大晦日の縁起物: 結界の存在について

大晦日の縁起物

大晦日には毎年大抵年越し蕎麦を食べる。今年はトッピングとしてとろろうずらの卵と海老天ぷらがあり、美味しくいただいた。年越し蕎麦を食べる意味には諸説あるが、これは基本的には縁起物の一種である。縁起とは元々仏教用語であり、NILOGでも何度も取り上げている空と縁起における縁起である。これらの概念を簡単に説明すると空とは有と無を包摂した概念であるが、縁起とは空に機能、関係性を持たせた概念になる。俗に言う吉凶、幸不幸の意味で縁起物と言う場合は、この仏教用語が転用されたものになる。

結界の存在について

縁起物は結界と関係している。こう言うと唐突に聞こえるかもしれないが、結界は存在する。誤解を招くと困るので最初に断っておくが、これは神秘主義的な意味で言っているのではない。もちろん結界は物理的には実在しないが、情報的に存在するということだ。そして情報的に存在するというリアリティが高まれば、それは人々の認知に多かれ少なかれ影響を与えることになる。例えば教会堂の建築の外装や内装はアート的に見て極めて価値の高いものであり、荘厳な宗教音楽の旋律もレベルの高いものである。宗教的にはこういった場を形成することで情報的に結界を構築し、その場への没入感を増すことでトランス状態を作り出す手助けをしていると言える。また神社や寺もこれと似た機能を持っており、統制された場の結界によって人々の認知に働きかけ、心を書き換える機能を持っているし、それは縁起物も同様である。

事故物件について

事件や事故を引き起こす条件

この話と繋がる話として分かり易いので、事故物件の話をする。昔は事故物件に住むことは特に何の問題もないと考えていたし、むしろ話の種になるし、安いので積極的に住むべきではないかと考えていた。しかし今は特別な理由がない限り住もうとは思わない。それは例えば幽霊などのオカルトの話や自殺した部屋の穢れがどうこうという話ではない。一つの理由としては特に事件や事故が連続して引き起こすような場所は、物理的に人の心理に良い影響を与えない条件を満たしている可能性があるからだ。例えばある部屋は極端に日当たりの良くない部屋で、長期間住んでいると鬱病にかかり易い条件を満たしていたり、またある部屋は超低周波音が響く部屋で、不定愁訴になり易い条件を満たしていたりするかもしれない。これらは意識的に分かりづらい要因であっても、その場において事件や事故を引き起こす遠因になり得る。

心理的な反映 = 結界の問題

また別の理由としては割れ窓理論のように寂れた場所は類は友を呼ぶという意味で、事故物件は寂れた人々を招き寄せる傾向があるからだ。つまり事件や事故と場に何の関係も持たなかったとしても、それを心理的に反映してしまう人々に対しては無関係とは言えない。なのでその状況は先程とは真逆に結界が存在しない、もしくは破られた状況を作り出す可能性がある。そういう意味でDavid Lynch監督のようにむしろ治安の悪い場所がインスピレーションを与えてくれるからあえて住むというような特別な動機がない限り、現在は事故物件には住みたくないと考えている。

結界を張り直すための大掃除

大晦日までに大掃除を済ませるという文化も、縁起の観点に加えて、結界を張り直すためという観点から解釈するとさらに納得がいく。そもそも場は物理空間であっても、その人の情報空間を必ず反映している。それは物の選択であったり、配置や並び順であったり、部屋の綺麗さであったりする。クリエイティブになるためには実は一度空間をカオスにした方が良いのだが、定期的にそれらを統合的に整理するという習慣も重要である。また年末という区切りは一度過去をリセットして、新しい門出の準備をするための期間として適している。そもそも情報空間には無限の容量があるはずだが、物理空間と同様に人はそれぞれ自分に見合った情報空間の大きさを持っている。つまり人は無限に見えて有限の情報空間を扱っているのだとすれば、物理空間にあるものを捨てたり、大掃除して綺麗にすることで、自分の情報空間の容量を増やしたり、居心地を良くするなど良い影響を与えることができる。言い換えればそれは自分なりの結界を張り直すということだ。これはまた過度な断捨離や網羅病にかかるということではなく、あくまでその瞬間の自分に必要なものが必要なだけあることを目指すということでもある。こうして結界を張り直した場には、新年として新しい縁起が生まれ、それは転用された意味での縁起が良いという好循環にも繋がっていくことだろう。

腰痛に終止符を打つための方法: 「朝30秒の正座」の効果

持病としての腰痛

学生時代に取り組んでいた陸上が直接の原因か、引きこもり時代の姿勢の悪さが原因かは分からないが、長年持病としての腰痛には苦しめられてきた。病院で本格的な検査を受けたことがないので分からないが、中学生の頃に接骨院では「老人並みの腰」と言われ、マッサージを受けると大抵腰については色々言われる。先日もダイナミックサイクルでの作業中に寒さのせいか腰痛が酷く、痛みが断続的に継続するという状態になり、作業に集中するどころの状態ではなくなった。また駅でも一時的に歩くのが困難になるなどかなり深刻な痛みがあったわけだが、そこまで痛みがあることは稀で、どちらかと言えば一日中腰が怠い、もしくは軽微な痛みがあるという感覚だ。

「朝30秒の正座」

そんな腰痛を軽減、治療するために過去に様々な方法を試してきたが、今回はその中でも一番効果のあった方法を紹介する。その方法は金聖一が考案した「朝30秒の正座」だ。まずは腰痛の原因を知ることで概要を掴んだ後に、「朝30秒の正座」のやり方を紹介していきたい。

腰痛の原因

まずは以下のリンク記事を読めば腰痛の原因が分かる。

腰痛の原因をたった30秒で治す「朝30秒の正座」驚きの効果

記事自体は簡潔な内容であるが、概要を手っ取り早く知りたい人のために要約してみる。彼は腰痛に関しては「背骨のゆがみ」、「足の使い方」、「血流の悪さ」の三つの要因に原因があるとしている。「背骨のゆがみ」は背骨における重力の分散を妨げ、筋肉の炎症に繋がり、骨の変形に至り、椎間板ヘルニアの原因になる。なので「背骨のゆがみ」を作らないように、理想的なS字カーブを保つことが重要とのことだ。また彼は「足の使い方」に関しては「利き足」と「軸足」における「左右差」をなくすことで腰痛の原因が取り除かれると主張している。最後に「血流の悪さ」に関しては、関節の硬さの原因は「血流の悪さ」にあり、それを取り除くことで腰痛が軽減されるとのこと。これらの三つの腰痛の原因は全て「朝30秒の正座」で改善できると彼は主張している。

「朝30秒の正座」のやり方

次に以下のリンク記事を読めば「朝30秒の正座」のやり方が分かる。

毎朝の正座健康法習慣で腰痛を治す

具体的なやり方は記事を読んでみてほしいが、一言で説明するならば「左右のかかとをつけた」状態で30秒正座をするだけだ。できれば準備運動を含めて毎朝継続してやった方が効果が大きいと思うが、実体験としては時間に関係なく痛みが強い時にたった一度やるだけでもある程度の即効性がある。何に関しても言えることだが、人間にとって一番効果の強い方法の一つは継続してやることだ。しかし人間にとって最も難しい行為の一つもまた継続してやることである。これは完璧主義の病理にも繋がる話だが、継続性を維持するために一番重要なことは、最初から細かい部分や継続性を気にしないことである。何故かと言えば習慣とは無意識の領域で勝手に行われるようになるものであり、意識で無理矢理習慣づけようとしたものは必ず失敗するからだ。そういう意味でもし腰痛に苦しんでいる読者の方がいたら、一度で良いので騙されたと思って「朝30秒の正座」を試してみてほしいし、個人的にも持病としての腰痛に終止符を打つために、できるだけ継続して習慣化していこうと思っている。

「Gackt ICO」というパワーワード 後編: 「SPINDLE」のホワイトペーパーを現代思想とV系の観点から読み解いてみた

現代思想とV系の観点からのホワイトペーパー読解

SPINDLE White Paper

現代思想とV系と仮想通貨/ICOに詳しい人物は余りいないと思われるので、後編である今回はその独自の特異性を活かして上記リンクに掲載されている「SPINDLE」のホワイトペーパーを解説してみる。まず文章全体に目を通してみると、ホワイトペーパーの文章が下手すぎるので、色々添削したくなる。まず定義が定義になっていないし、分かりにくすぎる。しかも簡単なこと、もしくは書く必要すらないことを、より難しく、もしくはより格好良く書きたいという意識が先行しているため、不必要な装飾と、一文が回りくどくて長いという特徴がある。全体的に自己陶酔した文体とでも言えば良いのだろうか。これは衒学的であるというよりは、自己愛的であるという表現の方が相応しい。知性には一見難しそうな概念を、シンプルかつ分かり易く噛み砕いて説明できる能力、もしくは王様は裸であるということを指摘する役割も含まれているはずだが、難しさと格好良さを優先し、自ら派手に着飾った裸を露出するという心意気にはある種の様式美を感じた。また全てにおいて大げさで主語が全体的に大きい傾向があるが、実際には当たり前のことか、意味不明なことか、事実誤認か、小粒なことしか言っておらず、読むべきポイントは少ない。

