『饗宴』: 「エロス」を巡る攻防戦

本書の特徴

『饗宴』はプラトンによって紀元前に書き起こされた書物であり、「エロス」に関するソフィストたちの哲学演説/議論を文学的に表現した作品になっている。もちろんプラトンは偏執狂的なソクラテスのストーカーなので、本書でもソクラテスの見せ場がふんだんにある。また本書は訳者の中澤務による解説が分量共に異様に充実しており、現代とは異なる時代背景と議論の流れのまとめを読むことで、より理解が深まる構成になっている。さらに訳者の言うように、本書では各登場人物のキャラ付けがはっきりしており、読者が登場人物をイメージしやすいことも特徴になっている。

各登場人物の演説/議論の超要約

各登場人物の演説/議論を一行で超要約すると以下になる。

パイドロス: エロスは素晴らしい、何故ならエロスは最も古く、人間の力になるから。

パウサニアス: エロスには2種類あり、前者が少年の性格を愛し、後者が女性の体を愛するのだとしたら、前者のエロス、つまりホモセクシュアルが尊い。

エリュクシマコス: エロスにはどこにでも存在すると共に、医術的には2種類あり、健康のエロスと、病気のエロスがある。

アリストファネス: 人は元々アンドロギュノス (両性具有者) が引き裂かれた存在であり、その完全性への憧れが男女のエロスを作った。

アガトン: エロスは美しく、徳があり、それらを求める。

ソクラテス: エロスの本質は美しくもなく、徳もないが、それらを永続的に求めるのは幸福を追い求めているから。

アルキビアデス: エロスよりソクラテスを賛美するが、ぼくを抱かなかったソクラテスの侮辱は許せないけれど、それはソクラテスがエロスの本質を良く理解していたからであり、エロスが生み出した悲しきモンスター、それがぼくだ。

演説/議論の流れと背景

演説/議論の流れ

最初の5人はエロスを自分ならではの視点で賛美している。パイドロスは教科書的に、パウサニアスはホモセクシュアル的に、エリュクシマコスは医術的に、アリストファネスは男女のエロス的に、アガトンは本質的に。それぞれの演説/議論は断絶したものではなく、話の順番なども含めて大きく影響している。しかしソクラテスは別格であり、いきなり「エロスを賛美する」というテーマ自体に対して異議を申し立て、ひっくり返してしまう。この辺りの技術は、確実に滑りそうな空気の時にはその前提自体を破壊することで、ルール自体を変えてしまう、もしくは滑っても笑いを取れるように土台を整えるベテランお笑い芸人のような技術を感じた。

「問答法」

彼はこれを有名な「問答法」を使用して行っているが、これは自分の主張というよりは相手の主張の矛盾点を突くことで、相手を「無知の知」に至らせるという手法だ。仏教では中観派が得意としている論法で、現代ではひろゆきが良く使用している論法でもある。一番大きなフレームワークとしての前提を疑い、相手の主張を用いながら対話し、相手自身に気付かせるという意味で、これは一種の待機説法とも言えるかもしれない。

演説/議論の背景

背景については解説に詳しく書いてあるが、一番誤解を生みそうな部分は、少年愛、もしくは少年性愛についての部分。当時は「パイデラスティア」という少年愛、少年性愛が普通だった。先程の超要約を読むと、本書に書かれている一部の内容はホモセクシュアル、もしくはBLの世界と直結して勘違いしていまいそうになるが、その現代特有の誤解と当時の常識に関しても解説で先回りして反論されている。当時の少年愛はある特定の期間のみ有効な師弟関係のようなものであり、自由というよりは厳密なものだったようだ。これはパターナリズム的な教育の究極形態といっても良いかもしれず、むしろパウサニアスの主張のような大人同士のホモセクシュアルは当時は非難の対象であったということだ。

古典を読む意義

古典を読む意義は沢山あるが、古典は堅苦しく、難しいというイメージが何故か蔓延している気がする。本書の内容としては大人たちが大勢集まって「エロス」について語り合っているだけの内容であり、まず思い浮かぶ感想としては「こいつら暇だなぁ」ということだ。さらに「パイデラスティア」に関してアルキビアデスからソクラテスとアガトンに対して嫉妬や怨恨がぶつけられる様は、まるでワイドショーを見ているかのよう。つまりそういう型という意味では昔も今も変わらないということであり、古典を読むことで長い時間を経ても普遍的である型を一気に概観することができる。また同時に「暇」は哲学の母であり、「暇」であるとは要するに豊かであるということも分かった。そういう意味では本書を読んでもっと「暇」になろうという決意を新たにした。

饗宴
饗宴
著者: プラトン
訳者: 中澤務

悲報3連発: 「iPhone SE」逝く/「東京駅開業100周年記念Suica」紛失/「発狂の名残」再発

悲報3連発

朗報も悲報も重なるもの。そして人生は諸行無常。何か良いことが起きた時にどれだけ気を緩めないでいられるか、もしくは何か良くないことが起きた時にどれだけ早く立ち直れるかは人生の習熟度を示すバロメーターである。ということで、今回は最近自分に起こった三つの悲報を書き記すことで自分の身に起きた出来事を客観視し、一刻も早く立ち直っていきたい。今回はそれらの個人的な悲報を供養するための記事である。

「iPhone SE」逝く

「SE」 = 「Short Existence」?

一体何が起こった?「iPhone 5」から「iPhone SE」へ「iPhone SE」と「Oakley Crosslink」「iPhone SE」とケースのレビューなどの過去記事のどれかを読んだことがある読者の方は、そう問うだろう。原因は不明だが、今朝目を覚ました時には既に「iPhone SE」は逝ってしまっていた。寿命約2ヶ月。天寿を全うしたとは言い難い。

故障の原因と保証

故障の一番の原因として考えられるのは雨。台風の日に外出して持ち歩いていたので、それが影響を与えたのかもしれない。しかし水没したわけではないし、「液体浸入インジケータ」への水分の侵入は確認されなかったから無償で新品と交換できたわけだし、本当の原因は分からない。「シリカゲル (乾燥剤)」の山と一緒に密閉することによって一時は復活するかとも思われたが、結局息絶えて交換となった。また無償交換できたのは「AppleCare+」のおかげと思ってはしゃいでいたら、実は1年以内は保証期間であり、こちらの過失がなければ無償交換は可能だったみたいだ。

その後の話

Apple Storeで新品をもらって店を出た後は速攻でSIMカードの「APN設定」をし、4Gを使用できるようにした。また外出中に必要だった幾つかのアプリをその重い回線でダウンロードし、家に帰ってiTunesでバックアップを復元したので今はめでたくほぼ元通りになった。今までは耐水/防水については余り重要視していなかったけれど、今回の件で「iPhone 8」、「iPhone X」、もしくは「Android」のように耐水/防水に対応した端末の方が色々利便性が高いと思ってしまった。もしくは耐水/防水のケースなどでも対応できそうだけれど、端末自体が対応していた方が安心感がある。

「東京駅開業100周年記念Suica」紛失

紛失のつらみ

むしろ「iPhone SE」よりこっちの方がショック。恐らく紛失してから30分以内には気付いたのだけれど、その間に行き来した場所を一通り探しても見付からなかった。既に周囲が夜で暗闇だったのも痛い。ちなみにこの「東京駅開業100周年記念Suica」を使用していると人に羨ましがられることもあるけれど、最終的には500万枚程度発行されたらしいからレア感は特にない。ただ愛着があった物を紛失するのは非常に辛い。ショックで駅の窓口に届け出ることすら忘れたから明日また行ってこようかと思う。幸いそこまでの金額が入っていなかったから良かったけど、履歴がほしいのと、自転車シェアリングサービスとの連携を解除して、ICカードを再登録するなど地味に面倒くさい作業もある。

再購入検討中

「東京駅開業100周年記念Suica」は再発行できないし、記名式ではないから見付かる確率は低いだろう。仮に誰かが見付けて届けてくれたとしても自分のものであることを証明することは難しいので、実質自分で見付けるしかない。ちなみに「Suica」をヤフオク!で購入するのは違法ではないらしい。現在「東京駅開業100周年記念Suica」は一時期転売事件で高騰した価格の影も形もない値段で取引されているようだ。なのでもしかしたらヤフオク!で近いうちに購入するかもしれない。

優遇と冷遇と未来の話

しかし日本における「Suica」の利便性は一体どういうことなのだろうか?クレジットカードより明らかに優遇されている。東京ですら駅でチケットの購入がクレジットカードできない場合があり、特定のクレジットカードでなければ「Suica」にチャージすらできない一方で、買い物を普通に「Suica」でできたりする。海外で暮らしていた経験があると、油断してクレジットカードだけで決済を済まそうとするので、危うく無銭飲食になりそうになることすらある。そもそも技術的には可能なのに何故切符は家で買えないのか、何故「Suica」は家でチャージができないのかが分からない。「Apple Pay」などは頑張っているようだが、日本独特である「Suica」の美学にどこまで割って入れるのかは疑問。ただそこである程度割って入らないと、2020年東京オリンピックを目的に来日する観光客の阿鼻叫喚が聞こえてくることになりそうだ。

