過去記事のピックアップ 3

半年ぶりの過去記事のピックアップ

今回の記事では半年ぶりの過去記事のピックアップを行ってみたいと思う。一応連載記事である過去記事のピックアップは、油断すると長期間忘れてしまう。今回は思い出したタイミングが丁度月末であり、以前の過去記事のピックアップから半年ぶりという区切りでもあった。なので過去記事のピックアップを行いつつ、自分の日々の動向や思考の流れを振り返ってみようと思う。NILOGの内容の流れを俯瞰的に見ると、半年間のうちに考察系の記事に対する制作系の記事の割合が増え、記事内部で写真などを使用することが増えた印象がある。この方向性からさらにどこに行きたいかを考えてみると、音声系や動画系などを含めた他のサイトのプラットフォーム、サービスを使用しつつも、日常生活を抽象化した考察や具体的な制作を通した日課を中心に、他の人が読んでも面白い、参考になると思えるような内容のブログを書いていきたいと思う。ブログに割ける時間は日に日に減っているが、それに関しては既に手放せないツールとなっている音声入力や支援系サービスなどを利用して対処していくことになるだろう。それでは早速次の項目から過去記事のピックアップに入っていく。

2017年9月: 馬鹿の生存戦略

馬鹿の生存戦略

この記事では馬鹿を「本物の馬鹿」と「一点突破馬鹿」と「周回馬鹿」という3種類に分け、その六つの特徴を挙げている。六つの特徴は「行動力」、「エモリティ」、「 面白さ」、「かわいさ」、「ギャップ」、「べき分布」というパラメーターから成っているが、結論としては「馬鹿と天才は紙一重」ということだった。その理由は本記事を読めば分かるが、通常言われるような「馬鹿と天才は紙一重」とは違った角度からの発見があるはずだ。また先日書いた大馬鹿と大天才の共通点という記事では、「大馬鹿」が「本物の馬鹿」と「一点突破馬鹿」の重なり合う存在であり、「大天才」が「周回馬鹿」と「一点突破馬鹿」の重なり合う存在であるという言い換えもできるかもしれない。千葉雅也の書いた『勉強の哲学』では「来たるべきバカ」という存在が定義されているが、その存在は「周回馬鹿」で定義される存在に近しい印象も受けた。自分がどのタイプであれ、最終的に行き着くべき場所は馬鹿と天才が重なり合う地平であることに間違いはない。

2017年10月: 「日本社会の解剖学」

「日本社会の解剖学」

この記事は身の回りで起きた些細な出来事に対して生じた疑問を挙げ、それらに対して一つの抽象的な仮説を立て、象徴的なキーワードによって整理するという考察系の記事における一つの典型的な書き方をした記事だ。この「日本社会の解剖学」における病理は、今の日本社会の閉塞感と没落の根本的な原因になっていると言えるが、現在ではこの仮説に対する対処法や解決方法も見えてきているので、最近の記事ではそういった記事も執筆している。最近自分の中での解像度が上がって見えてきたのは、日本という「国」と日本社会という「システム」と日本人という「民族」は全て別のロジックと性質で動いており、それらを一緒に論じてしまうと本質を見誤るということだ。また同時にこの混同は物質や情報も含めて全て擬人化、キャラクター化して愛でる特異な文化を持つ、日本人ならではのものなのではないかとも考え始めた。先程の三つの分類で言えば、最も優先されるべきは日本人である。日本人は元来クリエイティビティに満ちた民族であるが、一方で日本社会のシステムはその性質を殺すように働くので、レイヤーを変えてハッキングする必要がある。また日本という国はその他の国と同様にシステムと民族という幻想によって成り立っているが、日本人に先立って優先されるべきではない。本記事はこの考えに至るまでの経緯として、日本社会というシステムに対する問題提起をした記事なので、もっと多くの方に読んでもらいたいと思い取り上げてみた。

2017年11月: 2変数関数をGoogle検索で3Dグラフィックス表示して遊んでみた

2変数関数をGoogle検索で3Dグラフィックス表示して遊んでみた

この記事は数学アレルギーがある人にこそ読んでもらい、実際に遊んでもらいたい。この記事における大事なポイントは、大多数の教育システムにおける数式は計算を解くものとして存在しているわけだが、ここでは遊ぶための玩具として存在しているということ。このシステムでは2変数関数をコピペでも良いのでGoogle検索に入力してみるという極めて直感的な操作によって、具体的な3Dグラフィックスが出力されるということ自体が既に関数的な状態を上手く体現している。このある種の魔術的、魔法的な操作は現代的であり、将来的には子どもの直感的な操作も含めて家や巨大な建築物などが3Dプリンタで建築されるようになるはずだが、これはその過渡期の遊びとして象徴的なものだと考えられる。また仕組みは全く違うが、この現象はDeep Learningを利用したEnd to End AIの世界を疑似体験させる入門編のようなものと捉えることもでき、関数というブラックボックスを通して情報的な遊びが物理的に具現化する過程を体験することができる。この素晴らしい機能を知らない方は未だに多いと思うので、多くの方に是非体験してみてほしい。

2017年12月: #MeTooがダメな三つの理由

#MeTooがダメな三つの理由

この記事はタイトルだけを読むと誤解を生むからもしれないと覚悟した上で書いた。要するに〜がダメであるというのはディベートにおけるクレームであり、本来はその主張に付随するワラントやデータが本質である。しかし昨今の潮流から言えば、クレームの賛成か反対かという部分だけを見て、細部の複雑なワラントやデータを無視するという流れがある。そういう状態で行う議論は不毛であるが、#MeTooに関しては男と女、権力と非権力という二項対立の軸の極端な部分だけを取り出して論じられている面があり、正しくクレームだけが無限流通し、自分と逆のクレームを持つ人間に対しては一切耳を貸さないという状況ができあがっているように見える。本記事ではフェミニズムが効果を持つためにはそのような安易な二項対立から脱却し、魔女狩りの構造という構造的な問題を解決しなければならないという意味を込めて#MeTooがダメな三つの理由をまとめた。#MeTooという理念は正しくても、方法論が正しくなければ問題は解決しない。またこの記事を書いた後も単純化された図式はますます力を持ってきており、昨今の規制や社会を分断する友敵理論の悪い例として典型的なものが#MeTooであるとも言えるので、最近の社会運動に疑問を持つ人は是非本記事を参照してほしい。

2018年1月: 元旦の初夢

元旦の初夢

この記事はNILOGの中では異色な記事であると言える。この記事は一種の短編小説であり、昔やっていた詩と小説のブログの名残をNILOGでやってみたらどうなるのかという考えが無意識にあったのかもしれない。元々自分の世界観としてはこの小説に書いているような世界観が根底にあり、NILOGで書いているようなディベート的、理路整然とした文章は後天的に身に付けたものだ。前者の世界観に関しては制作を通して出ている面もあるのだが、元々制作と批評は媒体では分けられないという考え方を基盤に持っている。要するに作品と呼んでいるものが批評かもしれないし、批評と呼んでいるものが作品かもしれない。それは感性と論理のように水と油のようにも見えるのだが、それらをどう融合するかという問題を常に考えてきた。もちろんその試みは異常に難易度が高いので、現在も試行錯誤している最中である。しかし長年取り組んできた玄人と素人を両立させるという試みが、「石版を丸呑みする回転木馬」によって結実しつつあるという手応えのある今、いつの日かその融合も結実する日が来るのだろう。またこれは個人と分人におけるキャラの問題とも関係していると思っており、領域横断性を発揮する際の一つの典型的な問題として乗り越えるべき課題でもある。

