坂口恭平個展「Nest of Think」: 「超アマチュアリズム」と「マイルドなカルト」の可能性

昨日はCURATOR’S CUBEで開催されていた坂口恭平個展「Nest of Think」の最終日だったので、夕方に滑り込みで観てきた。今日はこの個展と坂口恭平に関連することについて書いてみようと思う。そもそもCURATOR’S CUBEのウェブサイトには何故か「Nest of Think」の情報が載っていなくて、場所も一見分かりづらい所にあるのだが、何とか辿り着くことができた。展示期間中は割と本人が在廊していて、即興の弾き語りライブも行っていたらしいのだけれど、最終日は「FUJI ROCK FESTIVAL ’17」に出演と言うことで本人は不在。その代わり鳥の鳴き声や自然の環境音が流れていて、弾き語りのための席とテーブル、ベンガルユーカリの鐘が残されていたのが良い感じだった。最終日のタイムセール価格ということで、ドローイングは3万円に割引されていた。

展示していた作品は絵と彫刻なのだけれど、まず展示の仕方が面白い。絵が山積みになって幾つかのテーブルに置いてあり、観客は白い手袋をして1枚ずつめくって絵を鑑賞していく。彫刻も無造作にテーブルに置かれている。この展示の仕方によって、観客は友達の家に遊びに来たように気軽な感じで、リラックスして自分のペースで楽しむことができる。録音、録画、撮影も自由にしてOK。触れる展示自体は他の場所でもなくはないけれど、さすがにここまで自由に観られる展示は珍しい。美術系の展示は視覚優位になりがちなので、五感全体を通して得られる感覚を大事にしているのかもしれない。その観点から考えてみると、一見シンプルで無造作に見えるこの個展の情報量の多さに気付く。また絵画に関してもその圧倒的な量と自由さには驚く。日付やサインが書いてあったり、なかったり、画材もアクリル、水彩、墨など多様で、コラージュもあったり、紙の種類も完全に統一されているわけではない。「完成」という近代的な概念や、「意味の無意味の意味」という現代的な概念を最初から放棄して好きに遊んでいる、もしくは躁鬱の波の中でそのエネルギーを創造性に全振りしている印象。

これらを別な言い方で表現するならば「超アマチュアリズム」なのだと思う。アマチュアとプロフェッショナルは報酬の有無、趣味か否かで分けられることが多いが、坂口恭平の場合はプロフェッショナルの先に到達するために「アマチュアリズム」の徹底をしている。簡単に言えばパブロ・ピカソが毎日大量の作品を生み出し、晩年、子どものような絵を描こうとしていたことは有名な話だけれど、それと同じことをあらゆる分野でやろうとしているということだ。「新政府内閣総理大臣」、「建てない建築家」をはじめ、作家、絵描き、踊り手、歌い手など分野を問わずその精神は分裂しながらも一貫しているのが分かる。

以前BankART Studio NYKで坂口恭平×山下陽光×藤原徹平「これからの非資本主義的な生き方」というレクチャーを聴きにいったことがあるのだけれど、タイトルの「非資本主義的」という部分には違和感を感じていた。しかし実際に話を聴いてみるとタイトルは学生が考えたもので、資本主義に敵対する必要はないという内容のことを語っていて納得した覚えがある。ある権力やシステムに対して抵抗することは自分がその権力やシステムの一部になり、補強することでもあって、本当のレジスタンスになるのであれば違うレイヤーで世界を捉え直し、自ら場を創り出すことが必要だ。「超アマチュアリズム」の一実践者として登場したはずの神聖かまってちゃんが何故つまらなくなってしまったかと言えば、結局既存と同じレイヤーで抵抗したためにメジャーに疲弊し、吸収されてしまったことに原因がある。そういう意味ではレイヤーの違う土壌で自分なりの経済圏と作品を創り出し続けられるアーティストは、半永久的に陳腐化することも成仏することもないのかもしれない。