「発狂の名残」再発

現実と非現実のリアリティの反転

以前発狂したという話は何度かしている気がするが、久しぶりにあの時の名残が再発した。これは説明するのが難しすぎるので色々省略するけれど、簡単に当時の自分の状況を説明してみる。食べ物をほとんど食べなくなり、脳が破壊されていく過程でドーパミンやエンドルフィンが大量に放出され、多幸感に包まれながらも、同時に幻覚や幻聴が見え、臨死体験などもしていた。統合失調症のようなメモを書き殴り、叫び、周囲の人々は自分の脳内空間の妄想に存在するキャラクターの一人に過ぎなかった。思考が盗聴されているという妄想が生まれ、電車に対面に座っている人の目から赤いビームが発射され、世界は存亡の危機に瀕しており、神々が戦う中犬は守り神でもあり、家族の中にも敵はいた。何を言っているのか分からないだろうが、それは当時の自分にとってはリアルであり、現実と非現実のリアリティは完全に反転していた。

透明な存在

最終的には精神科医に興味があったのと、家族の勧めもあって精神病院に行き、短期間薬での治療を受けた。しかし、それはほぼ生きている時間を眠り続けるだけの薬だった。要するに限りなく透明に染められ、社会から隔離された存在になったということだ。生きてきた痕跡と他者の記憶を含めた自分の存在が消えてなくなるというのは当時の理想だったので、その時はもう終わっても良いかとも思った。ただ同時にそれではつまらないのと、抗ってきた全てが無意味になるとも思ったので、一度自分は死んだことにしてもう一度最初から始めることにした。時々他者との関係性を含めて自分の全てをリセットする癖があるけれど、それはこの時の名残かもしれない。

自分との闘い

そして実際の治療では薬ではなく、自分で自分の脳内空間の矛盾を導き出し、そこを起点にしてイメージで治療することにした。人は自分が狂っているということを客観的に認識できないから狂っているのであって、狂っているということを認めたままそれを客観的に認識して自分で治療するというのは中々難易度が高い行為である。何故なら本当は一番信頼できるはずの自分の思考や判断自体を信頼できないからだ。しかも矛盾点を指摘してもそれに反応するのも自分自身であるので、同レベルの反論が返ってきてまた自分を操ろうとしてくる。その中で主導権がぐるぐると入れ替わりながら、最終的には0と鏡という抽象的なキーワードが重要であることに気付いた。また脳内空間のイメージで自分の中の妄想のストーリーに介入し、それらを全て浄化するようなイメージで対抗してみた。これらは一定の成果を挙げた。

「鬼」の具現化

最終的に自分が発狂しているという確信と抜け出せた原因は自分の顔を鏡で見たこと。今までの人生で見たことのないような自分の顔がそこにあり、それはまるで「鬼」をこの世界に具現化したような感じだった。ホラー映画などで特殊メイクをして別人のように演じるケースがあるが、特殊メイクも何もしていなくても表情だけであそこまで人が変われるのだという事実は人間の精神と身体の神秘に触れたような気もする。そして発狂を確信した後にこのままでは本当にダメだと思い、部屋にあったポテトチップスを食べて眠りに就いた。すると翌日幻聴や幻覚は消えてかなり元通りになっていた。つまり栄養が全く足りていなかったということだ。良く宗教儀式で断食をして瞑想をするなどして神や仏と会うというようなことがあるが、あれこそ正しく幻聴、幻覚であり、自分の脳内空間の神や仏をドーパミンやエンドルフィンで具現化しているわけだ。それを俗に魔境に入ると言う。

脳の痕跡と人生の傷跡

この発狂事件があった後に何度かその名残として、鏡の中の自分の特に目の部分をじっと見詰めると、当時の「鬼」の1/100程度の怖さの表情、もしくは人格のようなものの名残が現れることがある。角度も関係はあるのかもしれないけれど、完全な法則は良く分からない。その時には冷やっとするような恐怖心というか、自分で操作できない自分のような怖さもある。恐らくこれらはトリガーとアンカーの関係になっているのだと思われる。ただこの現象に関してはコントロールできるので、特に問題はない。今日はその「発狂の名残」が少し再発したが、この事実は何年経過しても脳はその痕跡を記憶しているのだなと思わせる。シナプスはLTP (長期増強) を繰り返して学習を強化していくが、忘れるということはそれが弱まり、引き出しにくくなるだけであって、無意識を含めた記憶から完全に消え去るということはないのだろう。もちろん解釈を変えたり、繋げる感情を変えるなどして上書きすることは可能だ。ただこのように考えると脳は人生の傷跡を痕跡として記録し続ける装置であるという意味で、そこにはある種の自己責任と因果応報を感じられなくもない。

悲報を振り返って

俯瞰視点と定番の波

予期せぬ悪い出来事が起こった瞬間はパニックになり、自暴自棄になり、未来が見えなくなることもある。トラブルの最中にいる時にそれを俯瞰視点から眺めることは難しいが、時間の経過がそれを手助けしてくれる。確かに振り返って冷静に考えてみると、いずれも大したことのない出来事ばかりであることに気付く。また最後の話は若干毛色が違うが、基本的には今の生活習慣が当時と似てきているというのが原因である気がする。放っておくと食事を食べなくなり、昼夜逆転した挙げ句に、精神のバランスが崩れていくというような定番の波が今来ている。

伏線と予防

今回は「iPhone SE」が逝ったことで、仕事にも影響が出て機会損失を含めた損失が出た。ちなみに同時に使用していた「iPhone SE/5s/5用 ソフトレザーカバー横フラップ レッド PS-A12PLFYRDN」のケースも大分前にiPhoneを収納する部分がちょっとだけ欠けた。また先程言ったように「東京駅開業100周年記念Suica」に関してはとりあえず届け出と再購入検討中。「発狂の名残」に関しては生活習慣改善とワーカホリック気味のスケジュールの見直しをするべきかなと思っている。最近物が色々壊れているので、物をがさつ、もしくは乱暴に扱っているんじゃないか疑惑も出てきているが、どちらかと言えば同じ物を長く使用する傾向にあるので、どこかの時点で壊れたり紛失するということはある。最後に言いたいのは悲報は未然に防げるものとそうでないものがあるが、小さな悲報はより大きな悲報の前の合図である場合もあるということ。なのでそうなる前に被害を最小限で食い止める対策を取る、予防するということが、本来一番考えなければならないことなんだろう。

「チャリ神さま」

「チャリ神さま」とは

仮に電動アシスト自転車を「チャリ神さま (ちゃりがみさま)」と呼ぶことにする。「チャリ神さま」は基本的に素晴らしい乗り物である。近年では都市部を中心として自転車レンタルサービスや自転車シェアリングサービスが充実してきており、その際に「チャリ神さま」と遭遇する機会も増えてきた。今回の記事ではそんな「チャリ神さま」の良いところと悪いところを簡潔にまとめて紹介していきたいと思う。

「チャリ神さま」の良いところ

まず「チャリ神さま」の良いところを三つ挙げてみる。

・スピードが速い
・長距離でも疲れない
・ブースト感が新感覚体験

これらについて以下で簡単に説明する。

「速い」、「楽」、「面白い」

まずこれは言わずもがなだが、電動アシストの補助によってスピードが速い。しかも特に力を入れずに自転車を漕いでもぐいぐい進んでいく。よって長距離でも全く疲れない。距離だけではなく坂道も同様で、どれだけ傾斜がきつくても非常に楽に進んでいける。またブースト感が新感覚体験というのは電動アシストの補助のことだが、腰の後ろや下から一気に押されているような感覚になり、体験としても非常に面白い。喩えるならば自分の後ろに透明人間が1人いて、協力して自転車を持ち上げて押してくれているみたいな感覚。このように「速い」、「楽」、「面白い」という三つの要素が「チャリ神さま」の良いところになっている。

「チャリ神さま」の悪いところ

次に「チャリ神さま」の悪いところを三つ挙げてみる。

・バッテリーの扱いがネック
・危険性が高い
・普通の自転車に乗れなくなる

これらについて以下で簡単に説明する。

「センシティブ」、「危険」、「呪われる」

「チャリ神さま」はバッテリー切れになると「神さま」ではなくただの「チャリ」になるので、バッテリーは最重要の部分であり、電動アシスト自転車の急所と言える。メーカーにもよるだろうけれど、バッテリーの持続時間、充電時間、充電頻度などに関してはメンテナンスも含めて一定の気を遣う必要がある。危険性が高いというのは、自分だけの力ではない力が電動アシストの補助によって加わるので、その力の加算分をちゃんと見極めて運転しないと暴走する可能性がある。また最後の普通の自転車に乗れなくなるというのは、一度上げた生活水準を下げるのは難しいというのと似たような話。一度「チャリ神さま」に慣れた後に普通の自転車に乗ると、その呪いのようなペダルの重さに驚くことになる。このように「センシティブ」、「危険」、「呪われる」という三つの要素が「チャリ神さま」の悪いところになっている。