2018年2月: 新時代における「仕事」と「コミュ障」

新時代における「仕事」と「コミュ障」

この記事で一番言いたかったことは、自戒を込めた上で現代人は「休息/休暇」を積極的に取るべきということだ。「仕事」 = 「遊び」になった時代における人々は、「休息/休暇」をできるだけ取らないというライフスタイルになりがちである。それは例えばYouTuberやBloggerという職業において毎日投稿が義務化してしまうという呪いにかかりがちであることが象徴している。「遊び」は楽しいのでついつい無限にやりがちであるが、それは長期的に見れば確実に心身を蝕んでいく。その意味で実際には実践が難しいことは身を以て体験しているが、ストレスから回復するための「休息/休暇」を多相睡眠のように取っていくことが必要である。また「コミュ症」についてだが、これに関しても従来的な「人間対人間」という捉え方から「人間対AI」、もしくは「AI対AI」のコミュニケーションを考えた上で、その定義が全く変わってしまうのではないかということについて考察している。現代人が陥りやすい「仕事」における罠と、従来的な体育会系が「コミュ症」に変わってしまうかもしれない問題は年数が経つにつれて徐々に重大な問題になっていくのだろう。

過去記事のピックアップを終えてみての感想

最後に過去記事のピックアップを終えてみての感想を書いてみる。今回ピックアップした記事について紹介した文章は、ただ単に内容を要約するだけではなく、今までの記事で書いていたような内容のもう一歩先を整理して書いているという点でただの紹介にとどまらない価値のある内容になったという手応えがある。また今回は激戦のピックアップだったので、ピックアップできなかった記事の中にも読んでほしい記事は沢山ある。今回連載記事はピックアップしなかったが、連載記事は基本的に書き始めた時は連載になると思っておらず、書くことがありすぎて文字数が増える、もしくはに内容の密度が極端に濃くなってしまったために分割して連載記事になるという経緯が多いので、クオリティが高い記事が多いはず。また制作系の記事に関しても今回はピックアップしなかったが、クリエイターの人はそちらの記事も参考になるかもしれない。自分の軌跡を振り返ってまとめつつ、読者の方にも役立つであろう記事を紹介できる過去記事のピックアップは、これからも定期的に行っていきたいと思っている。

過去記事のピックアップ: 連載記事リンク

過去記事のピックアップ 1

過去記事のピックアップ 2

過去記事のピックアップ 3

「Vlogger」と「VTuber」

「Vlogger」と「VTuber」

以前から気になっていた二つの存在について、遂にNILOGで取り上げることにした。それは「Vlogger」と「VTuber」である。どちらも現代という時代を象徴する存在であり、今後の人々の在り方を考察する上で欠かせない勃興期、もしくは過渡期における存在であるとも言える。またYouTubeというプラットフォームがその勢力を拡大する上で出現した必然的な存在でもあるし、クリエイターにとっては収入源であると同時に自分の活動を周囲を巻き込んだ上で拡大していく一つの戦略でもある。今回の記事ではそういった多角的な意味合いを持つ「Vlogger」と「VTuber」について解説しつつ、現代社会の潮流と今後の未来について考察していきたい。

「Vlogger」とは?

「Vlogger」とは「Video」 + 「Blogger」という意味であり、従来の文字情報の「Blog」のような内容を、映像として撮影、編集し、YouTubeのような映像プラットフォームで日々投稿する人のことを指す。その映像情報の「Blog」を「Vlog」と呼んでいる。簡単に言えば「Vlogger」は「Instagrammer」の映像版と考えてもらえると、一番分かり易いかもしれない。これは海外発祥のスタイルであり、基本的には顔出しをして日常的な情報を伝えるスタイルから考えても、海外、もしくは日本の若者との親和性が高いと言える。「YouTuber」と「Vlogger」の何が違うかと言えば、前者はパフォーマンスを主体として芸能人や芸人のような芸風で企画をこなす場合が多いが、「Vlogger」は必ずしもパフォーマンスを主体とするわけではなく、その日常性や、友人に語りかけるような内容に違いがある。アーティストやクリエイターも遅かれ早かれこういった潮流に乗っていくものと思われるが、その時に自分が「YouTuber」的な方向に向かうのか、それとも「Vlogger」的な方向に向かうのかは戦略として考えた方が良さそうだ。

「Vtuber」とは?

「Vtuber」とは「Virtual」 + 「YouTuber」、つまり「バーチャルYouTuber」という意味であり、「V」は「Vlogger」の「V」とは意味合いが全く異なる。基本的に「VTuber」はアバターという仮想のキャラクター、声優の声/口調、配信者による台本という三つの要素を組み合わせて構成されている存在である。そのキズナアイが形成した基本的なスタイルをぶち破った、バーチャルのじゃロリ狐娘Youtuberおじさんは革命的だったわけだ。また「YouTuber」という言葉が組み合わさっている通り、「VTuber」は基本的には「YouTube」の映像プラットフォームを利用して投稿していくスタイルだが、実際には「YouTube」以外でも応用が利く方法でもある。「Vlogger」との違いはもちろんその仮想のキャラクター性にあるが、日本発祥の文化であるという点を考えても「Vtuber」のような発想は極めて日本的であり、顔出しよりも中の人を好む日本人との親和性は「Vlogger」よりも高く、評価すべき対象であるとも言える。

「Vlogger」と「VTuber」の未来

最後に「Vlogger」と「VTuber」の未来について簡単にまとめて今回の記事の締めとしたい。「Vlogger」と「VTuber」はSNSやYouTubeの流れが加速する中で生まれた一つの帰結であるが、これは人間の擬人化、キャラ化という一見矛盾するような言葉でまとめられる現象である。このような流れにおいては一般人も含めて芸能人と似たような悩みや問題を抱える時代になっていると言える。「Vlogger」に関しては自分をキャラ化、日常生活を物語化することにより、人々を身近な共感に巻き込んでいく一方で 、「VTuber」に関して言えばキャラデザイン、モーションキャプチャ、リップシンク、声優の声、口調、台本によって仮想の存在を実体化し、配信者自身が裏方として存在しているというシステムはアニメーションの次の段階を示唆しているようにも思える。今後はこういったキャラと物語に対する熾烈な消費戦争、可処分時間争奪戦が起こると予想されるが、人々がよりホログラム的な存在になって流通していくのだとすれば、現在はその勃興期から過渡期の時代なのかもしれない。日本の「YouTuber」の頂点としては「広告活動をする体操のお兄さん」ことHIKAKINが君臨したわけであるが、広告活動としては大人をターゲットにしないとお金が入らないという問題は徐々に出てくるはず。その時に「Vlogger」と「VTuber」という存在がどのように君臨してくるのかは、今後の動向で徐々に明らかになっていくことだろう。

大馬鹿と大天才の共通点

「馬鹿と天才は紙一重」

以前馬鹿の生存戦略という記事を書いたことがある。その記事の結論は「馬鹿と天才は紙一重」ということであり、記事ではそれは何故なのかについて詳細に説明した。今回はそのことについて別の角度から解釈した記事を書いてみようと思う。「馬鹿と天才は紙一重」という言葉が成り立つ理由について別の角度から解釈すると、まず馬鹿と天才では世界を認識する解像度が著しく異なることが前提となる。馬鹿は世界を認識する解像度が著しく低いために、常人では絶対にあり得ない雑かつ大雑把な捉え方によって、常人には理解できないランダム性のある世界を構築し、それがある種のブレークスルーを生み出すきっかけになる。一方で天才は世界を認識する解像度が著しく高いために、常人では気付かない些細な問題、見えていない世界を捉えることによって、常人には理解できない緻密な世界を構築し、それがある種のブレークスルーを生み出すきっかけになる。

大馬鹿と大天才の共通点

偏りと欠落

この両者の共通点としては、どちらも偏った才能を持ち、欠落があるということが挙げられる。ただし大馬鹿と大天才である場合は一見欠点かに見えるこれらの要素を克服することが可能になる。大馬鹿の場合はできないことが徹底的にできないので、逆に愛嬌が生まれ、その愛嬌によって周囲に助けられるという才能を発揮することがある。例えば物事を何度教えても覚えることができない、言語を扱うことができない、文脈を読むことができないなど。こういう人の中には極端にできないという才能を発揮することによって、逆に周囲に愛される場合があるのと、そのできないことを補うように他の部分が異常発達していることもある。一方で大天才の場合はあらゆる分野で尖った才能を見せるので、その偏りと欠落が余り可視化されない場合がある。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ジョン・フォン・ノイマン、南方熊楠などがこのタイプに属する。彼らは業績だけを見れば一見万能かのように見えるが、実は異常な偏りと欠落がある。