また別の観点から言えば「マイルドなカルト」を形勢するというのが、その違ったレイヤーで物事を起こすことに重要な観点となる。この言葉は元々PayPal Mafiaのドンと呼ばれるPeter Thielのスタートアップに関する発言が語源になる。違うレイヤーで物事を思考し、実行していると周囲からはカルト扱いされることがある。何故かというとそれは既存の評価軸では捉えられないものであり、パラダイムシフトした物事を理解するには自分の思考自体が違う軸に移行していないといけないからだ。分からないもの = 悪、嫌い、もしくは質の低いものと捉えられてしまう文化圏において、これは新しい価値観で物事を実践するための足枷になり得る。しかし、ここで権力やシステムに抵抗するのではなく、自分の中だけに閉じこもるのでもないオープン性を同時に保つことができれば、それは「マイルドなカルト」として一つの経済圏、価値観を創造することが可能になり、それは自然とブランディングにも繋がっていく。所有権を疑う、0円、態度経済という概念自体は、シェアリングエコノミー、フリーミアム、評価経済などでも実装されてきた概念だけれど、坂口恭平はプライベートパブリックや自殺者をゼロにするための活動である「いのっちの電話 (090-8106-4666)」をはじめとした公共性の概念についての思考と実践が深く、また相対的ではない絶対的な価値を創り出すという点において飛び抜けている。彼はこれらの特徴によって利己的 = 利他的な状態を実現しており、その点において必要な時に必要なだけの支援を集め続けることができるのだろう。

日本における現代美術の可能性としては美術館やギャラリーの外のゲリラとしてカオス*ラウンジ、パープルーム、渋家などが挙げられるけれど、坂口恭平の場合は文脈を無視している分さらにラディカルになる。文脈を重視する作家で言えば村上隆が西洋現代美術における文脈を王道であると同時に裏技として詳細に分析し、その文脈に接続する作品を意図的に制作する作家だとすれば、坂口恭平は文脈を無視、もしくは文脈に無視された上で違うレイヤーを作り出し、知らないうちに文脈を塗り替えてしまう作家だ。歴史の長期的な時間軸における文脈においては、既存の文脈に評価されないものだけが新しい文脈としての価値を持つ。この形式に囚われない「超アマチュアリズム」、「マイルドなカルト」としてのレジスタンスにより、既存の美術館のキュレーター、ギャラリー、コレクターの人には注目されない、もしくは評価されないか無視される。何故なら額縁がなくて壁にも飾られていない絵画やその辺に無造作に置かれた彫刻に権威や価値が宿ってはならず、依存の関係を断ち切った独立した存在は共同幻想を維持するためには目障りな存在だからだ。しかしそれは一般人、独自の価値判断基準を持つ人、もしくは時代を超えた価値を持つ作品には関係のない話でもある。『印象・日の出』を照明でライトアップして演出したり、キュレーションの名の元に作品を曲解して展示するより、ただそこに在るだけで価値があることを思い出させてくれた今回の展示は、アートの原体験を思い出させてくれた。今回気になったけれど見逃した方は、12月にまたCURATOR’S CUBEで展示をするらしいので、その時は是非。お勧めです。

ポスター

出入口

価格表

お気に入りの1枚

ルンパルンパ「Kanazawa Newly arrived Art & Craft 2017」と「MINA-TO SUMMER FESTIVAL “FUTURE STAR”」とダイナミックサイクル「リトグラフ体験ワークショップ」

ルンパルンパ「Kanazawa Newly arrived Art & Craft 2017」と「MINA-TO SUMMER FESTIVAL “FUTURE STAR”」とダイナミックサイクル「リトグラフ体験ワークショップ」に行ってきた。ルンパルンパは石川県にある現代美術、現代工芸を専門に扱うギャラリーで、今回の展示は金沢発のアーティストに焦点を当てて展示しているとのこと。アーティストの年齢層的にはかなり若手の作家が多く、アニメ、ゲーム的な世界観を持った作品も多かった。ギャラリーの方と作家の方にも話を伺うことができ、参考になった。作品の価格を知るのは面白いのでいつも興味があるのだけれど、このスペースでは価格を一緒に表示してはいけない決まりがあるとのことで、別途価格表を見せてもらった。また陰謀論的なテーマの作品にフリーメイソンからInstagramでLikeがきたなどの話は面白かった。

