数の自分の存在の切れ端を残すために書いているというのが本当のところなのかもしれない。

宇宙の蜘蛛の巣

そもそも自分そのものは空虚な点であり、それ自体は何も意味せず、存在すらしていない。しかし通常その点は自分が意図するかしないかに関わらず、他の無数の点と関わりを持つことになる。その時その宇宙に広がる蜘蛛の巣のネットワークに仮の意味と配役が生まれ、一見それが存在しているように見える。しかし根本は何もないが故に全てである可能性を持つという「未分化」な状態だけが重なり合っている。これは仏教的に言えば空と縁起の概念で簡単に説明されることだが、その「未分化」という概念に焦点を当ててみると面白いことが分かる。

「未分化」と「分化」

iPS細胞とネオテニーに共通するキーワードは「未分化」だ。何故「未分化」であることが尊いのかと言えば、それは可能性の塊だからだ。「未分化」であるが故に変貌の可能性を秘めているということは、逆に言えば「分化」したものの可能性は先鋭化しつつ狭まることになる。例としては前者は子ども、後者は大人と言うこともできるし、それぞれを無限性と有限性に当てはめることも可能だ。例えばジャンルや専門性は深めていく過程でどんどん「分化」していくことになるが、その深さが地上からは見えない程に深まってくると、今度は「未分化」な状態で混ざり合うことを求め始めたりもする。無限という概念に魅力を感じつつも同時に限界があるように思えるのは、「未分化」な状態を永遠に求めるピーターパンにその姿が重なるからなのかもしれない。アポトーシスが「分化」の果てにプログラムされていると知りながら、一瞬前の「分化」した自分と一瞬後の「未分化」な自分の狭間で現在の自分はただ書き続けている

『夜雨の声』を聴いて

『夜雨の声』の内容

『夜雨の声』を読了した。内容としては多変数解析関数論で有名な数学者の岡潔が「情緒」を最大のテーマとして文化、科学、仏教などについて横断的に語る内容になっている。特に批評家の小林秀雄との対談は当時のアートと数学/自然科学について批判的に語っており、その独創的な視点は鋭く急所を突いていて興味深い。また所々に脳科学的な内容が入っているのも面白いが、これに関してはあくまで彼の仮説として捉えた方が良いだろう。学者が自分の専門外の事柄について語ると凡庸になる場合があるが、一流と呼ばれる学者は例外であり、彼は教養を含めて相当深度の深い領域にまで到達していると感じられた。

概念のトライアングル

「Cross Media Arts」のトライアングル

彼の書いている内容には「感情、意欲、創造」や「社会的関心、自然的関心、超自然的関心」など三つの概念を基準として論じているものが多い。彼のように概念をトライアングルで考えてみると整理、分析しやすいことは多々ある。例えば自分の経験で言えば「Cross Media Arts」という概念を考える際に「アート、哲学、数学」のトライアングルを基盤として考えたのは、それらの分野がそれぞれ「情緒、知性、論理」を代表しているように思えたからだ。その上でそのトライアングルを橋渡しする概念として「修辞学、計算機科学、音楽」をそれぞれ考えて逆向きのトライアングルとして組み合わせた概念が「Cross Media Arts」になる。

マルセル・デュシャン、アンディ・ウォーホル、ヨーゼフ・ボイスのトライアングル

またこれは現代美術家である会田誠がTwitterで呟いていた内容だが、彼はマルセル・デュシャン、アンディ・ウォーホル、ヨーゼフ・ボイスのトライアングルで現代美術を考えていると言っていた。これは要するに知性やメタの部分をマルセル・デュシャン、資本主義や下品な部分をアンディ・ウォーホル、Socially Engaged Artや公共性の部分をヨーゼフ・ボイスとして考えた場合、そのトライアングルで現代美術を考えているということだろう。このトライアングルは現代美術作品や現代美術家について考える際に概ね有効なフレームワークとして機能するが、メディアアートやバイオアートなどのテクノロジー的な部分は考えられていない気もする。また彼はヨーゼフ・ボイス的な要素が足りないと自己分析していたが、個人的に自己分析するならアンディ・ウォーホル的な要素が足りない気がしていたので、そこを強化した作品が「石版を丸呑みする回転木馬」だったのかもしれない。そして次に行く場所はテクノロジー的な部分と向き合うものになると予想している。