ミームの伝達

大馬鹿と大天才の他の共通点としては、ミームの伝達が圧倒的なところにある。ミームとはエモさとも重なり合う概念だと思うが、要するに生命における遺伝子ように伝達され、人々の感情を大きく揺さぶる情報のことを指す。例えばアーティストとしては、玄人と素人に同時に受けなければならないと思っているが、これもミームの伝達を意識してのことだ。玄人だけにしか受けずに素人お断りというジャンルや作品は遠からず滅びゆく運命にあるし、一方で素人だけにしか受けないジャンルや商品は消費されて一時期の流行で終わる。時代を超えたミームの伝達を行うには、その両方を同時に行わなければならない。現代におけるミームの伝達をするにはアート、サイエンス、デザイン、エンジニアリングのようなフレームワークをどの側面から見ても洗練させて作品化する必要があるが、これを実現するためには大馬鹿と大天才が共存するような偏り、欠落とそれぞれを補完するようなチームワークが必要になるだろう。

凡人の役割

数の優位性

では凡人として生まれた人間に存在価値はないのだろうか。そもそも世界は多様性に満ちているので、凡人を定義することが非常に難しい。よってこの記事では北野武の言う振り子理論での振り子の揺れ幅が小さい人、もしくは偏りと欠落が小さく尖っている部分が少ない人のことを仮に凡人と呼ぶことにする。まず前提として凡人はこの世界において圧倒的多数を占める。そして現在の多くの世界においては民主主義が採用されており、社会のシステムが基本的に多数派に有利になるように構築されていることから考えても、凡人は数の優位性を発揮することが可能だ。例えば大ヒットする作品や商品というものは凡人がその鍵を握っており、彼らのリトマス試験紙によって売れ行きというものが決定される。また凡人の中にも様々なグラデーションが存在しているが、基本的には馬鹿と秀才の違いよりも、天才と大天才、馬鹿と大馬鹿の違いの方が圧倒的に大きいので特に違いを気にする必要はない。上記のように考えると凡人が世界に与える影響は圧倒的に大きく、大馬鹿や大天才を含む常識的な閾値からかけ離れた存在の生殺与奪の権利は、基本的には凡人が握っていることになる。

標準化されたBotにならないために

また今後はAIのサポートによって、ますます馬鹿と秀才の差分がなくなっていくことが予測される。これはつまり大馬鹿と大天才の価値が暴騰するようになるということでもある。であるならば、それぞれがディベートとグレーゾーンを実装したグラデーションへという記事で書いたような多様性の色彩を追求し、その結果大気圏を突破して宇宙に突入していくような行動が重要になってくる。その意味では凡人の中でも特に従来の規格に沿って標準化された人材の必要性は単体としてはどんどんなくなっていく。そうなってくると、もはや標準化された人材はビッグデータの採取元として、もしくは集団のエモさの測定サンプルとしての意味しかないのであり、それは言い換えればBotとほとんど変わらない存在になってしまう。それを避けたいのであれば、常に閾値から外れた規格外であることを意識し、そのまま突っ走っていくしかないのである。そのためには大馬鹿と大天才の在り方の多様性が逆説的に一つの理想的なモデルケースとなるのだ。

ディベートとグレーゾーンを実装したグラデーションへ

ディベートとは?

ディベートとは自分と相手の論理の連鎖の報酬により、最適解に最短距離で到達するための技術である。ディベートは基本的に日本に存在していないので、とにかく誤解を生み易い。それはいわゆる朝生的な相手の話を聞かず、ヤジを飛ばす非生産的で結論の出ない議論や、論破厨が振り翳す「はい、論破」といった精神性とは真逆の理念を持つものだ。またディベートにおいては必ず審判が存在しており、ディベーターにおける自分と相手は割り当てられた賛成、反対という役割分担を通して最善を尽くすことで、最適解に協力して到達する共犯関係性が生まれる。これはスポーツと同様であり、スポーツにおける敵と味方というのは仮の役割であって、片方がもう片方と実力が拮抗しており、どちらも最善を尽くした時に両者のポテンシャルが発揮され、名勝負が生まれる。さらにそもそもディベートにおいてはある議題に対して賛成か反対かは試合ごとに変わるので、自分の意見を押し通すという考えは一切なく、どちらの立場からも考えられるような訓練がなされるため、どちらか一方からしか考えることをしない人より圧倒的に頭が柔らかくなる。ただし唯一の欠点としては、ディベートは西洋の個人主義を基盤にしている面があるので、日本のように主張と人格を切り離さない文化圏においては誤解を生み易くなる。

グレーゾーンとは?

一方でグレーゾーンを残す、曖昧にしておくというのは日本古来の処世術の一つだ。これはディベートのように賛成か反対かというはっきりした基軸を持った上で、その細部を議論していく方式とは異なり、むしろ意見や評価をグレーゾーンにして基本的には相手に同調していくことで無駄な対立を防ぐという本音と建て前の文化の産物である。メリットとしては境界線を曖昧にしておくことで、本来なら分かり合えていないことであっても、表面上の友好関係を形成することができること。また協調性の必要な集団作業やハイコンテクストなコミュニケーション方法も可能になる。デメリットとしては問題の核心が不可侵領域になってしまうことがあるために、同じ問題が形を変えて何度でも繰り返されることが挙げられる。グレーゾーンは東洋の全体主義を基盤にしている面があるので、西洋の個人の意見を持たないと一人前として見られない文化圏においては評価されない。

ディベートとグレーゾーンをアップデートしたグラデーションへ

グラデーションとは?

一言で言えばディベートは論理性を重視し、グレーゾーンはエモさを重視した結果の産物であると思われるが、それらの行き着く先はグラデーションである。グラデーションには色の連続的な変化があり、多様性が存在している。例えば近年精神医学の世界では、スペクトラムという考え方が導入されている。これは診断において厳密な定義によるカテゴライズよりも、連続的な症状として捉えようという考え方のことだ。ここでは白か黒かという二項対立ではなく、グレーゾーンという曖昧性でもなく、多様なグラデーションを前提としている。また障害者と健常者というカテゴライズにおいては、コンタクトレンズや眼鏡を装着して実生活に影響のない人は大抵健常者と呼ばれている。しかし、本来それらのテクノロジーが発達していなければ障害者であったはずで、そうであるならばそのカテゴライズの前提は実は非常に脆く、また障害者、健常者とされている人たちの中にも無数の多様性があることに気付く。そのように世界はグラデーションであると気付いた時に、ディベートとグレーゾーンをアップデートする必要性に気付く。何故なら世界とはそもそもカテゴライズ不可能な多様性に満ちているので、論理性とエモさの両面がなければその実像を高い解像度で捉えることができないからだ。

多様性の色彩

ディベートは最適解を最短速度で見出すことを得意であるが、一方で人間関係においては友敵理論が発動しやすい。またグレーゾーンはエモさの波に乗り人々に共感を広げることが得意であるが、一方で批評性と問題解決能力が育たない。ならば逆説的に世界はそもそも共感不可能なほど多様であるというグラデーションの存在を認め、その上でディベートの論理性とグレーゾーンのエモさの両輪によってグラデーションを深く、広くしていくしかない。そのグラデーションを極限まで深く、広くしていった結果は連続体仮説のように証明も反証もできない地平に到達する可能性もあり、それは有限性と無限性の哲学とも関連のある話だろう。ただ固有の色彩がそのまま自らの色を深め、また多様な色彩がどこまでも広がっていく世界。分断された世界と偽の共感に満ちた世界よりも、その共感不可能な共感に満ちた世界の方に魅力を感じる。