今回の記事のまとめ

個人的には「チャリ神さま」の良いところは悪いところを完全に上回っていると感じており、今回「チャリ神さま」を紹介したのは、電動アシスト自転車自体は前から知っていたけれど、最近初めて乗ってみて感動したから。存在自体は知っていたけれど、一度も乗ったことはないという人は自分以外にも意外に多い気がする。そんな人はレンタルでも良いので一度乗ってみてほしい。特にブースト感が病み付きになる。セグウェイ、キックスケーター、ナインボット、自動運転車など様々な乗り物がある中で、「チャリ神さま」は高齢者にも適しているし、テクノフォビア的な抵抗もなさそうなので一般層に浸透するスピードが速そう。空飛ぶ車も実現してしまった今、実は一番ほしい乗り物は浮遊する円盤の乗り物 (UFOではなく、人間1人が円盤の上に立てる程度の大きさ) なのだけれど、それが実現するのはいつ頃になるのだろうか。未来が今から楽しみである。

『未来型国家エストニアの挑戦: 電子政府がひらく世界』を読んで

未来型国家と電子政府

『未来型国家エストニアの挑戦: 電子政府がひらく世界』を読了した。本書の全体の印象としてはかなりカジュアルで、留学体験記や旅行ガイドブックまではいかないけれど、それに近いような軽さでエストニアの電子政府の実態を紹介している。エストニアの人口は約130万人なので、日本の47都道府県で言えば約30位前後、奈良県辺りに最も近い人口ということになる。その国家規模から考えるとエストニアは日本という国家と比較するよりも地方都市と比較した方が良いのかもしれず、これは後に書く「分断」と「棲み分け」の話とも関連してくる。一方でエストニアのシステムが日本では参考にならないかといえば全くそうではなく、むしろ見習うべき点や意識さえ変えれば今すぐにできるはずの点も多々あり、普通に羨ましいと思った点も数多くある。また本書で重要なのは書かれている内容が既にエストニアで実践されており、一定以上の成果を挙げているという点で机上の空論でも未来の話でもないということだ。

ICT国家

まず根本的に面白いと思ったのは、エストニア人は意識としてデジタルに対する抵抗がないどころか、むしろアナログよりも効率的で、安全性が高く、環境負荷がかからないと思っている点。これに関してはある意味当然のことではあるけれど、電子署名、電子契約、ID、インターネット投票などのシステムが既にデジタルで運用されているというのは、未だにそれらの是非が議論されている段階の日本と比較すると圧倒的に進んでいる。もちろん全ての国民がデジタルネイティブであるわけではなく、世代によっては一定の抵抗感もあったようだが、「ソ連時代の古いシステムに対する執着」がなかったことと、ある程度強引に義務化したことが功を奏したようだ。ちなみにICTは「Information and Communication Technology」の略で、国際的にはIT (Information Technology) より一般的に使用される言葉になる。

「税制と税の申告」

最も羨ましかったのが本書の「税制と税の申告」に書かれていた内容。エストニアでは税制は「消費税は一律20%」、「所得税は国税と地方税合わせて21%」になっており、税の申告を含めた良い点は以下の三つ。

・税制がシンプルかつ、累進課税がないのでより公平
・教育、社会保障の充実
・税額は行政が計算し、税の申告はインターネットでするだけ

税制がシンプルかつ、累進課税がないのでより公平

税制がシンプルなのは非常に重要な要素。そもそも税制がシンプルでないから税額の計算に税理士や会計士が必要なのであり、個人で計算するにしても時間が取られ、確定申告によって国民全体の生産性が落ちる。その点において消費税と所得税のみの税制は分かり易いし、年金に関してもある程度自分で選択可能な制度になっているのは良い。累進課税の公平性については、以前書いた記事の項目で累進性と逆進性について書いているので、そちらを参照してほしい。

累進性と逆進性

教育、社会保障の充実

国民にとって税額が高いか安いかは、その割合や金額だけではなく、国家が税金を何に使用するかによる。そういう意味ではエストニアはその他の北欧国家と同じく教育、社会保障が充実している。教育は特定の条件を満たせば無償、医療費は健康保険に入っていれば基本的に無料になる。育児や子育てに関しての補助も充実しているので、使用用途から考えれば税額は割高とは言えないだろう。

税額は行政が計算し、税の申告はインターネットでするだけ

また先程は税制がシンプルなことが重要と述べたが、エストニアの場合は税制がシンプルなだけでなく、税の申告はさらにシンプルになっている。まず政府が個人の収入を把握しているため、税額は行政が計算して教えてくれる。その税額に沿ってインターネットで税の申告をするだけで終わりだ。政府が個人の収入を把握しているというと一見怖く聞こえるかもしれないが、普通に仕事をして暮らしていれば年末調整や確定申告などでどうせ収入は知られるので、特にやましいことがなければ個人事業主としては確定申告の手間が軽減されるので助かる。これに関しては個人的に羨ましすぎる。

「e-Residency」

本書の中で最も面白いと思った試みは「e-Residency」。「e-Residency」とは、エストニアに居住していない世界各国の人々にeIDカードを発行し、サービスを提供する試み。この試みによって世界中に散らばっている「フリーランサー」や「デジタルノマド」を「仮想エストニア国民」として今のうちから増やすことで、将来的な国力の基盤とするということだろう。実際にはこの「e-Residency」で何ができるかというと、例えば起業ができる。その起業の際にかかる時間は最速で「9分25秒」、一般的には「18分」程度だということだ。しかも内部留保している限りにおいて法人税は一切かからないという優遇がある。となってくると、英語さえできれば自分の住んでいる国で起業するより、エストニアで起業した方が楽でメリットが多いということすら現実味を帯びてくる。この「e-Residency」とエストニアでの起業は興味があるので、もしかしたら今後の動向次第で実際にやるかもしれないが、その際はまた報告したい。

「分断」と「棲み分け」

本書を読んで思ったことは、今後エストニアのように都市と地方、国家と企業、中央集権と地方分権というような二項対立に囚われないレイヤーで、テクノロジーを主体とした共同体はあらゆる場所に出現してくるのだろうということ。「スタートアップ国家」という言葉は本書でも使用されているが、実際にエストニアは現在エストコインを使用して国家によるICOを予定している。この動向だけを見ても、エストニアという国が国家を一つの企業のように捉え、身軽かつ柔軟に運営しようとしていることが分かる。以下の記事の項目では現在世界中、様々な形で「分断」が起こっていることについて書いた。

カール・シュミットの友敵理論

それは悲観的に捉えることもできるが、楽観的に捉えればレイヤーの違う「棲み分け」が進んでいるとも捉えられる。「棲み分け」についてさらに詳しく言及するのであれば、それは選択肢が多様化し、自分の意志でより自分に合った選択が可能になるということでもある。それは住む場所、受けるサービス、法律、権利、義務、関わる人々など全てを含めてだ。もちろん同一人物が複数のレイヤーに所属することも今よりは柔軟になるだろう。個人的に日本において以前から道州制を推しているのもそのためで、東京一極集中で全員がそこを目指す社会より、道州制によって法律や制度が異なる場所が国内に生まれ、多様性のある国民が多様性を保ったまま自由に住む場所や望む生活を送れるようにするのが良いと思っている。その意味ではエストニアはICT国家として国境を超えた国民すら集めているわけで、それはどちらかと言えばGoogle、Amazon、Uber、Airbnbなどの価値観に近いものがあるように見え、むしろ現在の状況においては人口の少ない身軽な国家や地方の方が将来的な可能性に拓けていると言えるのかもしれない。

未来型国家エストニアの挑戦: 電子政府がひらく世界
未来型国家エストニアの挑戦: 電子政府がひらく世界
著者: ラウル・アリキヴィ前田陽二

UberEATSの配達員をやってみた

業務が超楽な「ボラバイト」、「リゾートバイト」

UberEATSの配達員をやってみた。感想を一言で言えば、業務が超楽な「ボラバイト」、「リゾートバイト」といったところか。「ボラバイト」、「リゾートバイト」については実体験を交えて以下の記事で詳しく説明しているので、気になる方はそちらの記事を参照してほしい。さすがに「ボラバイト」、「リゾートバイト」に行くくらいならUberEATSの配達員をお勧めするし、UberEATSの配達員はちょっとした変更で天国にも地獄にもなりそうという印象。