「情緒」から「エモさ」へ

本書の一貫したテーマである「情緒」は昔の日本には存在していたが、西洋には存在しない。しかし日本は西洋の猿真似をしているうちに「情緒」を失いつつあることに彼は深刻な危機感を覚えている。そして彼の予想は的中し、現代社会では宮台真司の言うところの、反知性主義は知性の劣化ではなく感情の劣化であるという程度に「情緒」は失われてしまった。「エモさ」は批判的な意味でも賞賛的な意味でもどちらでも使用できる言葉であるが、「情緒」が「エモさ」に変貌しても大事なことは昔から何一つ変わっていない。Botにならずに人々の心に訴えかける情報を放つためには「情緒」を磨くことが大切であり、それが最終的に知性でも論理でも動かない人間を大きく動かすことになる。それにしても「夜雨の声 (やうのせい)」という言葉には情緒がある。こういった素晴らしい情緒を持つ言葉を他の言語では未だに知らない。

夜雨の声
夜雨の声
著者: 岡潔
編者: 山折哲雄

ラジオ体操と軍国主義

バトル・ロワイヤルの鮮烈な記憶

ラジオ体操を聞くと軍国主義の匂いを嗅ぎ取ってしまうのは、バトル・ロワイヤルの影響だろうか。映画の中では生徒たちが殺し合う中、キタノが校庭で1人ラジオ体操を意気揚々と踊っているシーンがあった。その強烈な違和感とギャップによる恐怖心は未だに脳裏に焼き付いている。その影響かラジオ体操の徹底して明るい音楽とそのナレーションからは、まるで北朝鮮のように統制された世界観が展開されているように感じ取れるが、その異様さは通常問題にならない。しかしこの嗅覚が間違っているようにも思えないので、今回はそれと関連する話も含めて少し掘り下げてみたい。

「前倣え」と「右向け右」

ラジオ体操とは直接関係はないかもしれないが、子供の頃に整列する際「前倣え」と「右向け右」という掛け声があった。これも今考えれば軍隊の訓練のような印象を受ける。まず号令があり、それに従って自分の体を強制的に操作させられ、結果的に全体で一つの形を形成する。この子供の頃に獲得した身体性の延長線上に、満員電車での我慢があるように思う。駅の発車メロディを号令として、強制的に身体が固体化させられ、時間通りに区切られた区間で解放される。そのロボット的な軍隊の駒となるための訓練が子供の頃からなされているのだとしたら、その成果は顕著に上がっていると言わざるを得ない。

ラジオ体操という名の催眠

ラジオ体操では音楽とナレーションに一定のリズムがあり、指示があり、それに従って体操することが求められる。音楽とダンスの相性が良いように、音楽と体操の相性も良い。無意識に流入してくるものに対して人は驚くほど無防備であるが、その指示の連続と反復に対して身体は抗うことなく受け入れることになる。この特徴は考えてみれば催眠状態に近く、ラジオ体操のようなものを集団で毎日行うという儀式は、その催眠状態というアンカーを引き出すためのトリガーになり得る。

創造性と権力

創造性は権力にとっては常に危険で邪魔なものなので、通常排除の対象となる。何故なら権力は常に枠の内側に人々を留めるように働くが、創造性は常に枠の外側へ人々を導くものであるからだ。そして自分の思考から身体性が奪われた時、人は創造性を失う。ラジオ体操によって身体を動かすことは気持ちが良い。しかし労働の現場でそれが流された時、無意識的にでもその軍国主義の匂いを嗅ぎ取る嗅覚を持つことを生存本能として忘れてはいけない。

#DeleteFacebook: SNSノマドたちの行方

#DeleteFacebookとは?

#DeleteFacebookが盛り上がりを見せている。このハッシュタグが何を意味するかと言えば、文字通りFacebookのアカウントを積極的に削除することを促すものだ。先日明らかになったのは、過去にFacebookの個人情報約5000万件が流出し、ケンブリッジ・アナリティカによって米国大統領選挙に政治的に悪用されていたという事実だった。これに対してMark Zuckerbergの対応の遅れなども重なり、Facebookの利用者の不信感が一気に募ったことで今回の運動に繋がったという流れになる。今回の記事ではこのニュースを出発点として、関連する事柄について幾つか思うところを書いてみたい。