トークイベント「詩とリトグラフの受胎告知」

イベントの開催とnoteでの販売予告

本日、以前告知した通りダイナミックサイクルでトークイベント「詩とリトグラフの受胎告知」が行われた。トークイベントの終了時間は事前に全く決めておらず、成り行きに任せていたら結果として2時間30分以上話していた。当日はトークイベントに参加していただいた今裕子さんも交えて3人で話す感じになったのだが、今回の記事ではその内容を書き起こし、編集したものを掲載してみる。ちなみに今回の記事で掲載している部分は冒頭の17分程度の内容を書き起こしたもので、主に作品や展覧会全体のコンセプトなどについて説明している部分になる。トークイベントの後半の内容に関しては、本に掲載されている内容について画像付きでnoteで販売しようと考えているので、書き起こして編集が済んだ時にまた改めて追記と新しい記事でリンクなどを張る予定。

トークイベント「詩とリトグラフの受胎告知」の冒頭書き起こし (編集済み)

NIL (以下N): それではトークイベント「詩とリトグラフの受胎告知」を始めます。まず本を作ったことについて。この本は3人で作っていて、まず最初に自分が濱中さんに企画を持っていきました。詩を幾つか書いたので、濱中さんの想像力とインスピレーションで好きに絵を描いてくれませんかという感じで。細かな絵柄の指定は一切しませんでしたが、大まかなイメージとしてはサイバーパンクとレトロフューチャーが合体した感じという話はしました。 濱中さんが過去に『Les chevaulieres』という本を作っているのですが、そのイメージでお願いしますと。絵をリトグラフで表現したのは昨年濱中さんがリトグラフ版画工房「ダイナミックサイクル」を始めたからで、最初は2人でやろうという感じでした。

今裕子 (以下HK): 良いですよね、本にするのは。詩と絵を対比する感じで。

N: そうなんです。そこで本の装幀や全体のパッケージとしてのデザインにデザイナーが必要なんじゃないかという話になって。濱中さんから椙元勇季君というデザイナーを紹介してもらいました。

濱中大作 (以下DH): 以前から桑沢デザイン研究所で非常勤講師をやっていて、彼はその時の教え子です。

N: 彼は現在卒業して会社で働いています。個人的には面識はなかったのですが、とりあえず3人でやってみようという話になりました。元々ダイナミックサイクルは作品を作るだけではなく、何かしらのイベントをやってみても良いのではないかと思ってこの企画を持っていったという経緯があります。

HK: 確かに良い感じというか。小綺麗で、さっぱりとした場所ですね。

N: 展示場所としても使えそうだなと思って。

HK: ただこの壁のアルミホイルはどうなのかなぁ。もう少し奮発できる気がして。昼間見るとまた違うのかな?

DH: 面白いと思ったんだよ。もう少しやりようはあるかもしれないけど、怪しげな感じというか宇宙的な感じというか。

N: これはホワイトキューブに対抗してアルミ・キューブと呼んでいて。覆い方の精度を上げるのと、他の棚もアルミ・キューブにする予定なのでそれでまた印象が変わるんじゃないかな?話は飛びますが、展覧会全体としては宇宙が一つのテーマになっています。これは最初からあったテーマではなく、「億光年のドライヴ」という宇宙をテーマとしたグループ展が元になっています。

HK: URESICAであった展覧会ですよね?

N: そうです。作品を制作するうちに、2人の共通点として宇宙というキーワードが自然発生してきて。

HK: 確かに濱中さんの作品には宇宙感があるかもしれないですね。不思議な宇宙というか、独特ですよね。

N: 凄くSF、未来っぽい。自分もそういうものが好きで、今回の詩も絵も宇宙の感じが自然と出てきていたと。そこでダイナミックサイクルという場所を改めて考えてみた時に、森下という街全体のタイムカプセル感とこの場の異次元感というか、異空間に飛んでいる感じが印象的で、自分の中では宇宙船のようなイメージが浮かびました。

HK: 過去と現在と未来との狭間にある感じがする。Google Mapsで調べたら猫の通るような道を通って来ました。ここの場所自体が不思議な印象があります。

DH: 昭和が色濃く残っているからね。

N: 現在は作品を全て展示しているわけではなくて、他にも3Dプリンタで制作する神棚なども展示予定で、グッズとして量子的なおみくじ、特異点のお守りなども制作中です。これらの共通点としては宇宙で宇宙人が信仰しているものであるということ。トイレは黒板塗料を使用してブラックホールになる予定です。

HK: そもそもここは誰かが住んでいた場所なんですか?

DH: いや元々タバコ屋だった場所。トイレ付きで生活もできそうだけど、大家さんに宿泊はダメとは言われている。

HK: 木の感じも良いですね。全部真っ白よりは、対比が落ち着く感じがします。自動ドアもありますね。

DH: 展示が終わったら、棚は白く塗りたいんだけどね。自動ドアは普段は使用してないけど、コンセントを入れたら動くよ。

N: 本の話に戻ると、詩の予告編として石版を丸呑みする回転木馬という題名を考えて、それに対応する絵を濱中さんに描いてもらっています。カバーに関しては椙元君が制作してくれた独自の手書きフォントが絵を覆って回転している感じになっています。制作過程で色々あり、会期や作品完成時期を大幅に延長したりもしましたが。

DH: 一度は連絡付かなくなって、首みたいなこともあったりしたね。

HK: 忙しいと仕方がない面もありますね。

N: 確かに仕事との両立は大変ですからね。ちなみに副題は詩とリトグラフの大喜利アーティストブックとなっています。お笑いで大喜利というジャンルがありますが、笑いとアートには近しい部分があると以前から思っていました。ただ面白いという意味には2種類あると思っていて、お笑いとしては笑えるという意味。一方でアートとしては興味深いという意味があるのかなと。

HK: 笑わせることと笑われることは違うとダウンタウンのまっちゃんが言ってました。

N: 確かにそこには違いがありますね。ただどちらにせよ、その面白いの意味は笑えるという意味で。アートとしてはその面白いの意味が捻れている、ずれているのが面白いと思いました。

HK: アートの場合はどこかシニカルというか、知的な遊び、ゲームといった印象がありますね。

N: そういうずらし方をお笑いの大喜利に対してできるんじゃないかと思って。そこで詩という表現方法を使用して、大喜利的なお題を、さらに想像力を駆使して絵で変換するような作業を行っています。元々詩になっている時点で世界に対して大喜利をしているとも言えますが。またその作品を読者の方がどう解釈するかに対しても余白があって面白いかなと。その全く異なるもの同士を結びつけ、変換する作業はアートの本質に近いと思っています。

HK: 本には幾つか種類がありますよね?

N: 本には日英の言語の違い以外に4種類あって、特装限定版、受注生産版、普及版、電子書籍版があります。日本語の場合は詩が右のページで、絵が左のページに掲載されていて、英語の場合はその逆になっています。価格設定に関しては本として捉えると一見高いと思われそうですが、特装限定版は特装というだけあってブックケースが含まれていて、版画詩が50ペア含まれている刷りから製本まで拘ったアーティストブック、アート作品として捉えてもらえれば相当割安なはずです。部数も日英各10部しか刷りません。受注生産版はアート作品と本の中間的な存在ですが、これも手製本なので労力的には特装限定版と大きな違いはないです。普及版は印刷と製本は外注していて、本として捉えてもらえると良いと思います。電子書籍版は内容だけ確認したい人向けです。

HK: 詩は深いですか?

N: 色々な詩があります。特に深くないものもあるし、深いものもあります。深いの意味にもよるとは思いますが。

HK: 作られ方としてはNILさんが作品の解説をしないまま、濱中さんが受けた印象によって絵が描かれるという感じですか?