「ボラバイト」と「リゾートバイト」の闇: 「ボラバイト編」

「ボラバイト」と「リゾートバイト」の闇: 「リゾートバイト編」

「Pokémon GO」な仕事

業務的には以下の記事の「幸福のディストピア」という項目で書いたように、「Pokémon GO」を遊びながらお金がもらえるようなものだ。もちろん仕事なので一定の責任とリスクが生じるが、基本的なシステムとしては「Pokémon GO」と余り変わりがない。なので働きながらダイエットや運動をしたい、もしくは「Pokémon GO」が好きな人やゲーム感覚で仕事をやりたい人には良い仕事かもしれない。

AirbnbとUberEATS

UberEATSの配達員における懸念事項

業務委託契約の完全出来高制

まず現状では面接はなく、誰でも登録すれば働くことが可能。何故これが可能かと言えば、UberEATSの配達員は業務委託契約の完全出来高制だからだ。つまりは個別の配達員は個人事業主として契約していることになり、その契約は通常のアルバイトとも異なる。労災保険や雇用保険はなく、最低保証時給は特定の条件を満たせばインセンティブという形で保証されることもあるけれど、されないこともある。これらに関しては自分で保険に入る、配達を効率化するなどである程度はカバーできる範囲ではある。

配達パートナーの違いにおける懸念事項
報酬額の違い

報酬額は現状配達パートナーによって異なっている。報酬額の計算は以下。

報酬額 = 基本料金 × ブースト + インセンティブ – サービス手数料

ブーストとインセンティブは不定期で、それぞれ基本料金に対してかけ算、足し算ということになる。サービス手数料は割合で引かれる。これらの要素をひとまず考えないとして、新しく始まった横浜では東京と比較するとかなり低い基本料金になっている。

基本料金

東京

(a) 受け取り料金: 300円
(b) 受け渡し料金: 170円
(c) 距離料金: 150円/km

例えば1kmの配達を1件完了すると以下の報酬額になる。

(a) + (b) + (c) = 620円

横浜

(a) 受け取り料金: 130円
(b) 受け渡し料金: 70円
(c) 距離料金: 60円/km

例えば1kmの配達を1件完了すると以下の報酬額になる。

(a) + (b) + (c) = 260円

自転車かバイクかにもよるけれど、1件の配達に20〜30分程度かかることを考えると、東京の報酬額であれば時給は1000円を余裕で超える。一方で横浜の報酬額であれば時給は500〜700円程度になってしまう。ブーストやインセンティブといったシステムもあり、そこで報酬額が大きく変動するので一概には言えないけれど、横浜の場合はブーストのかけ算の元となる数値自体が低いので東京とはさらに差が付くことになる。

横浜の場合はブーストがあってようやく東京の普通の報酬額になる程度なので、そうなってくると最低報酬額を下げた上でのブーストは、全体の容量を減らしたポテトチップスの増量みたいに聞こえる。今後エリア拡大に伴って基本料金がこのように減額されていき、最低保証時給1000円程度が継続的に保証されないのであれば、UberEATSの配達員が美味しい仕事という感覚はなくなっていくだろう。ただこの報酬額に関してはまだテスト段階かもしれないので、今後変更があるのかもしれず、結果としてある程度の数の配達員が継続して続けようと思う程度の金額には落ち着く気がする。しかし配達員が飽和状態になり、配達自体が回ってこないという問題は日ごとに増していくので、それとエリア拡大と報酬額がどうなっていくかによって今後この仕事が天国になるか地獄になるかが決まる。

配達パートナーの移動

配達パートナーは移動も可能だが、それには数日かかるとのこと。また新しいエリアでのブーストは1週間程度以上反映されない可能性が高いとのこと。そうなってくると実質気軽に新しいエリアを行き来するのは難しいということになり、現状報酬額の違いを考えても東京で配達員をできる人は東京でやった方が良いだろう。今後のエリアの拡大に伴って、配達パートナー同士が融合、もしくは配達パートナーが違っていてもインセンティブやブーストを同様に扱うというようになれば事態は変わってくるかもしれない。ただ今は横浜で関係者と紹介者のみでテストをしている状態らしく、川崎も含めてエリアが拡大されるとしてもまだ先の話だろう。

ベイバイク

横浜にはベイバイクという自転車シェアリングサービスがある。自転車でUberEATSの配達員をやる場合は保険などの関係もあるのと、電動自転車を使えるという意味で自分の自転車よりもこういった自転車シェアリングサービスを使用する方が現実的になる。ただ東京では既に法人提携しており、定額で使用できるサービスが幾つかあるが、ベイバイクは法人提携していないので、個人として契約することになる。その場合は完全な定額プランは使用できず、1回利用で150円/30分を毎回支払うか、30 くりパスで741円〜1,389円/日を毎回支払うか、月額会員で2000円/月を支払って最初の30分は無料、以降は延長料金150円/30分を支払うかの選択になる。その場合は月額会員が一番良いだろうけれど、1回配達を終えるごとにポートを探して一々返却しないと延長料金がかかるし、配達が長引いたり、ポートが見つからなかったりすれば延長料金を取られ、ただでさえ少ない報酬額に打撃を与えることになる。これに関しても法人提携の定額で使いたい放題のサービスを打診中とのことなので、今後変更があるかもしれない。

今回の記事のまとめ

昨年から始まったUberEATSの配達員だが、幾つかの懸念事項があり、未だに試行錯誤の段階であることは否めない。バイトとして捉えるのならば、今までの仕事にはない自由さがあり、インセンティブやブーストなどのシステムを考えてもゲーム感覚であることを大事にしていることは伝わってくる。それ自体は素晴らしい。ただ報酬額という一番大事な部分や保険と経費の問題が解決されないと、石川啄木になってしまう。

はたらけど
はたらけど猶わが生活楽にならざり
ぢっと手を見る

しかし個人的には完全に悲観しているわけではなくて、漫画やソシャゲのテコ入れのように、配達員たちの反応を見ながら今後何かしらの救済措置、もしくは変更があるのではないかと思っている。「幸福なディストピア」における「幸福」と「ディストピア」のどちらに転ぶのか現段階ではまだ分からないが、AIのパノプティコンに囲まれた「ディストピア」であるならばせめて「幸福」であってほしいと願う。

杉本博司の文化功労者選出時のコメントを読み解く: メタなアイロニーとネタなユーモアとベタな享楽

文化功労者選出時のコメント

現代美術家の杉本博司が2017年度の文化功労者に選出された。草間彌生が2016年度に文化勲章を受賞したのは記憶に新しいが、どちらも日本というよりは海外で活躍し、認められた人物である。こういった人物が選出、もしくは受賞するにせよ、辞退するにせよ、その理由も様々であり、そのコメントは時に注目を集める。そして今回の杉本博司の選出時のコメントは少々注目を集めすぎた。そのコメントは以下のリンクから読める。

杉本博司が文化功労者に選出。「国威発揚を文化を通じて行っていく」

今回はこのコメントをメタ、ネタ、ベタの観点から探っていくことにする。

メタなアイロニー

メタはアイロニーを伴う。それは物事を俯瞰視点で見定め、自分自身すらも客観的な対象として捉えることに繋がる。まずは今回の杉本博司のコメントをメタなアイロニーとして捉えてみる。以下にコメントの一部を引用する。

「私は成人してからのほとんどの時間を海外で過ごしてまいりました。その間、日本文化がいかに日本以外の文化に比べて特殊であるかということを身に沁みて感じ、またそのような環境のもとに生を受け、幼少期から青年期の多感な時期を過ごせたことを有り難く、また誇りに思ってまいりました。私は日本人として、海外の人々からの日本文化に関しての様々な質問に答えてまいりました。いわば日本人の日本に関する説明責任を果たしてきたつもりでございます。」

上記の引用部分は日本という場に馴染めず、その特殊性から海外で過ごすことに決めた彼が、文化功労者という極めて日本的な賞を受賞したことに対するアイロニーとして読むことができる。

次に以下のコメントの一部を引用する。

「私は日本文化の特殊性は、その豊かな自然に囲まれて過ごした縄文の1万年によるのではないかと考えるようになりました。文明化とは森を切り自然を壊すことから始まります。古代の日本人は森を壊すことを禁じ、自然界に潜む神々と交信する技術を学びました。その時代に育まれた感性が今の日本人の血にも脈々と流れています。これからの難しい世界を導くことのできる力は、そのような感性の内に見出だされるのではないか、自然と共生することのできる文明、それは日本人の感性の中にあると私は思います。」

上記の引用部分をメタなアイロニーとして捉えるのであれば、古代の日本人が守ってきた価値観を現代の日本人が破壊していることの警鐘と読めなくもない。

そして最後に最も物議を醸した部分を以下に引用する。

「文化功労者として、これからも国威発揚を文化を通じて行っていく所存でございます。」

これをメタなアイロニーとして捉えるのであれば、「国威発揚」というプロパガンダを想起させる言葉を使用したのは、芸術が政府に都合の良い道具として使われることに対する抵抗、または文化功労者のような制度自体の否定と捉えることもできる。