個人的なFacebookの利用状況について

まずは個人的なFacebookの利用状況について。自分としては5年以上にわたり海外生活をしていたことと、その時期がFacebook全盛期だったことも重なり、過去にはFacebookの個人アカウントを中心に利用していた。しかし2015年、つまり日本に帰国してから1年以内に個人アカウントを削除した。当時としてはイノベーター理論におけるイノベーター並のスピードで辞めた実感がある。実際に多くの人には驚かれたし、もったいないとも言われたし、信じられないというような反応もあった。ただその時の自分にはFacebookはもう死んだという確信があり、自分には合わないという確信もあったので辞めたのであり、メリットとデメリットはあったものの、その決断自体を後悔はしてはいない。

Facebookを辞めた三つの理由

当時Facebookを辞めた理由は主に三つあった。それを以下に列挙してみる。

インターネット版連絡網としての機能以外に使い道が見出だせなかったから。

・実名のポリシーは良いが、日本人が個人のカウントを芸名で使用するとあらゆる制約があり、Facebook側が匿名と芸名の違いを理解しているように思えなかったから。

・他人の少し盛った日常の垂れ流しを見続けることや、Likeという機能などに疲れたから。

近年では若者のFacebook離れが叫ばれるようになり、アカウントを持っていても活用していない人が大半になっていった。その傾向は最近特に顕著であり、今回の件は投稿する人と何もしない人の間に大きな溝が出来つつあったようなタイミングだったようだ。

今回の件の本質

しかし今回の件の本質は個人情報流出でも、Mark Zuckerbergの対応の拙さでもない。Facebookの利用者の多くが何となく辞め時を探しており、その絶妙なタイミングで今回の件が起きたので辞めた、もしくは辞めても差し支えなのないSNSになったというのが本質である。仮にそれが正しいとするならば、Facebookは今回の件が起こる前に既に死んでいたということになる。SNSには同調圧力が存在し、ネットワークの性質上「数」が集まらないとその力を発揮できない。しかし今回の件でその力が逆向きに働いたとするならば、Facebookは今後窮地に立たされることになる。

SNSノマドたちの行方

エフェメラル系SNSとストック系SNS

ではFacebookを辞めたSNSノマドたちの行方はどこになるのだろうか?SNSを大別するとSnapchat、SNOW、Instagramなどのエフェメラル系SNSと、Facebook、Twitter、Mastodonなどのストック系SNSに分かれる。エフェメラル系SNSとは投稿後一定期間経過するとその投稿が消える機能を持つSNSのことで、ストック系SNSとは投稿後その投稿がずっと残って溜まっていく機能を持つSNSのこと。実際にはInstagramはStoriesという機能の一部がエフェメラル系で、その他はストック系なので両方の側面を持つSNSと言える。今後の潮流としては基本的にエフェメラル系SNSが強く、機会によってストック系SNSを使い分ける、もしくはストック系のSNSの一部は廃れていくという方向になりそうだ。SNSの力は大抵若者の使用率と全体の利用者の「数」で決まり、若者の使用率が高いSNSに全体の利用者の「数」が追いついてくるという構造になっている。なので当然若者の使用率が高いエフェメラル系の力が強くなっていくは容易に予想できる。ただし日本でのSNSはTwitterやLineのように独自進化を遂げる場合が多いので、今後の日本でのSNSの動向を簡単に予想することは難しい。

SNS時代におけるサーファー

自分がFacebookを辞めた時を振り返ってみると、海外の友達との連絡手段やアーティスト活動をしていく上で重要な人物とのコネクションを同時に失ったのは正直痛かった。しかしそれ以上に自分とは合わないSNSのために無駄な時間を使用しなくても良いという開放感もあった。今回の件でFacebookに止めが刺されるかどうかは分からないが、仮にFacebookが死ぬのだとしたら、それはもう不可逆の流れになる。何故ならmixiの例を見ても分かるように、一度死んだSNSが復活することは難しいからだ。そういう意味でSNSは本質的にノマド的なものであり、乗り換えることが前提のプラットフォームであると言える。そう考えると今流行っているSnapchatやInstagramもそのうち終わっていくのだろうし、その時にはまた新しいSNSが出現しているのだろう。その一瞬で押し寄せては消えていく波のフローの中で、ストックにもなり得る型を獲得していくことがSNS時代における良いサーファーの条件なのだろう。

怒涛の連勤生活とお休みのお知らせ

現在お金を貯めるために怒涛の連勤生活に突入している。これがいつまで続くのかは分からないが、4月初旬と5月初旬にそれぞれピークを迎え、少なくとも5月末までは忙しない日々が続きそうだ。その間もブログは継続して書き続けようと思っているが、どこかの段階で時間的、体力的、精神的な限界を迎える可能性が高い。なのでその期間中はブログを休む日が出てくるかもしれないけれど、悪しからず。休息を取ることに慣れるためと、義務化を防ぐためには案外丁度良い機会なのかもしれない。そして本日のブログは早速このお知らせのみで、後はお休みさせていただきます。それではまた次回のNILOG記事でお目にかかりましょう。