N: その通りです。こちらからはほぼ何も解説していないし、詩の解釈や絵柄を含めて完全にお任せしています。ただ言葉の辞書的な意味についてはたまに確認されたことがありました。

DH: ほとんど何も制約はなかったね。

N: 絵柄は未来だけどクラシックみたいな不思議な絵柄ですよね。

DH: 一番難しかったのは、対になるというか、反対の意味が一つの詩の中に含まれているから、その矛盾しているものを描くことが凄く難しかった。そこはかなり悩んだ。

N: 全部で50対の詩と絵があるので、ここからは実際に本の画像を見ながら一つずつ解説していきたいと思います。

多様性とガラパゴスについての仮説

仮説の内容

今回の記事では多様性とガラパゴスについての仮説を提唱し、それについて検証していきたい。まず仮説の内容は以下になる。

多様性を確保するために様々な観点から選択した要素を開放的かつ平等に確保しようとすればするほど、逆説的に多様性が減少する可能性がある一方で、閉鎖的な環境で孤立した最適化を進めてガラパゴス化した結果、逆説的に多様性が増加する可能性があるという仮説。

これは近年のポリコレ的な多様性の考え方に一石を投じる仮説であり、簡単に言えば多様性と平等性の相性の悪さを潜在的に示唆している仮説であるとも言える。むしろ多様性と平等性を同一視してしまったことが全ての間違いの始まりだったのかもしれない。

多様性と平等性のジレンマ

前者の多様性に関して言えば、例えばできるだけ多様性のあるチームを作るという思考実験をしてみる。年齢は老若男女、国籍は世界中の国、性に関しては男性、女性、LGBTQなどを含み、職業に関しては漁師、エンジニア、宇宙飛行士などを含み、能力に関しても知性、創造性、身体能力などの数値をばらけさせるなど、様々なパラメータを設定し、それらの数値をできるだけ分散させたサンプルを集める。確かにそのチームだけを見るならば、もの凄く多様なチームができあがったと言えるかもしれない。しかし例えば地球上にその一つのチームだけしか存在しなくなった場合を考えてみたらどうだろうか。するとその多様性があるチームしか存在しないという点で、実は逆説的に多様性が失われているという見方もできる。つまり多様性を求めて平等に様々なサンプルを取り込み、それを拡大化させてグローバル化させていく過程で、部分最適としての多様性は増加していたとしても、全体最適としての多様性は減少していると言える。

ガラパゴスと平均化のジレンマ

また後者のガラパゴスに関して言えば、例えば地球上に新しい部族が発見された場合を考えてみてほしい。そこには文化、風習、言語が既知のものとは全く異なる生活が存在している可能性が高い。確かに先進国の人間から見ればタイムカプセル、もしくは近代化が遅れた未開の姿として映るかもしれないが、一方でそこには単純な遅れとは断言できない全く新しい発想の種が息づいている場合もある。そこに先進国の習慣などが入り込み、ある種の平均化がなされてしまうことで、その部族における多様性が失われてしまうというジレンマは、フィールドワークをする文化人類学者や言語学者などが長年抱えてきた問題でもある。これはイメージとしては量子物理学における不確定性原理と良く似ている。不確定性原理とは位置を正確に測定しようとすれば運動量が不確定になり、運動量に影響を与えないように測定しようとすれば位置が不確定になる。つまり位置と運動量は同時に測定不可能であるという原理のことだ。これを比喩として先程の考えと重ね合わせると、ガラパゴスの状態を観測することにより、ガラパゴスの多様性に影響を与えてしまう、もしくは平均化してしまうというジレンマがここにはあるということだ。

日本と「悪い場所」

仮にこの仮説が正しいのであれば、日本はグローバル化の文脈の中でガラパゴスの象徴と良く言われるが、この性質によって日本独自の多様性を確保しているという見方も可能である。例えば浮世絵などはその実例の一つとして挙げられるだろう。日本の潜在的な創造性の源泉は、実はこのガラパゴスという生存戦略における多様性の確保にあるのかもしれない。ガラパゴスでは部分最適としての多様性は減少していたとしても、全体最適としての多様性は増加している。だとするならば、その内部の中でそのガラパゴスのシステムに最適化することは個人として生きていきたい場合は推奨できない行為と言えるが、そのガラパゴスを愚直に変えようとすることは不毛な行為であると共に、全体最適としての多様性を減少させる行為とも言える。この議論は椹木野衣の言う「悪い場所」の議論に接続することも可能と思われ、問題の反復と積み重ねのない孤立の問題は全体最適の弊害としてのデメリットも大きいので、基本的には違うレイヤーとしてガラパゴスのシステムに関わるべきと思うが、世界全体の一つのサンプルとして日本のような場所が保存されているというのは、良くも悪くもある種の多様性を確保に貢献しているということはできる。またこの多様性とガラパゴスについての仮説の議論を意図的に悪用したとすれば、平等性の否定、差別や現状 (SQ) を無理矢理肯定する論理として使えなくもないが、私としては多様性を確保しながら、それらの問題を解決するにはどうすれば良いかという考察をするために今回の記事を書いたということを最後に明言しておく。

時事ネタ3連発: 岡崎体育のファンクラブシステム炎上事件/Zaifのビットコイン0円騒動/ギブソンの経営危機

時事ネタ3連発のバイオリズム

無意識的に大体2ヶ月間隔になっている時事ネタ3連発を久しぶりに書いてみた。本来ならニュース関連の記事は週1、もしくは月1で定期的に書いていきたいところなのだが、いつも大抵忘れた頃に書くとこの周期になっているので、自分の中のバイオリズムが勝手に生まれている可能性がある。自分としては国内だけではなく、海外のニュースも含めて毎日取得し、定期的に重要と思われる話題を取り上げるということは習慣化していきたいとは常々思っている。そもそも習慣化するためには定期的なアウトプットの方法を決め、そこから逆算的にインプットを促すのが一番効率的なので、ニュースに関してはブログだけではなく、何かしらの媒体のコーナー的な立ち位置として組み込むのが良いのかもしれない。それに関しては今後の課題として考えてみることにする。ちなみに今回取り上げた時事ネタに関しては直近にあった出来事というよりは、今月あった出来事をまとめている感じになっており、速報性を重視しているわけではないのであしからず。

岡崎体育のファンクラブシステム炎上事件

炎上事件の概要

まずは岡崎体育のファンクラブシステム炎上事件について。音楽好きなら岡崎体育は知っているはずだし、今回の件に関しても多少の知識はあると思うので、手短に概要をまとめる。今月の初めに岡崎体育が自身のオフィシャルファンクラブである「Wallets」に、「bitfan」というファンサービスを提供するサービスを導入した。そこで問題になったのが、ファンのアクションに応じて独自のアルゴリズムに基づいたポイントを付与し、その合計数によってランキングを付け、そのランキングに沿った優遇サービスが受けられるというもの。このシステム自体はフリーミアムのシステムをさらに細分化したものであり、海外では特に目新しいシステムではなく、日本でも実質似たようなサービスになっている場合は多々見受けられる。

何が問題だったのか?
エモさの設計ミス

そこで今回の件に関しての問題を端的に言えば、日本人特有のエモさの設計ミスが問題なのだと考えられる。システムの設計に関してはCDという媒体が売れず、ストリーミングサービスやライブなどの体験から売り上げを回収しなければならない現代のミュージシャンにとって、ファンクラブのようなパトロンサービスに、フリーミアム的な考え方を導入するというのはむしろ自然かつ必然の流れだろう。ただ問題はそれをどうやって導入するかと言う問題で、やっていることは正しくても、やり方が日本人の流儀に沿わないならば否定されるという無間地獄がまた繰り返されてしまったということだ。