七つの用語解説

前編で既に「SPINDLE」についての個人的な見解は述べているので、今回の記事ではホワイトペーパーに登場する七つの用語に関して現代思想とV系の観点から解説していこうと思う。ちなみにその用語だけを解説するのではなく、その用語が使用されている項目、文脈や周辺の文章を含めて解説していく。

「Fallibilism 可謬主義≒SPINDLE」

この言葉の注目ポイントとしては英語と≒が使用されていること。英語はとりあえず格好良いので併記する必要があるし、=ではなく、≒の方がポイントが高く、一見何か深い意味があるように見える。また文章中の「仮想通貨≒暗号通貨(以下暗号通貨とする)」において≒が使用されているのもそういう意味で、「仮想」ではなく「暗号」を採用しているのはその方が闇を感じさせ、ギリギリそっちの方が格好良いからである。また「〜主義」という言葉は後に頻発することになるが、この言葉自体がV系の観点からはイケているので、パブロフの犬並みに多用せざるを得ない。「可謬主義」とはそもそも「無知の知」と「反証可能性」を足して2で割ったような概念であるが、それが「SPINDLE」の定義というのは意味不明、もしくは何か意味がありそうで何も意味が無い定義であり、「再帰性(非中央集権と中央集権の縦断及び再帰的帰結等)」のような書き方は()の内部が雄弁であるという意味で悪文の代表的なものである。また可謬主義を「知識についてのあらゆる主張は、原理的には誤りうる」、「中央集権型概念と即座に対立する概念」という意味で使用しているようだが、仮に前者の意味が正しいとすれば「非中央集権」であろうが「非中央集権と中央集権の縦断及び再帰的帰結等」であろうが、原理的には誤りうるという点で前者と後者の意味、もしくは「SPINDLE」自体が既に自己矛盾している。

「プラトン主義」

まずこの文脈で「プラトン主義」という用語を使用する必然性は皆無なので、「プラトン主義」という言葉を使用してみたかったというのがこの言葉が採用された一番の動機だろう。「プラトニズム」でも良かったはずだが、「〜主義」という言い方に揃えたかったのだろうか。「プラトン主義」の意味合いとしては幾つか考えられるが、この文脈においては「プラトン主義」は「イデア論」を主体として理想を原理主義的に唱えて信仰する立場として使用されているようだ。つまり「SPINDLE」が中央集権のシステムであることを正当化するために、「非中央集権」における民主化を絶対視する立場は現実的ではないとし、それらの立場を「非中央集権至上主義」と定義しているように読める。ここで一言文章の書き方についてアドバイスするならば、一度定義した言葉はできるだけそのままの形に統一し、継続して使用するべきであり、「非分散・非中央集権」、「広義的非中央集権概念」、「非中央集権主義者」、「非中央集権型信望」、「非中央集権型」などの用語はできるだけ統一した言葉を使用して整理するべきである。また「統制的社会」などの言葉も定義されないまま繰り返し使用されているが、そういった雰囲気だけで定義なしに言葉を乱用するのも文章の分かりづらさを増加させるという意味で読者に対して極めて不親切である。

「鏡面的再現」

まず「鏡」というキーワードはV系の観点から無条件にポイントが高い。何故かと言えば自分を見つめるナルシシズムを体現するためには欠かせない道具だからだ。現代思想的には「鏡」と言えばジャック・ラカンの「鏡像段階論」が連想されるが、特にそういった含意はないようだ。また「鏡面的再現」という言葉は一般的な言葉ではないので、使用する際に定義が必要だと思うが、例によってその言葉の定義は見つからない。この用語が使用されている項目自体の内容を一言で言えば、「SPINDLE」で扱う仮想通貨ヘッジファンド、ICOトークンの中にも優秀なものとそうでないもの、もしくは悪質なものがあるから投資は自己責任でやってねということである。要するに社会に善し悪しがあるように、「SPINDLE」のプラットフォーム内部で扱われるものにも善し悪しがあり、それは社会構造を鏡のように反射したものであると言いたいのだろうが、実際には「社会構造の鏡面的再現としてのSPINDLE」と書きたかっただけだろう。この極めて無内容に近い当たり前のことを、一見難解に見える言葉と難解に見える図によって説明しているので、この項目はその他多くの項目と文章同様そもそも書く必要性すら感じない。

「Stand Alone Complex」

「Stand Alone Complex」は「Smile Man」と「Anonymous」という言葉と共に使用されており、本文にも書いてある通り攻殻機動隊から引用した言葉だ。文章の内容は相変わらず読むべき価値がなく、論理の飛躍と妄想に満ち溢れており、自己陶酔の余波でこちらが酔いそうになる。もちろん攻殻機動隊は素晴らしい作品なので、読むもしくは観るべきだが、「SPINDLE」とは全く関係がない。また「記号依存的勝利錯覚者」という用語が出てくるが、脚注を引用すると「例えば特定の国家、民族、企業、集団に所属することによる自己認知欲求における依存心。現在のところ人類の大半がこの認識の領域の中で生きていると思われる。」となっている。この前半の文がこの言葉の定義だとすれば、「例えば〜」で始まる定義文はおかしいし、「〜者」という存在を意味する言葉なのに何故「〜依存心」という言葉で文が結ばれるのかの意味が分からない。もしかすると書いている本人も意味が分かっていないのかもしれない。またこれが定義文ではないというのならば、また定義を書かずに勝手な造語を作って読者を混乱させているという意味で文章を書く素質も資格もない。というよりICOという投資として金銭が関わる話の説明をこのように分からせるつもりすらない文章で書く時点で、このプロジェクトがどういうものなのかというメッセージを悪い意味で伝えてしまっているとも言える。また「SPINDLEが、究極的には、今までにない人類を創造しうる可能性を保持することとなり」の部分は前後関係を何度読み込んでも何故そうなるのか見当も付かない。

「概念的社会勝利者」

「概念的社会勝利者」という言葉は先程出現した「記号依存的勝利錯覚者」、後に出現する「統制経済主義者」と同じく「〜者」という形式を取っている言葉であり、「〜主義」と同様にある種のフェティシズムを感じさせる言葉なのかもしれない。しかしこの言葉も「ここで言う概念的社会勝利者とは、SPINDLEの場合で言うところの下記が該当する。」と言っておきながら、定義が存在しない。またこの項目でも登場する意味不明な図も相変わらず健在なわけだが、項目全体としては詐欺師、ハッカー (本来はクラッカー) が出現した際に司法当局を含めて「SPINDLE」の運営がどういう対処をするかは未定という無内容な内容。さらにこの項目でも先程の「鏡面的再現」の変形であると思われる「社会的鏡面モデル」という言葉が使用されており、相変わらず用語を統一、整理する気は一切ないようだ。

「Slave(奴隷)」

本文から引用すると「SPINDLEは、現在の伝統的金融関係者 (ヘッジファンドも含む) をSlave (奴隷) と定義している。」となっている。これはつまり、LUNA SEAのファン = SLAVEに対する宣戦布告をGacktが行ったという解釈で良いのだろうか?内容としては仮想通貨界隈に良くある既存の金融関係者に対する批判に近いが、現実はここに書いてあるほど単純ではないだろう。また彼らに対して「門戸を開く」というようなことも書いてあるが、金融関係者が「SPINDLE」を利用して投資をするデメリットは無限に思いつくものの、メリットは良く分からないというのが正直なところだ。さらに現代思想的には奴隷という概念はミシェル・フーコーによる「バイオパワー」、ジョルジョ・アガンベンによる「ホモ・サケル」の議論などが思い浮かぶが、どうせやるならその辺の思想なども整理した上で論じてほしかった。

「統制経済主義者」

最後に紹介する用語は「統制経済主義者」という言葉。「〜者」という言葉は大抵批判的な文脈で使用されており、この言葉の定義は例によって存在しない。しかし「SPINDLEは、その存在において、統制経済主義者・政府の攻撃対象となる可能性がある。」と書いてあることからも、既存の政府、もしくは既存の政府を信望する者を批判的な意味合いでまとめた言葉と解釈するのが妥当だろう。また項目の内容の中に「ファースト主義の台頭」というような時事ネタを細かく入れてくる部分が、嘘を付く時は少しだけ真実を入れておいた方が良いという教訓を上手く活用していると感じる。さらに「強制的政府」などの未定義、不統一語の乱用を忘れない部分も流石の一言である。