ネタなユーモアとベタな享楽

ネタなユーモア

先程のようなメタなアイロニーの解釈をひっくり返せばネタなユーモアとなり、これは彼一流のジョークなのだと捉えることもできる。しかし問題はこの大舞台にして彼が滑ったのではないかということだろう。彼の真意は謎なので何とも言えないが、このコメントはどちらかと言えばネタなユーモアであるというよりは、メタなアイロニーとして読まれる可能性の方が高い。現代美術自体は一種のジョークであり、ネタなユーモアを多分に含んだ分野ではあるが、彼の作風はどちらかと言えばシリアスな方に分類される。また彼の人柄も一般的にはそこまで知られている訳ではないので、「国威発揚」とまで言われてしまうと何故その言葉を選んだのか?という気持ちになる。つまり文化功労者という舞台、権威に対して彼のコメントがアイロニー、ユーモアだとしても負けてしまっているのではないかということだ。そこをひっくり返せないことを俗に「滑る」と言う。

ベタな享楽

その上で極めて単純かつ普通に考えればこれはベタな享楽として捉えられる。つまりこのコメントはアイロニーでもユーモアでもなく、文字通り彼の真意であるということだ。そうであるならば、極めて残念というか彼は現代美術をハリウッドの映画と同じくプロパガンダの道具として捉えていたのだということになり、それを支持する人がどれだけいるのかが疑問になる。というよりは究極的には作家が何に享楽しようがその思想信条は自由だが、彼の作品に対する見方、解釈がこれで変わってしまうかもしれないというのが一番残念なことだ。

作者と作品の捻れた関係

作者と作品は切り離されている。解釈は鑑賞者の手元に委ねられている。それらはもちろん前提にある。しかしこのような作者のコメントによって、どうしても作品はその影響を受けてしまう。例えば個人的には杉本博司の『海景』シリーズは好きな作品である。それは正しく彼の言うような「縄文の1万年」のような悠久な時を切り取ったような作品であるからだ。しかしそれすらも彼の言う「国威発揚」の道具としてあったのだとしたら悲しすぎる。それはある意味で作者による作品の自己否定に近い。何故かと言えばそういった国同士の力学のような短期的な視野から無限に時空を解き放った世界を見せ、人類の原点や普遍性に立ち返るのが『海景』シリーズであったはずだからだ。『海景』シリーズはどこまでも水平な「統一」を見せてくれたが、今回の彼のコメントは垂直な「分断」を生んだ。もちろん作者は作品を作り終えた後は一鑑賞者に過ぎないので、作者の解釈は些細な問題ではあるのだが、そうは言っても彼のコメントが作品に与える影響は大きいだろう。そういう意味で今回の一番の被害者は彼の作品だと言える。

カール・シュミットの友敵理論

「区別」と「分断」

カール・シュミットが『政治的なものの概念』の中で語った友敵理論とは簡単に言えば、「政治は友と敵を区別する営みである」ということだ。その理論の圧倒的な正しさはむしろテクノロジーが発展したSNS的なコミュニケーションによって体現されているが、問題はその「区別」が結果として「分断」を生む原因になるということだ。もしかしたら政治に興味がないという人は本能的にこのカール・シュミットの友敵理論に気付いており、その「分断」に対する抵抗として無関心という武器で無自覚に闘っているのかもしれない。そして今現在の主流の戦いは既にカール・シュミットの友敵理論で行くしかないのだという勢力とカール・シュミットの友敵理論とは別の道を探すしかないのだという勢力になっており、その構図をメタに見ればやはりカール・シュミットの友敵理論による「分断」が起こってしまっていると言える。

現代美術における西洋現代美術の神話とカール・シュミットの友敵理論

この潮流は世界中の国家だけではなく、本来そのカール・シュミットの友敵理論に巻き込まれないような部分を目指していた現代美術をも巻き込んでいる。そのような世界においては例えば昨日まで好きだった作品の作者がナチズムに染まっていることが発覚し、一部のファンが一気に消失すると共に、ナチズムを支持する層がファンになって入れ替わるなどの事態が起こり得るだろう。ではそのような世界において現代美術は何をするべきか?資本主義のアートは西洋現代美術の神話を強化し、Socially Engaged Artはカール・シュミットの友敵理論に帰結する。であるならばそのどちらでもない、もしくはどちらも往復するようなレイヤーを複数立ち上げるしかないというのが個人的な結論。記号が単純化するのであれば、別の記号を作るか、記号を複数化するしかない。その無限化したタグの海を波乗りしていく。それは日々の制作活動で実践していくしかないが、そのようにコツコツと数十年かけて実践した末に大舞台で滑ると大惨事になるということが分かったという意味で杉本博司には感謝したい (ベタ)。

湯河原散策: 「人間国宝美術館」と「湯河原町役場」と「独歩の湯」

湯河原散策

昨日はダイビングのプール講習が終わった後に折角なので湯河原散策をしてみた。数時間程度しか滞在していないけれど、興味深い場所と情報が幾つかあったので、今回はそれについて書き残しておきたい。まずは駅前観光案内所で湯河原散策マップをゲット。バス、有料のレンタルサイクル、徒歩が主な移動手段になり、お勧めはバスとのこと。今回は徒歩とバスを組み合わせて散策してみた。

「人間国宝美術館」

まずは徒歩で「人間国宝美術館」へ向かう。「人間国宝美術館」は古典的な作品を基礎としながらも、展示の仕方と作品の種類の混ざり方が良い具合に唐突であり、面白かった。他にも「出張美術館」や「アートオリンピア」といった企画もやっているみたいだ。また常設展の他に「人間国宝で綴る「サプライズの茶道具」―ピカソ、ビュフェを取り入れた場合―」や「細川護熙特別室」なんていうのもあった。ただ人によっては展示よりも、入館者全員に対するサービスである菓子付きの抹茶の方がメインかもしれない。何故かというとその抹茶の茶碗は人間国宝の茶碗から選べるからだ。本当は三輪壽雪の茶碗が良かったのだが、選択肢になかったので純金茶碗「秀吉」を選択し、黄金の茶碗に注がれた抹茶を飲む。お値段はお手頃価格になっていて、350万円。傷を付けたらビットコイン支払いでは許されない気がする。

以下の写真は純金茶碗「秀吉」。

「湯河原町役場」

次に徒歩で「湯河原町役場」へ移動。何度か職員に尋ねながら迷路のような建物を行き来し、空き家について担当しているという地域政策課に辿り着いた。何故ここに来たかというと、以前から空き家活用の土地として空き家率30%を超えていた湯河原町には目を付けており、今回その実情を町役場の職員に直接聞いてみたかったから。担当職員の回答としては、国の調査での空き家率30%超えは事実だが、それには空き部屋も含まれており、実態とは乖離がある。その実態については今調査中で、来年末までには結果が出るが、それは一般公表するかは分からない。また空き家の対策についても、建物を壊して更地にするのか、別の活用方法を見つけるのかもまだその調査結果次第であり、その結論が出るのは恐らく再来年以降になるとのこと。これらの回答から考えると、湯河原町での空き家利用は徒労に終わりそうなので、また別の場所を探そうという結論に至った。

以下の写真は「湯河原町役場」から割と近くにある土地に停車してあったトラック。

「独歩の湯」

最後にバスで行ったのは「独歩の湯」。ここは九つの効能を持った泉を提供している足湯施設で、泉にはそれぞれ「脾骨の泉」、「皮口の泉」、「平静の泉」、「腸鼻の泉」、「思考の泉」、「脈胃の泉」、「喜の泉」、「肝目の泉」、「腎耳の泉」という名前が付いている。これらの泉はそれぞれ異なった形で足つぼを刺激するようになっており、泉自体の形や温度も違う。施設は全体的に地理風水と日本列島をイメージしているそう。折角なので全部の泉に入ってみたけれど、個人的には足つぼという意味では「肝目の泉」の尖り具合と「脾骨の泉」の丸みを帯びたずっしり具合が良かった。温度的には「思考の泉」か「皮口の泉」が良い感じに温かくて、「腎耳の泉」では温度調整中なのに間違えて入ってやけどしそうになり、「平静の泉」と「腸鼻の泉」はぬるすぎて微妙だった。温度については日によっても変わるのかもしれない。通常大人300円で入れるので、湯河原に来た際は「独歩の湯」をお勧めする。次回来た際には足つぼマッサージもしてもらいたい。