作品全体の印象としては「現代美術的なものより現代工芸的なもの、アニメ、ゲーム的なものより伝統的なものの方がクオリティが高い」ように感じた。工芸はアーティストより職人に寄りがちで、伝統的な技術は貴重なのだが、実は2つは全く種類と質の異なるものなので、それらをどのように融合させていくのかというのは意外と難しい問題。以前ギャラリー巡回紀行: 「世界から目を背ける」もしくは「後ろ向きに開く」という記事の中で書いた「陶芸・彫刻を考えるきっかけ:信楽に撒かれた種」展では「陶芸と現代美術、彫刻を越境する、もしくは境界が曖昧な作品」を展示していたわけだが、今後それと似たような試みを展開していくという方向性はあり得る。

「現代美術的なものより現代工芸的なもの、アニメ、ゲーム的なものより伝統的なものの方がクオリティが高い」というのはもちろんそれらが混ざっている、揺らいでいることに焦点を当てているのを前提とした上での話。ここの可能性についてどういう方向に舵を切るかで、ギャラリーとしても個々の作家としても、また海外に通用するかどうかを含めて今後変わってきそう。前衛的な試みとしてはカオス*ラウンジやパープルームなどのゲリラ的な前衛と比較すると、まだ踏み込み切れていない感じはあった。展示作家が若手中心なので勢いがあり、大御所というだけでダメな作品を良い位置に陣取って展示するといったことがなかったのは良かった。展示は8/6(日)までスパイラルガーデンでやっているので、興味のある人は訪れてみると良いかもしれない。

同時にMINA-TO、スパイラルカフェで行われていた「MINA-TO SUMMER FESTIVAL “FUTURE STAR”」もチラ見したのだけれど、以前から気になっていた深堀隆介の作品を初めて観ることができたのが収穫。彼の作品は規格外続編の連載記事でも扱っている樹脂を使用した作品であり、金魚というフナから人工的に生み出された観賞魚をテーマにしている点で自分の作品のテーマともリンクしている。直接彼の作品と関係するわけではないけれど、「アートアクアリウム」というアートとアクアリウムを融合させて金魚を中心とした観賞魚を展示をしているイベントに何度か足を運んだことがあり、金魚についてはそれ以来興味深いモチーフだと思っている。

「アートアクアリウム」は動物愛護の観点から批判されたり、金魚の人工的な改造の歴史を考えさせられたり、その和とヤンキー性を全面に押し出したカルチャーは良い悪いを内包した様々な文脈が入り乱れている。これはある意味で日本におけるクリスチャン・ラッセン的な何かとのリンクも感じる。深堀隆介の作品はそういった文脈とは無関係に、単純に職人的に金魚の美を和と交えて追究した作品という印象を受けた。作品自体も良いのだけれど、硬化した樹脂に気泡が入っていない丁寧な仕上がりは参考になったので、機会があれば彼の大型の作品も鑑賞したい。「MINA-TO SUMMER FESTIVAL “FUTURE STAR”」は8/13(日)まで開催とのこと。