日本人特有のマインドセット

岡崎体育はエモさの設計がむしろ得意なタイプのミュージシャンである。当初予定されていた「ワニ革」、「サメ革」、「ヒツジ革」、「牛革」、「合皮」、「塩ビ」というランク分けも、岡崎体育ならではの世界観とエモさを絶妙に刺激されるようなネーミングセンスで、むしろランク分けの上下関係を余り意識させないような工夫がされていたと言える。しかし個人に対するランキング付けというのは、受験勉強と偏差値教育による価値観を埋め付けられている日本人にとって、かなりセンシティブなトピックであり、ある種のタブーに触れていることは間違いがない。そこに対してさらに日本人の拝金主義的な側面、物ではない情報、サービスにお金を払うことへの拒否感、平等にサービスを受けられないことに対する拒絶反応が絶妙にブレンドされた結果、今回の炎上事件に発展してしまったことと思われる。要するにランキングやお金を崇拝し、サービスは基本無料で平等に受けられるものという日本人特有のマインドセットの裏返しが、今回の炎上事件の背景にあるということだ。

日本人のミュージシャンの生存戦略

ミュージシャンにとっては、CDを聴ける環境すら持っていない人々が増加している現代において、CDで売り上げを確保するというのは既に神話に近い話になっている。また近年伸びているストリーミングはプラットフォームによる売り上げの徴収があるし、ライブでの収入も安定したものになっているとは言えない。そこで従来の音楽家的なパトロンのシステムがテクノロジーにより、フリーミアム的な考え方を付随させつつ復活するのは自然の流れだろう。それは投げ銭であったり、定額支援サービスであったり、クラウドファンディングなどのシステムを含めた上での話だ。よって日本人のミュージシャンは生存戦略として海外の人を主なターゲットとしてやっていくのか、もしくは日本人に対してエモさの設計を完璧に近い状態にした上でターゲットとしてやっていくのかの選択を迫られる。基本的には日本人のマインドセットはそう簡単に変わらないので、そこに関しては確実に計算に入れて動く必要があるだろう。現代美術や現代音楽に関しては日本にマーケットすらほとんど存在しないという意味で、多かれ少なかれ海外を相手にせざるを得ない必然性があるが、通常の音楽に関してはかろうじて日本に特殊なマーケットが存在しているという側面があり、それが幸なのか不幸なのかは今のところ分からないが、今後も日本のミュージシャンは状況に対して臨機応変に対応していく必要があると言える。

Zaifのビットコイン0円騒動

騒動の概要

次はZaifのビットコイン0円騒動について。騒動の経緯については以下で説明されている。

16日に発生した異常値の表示に関するお詫びとご報告

重要な点についての概要を簡単にまとめると以下のようになる。

・仮想通貨取引所であるZaifの簡単売買でバグがあり、一時期仮想通貨が0円で売買できる状態になっていた。
・7人の顧客が0円で仮想通貨を購入し、そのうちの一部の顧客が売り注文に出し、取引において異常値が表示されていた。

どれだけの異常値が表示されていたかというと、発行総数が2100万BTCであるBTCに対し、顧客の一人は存在しないはずの21億BTCを無料で購入し、そのうちの20億BTCを売りに出すというコント的な異常値が表示されていた。

ノミ行為の是非

これに対してはバグの問題を度々生じさせている取引所の問題もあるが、それ以上にノミ行為が行われていたことが問題である。仮想通貨取引所におけるノミ行為とは、顧客から売買の注文が入った際に実際に現物取引を行わずに、顧客同士の注文で相殺するなどの行為を指す。金融取引におけるノミ行為に関しては日本では条件を満たせば合法であり、FX業者でも行われている行為である。しかし取引所と顧客のパワーバランスを崩す可能性が著しく高く、投資家保護の観点からは推奨される行為ではない。そもそも今回の件については20億BTCを指し値で売り出し、注文キャンセルをしたので影響が少なかったと言える。しかし仮に成行で同額を売り出していたとしたら、仮想通貨市場が一気に崩壊するほどの大事件の引き金になっていた可能性もある。

仮想通貨の現状と将来の見通しについて
スケーラビリティ問題

仮想通貨に関しては今年に入って相場を読むことが以前にも増して難しい状況になっているのと同時に、技術的にもブロックチェーンの限界が見えてきてしまったように感じる。そもそも先程のように何故ノミ行為が仮想通貨取引所で行われるかを考えてみると、ブロックチェーンのシステムにおけるスケーラビリティ問題が解決できないからという理由が一因として挙げられる。その問題と関連して送金手数料だけであり得ないほどの料金を支払う必要がある現状は、当初の銀行と比較した際の送金手数料軽減の理想とはほど遠い状況にある。様々な遅延の問題を考えても、仮想通貨取引所が実際にブロックチェーンに取引内容をリアルタイムで書き込まない、もしくは顧客同士の取引で相殺しつつ、最終的にまとめて書き込むというのは手間と取引所の利益を考えればある意味自然の流れだが、これに関しても当初のブロックチェーンの理念とは離れてしまっている。そもそもBTCがBCHにハードフォークしたのも、ライトニングネットワークというブロックチェーンとは別のオフチェーン技術開発に取り組んでいるのも、ブロックチェーン上ではスケーラビリティ問題が解決できなかったからだ。つまり問題の根幹にブロックチェーンのアルゴリズム自体の問題があるのに、現状は小手先の対症療法で何とかしようとしている印象を受ける。

仮想通貨の未来とブロックチェーンの未来

ここから導かれる結論は、仮想通貨はアルゴリズムを入れ替えれば生き延びられる可能性は高いが、ブロックチェーンはアルゴリズムの不完全性を解決することが難しいので滅びゆく可能性が高いということ。そう考えると、良く言われるように仮想通貨には未来がないが、ブロックチェーンには未来があるというよりは、逆に仮想通貨には未来があるが、ブロックチェーンには未来がないという方が正しい。であるならば、そもそものアルゴリズムに欠陥のあるブロックチェーンにおいて、仮想通貨取引所のように大量の取引をリアルタイムで行う場合、今回のようなノミ行為の問題はいつまでも付きまとうことになる。その結果また違った問題を引き起こし続けるだろう。その度に仮想通貨の市場が混乱し、価格が乱高下するという状態が起こるのであれば、いつまで経っても仮想通貨の信頼性は担保されない。個人的には仮想通貨の未来に関しては面白いものがあると思っているが、最近の動向からブロックチェーンの未来に関してはかなり懐疑的に考えており、相場に関しても最終的に破綻する可能性の高い未来を考えると、やはり現状の仮想通貨の取引は素人には全くお勧めできない。

ギブソンの経営危機

個人的な思い出

最後のニュースはギブソンの経営危機について。これは海外のニュースであると共に、自分にとっても思い入れのあるニュースなので取り上げてみた。個人的にはGibson Les Paul Studio 2011 Wine Redを所有しているが、このエレキギターはアメリカのWashington, D.C.で友人の家に滞在していた際に、Seagullのアコースティックギターと共に購入したもの。このレスポールに関しては、自分の中で初心者のギターとは違う意味合いで購入した初のギターだった。ちなみにその友人は中国人の富裕層とも引けを取らない完全なる富裕層だったので、確かこれら以上に高価なギターを購入しており、買い物に行くと数十万円は1日で使い果たすような人物であった。しかし購入後その友人がギターに触れていた場面を見たことはほぼない。

エレキギターとロックスターの凋落

エレキギターはかつてロックスターの象徴であったが、ロックスターというもののイメージ自体が完全に破壊され、時代遅れになってしまった現代において、エレキギターもまたかつてのように少年が憧れる対象ではなくなってしまった。確かに自分としてもDAWやMaxなどを活用した作曲を中心としており、昨今のエレキギター離れは悲しい現象であると思う一方で、その時代の潮流は止められるものではないとも感じている。ただギブソンのような有名かつ一流の会社の経営が傾くようになるというのは、時代の必然ではあれどやはり衝撃的ではある。