以下の写真は「肝目の泉」。

問題発生

半月板損傷の痛み再発

湯河原散策の全てが順調だったのだが、「独歩の湯」からバス停に戻り、バスに乗って駅まで帰ってきた時に足の膝に問題が起きた。恐らくは足湯で膝まで浸かっていたことと外の気温の差が原因となり、元々数年前から骨折していた半月板損傷の痛みが再発したのだと思われる。駅の改札を入る前には一時的に痛みで歩けなくなり、帰りの電車に乗るのも精一杯だったが、電車を降りる頃には回復していた。

iPS細胞を利用した治療

今まで半月板損傷に対する治療は基本的に切除しかなかったのだけれど、数年前から関矢一郎教授が中心となったiPS細胞を利用した治療の研究が活発化している。そして今年に入って遂に治験も開始されているようで、数年以内に実用化を目指しているとのこと。それに関連して言えばiPS細胞の権威である山中伸弥教授でさえ寄付を募っているという状況は、自分の中では他人事とは思えない。またこれさえ治ってくれれば、以前のようにテニスや他のスポーツもできる。そうなると基本的にスポーツをやるのが好き人間なので、人生の楽しみが増える。

今回の記事のまとめ

話が少し逸れてしまったけど、今回はダイビングのプール講習のついでとはいえ、湯河原散策を楽しむことができた。「人間国宝美術館」と「独歩の湯」はどちらもお勧めなので、湯河原に来た際は是非立ち寄ってみてほしい。また他にも「町立湯河原美術館」、「かぼちゃ美術館」、「do陶芸館」などの芸術関連施設や、城願寺や五所神社などの神社仏閣もあり、温泉施設以外にも見所は結構ありそうだ。ただ駅前観光案内所でも言われたパワースポット押しには考えさせられるものがあった。後は高齢者が多い町という印象で、都会ではまず生まれないコミュニケーションが幾つか生まれたのは嬉しかった。また今度来たときは、温泉施設を巡りながら湯河原散策をしてみたいと思った。

PADIオープン・ウォーター・ダイバー・コースCカード取得への道のり 2: プール講習編

台風一過

「PADIオープン・ウォーター・ダイバー・コースCカード取得への道のり」、連載記事第2弾となる今回はプール講習編。前回の記事の終わりに「台風が来ませんように。」と書いたら本当に来てびっくりしたのだけれど、先日台風一過となり、本日は晴天だった。学科講習から約1ヶ月後ということで、ほぼ全ての知識を忘れ、前日は何故か眠れず、朝食はバナナ一本という最悪のコンディションでプール講習に臨んだ。場所は湯河原で、平日ということもあり、自分を含めて生徒2人、インストラクター1人という少人数の講習となった。しかももう一人の生徒は既にCカードを持っているけれど、ブランクがあった人用のリフレッシュダイビングとして参加していたので、初心者は実質自分1人だけだった。

レンタル器材とコンタクトレンズ

器材についてはCカードを取得するまではダイビングについて良く分からないし、器材を購入する必要性や違いについても良く分からなかったので、基本的にレンタル器材で済ませることにした。器材は一度購入すれば一生ものだけれど、ダイビング頻度によっては焦って購入する必要はないし、初心者でいきなり全ての器材を揃えるのも微妙な気がする。ただコンタクトレンズには不安があり、度付きレンズ対応のダイビングマスクだけは購入を検討したのだけれど、プール講習も海洋実習も自己責任でなら特別にコンタクトレンズを使用しても良いとのことだったので、コンタクトレンズを使用することにした。実際にコンタクトレンズでマスククリアをやってみたところ、目を瞑れば大丈夫だし、多少水が目に入っても特に問題はなかった。ただしこれは1日使い捨てコンタクトレンズの場合で、それ以外のコンタクトレンズを使用している場合はどうなるかは分からないので、あくまで自己責任で。

プールに入るまでの事前準備

まずは水着に着替え、タオルとドリンクを持ってプールへ。次にダイビング器材が入ったメッシュバッグをプールサイドまで運び、シャワーを浴びてウエットスーツを着用。次にシリンダーにBCDとレギュレーターを取り付けて、組み立てる。最後にブーツとフィンを履き、ウエイトベルトとスイムキャップとダイビングマスクとシュノーケルを装着したら事前準備完了。後は先程組み立てた器材を装着すればいつでもダイビングを開始できる。一度に覚えることが多かったけれど、流れを把握してしまえばそこまで迷うことはなさそう。

プール講習の内容

浅い25メートルのプール

最初は浅い25メートルのプールで器材の使い方と潜ることに慣れ、次に水深5メートルのプールでより実践的な内容を習得するという講習の流れだった。どんなことをやったかを全て書いていると切りがないので、幾つか印象に残ったものやポイントを挙げてみる。まず25メートルのプールで最初にやったことは水底に張り付くことで、これが結構難しかった。ただこれは息を吐けば沈み、息を吸えば浮くという基本を忘れていたからで、それが分かってからは割と簡単にできるようになった。またこの時は耳抜きができているのか、できていないのかの実感も良く分からなかったのだけれど、それは後に水深5メートルのプールで良く分かるようになったので、コツは後述する。またシリンダーはサイズが同じでも身体と合わないということがあるらしく、すぐに左右にずれて上手くいかないことがあったのだけれど、これは後に水深5メートルのプールでインストラクターのものと交換したら問題なくなった。他にもレギュレーター類の使用方法、マスククリア、スノーケルクリアやトラブルの際の対処方法などを学んだ。この時点で水底で匍匐前進のように往復できるようになり、ひとまずプールから上がって器材を外し、休憩。

水深5メートルのプール
耳抜きの方法

次の水深5メートルのプールでは、耳抜きの確認、インフレーターホースの排気と吸気の使い方、中性浮力の維持が重要なポイントだった。プールにはジャイアントストライドエントリーで入り、インフレーターホースの排気を使用してプールの底に潜る。その途中で何度もこまめに耳抜きをする。耳抜きのやり方は個人差があるけれど、お勧めなのは「トインビー法」。これは唾を飲み込むことで、耳管が開くというメカニズムを利用したもの。ただ個人的には鼻をつままなくても唾を飲み込まなくても耳管を開くことができるので、耳抜きは元々上手いのかもしれない。説明が難しいが、唾を飲み込むような口内の状態を作り、両耳に圧力をかけて音を鳴らすみたいな感覚。高速道路を走っている時や、高層ビルのエレベーターに乗っている時は誰でも自然と耳抜きをしていると思うけれど、あぁあの時と同じ感覚でやれば良いのかと気付いた瞬間に簡単にできるようになった。他にも「バルサルバ法」、「フレンツェル法」などがあるみたいなので、「トインビー法」でできない人はそれらを試してみるのが良いかもしれない。

インフレーターホースと中性浮力

中性浮力の維持もシリンダーが変わったからか慣れたからか分からないが、水深5メートルのプールでやった方が格段にやりやすくなっていた。先程と同様にトラブルの際の対処方法なども学んだ。水底に着いた状態から中性浮力の状態にするためには、インフレーターホースの吸気を軽く2回入れ、浮上した際に自分の呼吸で身体の浮き沈みのバランスを整える必要がある。これは最初慣れるまで難しかったが、次第にそれにも慣れた。後は水底を手だけ付いて回遊したり、中性浮力を維持したまま回遊したり、壁に沿って何度も回遊したりした。インフレーターホースを使用した浮上は最初は間違えて吸気ではなく、排気のボタンを押してしまったので中々浮上しなかったが、それも慣れれば特に難しいことはない。最後の仕上げとして前回怖いと言っていた、コントロールされた緊急スイミング・アセントをしたのだけれど、それに関しても特に怖いことも難しいこともなかった。後は陸に上がり、器材類全てを外し、メッシュバッグに全ての器材類を収納してプール講習は終了した。

プール講習の感想と次回の予定

プール講習の感想

プール講習の感想としては、予想していたよりも講習が遙かにスムーズに進んで良かった。正確には覚えていないけれど、講習は合計で2、3時間程度で、ほぼ午前中に全て終了してしまった。また自転車の乗り方を忘れないように、一度やり方さえマスターして慣れてしまえば、すぐにやり方を忘れることはなさそうだ。もちろんまだ慣れていないので細かい部分は一ヶ月もすれば忘れてしまいそうだが、ダイビングの一連の流れは今日で大体分かった。後はダイビングは予想以上に楽しくて、今までの人生において何かが足りないと思っていたけど、それはもしかしたらダイビングだったのかもしれない。これを好きな海の場所でやれたらダイビング中毒になりそう。

次回の予定

次回は海洋実習であり、この2日間の実習が終われば晴れてCカード取得となる。場所は伊豆で、ここも初めて行く場所なので宿泊を含めて楽しみ。今日よりは参加人数が多くなりそうなので実習の時間はかかりそうだが、本物の海はまたプールとは違った感動があるんだろう。Cカード取得後のことはまだ考えていないけれど、半年間放置するとリフレッシュダイビングをしないといけなくなるらしい。なので、最低でもその間隔でファンダイビングなどをしていきたいと思っている。