ここまで来てホワイトペーパーの文章全体における文体、内容から漂う自己陶酔に対する違和感の正体が遂に見えてきたが、その根源には既存の権力に対するレジスタンスの立場を装う、もしくは自己洗脳することによる、ある種の高揚感があるのだと感じた。これはカルトにありがちな一種の変性意識状態であり、以前書いたウーマンラッシュアワーの「THE MANZAI 2017」でのネタから考えたことという記事で、村本大輔から感じた自己陶酔の根源もここにあるのではないかと感じた。実際この二つに共通するのはどちらも大した内容は含んでいない、もしくは偏った思想が入っているが、当人はやたら巨大な仮想的と戦っているかのように自分を装い、その敵と味方というラインの選別においてリアリティが逆転してしまっているために、違う立場の人間に説得されればされるほど自分が世界を救うヒーローであるかのように錯覚し、むしろ自分の狭い視野の範囲内の確証バイアスに基づいた判断を深めて孤立していってしまうということだ。芸能人という職業が知識をそれほど必要とせず、想像の世界におけるリアリティの強化、つまりトランス状態に入ることが得意な人が多いということから考えても、これらに共通する自己陶酔は時代のエモさの追い風と重なって今後も大きな潮流になっていく予感がする。それは本人にとっても社会にとっても非常に危険性が高いということは言えるだろう。

今回の連載記事のまとめ

今回の連載記事の前編では「SPINDLE」について全体的な内容と個人的な評価をまとめた。後編では「SPINDLE」のホワイトペーパーについて定義が不十分であることと、文章全体の自己陶酔的な特徴と修正するべき欠点を挙げた上で、現代思想とV系の観点から七つの用語を中心に解説した。現代思想の観点から言えば、ICOのホワイトペーパーに対する「ソーカル事件」がそろそろ起きても良い頃合いであるが、そうなると既存の仮想通貨/ICOも含めてほぼ全てがデタラメという結論に至りそうなので、自然淘汰を待つ必要があるだろう。またV系の観点から言えばPIERROTの「Waltz」における「自己陶酔のダンス」を「飽き足りず繰り返している」様を延々と見せつけられ続けたようなホワイトペーパーだったと言えるだろう。Gacktのソロデビュー・ミニアルバム『Mizérable』は好きだったのだが、表立った事業家デビューとしての「SPINDLE」は好きになれそうにない。最悪Gacktが違う世界へ旅立って行ったのだとしても、HydeやYoshikiが「SPINDLE」やICOに巻き込まれないことを切に願う。

「Gackt ICO」というパワーワード: 連載記事リンク

「Gackt ICO」というパワーワード 前編: 「SPINDLE」とは何か?

「Gackt ICO」というパワーワード 後編: 「SPINDLE」のホワイトペーパーを現代思想とV系の観点から読み解いてみた

「Gackt ICO」というパワーワード 前編: 「SPINDLE」とは何か?

「Gackt ICO」というパワーワード

先日「Gackt ICO」というパワーワードが世界に解き放たれたのは周知の通り。その評判も周知の通り。そんな世界線に辿り着いてしまった今回は「Gackt ICO」について、前編は「SPINDLE」とは何か?、後編は「SPINDLE」のホワイトペーパーを現代思想とV系の観点から読み解いてみたという観点から連載記事としてまとめてみる。結論から言えば将来的に価格が上がるか下がるか、上場するかしないかは分からないので、内容を一切考慮に入れず、たとえ詐欺であったとしても構わないという人のみが投資すれば良いと思う。最近の一部の仮想通貨、ICOにおける、価格が上がってしまえば、もしくは上場してしまえば詐欺だろうが何だろうが構わない、むしろそれを指摘した人物が押し込まれるという風潮は長期的に見て市場に大きな歪みを作り、ブロックチェーン技術によるエコシステムの発展のためにも良くないと考えている。よって個人的にこのプロジェクトに投資をする予定は今後も含めて一切ないことは最初に明言しておく。

「SPINDLE」について

「SPINDLE」とは何か?

SPINDLE

「SPINDLE」とは通貨記号を「SPD」とする仮想通貨の投資・運用プラットフォーム、もしくはプロジェクトのことを指す。要するに「SPINDLE」ではICOによって「SPD」を得ることができ、そのプラットフォームの内部で仮想通貨ヘッジファンド、ICOトークンに投資できるというシステムが構築される。より具体的に言えば自分で善し悪しを見極める自信、もしくは知識がない人に対して、「SPINDLE」という中央集権プラットフォームを提供し、SPINDLE評議会によって選定した仮想通貨ヘッジファンド、ICOトークンに投資できるようにすることで、より一般層からの投資のハードルを低くしようという狙いがあるとのことだ。ただICOの参加条件を読むとむしろ初心者を排除しようとしているように見える。ちなみに将来的な実現可能性は不明だが、VISAとMasterCardのデビットカードと提携することで、「SPD」を決済可能にすることを目指しているようだ。しかし現在は法定通貨との交換手段はなく、上場も決定してないので、「SPD」を幾ら持っていても法定通貨という観点から見れば現状無価値になり、「SPINDLE ICO ROADMAP」に書かれている2018年5月以降の予定に関しても、極論数百年後でも1億年後でも良いという意味で余り意味を成していない。

「SPINDLE」の実態

非中央集権を仮想通貨の最も大事な部分と考える人たちにとっては、「SPINDLE」自体、もしくはVISA、MasterCardという中央集権のシステムを入れることには拒否反応があるだろうし、知識のある人たちは自分のウォレットもしくは海外も含めた取引所で自由にやりとりすれば良いので、特にメリットはないだろうし、その層はそもそもターゲットではないだろう。またICOに対しては現在世界中で規制が強化されており、それは日本も例外ではない。日本においては実質上、仮想通貨交換業の届出をする、もしくはその業者と契約しないとICOは違法状態になっており、金融庁の監視が強化されている。またアメリカでは著名人が広告塔になるICOは米国証券取引法違反として規制の対象になりつつあり、米国証券取引委員会 (SEC) が監視を強めている。その意味で言えば、SPINDLE発行体法人と関係会社を英国王室直轄領ガーンジー諸島に設立すること、またGacktが本名とされる名前を出したのも、ICO規制回避、もしくは広告塔ではないというアピールなのかもしれないが、それで完全にICO規制回避ができるとは考えにくく、今後の動向が注目される。ちなみに「SPINDLE」のプロジェクトをバックアップする株式会社BLACK STAR&CO.とBullion Japan株式会社は昨年証券取引等監視委員会から行政処分を受けたドラグーンキャピタル株式会社と運営主体がほぼ同一であり、他にも掘れば掘るほど様々な情報が出てくるが、投資を考えている場合はそれらの情報も判断材料となるだろう。

ドラグーンキャピタル株式会社に対する行政処分について

Gacktのブログ記事について

【大城 ガクト】と【 仮想通貨 】

上記リンク先のGacktのブログ記事で書いてある「【仕事】と【投資】を必ずパラレルで持たなきゃダメ」というのはその通りだと思う。さらにいえば仕事は遊びであり、投資はお金がお金を稼ぐものであると言える。しかし現状のように実際の機能性と市場価値が乖離しすぎている仮想通貨を投資という言うのは難しいし、ICOを投資というのはもっと厳しいだろう。また彼の仮想通貨、ブロックチェーンに対する見解はかなりの大風呂敷を広げているように読めたが、結局は値上がりするという投資的な意味での市場価値の観点が中心になっている。しかし例えば技術的に言えばブロックチェーンはスケーラビリティの問題やハードフォーク祭りといった大きな問題を抱えているし、「金融犯罪も減る」というのはDark webなどではビットコインでの取引がなされ、犯罪組織を中心にマネーロンダリングが行われている現状を完全に無視した希望的観測である。また「銀行の建物」がなくなるというのもインターネットが普及すればテレビはなくなるというくらいの安易な予想だと感じる。もちろん銀行は斜陽産業であり、自然淘汰はされるだろうし、ATMはなくなるだろうが、投資ファンド、銀行、国家も続々と仮想通貨の世界に参入してくることは明らかだ。さらに財布や紙幣がなくなるというのも結果論に過ぎず、むしろ大事なのは中央集権的なプラットフォームを非中央集権的なプラットフォームがどう開放し、エコシステムを作り上げるのか、もしくは既存のシステムと折り合いを付けるかであり、そういった理想と現状の乖離、もしくは大きなグランドデザインを語ることなく仮想通貨に対する投資について語るのは片手落ちであると感じた。

「Gackt ICO」というパワーワード: 連載記事リンク

「Gackt ICO」というパワーワード 前編: 「SPINDLE」とは何か?

「Gackt ICO」というパワーワード 後編: 「SPINDLE」のホワイトペーパーを現代思想とV系の観点から読み解いてみた

世界一のクリスマスツリーとほぼ日: 震災の鎮魂ビジネスと旧時代の広告モデルの終焉

「めざせ!世界一のクリスマスツリーPROJECT」とは何か?