エスカレーターの両側を詰めて乗るべきか、片側を空けて乗るべきか

エスカレーター議論

エスカレーターに乗る際に両側を詰めて乗るべきか、片側を空けて乗るべきかは議論になりやすい。安全性の確保のためにエスカレーターは基本的に歩かないことになっているが、実際には左右のどちらかが空いており、片側が歩かない人用、もう片側が歩く人用というのが暗黙の了解になっていることが多い。これに関しては地方によって空ける側が異なり、関東では主に右側を空け、関西では主に左側を空けるのが主流になっているようだ。しかし名古屋のように両側を詰めて乗る地域もあり、また他の地域でもエスカレーターの両側を塞ぎ、歩かない人もいる。今回はそんな賛否両論があり得るエスカレーターの利用法について考えてみたい。

全体最適と部分最適

ルールは一旦置いておいて、両側を詰める利用法が効率的だと考える人は全体最適を考えている人で、片側を空ける利用法が効率的だと考える人は部分最適を考えている人だと思われる。これは一体どういうことだろうか?一見両側を詰めるより片側を空けた方が効率的に思える。しかし全体的に見れば片側を一部しか利用しないということは、その分だけ非効率性が生じているということである。つまり後者の方法は一部の人のために大部分の人が犠牲になり、全体的にみれば非効率的な方法であると言える。一方で前者は多くの人のために一部の人が犠牲になり、全体的に見れば効率的な方法であると言える。つまり前者は全体最適であって、後者は部分最適なのである。

当たり前の結論

このような効率性、安全性、駅の公共性などを総合してから考えると、両側を詰めるというのがエスカレーターを利用する際の基本ルールであるべきだ。急いでいる人は階段を利用するか、一本前の電車に乗ることを心がける。しかし問題はそれでは解決しないだろう。何故なら人間は自己中心的な部分最適を中心に考える生き物だし、寝坊して遅刻するのが悪いと思ってもあがく生き物だし、そんな時にエスカレーターで両側を塞いでいる人を見かけるとイラッとする生き物だからだ。動く歩道であらゆる人にぶつかりながら先を急ごうとしている人を見かけたことがあるが、そのように視野狭窄になっている場合、隣の普通の道を走った方が早いということにも気づかないのが人間なのである。よって当たり前の結論が出たものの、その結論は人間には荷が重すぎることもまた事実だ。

縦横無尽に動くエレベーター

そこで色々と解決策を考えてみたが、どうも既存の構造では解決できそうにない。そこで横にも動くエレベーターを幾つか設置してみてはどうかと考えついた。駅では階段とエスカレーターに人が殺到するのを良く見かけるが、一方でエレベーターは比較的利用頻度が少ない気がする。技術的には既に可能なはずであるし、縦横無尽に動けるエレベーターを駅に設置すれば、人がもっと分散して結果としてより効率的になるはず。しかし最も簡単な解決法は多少の効率のことなど考えず、もっと有意義なことに頭をシフトさせることなのだろう。

自動運転車と中動態の関係性について

Uberの自動運転車による死亡事故について

先日Uberがの自動運転車による死亡事故が起こったことは記憶に新しい。現地警察により事故の直前の映像が公開されたが、それを踏まえて今回の事故を整理すると以下のようになる。

・自動運転車は自動運転モードだった。
・運転手は事故の直前脇見をしていた。
・通常なら反応できたはずのセンサーが何故反応しなかったかは不明。
・被害者の女性は病院に搬送されたが、事故の影響で死亡した。

ここで問題になってくるのは運転手が脇見をしていたことと、センサーが反応しなかったことだろう。後者のセンサーについては今後研究を重ねる上で原因を究明し、再発防止をすべきという当たり前のことしか言えない。ただ前者に関しては運転手の不注意の責任とするということで落ち着きそうだが、これに関してはもっと根本的な問題がある。