午後からはダイナミックサイクル「リトグラフ体験ワークショップ」へ。以下のブログに書いてある手順を実際に体験することができた。

「7月20日に工房オープン。ワンコインでリトグラフ体験。」

以下に手順通りの写真を掲載する。

①下書き

②転写

③描画

④製版

⑤刷り

⑥完成

①下書きについては事前に何を書くかを決めておらず、絵はその場で描いた。その後の手順について余り把握していなかったので、下書きは今思うと丁寧にやり過ぎたかもしれない。②転写では左右を反転させて、大まかにラインをなぞっていく。何となく金属感が出る。③描画は本番なのでそのつもりで仕上げる。アルミ板の上にアラビアゴムを塗った部分は油を弾くので、指紋などを気にせずに描くことができる。④製版では謎の液体や粉が大量に登場していたが、恐らく慣れれば普通の作業なのだろう。⑤刷りでは緑系と紫系を混ぜて黒系の色を表現することに。2色版なども可能とのことだったけれど、時間もなかったので今回は1色版で。⑥完成では3枚別の紙に刷り、最後にエディションナンバー、タイトル、サインを入れた。リトグラフにおけるエディションナンバーと複製についてはデジタルとアナログの観点から興味深く、現代美術やオークションの観点からDAW、楽譜、メディアアートなどとも絡めて掘り下げると面白いと思っている。タイトルは数秒で降りてきた「パラパラレルワールド」を採用。サインはいつも通りのもので。⑦後片付けはもっとちゃんとやるべきだったのだけれど、次の待ち合わせ時間の関係もあり、インクの乾きもそこそこにダイナミックサイクルを後にする。この内容で濱中さんの指導を受けつつ、ワンコインでリトグラフ体験をできたのは非常に貴重な体験だった。

リトグラフは絵を描いてから刷るとなると、最低でも2、3時間はかかる。実は濱中さんと会う前に電車の中で30編の詩を考えていたのだけれど、実際にアーティストブックの詩に対応するリトグラフの作業をするには時間が全然足りなかった。アーティストブックは今年中には作品として仕上げて展覧会などもやりたいと思っているので、それは改めて取り組んでいきたい。また今回の詩は勢いで書いたものが多かったので、以前考えた20編の詩のクオリティとの整合性も考えつつ改めて見直してみようと思う。アーティストブックの中での詩とリトグラフの対応関係、数はどうするのか、手作りにするのか、依頼するのか、リトグラフはどのように販売するのか、展示の内容はどうするのか、Digital Bookとしての展開はどうするのか、価格はどうするのか、宣伝方法はどうするのかなど色々考え中。全てを一気に完璧にやろうとすると確実に破綻するので、この辺りの疑問点とアイディアを上手く泳がせつつ、まずは作品を仕上げていくことを最優先にやっていく予定。今回作業していて印象的だったのは、道行く人たちが興味深そうな目で眺めていたことだった。特にリトグラフプレス機で作業している場面は目立つ。外国人観光客も多い土地柄なので、SNSなどを含めて宣伝を展開していければ徐々に広まっていきそう。ダイナミックサイクルは可能性が開けている場なので、是非様々なバックグラウンドを持つ人が訪れて、面白い作品と文化を旋回しながら発信していってもらいたい。

Gmailへの転送と送受信設定: XSERVERで独自ドメインを使用したメールアカウントの場合

Gmailへの転送と送受信設定については以前から備忘録を残しておきたかったのと、今回設定に変更を加えたのでこの機会に方法を書き残しておく。具体的にはXSERVERで独自ドメインを使用したメールアカウントを追加し、そのアドレスで受信したメールをGmailに転送して送受信するための設定方法になるが、それ以外の場合でも参考になる部分はあるだろう。

1. まずは以下の「メールアカウントの追加」を参照してXSERVERで設定を行う。

「メールアカウントの追加」

最終的にGmailに転送したメールをXSERVERのメールボックスに残さないのであれば容量は最低限、もしくはデフォルトの300MBのままでOK。コメントは必ずしも入れる必要はない。

2. 次に以下の「メールソフトの設定」と「Gmailアカウントの設定方法」を参照してGmailで設定を行う。

「メールソフトの設定」

「Gmailアカウントの設定方法」

ここで上記のリンクの補足として、メールの送受信のプロトコル (伝達方法) と暗号化について解説しておく。まずメールを受信する主なプロトコルを挙げるとすると、POP (Post Office Protocol) とIMAP (Internet Message Access Protocol) の2種類を挙げることができる。POPはサーバーからメッセージを全てローカルにダウンロードして保存する方式。一方でIMAPはサーバー側にメッセージを全て保存して、その都度表示してローカルにはダウンロードしない方式になる。今回のGmailの設定ではPOPを改良したPOP3 (POP Version 3) を使用している。メールを送信するプロトコルはSMTP (Simple Mail Transfer Protocol) であり、Gmailの設定ではこのPOP3とSMTPを設定すればXSERVERから転送したメールをGmailで送受信できるようになる。