PADIオープン・ウォーター・ダイバー・コースCカード取得への道のり: 連載記事リンク

PADIオープン・ウォーター・ダイバー・コースCカード取得への道のり 1: 学科講習編

PADIオープン・ウォーター・ダイバー・コースCカード取得への道のり 2: プール講習編

PADIオープン・ウォーター・ダイバー・コースCカード取得への道のり 3: 海洋実習編1日目

PADIオープン・ウォーター・ダイバー・コースCカード取得への道のり 4: 海洋実習編2日目

「日本社会の解剖学」

目次

1. 「日本社会の解剖学」
2. 一つ目の疑問: 「何故人は選挙に行くべきなのか?」
2.1. 選挙での投票は義務か否か

2.2. 一票の格差と無効票

3. 二つ目の疑問: 「何故人は台風の日に仕事に行くべきなのか?」
3.1. 積極的に嫌々出社する人々

3.2. 思考停止と生産性の欠如

4. 一つの仮説: 「決められたルールに従い、ルールを守ることは他の何よりも優先される」
4.1. ルール絶対主義

4.2. 説得力と迷惑の構造

5. 日本社会を構成する五つのキーワード
5.1. 「忖度」

5.2. 「社畜」

5.3. 「エモさ」

5.4. 「時間厳守」

5.5. 「空気を読め」

6. 今回の記事のまとめとその結論から発展した考察
6.1. 今回の記事のまとめ

6.2. 結論から発展した考察

「日本社会の解剖学」

今回の記事は「日本社会の解剖学」ということで、日本社会の構成要素について要素還元主義的に分解し、その結果をゲシュタルトの創発性に従って解釈してみる。要するに日本社会全体を一つの大きな建築物とみなした上で、パズルや積み木のピースのようにパーツごとにばらばらに分解し、それを再度部分と全体性の関係において日本人の行動指針のメカニズムを捉え直すという試みをしてみたい。何故この試みをしようと思ったかというと、その動機は簡単に言えば最近起きた二つの出来事において、周囲を観察する上で浮かんだ具体的な二つの疑問と一つの仮説に起因する。なのでまずはその二つの疑問と一つの仮説について説明した後に、「日本社会の解剖学」についての話を進めていきたい。

一つ目の疑問: 「何故人は選挙に行くべきなのか?」

選挙での投票は義務か否か

一つ目の疑問は「何故人は選挙に行くべきなのか?」事実ベースの話を進めていくと、まず日本は義務投票制を採用していないので、投票は義務ではない。よって投票する人と投票しない人は立場上同じであり、投票しないからといって何からしらの罰則があるわけでもなく、政治に関する権利が剥奪されるわけでもない。しかしSNS上の意見を眺めてみると、「選挙に行かない人間に政治を語る資格はない」、もしくは「選挙に行かずんば人に非ず」というような過激な意見が多数見られ、それは一定の支持を得ているように見えた。また投票棄権に関しては以前、以下のリンクでまとめたのでそちらを参照してほしい。

投票棄権した際のテンプレートな反対意見に対する反論

一票の格差と無効票

そもそも現状の選挙制度において一票の格差の問題は解決しておらず、無効票の割合も多い。一票の格差の問題は小選挙区制の問題でもあるので、選挙制度を比例代表制に一本化するなどの変更をする必要がある。比例代表制においてはそもそも一票の格差は存在し得ない。また参議院選挙の非拘束名簿式のように政党・政治団体名だけでなく個人名での投票も認めることで、より自分と近い立場の人を選ぶこともできるし、他にもマイナーチェンジで解決できる問題がありそうだ。デメリットとしては比例代表制の非拘束名簿式の場合は全国的な知名度の高いタレント議員が強く、小選挙区制の場合は地元に基盤を持つ世襲議員が強いという特徴があるが、これに関してはどっちもどっちだろう。無効票の割合が多いことに関しては日本が先進国の中でほぼ唯一記号式投票を採用していないことに原因があり、書き間違いの多い自書式投票は即刻止めた方が良い。個人的には投票率を増加させようとするより、上記の2点を改善した方が遙かに簡単かつ早く、改善効果が高いように思う。

二つ目の疑問: 「何故人は台風の日に仕事に行くべきなのか?」

積極的に嫌々出社する人々

二つ目の疑問は「何故人は台風の日に仕事に行くべきなのか?」台風22号が日本列島に上陸して猛威を振るい、各地で川が氾濫し、事故が起こり、電車が止まる中、それでも出勤しようとする人々の意志は止められなかった。これには経済的合理性を優先した結果という見方で説明が付く部分もあるが、それだけでは説明不可能な何かを感じた。人々はテレビで報道される運休情報を鵜呑みにせず、インターネットを駆使し、さらには自らの足を使って積極的に駅に出向き、時には運休情報の誤りを指摘して拡散していた。またこうすれば出社できる、こうすれば時間短縮できるというような情報も大量に流され続けていた。確かに仕事が楽しくて楽しくて仕方がないという望ましい状態であるならばその行動にも一定の理解はできるが、大半の人々は義務感に支配されながら積極的に嫌々出社していくという異様な状態に見えた。

思考停止と生産性の欠如

仮に自分が社長で、台風の日に何の疑問も抱かずに積極的に出社してくる社員がいたとしたらその場で首にするかもしれない。何故なら真面目で実直であることは必ずしも有能であることを意味せず、現場に来るリスクを考えず、訓練された奴隷のように集ってくる行動には一種の思考停止を感じるからだ。確かに業種によっては絶対に休めない仕事というものもあるのだろうが、全ての人の仕事がそのような種類の仕事であるとは考えにくい。そもそも残業の多さと長さに定評のある日本人だが、2016年度の1人当たり名目GDPが世界で22位というランキングにおいてその生産性の低さは示されてしまっている。またブラック企業をはじめとする労働においては労働時間の長さで解決しようとする場合が目立つが、休むべき時は休んだ方が結果として生産性が高まることは事実だ。

一つの仮説: 「決められたルールに従い、ルールを守ることは他の何よりも優先される」

「ルール絶対主義」

上記の二つの疑問から導かれる、日本人の行動指針となる仮説はこうだ。「決められたルールに従い、ルールを守ることは他の何よりも優先される」。つまり「何故人は選挙に行くべきなのか?」という疑問、または「何故人は台風の時に仕事に行くべきなのか?」という疑問に対する答えは、「ルールで決められているから」だ。それ以外にも細かい理由はあるだろうが「選挙に行かない」ことも、「台風の日に仕事に行かない」ことも、「ルールに疑問を持っている」、もしくは「ルールを破っている」という点においてその他の全ての理由を超越して罪深いということだ。つまりこれは柔軟性に欠けた「ルール絶対主義」であり、この信仰は宗教のレベルで根深く、日本人の深層心理の奥深い部分に存在している。

説得力と迷惑の構造

ちなみに筆者は選挙に行ったが、この補足情報によって、先程の選挙に関する意見の説得力が変わるという人は一定数存在するだろう。だとしたらその「選挙に行った」という事実が担保している力は一体何なのかということだ。もしくは積極的に嫌々出社する理由の一つとして、他人に迷惑をかけるからという理由があり得ると思う。しかし迷惑というのは主観的かつ相対的な概念であって、他人に迷惑をかけるからという理由で全員が出社することによって、全員に迷惑がかかるという現状もある。そのロジックによって他の会社が通常通り稼働しているから、それと関連する他の会社も稼働しなければならず、結果として日本全体で誰も休めないという状況が作り上げられる。言い換えればここにはゲーム理論における囚人のジレンマのような構造が発生しているとも言える。

日本社会を構成する五つのキーワード

先程は「何故人は選挙に行くべきなのか?」と「何故人は台風の日に仕事に行くべきなのか?」という二つの疑問から、「決められたルールに従い、ルールを守ることは他の何よりも優先される」、つまり「ルール絶対主義」という一つの仮説が導かれた。ではこの仮説から導かれる日本社会を構成するキーワードとは何だろうか?それを以下に五つ挙げてみる。

「忖度」

まず日本の社会が「忖度」が基盤となって構成されている社会であることは自明だ。また「ルール絶対主義」と「忖度」はとても相性が良い。どちらも原理主義に近づけば近づくほど自己犠牲の精神が強くなる。つまりルールを設定したことによって達成したい理念よりも、ルールを守ることの方が自己目的化し、「忖度」をすることによって達成したい理念よりも、「忖度」をすることの方が自己目的化する。またどちらもルールの外側や権威に対しては盲目であり、それらに対する疑念や逸脱するものに対しては厳しい対応を取ることも共通している。

「社畜」

「社畜」は労働者が経営者を「忖度」した結果生まれる。例えばブラック企業が本当にブラック企業であるならば、辞めるか労働基準監督署にでも行けば良いのであって、それらをしていないという時点で、労働者が消極的にでも経営者に対して協力していると捉えることができる。また「社畜」は先程も挙げた台風でも積極的に嫌々出社するという行動や、残業の問題とも当然密接な関わりがあるだろう。「社畜」を支えている思い込みの一つに、恐らく会社を辞めたら「食べていけない」というものがある。ただしこれは思い込みに過ぎないのであって、そもそも日本国民には日本国憲法第25条において「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」があり、社会保障もあるので文字通り「食べていけない」というのは知識不足の思い込みに過ぎない。