アンティークと楽器演奏の価値

物の価値は文化を支える源泉であり、時代によって淘汰されてしまうものもあるがそれでも残すべきものはある。エレキギターはデジタル性を保ちながら、アナログ性のある物質でもあるという面白い特徴を持っているが、その価値が将来的に富裕層や特権階級だけのアンティーク的なコレクションになってしまうことに対する複雑な気持ちはある。またデジタルとアナログという二項対立に意味がなくなってしまった時代において、それでも楽器を演奏することに対する価値は変わらない。楽器を演奏することには、楽譜の読解、耳で聴いた音の読解を含めて、運指やグルーヴへの同調という様々な要素を同時並列的にこなす必要があるという意味で、時代を超えた価値がある。そこには一致と逸脱の反復があり、音によって紡がれる抽象的な色彩と映像は最終的に芸術になり得る。ギブソンの経営危機に関してはアンティークとしての価値、もしくは楽器演奏の価値の観点から残す価値のあるものを残していくことについて再考させられたニュースであり、個人的な思い出にポカンと小さな穴が空いたようで悲しいニュースでもあった。

音声入力革命

音声入力革命

今回の記事では音声入力を試してみたので、その圧倒的な戦闘能力について説明していきたいと思う。結論から言うと音声入力は革命なので、文章を執筆する全ての人に試してもらいたい。振り返ると1年以上にわたりブログを執筆してきた経験もあり、現在は以前と比較してかなり速く記事を執筆できるようになった。ただ最近は忙しさが限界を突破し、今までよりさらに速く執筆することが求められるようになった。そこで新しい執筆方法を模索する中で、何度か音声入力を使用して記事を執筆したことがあったのだが、本格的に利用はしていなかった。しかし今回は音声入力によって生産性が数倍〜数十倍に上がることが分かったので、音声入力の方法も含めて記事を書いてみたいと思う。ちなみに今回の記事は基本的に音声入力で入力した文章をコピペし、後にキーボード入力を使用して修正したものになる。

音声入力の方法

PCの場合

まず以下のようにGoogle Driveにアクセス、Google Documentを作成し、音声入力の準備を整える。

Google Drive > New > Google Docs > Tools > Voice typing > 日本語 > Click to speak

後は喋るだけ。注意点としてはiPhoneの場合と異なり、以下の三つが使用できないことが挙げられる。

・句点 (。)
・読点 (、)
・改行

ただ音声入力の途中でもキーボード入力は可能なので、特に問題は感じない。

iPhoneの場合

iPhoneではGoogle Docsというアプリがあるのでまずはそのアプリをダウンロードする。そして以下のようにGoogle Documentを作成する。

Google Docs > Sign In > + > New Document (ファイル名を入力) > CREATE

後はキーボードのマイクボタンを使用して音声入力が可能。このファイルはクラウドなので、PCとiPhoneの両方を使用して後から編集することもできる。またiPhoneの場合は句読点と改行も音声入力可能なので、PCの場合と比較して若干音声入力に適していると言える。

音声入力のメリット

生産性向上

音声入力のメリットは何と言っても圧倒的な執筆速度の向上により、生産性が劇的に高まること。この文章全体の基本的な内容を音声入力で執筆した際にかかった時間は10〜20分程度であり、キーボード入力の修正でその数倍の時間がかかったとしても今までとは比較にならないほど速い。最初に言ったように人によっては、数倍〜数十倍の生産性向上が見込めることかと思う。その生産性向上によって空いた時間を休憩時間や遊びの時間、もしくは他のことに使用する時間にできれば人生がより有意義に過ごせる。また毎日記事を書いて更新していくスタイルの場合は、日々の更新作業の負担がかなり軽くなるはずだ。

プレゼン力、ディベート力向上

また音声で話した内容がそのまま文章で使用できるほど整合性があるということは知的能力にとって重要なことであり、この能力を磨いていけばプレゼン力の向上にも繋がる。さらにディベートにおいては基本的に喋った内容しか判定の対象にならないために、話している内容がそのまま論理的な構成を持って書き下しても読めるレベルになっていることが望ましい。よって音声入力を極限までハイペースで喋ってほぼ修正する箇所がない程度になれば、ディベートの基礎となる同時並列的な思考や高速な思考に慣れることも可能になるだろう。そういう意味で音声入力はプレゼン力やディベート力向上にも活用できる。

音声入力のデメリット

公共空間での使用

逆に音声入力のデメリットとしては、公共空間で使用しにくいこと。もちろん検索程度の短文なら音声入力は適しているが、ブログ執筆を公共空間でやるのは多少の抵抗があるし、周囲の迷惑になる可能性もある。これに関しての解決方法は以下のように二つあり得る。

・囁く程度の音量での音声入力、もしくは口パク入力が実用化レベルになる。
・音声入力が周囲の他者に聞こえないようにする。

このどちらも将来的にテクノロジーが進化するのを待つしかないが、口パク入力やマスキング音などの技術が発展していけば不可能ではないと考えられる。ただ口パク入力ができるということは、他人から口パクで何を言っているのかを読み取られる危険性もあるということであり、その辺のプライバシーの問題は一部残るかもしれない。一方で私的空間で音声入力を使用した際のデメリットは今のところ全く感じておらず、基本的にはメリットしかないように感じている。

今回の記事のまとめ/音声入力考察

今回の記事のまとめ

今回の記事では音声入力は革命なので全ての執筆者が活用するべきという結論から始まり、その方法、メリット、デメリットについて説明した。音声入力では入力された全ての文字が正確なわけではないが、十分実用レベルにある。また音声入力の場合は細かな違いなどを気にすることなく、考えていることを全て一度出した後に最終的にキーボード入力で加筆修正する方法が最も優れたやり方であるはずだ。

音声入力考察
執筆内容への影響

音声入力とキーボード入力によって執筆内容が影響を受けるかどうかは、正直現段階だと分からない。ただ喋るという行為とタイピングという行為は微妙に異なるため、執筆内容にも多少の変化が生まれる可能性はある。音声入力の場合はブレインストーミング的にアイディアと記述のタイムラグ、バッファを極限まで少なくできるという点で、ポジティブな効果が生まれるのではないかという仮説は自分の中にある。マインドマップなどを書く場合も何も考えていないような状態で書くという一見矛盾した行為が重要になるが、音声入力にはそのイメージと近い体感があった。

例えばブログを執筆する際にPCを使用した場合と、iPhoneを使用した場合は微妙に体感が異なる。この場合執筆内容自体に変化があるとは思わないけれど、iPhoneの画面だとPCの画面と比較してどうしても画面が小さくなるので、自分の中でかなり長文を書いたつもりでもPCから見ると割と短い文章に収まっていたりする。逆にPCで書いた文章をスマホで見ると、自分の中ではそこまで長文を書いたつもりはなくても割と長い文章であると感じることがある。今のところ音声入力の場合は執筆速度が速いために、かなり長めの文章を楽々入力できるという感覚はある。

音声の扱い方

また音声入力とは違うが、音声という括りで見れば音声情報はこれから重要性を増していくはずだ。書籍やブログなどの文字情報、写真や映像などの画像、動画情報に関しては前者はより専門性の高い方向へ、後者はより一般的な方向へ進化していくことが予想される。その中で音声情報はその中間的な存在として、また隙間時間の活用に役立つ存在として存在感を増していくだろう。例を挙げればVoicyのような音声型ブログサービスや、海外では既に主流化しているオーディオブックなどは作業をしながら、もしくは移動時間も同時並列的に聴くことができるということで現代に適した進化の方法と言える。そういう意味で音声入力、音声サービスを含めて音声をどのように扱うかというのは現代における熱いトピックの一つである。

これから

音声入力に関しては最近本格的に開始したばかりなので、方法を含めて今のところ完全に確立したわけではない。これからさらに使用しながら調べていくうちにより良い方法も見つかっていくことだろう。その時はまた音声入力のより良い方法として紹介していきたいと思っている。また少なくとも個人的には既にその絶大な効果を実感しているので、そのうちNILOGなどを通してその目に見える成果を見せられる時が来るかもしない。この音声入力革命はコンタクトレンズを初めて装着した時のように人生が変わるので、まだ体験していない読者の方は是非体験してみてほしい。