世界一のクリスマスツリーとほぼ日については以前から気になっていたが、イベントとしては一段落付いたと思われるのでこのタイミングで言及しておきたい。そもそもこの件について知らない人に対して簡単に説明しておくと、このイベントは西畠清順というプラントハンターが発案者となり、「めざせ!世界一のクリスマスツリーPROJECT」として兵庫県神戸市で開催されたイベントになる。世界一が何を指すかの定義は何度か変更されており、当初は「人工ではなく、人が届けた生木のクリスマスツリーとして根鉢を含めた鉢底から葉頂点までの植物体の全長が史上最大」ということだったが、後に「オーナメントの数」に変更された。結果としては様々な不備があった結果、申請予定だったギネス記録は達成できず、世界一でもなくなった。また大量のオーナメントが取り付けの強度不足と強風の関係で落下し、一部は海に沈むことになってしまった。これは外部によって短期間だけ行われるプロジェクトが、現地にとっては後に続く環境破壊に繋がるという意味で、オリンピックによる環境破壊の問題と関連させて考えさせられる部分がある。またこのイベント全体のコンセプトは24時間テレビ 「愛は地球を救う」と相似形であると言えば、一言で多くの情報が伝わるのではないかと思う。

プロジェクトの時系列年表

プロジェクトの時系列年表は以下のウェブサイトの情報が参考になる。

世界一のクリスマスツリープロジェクトの時系列年表

世界一のクリスマスツリープロジェクトの時系列年表2017年12月15日〜

このプロジェクトに関してはコンセプト、木の種類、樹齢、経緯、やり方などを含め様々な虚偽、後付けの変更などがなされてきたことが一目瞭然で分かる。そもそも木を伐採することの是非については、人々は日常的にその恩恵を受けているし、木を伐採することがエコシステムにとって必要であることは確かだ。しかし今回の世界一のクリスマスツリーPROJECTを中止して下さいに代表されるような運動は、そういった論理で割り切れない違和感の表出であるのと同時に、そもそもの虚偽、後付けの変更などに対する不信感と、やり方の杜撰さを含めたものであり、一言で言えばそういったものを覆い隠すはずだった大きな物語の構築に大々的に失敗していることの表れであると思う。またこのプロジェクトに関して語ろうと思えば無限の切り口があり得るのだが、際限が無くなるので、今回は「鎮魂」と「広告」という部分に焦点を絞って論じてみる。

震災の鎮魂ビジネス

後付けのコンセプト

今回のプロジェクトではそのコンセプトが当初から二転三転しており、時系列年表を眺めていると、伝えたいメッセージは特に無かったということが良く分かる。つまりコンセプトは後付けなので何でも良かったと推測できるが、今回のイベントを震災の鎮魂と結びつけたのは最大のミスだった。神戸開港150年記念と結び付けていただけならまだ良かったが、こちらの方も辻褄合わせのために樹齢150年という願望に基づいた虚偽の情報を発信していたのは問題があるだろう。また改めて言うまでもないが、震災の鎮魂とビジネスを結びつける事業はこの世界のあらゆる事業の中で最も難易度の高い事業の一つだ。西畠清順は営利目的ではないという発言も行っているが、営利目的であることがあたかも悪いことのように言うのも止めてほしいし、名は体を表すというように「世界一のクリスマスツリー」という言葉自体が自身の言葉の反証として有効に機能してしまっている印象を受ける。

的外れな免罪符

震災の鎮魂というコンセプトを扱うことに対する西畠清順による免罪符は、彼自身も震災の被災者であるということだ。だがそこは問題ではなくて、震災について語る資格は被災者にも被災者以外にも平等にある。ここで気を付けなければならないのはむしろ、同じ被災者であるからといって必ずしも意見が一致するとも限らないし、それぞれの被災者はそれぞれ全く個別で異なる体験と鎮魂に対する想いがあるという想像力だ。その個別の体験と鎮魂に対する想いを一つの象徴として表現するためには綿密なリサーチに基づいたコンセプトと表現の強度が求められる。つまりこれは不謹慎だからやってはならないという次元とは全く異なる次元の問題ということだ。震災の鎮魂を扱うのであれば何をどうやろうが不謹慎という言葉から逃れることはできないが、むしろ大切なのはそういう声が一部にあったとしてもやるべき必然性と意味があるかどうかだ。つまり一言で言えば今回のように後付けのコンセプトで扱える問題では到底なかったということになる。

「輝け、いのちの樹」
「愛は地球を救う」

西畠清順に震災の鎮魂という重いテーマを扱う資格がないことは、彼自身が付けた「輝け、いのちの樹」というキャッチコピーを見ればすぐに分かる。このキャッチコピーを見た瞬間に、さすがにプロのコピーライターである糸井重里の仕事ではないだろうとは思った。例えばこのキャッチコピーは「愛は地球を救う」というキャッチコピーに匹敵するほど底が浅い。「愛は地球を救う」に関して言えば、アガペーに到達しない「渇愛」こそが「争い」や「差別」の根源であり、「愛」があるから人は人を殺せるという事実を全く考慮に入れていない。それは例えば自分が「愛」していると思っている人がテロリストに人質に取られ、そのテロリストを殺さなければその人は確実に死ぬという前提があった時に、自分はそのテロリストを殺すのか殺さないのかという問いからも想像することができる。殺すのであれば他の人から「愛」されていた可能性のあるテロリストより自分が「愛」している人の命を優先したことになるし、殺さないのであればテロリストを含めた万人に対する「愛」という意味ではアガペーに到達しているのかもしれないが、結果としてテロリストは人質を殺す、つまり命に優先順位を付けることで「愛」を証明することになるだろう。

「生命の樹」

「輝け、いのちの樹」と聞いたときに真っ先に連想したのは「生命の樹」である。これは旧約聖書の創世記に出てくるエデンの園に植えられた木のことであり、宗教上の象徴的な意味合いを持つ。今回のイベントではクリスマスというイエス・キリストの降誕祭を祝うイベントに関連づけられている以上、この連想には特に突飛な飛躍があるわけではない。仮に西畠清順が「生命の樹」を知らなかったということであれば勉強不足であるが、知っていた上で「いのちの樹」という言葉を使用し、後にその木を伐採することでどのような冒涜的なメッセージが表現されてしまうのかということを分かってやっていたのなら相当悪質である。また当初フェリシモで販売予定だったあすなろメモリアルバングル「継ぐ実」は販売中止になったので、最終的に伐採された木は木材として生田神社の鳥居になる予定だ。ただこのように様々な宗教が無秩序に混じった感覚は神道的なものであると思うと同時に、震災の鎮魂やキリスト教というセンシティブな領域に土足で踏み込み、自らの不勉強で浅いコンセプトの元に象徴を作り出し、それを粗雑に扱う様と想像力の欠如は見ていて不快になるものだった。

旧時代の広告モデル

マスメディアとキャッチコピーの衰退

次に震災の鎮魂ビジネスと地続きでもあるが、旧時代の広告モデルの話に話題を移行する。今回のプロジェクトでは批判の声が何故ネットを中心として大きくなってしまったのかを考えてみると、旧時代の広告モデルに依存しているからだと考えられる。旧時代の広告モデルとは要するにテレビ、新聞を中心としたメディアによる、事実に基づかないキャッチコピーを着せ替えることで盛り上げる広告モデルのことだ。ネットが根付いていない時代はテレビ、新聞によって情報を拡散し、事実に基づかない情報でも、数の論理でねじ伏せることが可能だった。しかし今はリサーチすれば事実か虚偽かどうかは大体分かるようになっているし、後付けの変更なども経緯を辿っていけば分かるので、SNSやブログなどを通してすぐに情報が拡散されてしまう。よって現代に有効な広告モデルとは生体情報などを含めたビッグデータに基づく広告、もしくはXRなどの技術を含めたリアリティの高い広告ということになり、旧時代の言語を主体としたキャッチコピーによる広告モデル自体に無理が生じているのかもしれない。

老害化する糸井重里
糸井重里のTwitterと『今日のダーリン』の引用

糸井重里という人物は尊敬に値する仕事を数多くこなしてきた人物なので、このように書くのは非常に心苦しいが、今回の件で糸井重里は老害化したと判断せざるを得なかった。その判断の元となった彼のTwitterの発言とほぼ日のウェブコラムである『今日のダーリン』で書かれていた内容を以下に引用する。

「冷笑的な人たちは、たのしそうな人や、元気な人、希望を持っている人を見ると、じぶんの低さのところまで引きずり降ろそうとする。じぶんは、そこまでのぼる方法を持ってないからね。」

「そうだそうだ、ほんとにどーーでもいいクソリプだっけ?に取られる時間はもーーーーたーーーいへんなもんだからさー、じぇったいに迷惑わくわくで困っちゃいますったらありゃしないですよねー」

「思えば『あら探し』だらけの世の中で、あらを探される側になっているということは、ものすごいことだよ、と言えるよ。がんばれ、『あら探されてる』やつら」

これらの内容が仮にこの件に関して言っているのではなく、極めて一般的な事柄に対して言及している発言であったならば、言い方の問題はさておき、むしろある程度賛同する内容ではある。確かに自己評価の低い人は自分の評価を上げるより、自己評価の高い人を引きずり降ろす方向にエネルギーを使う傾向にあり、そのメカニズム自体はホメオスタシスとエフィカシーの概念を使用すれば説明できるからだ。しかしこれらの内容が今回の件の批判に対する彼の心情の吐露であることは前後関係からある程度明らかであり、そうであったとしたら残念なことである。