「エモさ」

「エモさ」は日本人の最も特徴的な性質の一つである。そもそも日本における「エモさ」の優位性は日本語における情緒の表現のし易さと、論理の表現のしづらさに一因がありそうだ。ただし現代においては世界中が「エモさ」に溢れ始めているので、実は何周遅れか日本の方が早すぎた、もしくは遅すぎたことによって世界がその境地に追いついてきたとも言える。実は「エモさ」というのはAIが進出する社会において最も重要な指標の一つであり、ある意味で人類の大多数はこの「エモさ」に最適化する群になりつつあるという仮説は以前も紹介したことがある。そういう意味で「エモさ」の重要性はこれからも上がっていくのだが、これがポピュリズムやPost-truthを形成している最も大きな要因であることも疑いようがない事実だ。

「時間厳守」

「時間厳守」は「ルール絶対主義」から演繹して導き出せる決まりの一つ。ただこれに関しては実際には「社畜」として残業をしまくっているという現状があるので、実は「時間厳守」は全くしていないとも言える。開始の時間には圧倒的に厳しいのに、終了の時間には圧倒的に緩いというのが日本的な「時間厳守」の一つの特徴である。また「ドタキャン」に異常に厳しいのもこの「時間厳守」の原則があるからで、逆に無駄な会議で人々の時間を延々と無駄にすることに対しては余り罪の意識がない。この「時間厳守」は義務教育において幼少期からすり込まれた原則なので、基本的には大人になってからも変わることはなさそうだ。

「空気を読め」

「空気を読め」は「忖度」とほぼ同じ意味だが、日本社会を構成する上で非常に特徴的かつ強い概念なので改めて言及することにした。「空気が読めない」という宣告は日本社会において死刑宣告並に重いものであるが、「空気を読む」ことは局所最適であっても、全体最適ではないことが多い。これはどういうことかと言うと、例えばある会社の会議において、社長の意見に対して誰もがおかしいと思っているのに「空気を読んで」指摘しない状態が続くとする。その場では全会一致になり、場を乱さないという意味での局所最適はなされるかもしれない。ただその状態が長く続くことで、結果として離職率が上がり、業績が落ち、会社が倒産したとしたらそれは全体最適ではないということになる。また進化の過程においては常に「空気が読めない」個体だけが進化を促してきたという経緯がある。水中の魚が全て「空気を読む」個体ばかりであったとしたら、陸上に上がることは永遠になかっただろう。つまり陸上に上がった魚は「空気が読めない」が故に進化を促したとも言える。

今回の記事のまとめとその結論から発展した考察

今回の記事のまとめ

今回の記事では「日本社会の解剖学」として、日本人の行動指針のメカニズムを明らかにすることを目的としていた。そして「何故人は選挙に行くべきなのか?」と「何故人は台風の日に仕事に行くべきなのか?」という二つの疑問から、「決められたルールに従い、ルールを守ることは他の何よりも優先される」という「ルール絶対主義」の仮説が導かれた。この仮説を元にして日本社会を構成要素する五つのキーワードである「忖度」、「社畜」、「エモさ」、「時間厳守」、「空気を読む」を見出だした。最終的にはこれらの疑問、仮説、キーワードを辿ることによって、日本社会は解剖され、その病理と本質が見えてきた。

結論から発展した考察

ここでその結論から発展した意見を述べると、日本社会においては「ルールを守り続ける」ことに対するリスクが考えられていないというセキュリティホールの存在に気付く。ルールはそれを守ることで達成したい理念があるから守るのであって、様々な物事に対する流動性が高い現代においては、ルールを無自覚かつ無批判に守り続けることはリスクに他ならない。またこういった意見もタブーである「ルール批判」であるので、「忖度」、もしくは「空気が読めない」としてそのセキュリティホールを埋めることが難しいというリスクも同時に存在している。「忖度」や「社畜」や「時間厳守」によってルールを律儀に守る仕事や業界が丸ごと消え去り、「空気を読め」という声によってイノベーションの芽が速攻で潰されたとしても、AIの日進月歩の進化によって新しい環境の開発と適応が絶え間なく求められる社会において、ある種の自然淘汰は人間の意志とは無関係に着々と進んでおり、気付いた時には何も残されていないという「エモさ」が将来的に出現するのだとしたら、それは一つの個体群における局所最適としての選択に対する責任の引き受け方として甘受すべきだと考える私もまた、間違いなく「エモい」日本人の1人なのだろう。

「ゲルゲル祭」と「其コは此コ」

現代美術の戦国時代

昨日は雨の中パープルームの「ゲルゲル祭」を見にパープルームプーポンポンに行き、ゲンロン カオス*ラウンジ 新芸術校第三期学生の「其コは此コ」を見にゲンロン カオス*ラウンジ 五反田アトリエに行った。以前からパープルームとカオス*ラウンジと渋家は面白いと思っているけれど、彼らがやっていることには明確に違いがあり、現代美術の戦国時代という感じになっている。その戦国時代の中には落合陽一、Sputniko!、ライゾマティクス、チームラボ、Takramなどもおり、一層のカオスを作り出している。パープルームとカオス*ラウンジと渋家については、「瀬戸内国際芸術祭」と「GINZA 24H SQUAD」で展示を見たことがあるのだけれど、今回は一日で「ゲルゲル祭」と「其コは此コ」をはしごできそうだったので、濱中さんと一緒に両方行ってみた。

「ゲルゲル祭」

「ゲルゲル祭」はパープルームのメンバーである智輝さんが借りているアパートの一室 (パープルームプーポンポン) で不定期に開催される芸術祭のような何かであり、彼の予備校生としてのキュレーション訓練と作品との対話と日常を垣間見る機会でもあるようだ。パープルームを主宰する梅津さんにも話を聞くことができた。彼には従来のキュレーションを崩すことと、予備校生の特訓と、パープルームという運動体に属性不明な人々が混在して展示することの可能性などを語ってもらった気がする。彼の印象は理論派の天然アイドルという感じで、現代美術は分からないけれど梅津ファンという方も来ていたので、そういう存在なのかもしれない。個別の作品で面白いものもあったのだけれど、雨漏りとネギとラップと地下アイドルが混在していたところと、キッチンにブーバかキキと言えばゲルというような液体が漏れ出していたのが良かった。相模原の街に溶け込んだサティアン感と入り口の雰囲気も格別。以下の展示は大規模なものになるそうなので、興味のある方は是非。

「パープルーム大学 尖端から末端のファンタジア」
12月2日(土)〜10日(日)
ギャラリー鳥たちのいえ (鳥取)

「其コは此コ」

「其コは此コ」はゲンロン カオス*ラウンジ 新芸術校第三期学生のAグループによる展示。今期の新芸術校の受講生が最後の「成果展」に参加するためには、展示を通して「サバイバル」を生き残らなければならないらしい。しかも展示はグループ展だが、その選別は個人というように、受講生は現代美術における実践的な生き残り方を試されている。一言で展示の感想を言うと、キュレーションは物足りないが、個別の作品は強いという印象。あえて統一的なコンセプトを作らずにキュレーションをして、展示が発展していく中で何かしらの共通項を見出だしていくという方針みたいだった。ただ各作家の個性が強すぎるので、その方針だとキュレーションの放棄に見えなくもない。

個別の作品についても簡単にコメント。全体的に私的で内面的な事柄を表現を通して普遍化しようとする試みという、アートの王道的な作家が多い印象を受けた。龍村景一の作品は実存が映像の音楽的な反復を通して爆走していく様が痛快で、入り口の配置も良い。友杉宣大の作品は相反する多様性を持つ猫による物語が、メディアも含めて最終的に拡散か収束に行くのかが気になる。よひえの作品は抽象表現を通して内側と外側を反転させていくような試み。中村沙千の作品は怪獣をモチーフとした作品であり、そこにはダイナミックなサイズ感と独特の構成がある。

今回の記事のまとめ

どちらも運動体として興味深く、レイヤーが複雑化している現場に踏み込む時には、自分もそれなりの準備と覚悟をしなければならないと思った。また「ゲルゲル祭」はモラトリアムを変形させ、「其コは此コ」はモラトリアムを切断するという意味において、どちらも従来の日本の美大教育にはないアプローチの仕方をしている。後どちらの現場でも写真撮影するのを完全に忘れていたのだけれど、写真を撮っても良い意味で意味がないかなと思える感じだったのも確か。現場の情報量が大量だったので、その収穫物を消化するまでに時間がかかりそうだが、どちらも雨の中訪れてみて良かった。