シャーペンの芯が刺さった時の対処法: 包容力のある蜂蜜と強制的な他者による治癒

それは先日のダイナミックサイクルでの作業中のことだった。いつものように大きなマットを敷き、その上に紙を置き、カッターナイフと定規を用意した。正確に紙を裁断するためには印を付ける必要があるので、これまたいつものように鉛筆とシャーペンを用意しようと探していた。そして非常に細めの芯を使用する細身のシャーペンを見付け、手に取った。そのシャーペンの芯を出すために、ノックボタンを押す。ブスッ!ん?「カチッ」ではなく、「ブスッ」?思考が一瞬混乱しながらも、次の瞬間親指に視線を移すとそこには親指に突き刺さったシャーペンの芯が黒く佇んでいた。これが全ての悲劇の始まりだった。

親指に黒く佇むシャーペンの芯

この事件が何故起きたかは、考えてみれば単純なことだった。ノックボタンとガイドパイプの部分を真逆に持ち、そのまま押してしまったのだ。ピンセットを持っていたので、その場でシャーペンの芯を抜こうとするが、少しだけさらに押し込んでしまうという状態になったので一旦諦めることに。そして作業をしていたダイナミックサイクルから帰宅し、早速ググる。「シャーペン 芯 刺さる」。ググった末のリサーチ結果をまとめると、どうやら放っておいても大丈夫な場合もあるが、危険な場合もあり、場合によっては病院で対処してもらった方が良いようだ。最初の時点ではかなり楽観的に考えていたものの、この時点で多少の緊張が走る。また幾つかのウェブサイトの記述でハチミツを患部に塗ると取れる場合があるとの情報を得たので、早速試してみることに。

ヒマラヤンアカシア純粋はちみつ

台所を探索すると、長年放置されていたと思われる「ヒマラヤンアカシア純粋はちみつ」を発見した。とりあえずこれで蜂蜜を買いに行く必要はなさそうだ。

包容力のある蜂蜜

この包容力のある蜂蜜を患部に塗布する。何度も何度も塗り、放置してはピンセットで芯を抜くことを試みる。その時間恐らく2〜3時間。しかし多少の浮き上がりはあったものの、結局芯は抜けずに諦めて就寝することに。

強制的な他者による治癒

そして朝を迎える。起きたら芯が抜けているというミラクルはなかったものの、昨日寝る前よりは多少また芯が浮上しているような気がした。寝る前に蜂蜜をたっぷり塗っておいたのが良かったのかもしれない。しかし自分では思い切り自分の肉を摘むことができないため、強制的異な他者による治癒が必要と考えた。私はその旨を相手に伝え、刺さった芯の周囲の肉を思い切り挟んで押し出すように指で摘んでもらった。相当な痛みが親指から伝わってきたが、数回のトライの後、遂に芯が抜けた!最終的には多少の色素が残ったが、そもそも芯が刺さるというのは黒鉛の色素が真皮に到達している場合、刺青とほぼ同じ原理なので中々消えないようだ。数年〜数十年の後には消えるかもしれないが、それまでは親指にシャーペンの芯を突き刺した跡のない人物がNILと名乗る場合、全て偽物と思ってほしい。とりあえずみなさんの肉体の何処かにシャーペンの芯が刺さった場合の対処法としては、包容力のある蜂蜜と強制的な他者による治癒をお勧めする。

文体の実験: 「だ・である調」から「です・ます調」への変化

「だ・である調」から「です・ます調」への変化

以前文体についての考察という記事を書いたことがあります。その内容の一部を要約すると、文体における「だ・である調」から「です・ます調」への変化は、「ポスト・インターネット」の時代における新しい「言文一致運動」であり、エモさと距離感の問題から基本的には「です・ます調」へ統一されていくだろうということでした。NILOGではその傾向を踏まえた上であえて文体を「だ・である調」で統一し、「です・ます調」は読者の方に話しかける時のみ使用するという方針を貫いてきました。しかしNILOGも1周年を迎え、何かしらの変化がほしいと思った結果、文体を実験的に「です・ます調」で統一することを思い付きました。なので今後再度心境の変化がある場合を除き、基本的には「です・ます調」でNILOGを書いていこうと思っています。この文体がいつまで続くかは分かりませんが、いつの間にか「だ・である調」に戻っていた場合は、心境の変化が訪れたのだと思って生暖かい目で見守っていてください。

「会話文体」と「論文文体」

さて今回の記事は基本的にはこの報告が主な目的でしたが、それだけでは内容が少ないので文体についての別の角度から考察をしてみようと思います。一般的には先程も述べたように、文章は本などの媒体を含めて「です・ます調」に統一されていく流れになっていくことと予想します。先程エモさと距離感の問題と言いましたが、「です・ます調」はより丁寧な印象に聞こえることと、上から目線に聞こえないという点で読者に対して適切なエモさを提供し、距離感を整えることに向いています。なのでこの文体を一般的な文体として「言文一致」していくというのは正しい方向性でしょう。しかしそこからさらに二つの方向性があり得ます。一つは「です・ます調」よりさらに会話目線を導入した「会話文体」と余計な装飾を一切排除した「論文文体」です。前者の「会話文体」では、読者は完全に書き手の友達であるかのように扱われ、会話調で話しかけられるような文章になります。これはエモさをさらに加速化させ、距離感を親近感のレベルにまで進めた結果の最適化です。一方で後者の「論文文体」は基本的には「だ・である調」を踏襲し、論理構成がしっかりしているために、Google翻訳などの機械翻訳に任せても破綻しない文章に翻訳できることが特徴になります。これはエモさや距離感よりも事実を論理的に伝えることが大切な場合に使用されます。要するに対象となる読者の想定や媒体の違いによって、大まかに上記の三つの文体に分かれていくというのが今後の傾向になりそうです。

コミュニケーションの変化

その上で「会話文体」をさらに発展させたコミュニケーションは、もはや言葉を使用したコミュニケーションではなくなるか、AIによってコミュニケーションが自動化されていきます。初期段階はLineのスタンプなどで象徴されますが、イメージをイメージのまま伝えるようなデバイスがあればそれが意思伝達としては最も早く正確なわけです。また現状では人間の思考を大雑把にしか把握できませんが、この方向性でAIの研究が進めば、自分の意図を自動的に組んでくれるパーソナライズ化されたAIが相手にメッセージを送り、それに対して相手にパーソナライズ化されたAIがまた返信をするというようなAIによる自動返信が発達します。これによってある意味人間をパーソナライズ化するためのデータとして使用し、AI同士が意思疎通するかのようなコミュニケーションも生まれるでしょう。また初期段階ではAIに伝わりやすいコミュニケーションとそうでないコミュニケーションもあり得るので、そういった制限に最適化したコミュニケーションも生まれるかもしれません。いずれにせよ巨大なパラダイムシフトの真っ直中に存在している現代人は、その文体とコミュニケーションを含めて大幅に変化させていくことが必要になることでしょう。

追記

この記事では「だ・である調」から「です・ます調」へ文体を変化させる実験を行ったが、幾つか分かったことがある。

・「です・ます調」は語尾のバリエーションが少なく、文章に起伏を生むのが難しい。
・文体の変更はキャラの変更も伴う。

なので既に心境の変化が訪れたというよりは、一部の読者の意見を限りなく迅速に反映した結果、文体の変化はNILOGではなく別の場所で実験するべきかと思われた。以前からnoteはずっと気になっていたのだけれど、THE GUILD代表の深津貴之さんがピースオブケイクのCXOに就任してからさらに気になるサービスになり始めている。1周年を迎えて自分の場としての土台がある程度固まってきたNILOGとしては、外部サービスへの進出をして両輪を回していきたいところ。そこで以前から書いてきた記事やその他の活動のまとめの場、書籍化前の編集の場として、または読者の方や外部との繋がりの場として、もしくは文体の実験や販売の実験の場として使用してみようかと思っている。そちらでも必ずしも「です・ます調」を使用するかは分からないが、アカウントを制作したらNILOGでも告知したいと思っているので、興味のある方はそちらの方もよろしくお願いいたします。