老害の三つの条件

老害の条件を満たすには以下の三つの条件を満たす必要がある。

・過去に偉大な業績を成し遂げたことがある
・高齢者であり、権力を持っている
・過去の成功体験に基づいたやり方を実行し、時代と合わないために失敗するが、それを認めることができない

最初の条件については糸井重里は広告業界での華々しい業績があることから満たしている。次の条件も彼は65歳以上の高齢者であり、「株式会社ほぼ日」の代表であることから満たしている。もちろん偉大な業績、高齢者、権力の定義にもよるだろうが、これらに関しては極めて一般的な視点から判断している。問題になってくるのは最後の条件であり、この条件を先程引用した内容が満たしてしまっていると感じた。そもそも成功者と呼ばれる人たちは一般常識からは考えられない発想から行動することで成功を手にした人が多い。そのために常識に抗うことを一種の誇りとしているだろうし、それはイノベーションを起こすための必須条件なので悪いことではない。しかし本人の能力が落ちる、もしくは時代と合わなくなってきた時にそのやり方を変えずに貫いてしまうと、そのずれが今度は本当に通用しなくなっていることに気付かずに、過去に自分が抵抗してきた無理解の壁と同様のフレームワークで一括りにして雑に扱ってしまうことになる。だからこそ能力のある成功者ほど高齢者になると老害になる可能性が高いのだ。

今回の件では正しくそのずれが表面化しており「冷笑的な人たち」、「クソリプ」、「あら探し」という言葉は解像度が低く、物事の複雑性を雑にまとめ上げた結果出てきた言葉であるように見えた。西畠清順の発言にも感じたことだが、基本的にネット上の発言とリアルの発言を分け、ネット上の発言をリアルではないように扱う傾向も見えたが、そもそもネット上の発言とはリアルな人が書き込んでいる意見でもある。旧時代の広告モデルの代表として一つの時代が終焉したことと、時代の流れと言葉の感性に対して彼が鈍感になってしまったことが重なり、糸井重里は老害化したという結論に至った。一言断っておくと、老害という言葉にはそもそも揶揄の意味はない。また年齢が明確に判断基準に入ることへの抵抗と、かなり過激な印象を与える言葉でもあるので、最初は耄碌という言葉を使おうかとも考えた。しかしコピーライターである彼が「冷笑的な人たち」、「クソリプ」、「あら探し」といった言葉を安易に使用することに驚くと同時に、それは同時にほぼ日のブランドも毀損していると感じた。なのであえて老害という言葉を使用したが、彼が再び目を覚ます日は来るのだろうか。

今回の記事のまとめと植民地支配の問題

今回の記事のまとめ

今回の記事をまとめると、まず「めざせ!世界一のクリスマスツリーPROJECT」は虚偽や後付けの変更などが多く、全体的に肯定できる部分が少ない。また震災の鎮魂をビジネスとして扱うには余りも底が浅く、西畠清順には信仰の領域に踏み込めるだけの力もない。さらに旧時代の広告モデルを使用しているために様々な点で無理が生じ、糸井重里の老害化と積み上げてきたほぼ日ブランドの自らの手による毀損という悲しい事態も発生した。「鎮魂」の問題に関しては今回の件とは全く次元が違うが、掘り下げていけばChim↑Pomによる「ヒロシマの空をピカッとさせる」や、東浩紀が発起人となった「福島第一原発観光地化計画」などが直面した問題とも繋がるはずで、実は相当に根深い問題であり、結論は出ない。なのでやるならやるでもっと徹底的にやれば何か重要な知見が得られたかもしれないが、今回のようなやり方ではただ無闇に傷口を開いただけで終わる。「広告」の問題に関しては一つの時代の終焉であった共に、これから「広告」の形態がダイナミックに変わっていく必要性を感じた。現実と虚構という二項対立が無効化された現代においては、最早「物語」は有効な手段たり得ないし、虚構に虚構を重ねてもそのメッキは簡単に剥げてしまう。

植民地支配の問題

最後に植民地支配の問題について触れて終わる。以前から「天野尚 NATURE AQUARIUM」と「Cosmos -光と音が奏でる138億年」: オリエンタリズムの呪縛などの記事の項目に代表されるように何度も話題に出している植民地支配の問題というものがあり、それは今回の問題とは無関係ではない。そもそも今回のような件があると、プラントハンターという肩書き、職業自体が植民地支配の安易な肯定の上に成り立っていると解釈されても文句は言えない。異境の地における珍しい植物を現地から奪い、先進国の土壌で自分たちの都合に沿ったレッテルを貼り付けてビジネスにする。その搾取の構造はアフリカの仮面を現地から奪い、アメリカという先進国でアートとして展示した過去の歴史と驚くほど似通っている。その上から目線の植民地支配における搾取の構造に対してまず自覚的になり、その構造自体を改めない限りこの問題は続くだろうし、解決することは永遠にないだろう。自己洗脳を繰り返した挙げ句に我に返らないことを決めてしまった人たちに対してかける言葉は未だに見付からないままだ。

「石版を丸呑みする回転木馬」の展覧会開催

展覧会、イベントの開催日程の変更

新しい日程

2017年12月26(火)から遂に「石版を丸呑みする回転木馬」の展覧会が始まった。以前書いた「石版を丸呑みする回転木馬」の制作初打ち合わせという記事では「展覧会の開催日程は2017年12月26日(火)〜2018年1月31日(火)を予定している。またイベントの開催日程は2018年1月13日(土)と2018年1月27日(土)を予定している。」と書いていたが、それぞれの開催日程を変更したのでお知らせしておきたい。新しい日程としては「展覧会の開催日程は2017年12月26日(火)〜2018年3月31日(土)まで。またイベントの開催日程は2018年2月24日(土)と2018年3月31日(土)を予定している。」

その他の注意点

また毎週水曜日は定休日で、基本的には午後1時〜午後8時までオープンしている。年末年始の休業に関しては2017年12月29日(火)〜2018年1月12日(金)まで休業。基本的には全期間Open Studio方式であり、確実にNILが在廊していてほしい場合、もしくはダイナミックサイクルがオープンしているかどうか不安な場合は事前にContactまで問い合わせしてもらえれば対応できるので連絡してほしい。もちろん事前連絡なしに来てもらってもOK。作業風景、展覧会が作られていく様子が観たい場合は会期の早め、完成した展覧会が観たい場合は会期の遅め、面白い体験をしたい場合はイベントの開催日に来ることをお勧めする。流動性の高い展覧会、イベントなので今後も予定が変更される可能性もないとは言えないが、その際はまたブログで報告する。

展覧会、イベントの開催日程の変更

今回は最後に幾つかの作品制作中、展覧会設営中の断片的なイメージを掲載して終わろうと思う。もちろんこれらは未完成の実験としてやっている最中のものであって、最終的には全く別の形になる可能性がある。最終的にはダイナミックサイクルの内装を含めて完全に生まれ変わらせる予定なので、作品だけではなく空間としても観てほしい。コンセプトとイメージの強度が均衡していることは作品、展覧会にとって大事な要素であるが、今回はコラボレーションとして上手くその部分が有効に機能しているように感じている。またアーティストであると共に企画、キュレーションも担当していることから、言語のみを手段とするとは限らないが説明責任は果たそうと思っている。そういった内容を知りたい方は是非トークイベントに来てほしい。会期中は作品、展覧会、イベントの内容もブログで取り上げるようにしようと思っているが、実際に現場で観る場合と文字情報のみでは情報の質、量共に全く異なるので、NILOG読者の方には是非現場に来て観ていただければと思っております。

サンタクロースからのクリスマスプレゼント

仮想通貨の相場の大暴落

世間ではクリスマスということだが、仮想通貨の相場ではクリスマス休暇前、もしくは税金対策としての年末年始利確前の大暴落によって思わぬクリスマスプレゼントが配達された、もしくは奪われた模様だ。自分としては大暴落直前に売り抜けていたので余りダメージはなかったが、毎年この時期は同様の現象が繰り返されることが予想されるので、この時期は基本的にはリスクヘッジと買い増しのためにFiatの割合を増やす、もしくは全額利確して待つ方が良い。大暴落すれば一時的に反発で上がるので、底を見極めて買い増し、反発の頂上で売ることができれば資産を増やすことも可能だろう。安全性を考えるならクリスマス・イヴの数日前から大暴落が始まると考えるとその前に一旦利確してしまい、年が明けて暴騰が始まる直前のタイミングでもう一度相場に入るというプランも良いのかもしれない。

サンタクロースからのクリスマスプレゼント

さて話は変わるが今年のクリスマスはNILのほしい物リストを公開していたところ、サンタクロースが訪れてクリスマスプレゼントを置いていってくれた。まずはプレゼントの量に大変驚いた。またプレゼントは何をもらっても基本的に嬉しいものだが、どれも特に欲しかったものが選択されていて非常に嬉しかった。内容としては睡眠欲、知識欲、食欲がそれぞれ刺激されるプレゼントになっていて、リラックスしながら知識を深め、腹も満たすことができるという極上の布陣になっている。プレゼントは今後ブログでレビューすることがあるかもしれず、本については両方取り上げる予定。