運転手の負担

そもそも自動運転車が何故作られているのかを考えると、その最大の理由は利便性のためだ。運転しなくても目的地に到達することができれば、当然運転手の負担は大きく軽減される。また今回は自動運転車の実験中であり、彼にも不注意の落ち度があったと言える。しかし例えば今後自動運転車で運転手は常に脇見をせずに、何か問題があった時に瞬時の判断で対処することが義務付けられた場合のことを考えてみたい。その状況について良く考えてみると、実は自分で運転するよりも負担が大きく、難易度の高い行動が求められているように思える。何故なら通常運転中に脇見をしないのは当然だし、その場合は運転に集中しているが故に瞬時の判断も下しやすい。しかし基本的には自動運転車に運転を任せていながら、常に運転に集中するというのは至難の業と言える。また人間は怠惰な動物であることを考えると、人間の良心を信じることは難しそうだ。つまりこの問題は運転手がいなくても運転できることが自動運転車の利便性を担保していたはずなのに、もしもの時の対処のためにその利便性が全て運転手の負担に変わる恐れがあるということを示唆している。

自動運転車と中動態の関係性について

また自動運転車は極めて中動態的な存在であると言える。中動態とは能動態と受動態という枠組みでは捉えられない概念であり、この概念には意志と責任という近代社会の概念への疑念が存在する。つまり運転者が自らの意志で運転しているのであれば、それは能動態的なので意志と責任の概念が発生する。これは受動態も同様であり、そこには常に意志と責任がセットで存在している。しかし自動運転車を運転するという意志は誰によるものなのだろうか?自動運転車のプログラマーなのか、自動運転車というソフトウェア自体なのか、自動運転車を使用する運転者なのか。その意志の発生源が曖昧なために、その帰結である責任という概念も一気に曖昧になってくる。自動運転車が事故を起こした際に誰に責任を取らせるのかという問いが非常に難しい問題を孕んでいるのは、誰に責任を取らせるのかという問いの前に、そもそも意志や責任という概念自体があり得るのかという中動態的な問いが存在しているからだ。

椅子取りゲーム

そして上記のように運転手の負担が大きく、意志と責任の所在も不安定な自動運転車を利用する際の合理的な帰結としては、自分以外の誰かに運転手になってもらうということになる。つまり全ての人がタクシーの運転手的な存在を求めるようになるということだ。自分以外の誰かが運転手になってもらえば、たとえ事故が起こったとしても自分の責任にはならない。また自分は運転に集中する必要もないので、自由に時間を使用することが可能になる。要するに責任を押しつけ合う椅子取りゲームの中では、誰もが最後の椅子に座りたがらないということでもある。しかしこれに問題があるのは、少し論理的に考えれば誰でもこの考えに到達するということ。つまり自動運転車においては運転手という責任があるかも分からないのに責任を押しつけられる立場になることを誰もが拒み始める。そうなってくると自動運転車の保険制度が充実してくるのだろうし、その責任を負うための代理人としての運転手というものも登場してくるだろうが、それは問題の根本的な解決にはならない。

論理的な部分と倫理的な部分

また自動運転車には論理的に考えた方が良い部分と倫理的に考えた方が良い問題があり、これらは分けて考える必要がある。論理的に考えた方が良い部分とは例えば人間の運転手が起こす事故率と自動運転車による事故率を比較して、後者の方が安全性が高いことが実証されれば自動運転車を採用するべきということだ。現状では自動運転車が事故を起こすと大騒ぎになり、自動運転車自体がダメだというような論調が盛り上がりがちである。しかし普通に考えれば人間の運転手が起こす事故率の方が高いと考えられ、全体的に考えるならば犠牲は少ない方が良い。もちろん事故の規模や傾向なども踏まえた上での話だ。しかし先程のように倫理的に考えた方が良い部分は、先程の中動態の意志と責任の問題についてである。これは要するにトロッコ問題は論理的には解けないという問題であり、この問題については論理的な問題とは別に考える必要がある。

自動運転車の明るい未来

最初自動運転車が出現し始めた頃、その扱いはペットのようなものになると予想していた。要するに飼い主が全ての責任を取る。大まかに言えばその方向に動いているわけだが、それについてもっと踏み込んで考えてみると、運転手の怠惰さの問題、意志と責任の問題、それらの放棄として誰もがタクシーに乗る側になりたいという問題などがあることが分かった。今回挙げたような哲学的な問題は解決することが難しく、正解があるとも限らないが、それでも自動運転車の開発を止めるべきではないし、1度事故を起こしたからといって感情的に自動運転車の全てを否定することはあってはならない。自動運転車の明るい未来のためには、原因の究明と再発防止を進めると共に、今回書いたような問題について多くの人が一緒に考え、意見を述べていくことも重要になっていくだろう。