「石版を丸呑みする回転木馬」の展覧会の準備

最近は「石版を丸呑みする回転木馬」の展覧会の準備のために、毎日のようにダイナミックサイクルを訪れて作業していた。クリスマス・イヴとクリスマスもそういう訳でダイナミックサイクルで作業しながら過ごしたわけだが、リトグラフを刷る作業は一つのボトルネックが発生すると何もできなくなる状況が生じることがある。そういった状況にここ数日連続してはまっていたが、その状況も手と頭を同時にフル稼働していく中で今後改善されていくのだろう。基本的には展覧会はOpen Studio方式になる予定で、会期中も常にダイナミックサイクルで作業をしているという状況になりそう。主に内装に使用する材料や道具などのリサーチも大方済んだので、注文する商品が届き次第そちらにも手を付けていく予定だ。

シンギュラリティへの道のり: 「Alphazero」の時代/ロボットの進化/子AIの誕生

シンギュラリティへの道のり

今回の記事はシンギュラリティへの道のりということで、今年話題になったAI、ロボットに関連する三つの話題について書いてみようと思う。実際これらの成果は驚くべきものであり、人によっては既にシンギュラリティが来ていると解釈する人も出現している段階になっている。そもそもAIやロボットは人間とは全く違った時間軸に存在していると言える。何故そう言えるかというと、一つにはAIやロボットはバージョンアップを繰り返すことで、人間では再現不可能な不死という概念を体現しているからだ。もう一つの理由を挙げるとすると、AIやロボットは学習速度の早さに代表されるように時間を圧倒的に稠密化しているからという理由も挙げられる。不死の概念は時間軸の拡張だが、稠密化は単位時間当たりの密度が高いことを意味する。これらの性質を考えると、社会的には一旦ブレイクスルーが起きると一気にあらゆる面での変化が促される可能性があり、その発端は実はもう既に起こり始めている可能性すらあるということだ。今回はその観点から選別した三つの話題を紹介する。

「Alphazero」の時代

「AlphaGo Zero」の衝撃

Google DeepMindによって開発された「AlphaGo Fan」が、ヨーロッパの囲碁チャンピオンである樊麾を5勝0敗で打ち負かしたのは2015年10月のことだった。次に「AlphaGo Lee」が、世界トッププロ囲碁棋士の一人である李世乭を4勝1敗で打ち負かしたのは2016年3月のことだった。続いて「AlphaGo Lee」の改良版である「AlphaGo Master」が、人類最強の囲碁棋士とされる柯潔を3勝0敗で打ち負かしたのは2017年5月のことだった。さらに2017年10月に発表された「AlphaGo Zero」は3日の学習で「AlphaGo Lee」を抜き、21日の学習で「AlphaGo Master」のレベルに到達し、40日の学習で過去全てのバージョンのレベルを超えた。ちなみに「AlphaGo Zero」の対戦成績としては「AlphaGo Lee」に対しては100勝0敗であり、「AlphaGo Master」に対しては89勝11敗だった。「AlphaGo Zero」が従来の「AlphaGo」と大きく違う点はその学習方法であり、従来の「AlphaGo」は過去の棋譜やビッグデータを学習方法に取り入れていたが、「AlphaGo Zero」は自己対局のみで学習する点が異なる。良かれと思って学習させていた人類の対戦データが、逆に学習に邪魔だったという事実は非常に示唆的な事実であり、実際にそれらのデータを学習させた「AlphaGo Zero」は、そうではない「AlphaGo Zero」と比較して弱いという結論が出ている。

「Alphazero」の時代
汎用バージョン

しかし「AlphaGo Zero」の衝撃で話は終わらなかった。「AlphaGo Zero」に続いて開発されたのが、「Alphazero」である。これは「AlphaGo Zero」から「Go」が取り除かれていることから分かるように、「AlphaGo Zero」の汎用バージョンのコンピュータプログラムである。「Alphazero」は24時間以内の学習で囲碁最強ソフト「AlphaGo Zero」、チェス最強ソフト「Stockfish」、将棋最強ソフト「elmo」にそれぞれ勝利した。囲碁、チェス、将棋に関してはある程度似通った部分があるため、それぞれのトッププロが違うゲームをしてもある程度の強さを見せる場合はあるが、どのゲームにおいても最強のレベルに到達するというのは人類では既に到達不可能な領域に突入していると言えるだろう。

「二人零和有限確定完全情報ゲーム」

そもそも囲碁、チェス、将棋は「二人零和有限確定完全情報ゲーム」であり、これは偶然に左右されないゲームになる。偶然に左右されないゲームはAIが最も得意な領域だ。この土壌において人類 vs. AIという勝負が成り立っていた時代は既に過去の昔話になってしまった。もちろんそれによって羽生善治「永世七冠」などの人類としての偉業の価値が変わることは全くないのだが、例えば市場におけるAIの高頻度取引に人類の勝ち目がないのと同様に、「二人零和有限確定完全情報ゲーム」においては人類とは全く別次元のゲームが今後展開されていくことになるということだ。そういう意味ではやはりオリンピック、パラリンピックの他にAI、サイボーグ、ロボットなどが競う大会はあっても良いし、人類との協力プレイなどがルール整備と共に流行していくべきだとも思う。また偶然に左右されることもある「不完全情報ゲーム」のポーカーにおいて、Carnegie Mellon大学が開発した「Libratus」というAIが勝利したという結果も出てきており、今後「不完全情報ゲーム」においてどこまでAIが強くなれるのかにも注目が集まっている。

ロボットの進化

「Atlas」と「SpotMini」と「FEDOR」

次に紹介するのはBoston Dynamicsが開発した「Atlas」である。上記の動画は既に観たことがある人も多いかもしれないが、「Atlas」が完璧なバク宙を決める姿は何度観ても格好良い。また動画の最後の部分では映画のNG集みたいなおまけもあり、お茶目な「Atlas」を垣間見ることもできる。こういったロボットの利用用途として真っ先に容易に考えつくのはペットと軍事利用だが、ペットとしては以下の動画の「SpotMini」の方がかわいいかもしれない。

また軍事用ロボットに関しては以下の「FEDOR」が二丁拳銃を披露している動画が有名だ。「FEDOR」はロシアが宇宙用という名目で開発しているロボットであり、ドミトリー・ロゴージン副首相はTwitterで「私たちはターミネーターではなく、AIを作っているんです。」という趣旨の発言をしていたが、真相は闇の中である。

AI、ロボット脅威論

こういったAI、ロボットについてはかねてよりイーロン・マスクが脅威論を唱えてきており、規制が必要という声も根強い。実際彼を含めた数多くの有識者たちが国連に対して公開書簡を提出している。個人的な考えとしては一般的に良くあるようなAIが進化を繰り返す中で自発的に自我が生まれ、それが脅威になるというようなテクノフォビア的な立場には賛同しかねる。何故かと言えばあくまで「殺人ロボット」は悪意を持った人によってプログラミング、クラッキングされた結果起こり得るのであって、AI、ロボット自体が人を殺すわけではないからだ。ただどのような形であれ、近い将来ロボットが結果として人を殺す事件が起こる可能性は高いだろう。というより例えば現代の戦争はほとんど情報空間で行われており、自動操縦が主流であることを考えると既にその時代は始まっていると捉えることもでき、将来的に国際的な規制が行われないのであれば自律型の「殺人ロボット」が軍事用ロボットとして実戦配備される可能性は非常に高い。2017年11月28日には「殺人ロボット」に関する初の国連公式会議が開かれたが、国連の規制には一定の効果しかないので、やる国はやるのだろう。個人的に一番怖いのはクラッキングであり、これは以前から言及しているように自動運転者やIoTなども含めたクラッキングによって、日常生活空間がサイバーテロの危険に晒される未来はそう遠くないと感じている。

子AIの誕生

Google’s Artificial Intelligence Built an AI That Outperforms Any Made by Humans

「AutoML」

最後に取り上げたい話題は、Google Brainが開発した「AutoML」が、人類が作成したAIよりも精度の高い子AIの作成に成功したこと。この時点でシンギュラリティが開始されたと判断した人もいたみたいだが、調べてみた結果まだそこまでは到達していないという印象を受けた。何故かと言えばシンギュラリティと認められるためには最低でも後述する2点を満たさなければならないが、現状はそのどちらの条件も完全に満たしているとは言い難い状況だからだ。

シンギュラリティの定義

シンギュラリティの定義としては以下の2点が重要になる。

1. 人類を超越する知性を持つこと
2. 再帰的にその知性が増幅されるシステムが確立すること

人類を超越する知性を持つこと

1に関しては人類はそもそも知性を定義できておらず、それが可能なのかどうかも分からない。それは何が知性なのかという知性のあり方の多様性の問題と、知性を定量化して測定することが難しいという問題による。個人的には以前から何度か言及しているように、より高い知性を持った存在による知性の定義がより確からしい定義であるという考え方を持っているが、その考え方を採用したとして、そのより高い知性はどうやって決定するのかという問題は残るし、その考え方自体が間違っている可能性もある。そういう意味では人類を超越する知性の定義がそもそも不明な以上、1を見極めることは不可能に近い。ただ一つ言えるのは、「二人零和有限確定完全情報ゲーム」で人類に勝つ能力、画像認識AIを作る能力で人類に勝つことが、必ずしも人類を超越する知性が誕生したとは言えないということだ。そもそもある特定の能力で人類に勝てば良いのであれば、普通の人類は電卓にすら勝てない。

再帰的にその知性が増幅されるシステムが確立すること

また2に関しては今回の件では明確にまだ満たされていない。再帰的にその知性が増幅されるシステムが確立するということは、最低でも「「AIを作成するAI」を作成するAI」が必要であり、例えば「「「「「AIを作成するAI」を作成するAI」を作成するAI」を作成するAI」を作成するAI」のようにその入れ子構造的に伴い、半永久的に精度が上がっていかなければならない。確かに人類が作成したAIよりも精度の高い子AIの作成に成功したこと自体は素晴らしいことであり、再帰的な知性増幅システムが作られる日もそう遠くはないのかもしれないが、現状ではこの条件を完璧に満たしているとは言えず、また限られた分野でのことであるという事情がある。ただ一旦そういったシステムが確立してしまえば、成長速度は驚くほど早いだろう。

今回の記事のまとめと今後の展望

今回の記事の最初の項目ではまず「Alphazero」という「AlphaGo Zero」の汎用バージョンのコンピュータプログラムについて紹介した。「Alphazero」の登場により、「二人零和有限確定完全情報ゲーム」における人類 vs. AIの勝負は過去のものになり、これからは両者の共存の道を探っていく方が良いというのがここでの結論だった。次に最先端のロボットの紹介として「Atlas」と「SpotMini」と「FEDOR」を紹介した。確かにこれらのロボットは様々な利用用途が考えられ、大変有用なものであるが、一方でAI、ロボット脅威論のようにテクノフォビアという範囲だけでは捉えられない脅威が存在していることも確かだ。最後の項目では子AIの誕生として「AutoML」を取り上げた。この達成は素晴らしいものだが、シンギュラリティの定義に沿って言えば、この成果から短絡的にシンギュラリティが既に実現していると言うことはできない。

今回の記事はクリスマス・イヴの記事としてアップしたが、人類にとってAI、ロボットがプレゼントになるのかどうかは今後の人類の考え方と行動次第である。今回の記事のタイトルはシンギュラリティへの道のりとしたが、シンギュラリティは一度決定的なブレイクスルーが起こると爆発的な速度で一気に世界を変えていくと予想されている一方で、その始まりは案外地味な部分で着実に身の回りで起こっているのかもしれない。そう考えるとAI、ロボットの話題はこれからもますます注目していくべき対象であるし、こういった時代におけるSFとは何かという視点で考えてみるのも面白い。今後シンギュラリティが夢物語で終わるのか、それとも具体的なリアリティを提供してくれるのかは分からないが、どちらの方向に行くにせよ今からその未来が来ることが楽しみでならない。

#MeTooがダメな三つの理由

構造的な問題

「告発」の権利

今回は先日はあちゅうによって日本でも話題になった#MeTooがダメな三つの理由について書いてみたい。既に結論はタイトルに書いているわけだが、勘違いしてほしくないのはセクハラ、パワハラに対する「告発」の権利は保証されるべきであるし、そのシステムを整えることは急務であるということだ。しかし#MeTooのような「告発」の仕方には構造的な問題があり、その構造的な問題を放置したまま話を進めてしまうと、実際には今までのシステムを逆に補強してしまうという本末転倒な結果になりかねない。そういう意味で「告発」に関してはどんどんしていくべきなのだけれど、以下に述べるような構造的な問題を解決しないと本当の意味での問題解決にはならないということについて今回は書いてみたい。

構造的な問題

#MeTooの「告発」の仕方は実は構造的には松居一代の行った一連の「独白」と相似形である。もちろん実際に被害に遭った可能性の高い#MeTooの「告発」と被害妄想が強いと思われる松居一代の「独白」は完全に同一視することはできないが、SNSを含むインターネット上のサービスを活用したセンセーショナルなやり方という点では構造的な共通点が多い。この方法は注目を集めやすい反面、問題提起から問題解決へどう繋げていくのかという観点での話が余りなされない傾向にあり、実際には社会的な構造にその問題解決をするためのシステムをどう実装していくのかという話し合いの方に時間を割かなければならないはずだが、そういった議論にはなっていない印象を受ける。

#MeTooがダメな三つの理由

そこで今回はその構造的な問題に付随する#MeTooがダメな三つの理由を書き、最後にその内容を踏まえた上で記事の結論をまとめてみようと思う。

ファクトチェックよりエモさが重要視される
ファクトチェックとエモさ

先程も書いたように#MeTooではSNSを含むインターネット上のサービスを活用したセンセーショナルな「告発」の仕方を取っているので、基本的にはそのプラットフォームの性質をそのまま構造として引き継ぐ形になる。またそういった場では「Post-truth」に代表されるエモさへの最適化が行われているので、ファクトチェックは二の次としておざなりになる。しかし「告発」するからには双方の言い分を客観的な事実により判断するファクトチェックが必要になってくる。それは何故かと言えば誰かが誰かを「告発」した段階ではまだその相手に容疑がかかった段階であり、容疑者 = 犯罪者でないのと同様に、「告発」における被害者と加害者の言い分が完全に正しいと決定したわけではないからだ。そういう意味では加害者とされる人物にも公平に反論の機会を与える必要があるが、その話し合いの場にSNSを含むインターネット上のサービスは向いていない。

魔女狩りの場

これを別の観点から言えば、昔で言えば2chという魔女狩りの場が目立っていたが、現在ではSNSや動画配信サービスなどが魔女狩りの場として機能し始めているということだ。そういった場においてはフォロワー数を含む人々のエモさの集積が発言者の後ろ盾になるので、事実かどうかという判断基準はほとんど機能しない。そういう意味で言えば現代における裁判は既に裁判所では行われていないのは自明のことだが、「告発」に対する「反論」の機会も含めて公平な場が与えられないのだとしたら、究極的には冤罪を生む構造に悪用されかねない。これは「告発」の内容が正しいか間違っているかという議論とは別にして、そもそも話し合いの場としてSNSを含むインターネット上のサービスは向いていないということだ。もちろん「告発」できる場がないから心の声を何とか絞り出して「告発」したという事情も察することはできるが、「告発」は相手を社会的に殺す行為でもあるのであり、この流れが加速していった先には最終的に別の大きな問題にぶち当たるように思える。

女性 vs. 男性という二項対立煽りが加速する

フェミニズムが重要な運動であることに疑いの余地はない。しかし女性 vs. 男性という二項対立を煽るタイプのフェミニズムには明らかに欠陥がある。そこに抜け落ちているのは正しくクィア理論に代表されるような性的マイノリティの議論であり、互いのレッテル貼りをし続けたところで問題が解決するわけでもなく、むしろ溝は深まっていくだけだろう。#MeTooに対する違和感はこの運動が基本的に女性 → 男性に対する「告発」の構造に固定化されつつあるということだ。もちろんそれだけに限らない活用をしている人もいるが、現状大多数の人々の間ではこの認識であるし、実態としてはその方向性になってしまっている。実際のセクハラ、パワハラにおいては男性 → 女性に限らず、女性 → 男性、女性 → 女性、男性 → 男性などの方向もあるし、LGBTQも含めて考えるとその方向性は実に多様である。確かにAffirmative action的な考え方で歴史的に男性 → 女性に対する圧迫が強いのでまずはそこに対して#MeTooを唱えて是正していくという方向性はあり得るが、いずれこの問題に向き合わなければならないことは自明であり、現状はどちらかと言えばその遙か手前の女性 vs. 男性に代表されるような二項対立煽りの状態になってしまっているように見えるし、いずれは女性以外の人が#MeTooと言いにくい社会構造も同時に存在しているという問題にも踏み込んでいかなければならない。

セカンドレイプ、ダブルスタンダードの問題を孕んでいる
セカンドレイプとダブルスタンダード

これはもしかしたら日本で特に強い傾向があるのかもしれないが、勇気を持って「告発」した人がSNS上などで逆にセカンドレイプを受ける。もしくは過去の発言を隅々まで洗われ、ダブルスタンダードであるとして糾弾を受ける傾向にある。例えばはあちゅうの「告発」の直後はその勇気を賞賛する発言の方が多かったように思うが、日にちが経つにつれて過去の「童貞いじり」発言を攻められ、最終的には取り消したものの、謝罪する事態にまで追い込まれた。これは政治家になった瞬間に過去に遡って行動や発言を全てチェックされ、引きずり下ろしたいタイミングでスクープネタとして出されるのと同様に、注目される手法を取った以上ある程度は避けられない。

「告発者」の保護

むしろ「告発者」をセカンドレイプから守るため、もしくはダブルスタンダードの問題と一旦切り離して問題に向き合うために「告発者」を守るための仕組みを社会実装する必要があるのだが、SNSを含むインターネット上のサービスでの「告発」は「告発者」を守るという視点から見ると全く機能しない。当然加害者とされる人物に対しても守られないという意味で、誰も得しない行動になってしまう恐れがある。実際に今回のはあちゅうの受けた仕打ちを見て、結局「告発」することは損であり、「泣き寝入り」するしかないと思ってしまった人が多かったとするならば、それは結果として「告発」の芽を摘む、もしくは社会実装の機会を逸するという意味で逆効果になってしまう恐れがある。

上記の内容を踏まえた上での結論

以上が#MeTooがダメな三つの理由になる。他にも非公開などのプライベートなメッセージのスクリーンショットを公に晒すことの是非や、「告発」する権利もあれば、「告発」しない権利もあるといったような論点もある。前者に関しての是非は断定しないが、自衛手段としては基本的にインターネット上の全ての情報は公の情報と思って運用するべきであり、それはSNSだろうがプライベートなメッセージだろうが同様である。後者に関して言えばLGBTQにおける「カミングアウト」という概念がどこからどう見ても他者の視点からの捉え方であるのと同様、「告発」に関しても自分の好きにすれば良いだろう。もちろんその「告発」の仕方については考える必要があるが。今回は岸勇希に#MeTooを突きつけたはあちゅうが、童貞を含むネット民に#MeTooを突きつけられたという構図であり、良かれ悪しかれフリードリヒ・ニーチェの言う「怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。」という言葉が思い出される。また心の傷は主観的な問題であり、他人と比較するものではないし、他人にどうこう言われる問題でもない。以前言われたことがあり今でもずっと気になっているのが、心の傷の重さ、病の深さを他人に測定され、重い、軽いというある種の断定をされたことである。これは他人が他人である以上絶対にしてはならない。心の傷は定量化してはならず、他人が軽々しく比較したり客観的に語ってはいけないものなのだ。最後にGHQの洗脳プログラムを受け継いだ電通は一刻も早く宇宙から消え去るのが人類のためであるという言葉を残して、筆を擱くことにする。

追記

日本での#MeTooの運動は伊藤詩織の一連の「告発」と地続きのものである。伊藤詩織に関しては問題が解決しているとは全く言い難い状況にあるが、海外の外圧を活用するというのは日本という国に対して一つの有効な手段である。それは例えば外国人の意見、海外の反応といったものが、実は全く同様のことを日本人が指摘していても無視するのに、日本の外からの意見だと急に貴重な情報として扱われるのと同様な理由による。以前村中璃子、「ジョン・マドックス賞」を受賞という記事で取り上げた問題に関しても、海外の外圧があるから多少は国内メディアを含む状況が変わってきたのであって、それがあるのとないのとでは同じ主張をしていても取り扱い方が天と地ほど異なる。本来は海外の外圧など抜きにして自分たちで評価軸を作ることが重要なのだが、それは教育のレベルで長い時間をかけて取り組まないと現実的には難しい。そういう意味では#MeTooに関しても英語での情報発信を含めた海外の外圧を積極的に活用していくことが一つの有効な手段としてあり得るのかもしれない。

『銃夢』の世界

『銃夢』について

『銃夢』の1〜9巻を読了した。『銃夢』は1990年代に連載を開始した漫画であり、続編としては『銃夢 LastOrder』、『銃夢火星戦記』があり、『銃夢外伝』も発売されている。さらに『銃夢火星戦記』に関しては現在も連載中であり、『銃夢』だけでも完結しているものの、シリーズとしては未だに完全に完結しているわけではない。個人的には完結していない作品に対して途中で紹介することはなるべく避けたい気持ちが強い。何故かと言えば物語は最初と最後が一番肝心であり、終わり方によっては全ての評価が覆る可能性すらあるからだ。ただしシリーズ物に関しては別で、シリーズごとに一応の完結をしている作品もあることと、『銃夢』に関しては9巻の終了の仕方がすっきりしたものだったので紹介することにした。ちなみに今回の記事はネタバレを含むということを事前に断っておきたい。また未読の『銃夢 愛蔵版』では結末が変わっているらしく、『銃夢 LastOrder』、『銃夢火星戦記』、『銃夢外伝』も未読だが、今後読む可能性があり、読んだ場合は別記事を書くか、追記する可能性もある。

『銃夢』のテーマ

「人間とは何か」

『銃夢』はSFに分類される作品だが、一つの大きなテーマは「人間とは何か」ということだろう。これは人間、サイボーグ、ロボットについて扱うSFではある意味避けては通れないテーマである。そして『銃夢』においてこのテーマは「非人間的」な人間、「人間的」なサイボーグ、ロボットという方向性が描かれることで、「非人間」と「人間」の境界線が曖昧になっていく。このテーマ自体は今となっては珍しいものではないが、ソケット兵の登場は衝撃的だし、脳を摘出した上での脳チップの埋め込みというのは「人間とは何か」という問いにストレートに挑んでいる。また「人間とは何か」というテーマ自体は近代的なものであるが、「非人間」と「人間」の区別がなくなる現代、近未来的な時代の次に、もう一度必然的に問い直されるテーマであることも確かだ。何故かと言えば「非人間」と「人間」の区別がなくなる時代においては脳が無いという事実を知って自殺してしまうザレム人とは違い、その予定調和性すら楽しむ人間が登場することが予想されるが、その問題は時が進むにつれてもう一度問い直さなければ人類は前に進めなくなるからだ。

「記憶」: 「完全性」と「不完全性」の問題

著者の木城ゆきとは人間を構成する根源の要素に「記憶」を置いている。確かに解離性同一性障害において「記憶」の分断がそのまま「人格」の分断に帰結することから考えても、「記憶」という要素は人間を構成する上で欠かせない要素である。しかし「記憶」とは元来曖昧なものであり、そこに揺らぎや改竄の余地がないとも言い切れない。その「記憶」という砂上の楼閣の上に夢や愛や正義感などの要素をインストールしていると考えると、人間とはいかに限られた視野の中で世界を構成しているのかという事実に絶望したくもなり、実際にその事実に絶望した人間たちによる容赦ない悲劇も数多く描かれている。一方でその脆い「記憶」を信じながら奮闘するキャラクターたちの姿も描かれており、これは抽象的に言えば「完全性」と「不完全性」の問題を扱っていると言える。つまり「完全性」には決して到達できない「不完全性」を持った人間が、自分の生きる世界ですら「不完全性」に満ちたものであると認識してしまった後に、それでも絶望に抗いながら希望を持って生き抜くことことができるのかという問題だ。

ガリィの存在の意味とメッセージ

そう考えると主人公のガリィが何故過去の記憶と現在の記憶が乖離した上で、サイボーグという人間とロボットの中間の存在として描かれているのかの意味も見えてくる。彼女は「非人間」と「人間」の中間の存在であり、格闘技術的には「非人間」に限りなく近接する一方で、「人間」として「記憶」を探し求める存在でもある。「記憶」を探し求める存在として描かれているということはつまり、「人間とは何か」を探し求める、もしくは体現する存在として描かれているということだ。登場人物たちとの交流や戦闘を通してガリィは少しずつ失われた人間性を回復、取り戻していく物語の構成になっており、故に物語が進むほどに面白くなっていく。世界は元々「不完全性」に満ちたものであり、人間もまた「不完全性」を持った生き物である。しかしたとえ世界が「不完全性」に満ちていたとしても生き抜いていく必要があり、ガリィの存在には人間はその「不完全性」を持つが故に決断に意味が宿るのだという著者のメッセージが込められているのかもしれない。

ハリウッド映画化

また『銃夢』は英語圏ではBattle Angel Alitaというタイトルで知られており、ハリウッド映画化されることが決定している。ちなみに主人公の名前である「ガリィ」は英語で「Gully」となり、「小渓谷」の意味になってしまうので、「Alita」に変更されたとのこと。全米での公開予定は2018年7月20日となっており、公式の予告編は以下から観ることができる。

この予告編を観た人々の間では、「Alita」の目の大きさが既に賛否両論を巻き起こしているらしい。日本の漫画、アニメがハリウッド映画化される流れは好きではないのだが、気が向いたら観てみようと思っている。個人的な興味としては神の「不完全性」を自然に扱える神道の八百万的な信仰が根付いた日本人と違い、神の「完全性」を厳格に扱う一神教的な信仰の根強いアメリカ人がこの作品のテーマを正面から扱えるのかということ。ハリウッド映画における神とは資本主義のことであり、その信仰を体現するためのツールとして『銃夢』のような物語が利用されているのだとしたら、それを観る観客の側は常に成人したザレム人 (脳無し脳チップ) になっていないか自問自答する必要はありそうだ。

銃夢
銃夢
著者: 木城ゆきと