メールを受信するPOP3の設定に関してはポート110はSSLを使用しない場合なので、ポート995でSSLを使用で良い。一方でメールを送信するSMTPの設定に関してはポート465でSSLを使用、もしくはポート587でTLSを使用とするかは迷うところ。前者はSMTP over SSLで全面的に暗号化するので安全性は上がるが、相手が対応していなければ送信できない。後者はSMTP STARTTLSであり、相手が対応していれば暗号化、対応していなければ平文で送ることができる。個人レベルでは「Gmailアカウントの設定方法」にも書いてある前者で良いが、不特定多数に送信することが重要な企業では後者を選択するべきだろう。個人的には後者で設定している。

ここまででGmailへの転送と送受信設定は完了。ここからはinfo@example.com、store@example.comなどを含めて、5個を超えるメールアカウントをGmailに転送して送受信設定をしたい場合の話になる。まずGmailでは送信については個数制限がないので、幾つでもメールアカウントを設定することが可能だ。一方で受信については5個までという制限があるので、その個数を超えたメールアカウントを設定する場合には違う方法を試みる必要がある。具体的には以下のようにXSERVERのサーバーパネルで設定することになる。

まず設定対象ドメインを選択し、メールアカウント設定 > メールアカウント一覧から設定対象となるメールアカウントの「転送」を選択する。転送先アドレスに転送先のGmailアドレス (example@gmail.com) を入れる。同時に「メールボックスに残すかどうかの設定」の「設定の変更」で転送したメールをXSERVERのメールボックスに残すかどうかの設定を行う。以上で設定は終わりだ。転送と受信に関しては全てこの方法で設定しても問題はないが、送信者の名前を受信したメールアドレスごとに自動的に設定したい場合は、GmailのPOP3を設定する必要がある。従って通常の場合は上記の1と2の方法で設定するのが無難だ。

追記: 最後に紹介したXSERVERのサーバーパネルでのメールアカウントの「転送」設定だが、GmailでPOP3の受信設定をしたものに関しても設定しないと届かないケースがあり、単に遅延の可能性もあるが、できるものに関しては両方設定しておいた方が無難かもしれない。ちなみにメールアカウントの「転送」設定さえしておけば、GmailでPOP3の受信設定をしていなくてもメールが届くのは確認済みなので、むしろ大事なのはこちらの方の設定ということになりそうだ。

規格外続編 5: 型枠外しとエポキシ樹脂とUVレジンによる規格外野菜の硬化と成形品の研磨

前回まででシリコーンの型取りが終わったので、今回はシリコーンが硬化したことを確かめてから型枠を外し、エポキシ樹脂とUVレジンによって規格外野菜を硬化させ、最後に成形品を研磨して完成となる。前回同様以下に作業手順を写真付きで説明する。

1. シリコーンが硬化したことを触って確かめる。

2. 型枠と原型をシリコーン型から取り外す。

3. エポキシ樹脂と硬化剤と促進剤を重量比で計量して、1〜2分程度混ぜ合わせる。

4. シリコーン型に混合液を流し込む。

5. 混合液が硬化したことを確かめる。

6. 規格外ジャガイモにUVレジンを塗り、日光の紫外線で硬化させる。

7. 規格外ジャガイモをシリコーン型に配置し、新しく作った混合液を幾度かに分けて流し込む。混合液の流し込みを終えたら、完全に硬化が終わるまで待つ。

8. 混合液が硬化したことを確かめる。

9. シリコーン型から成形品を取り外す。

10. 成形品を研磨して完成。

7番目の手順の終わりに気泡が暴発しているのが写真で分かるが、順を追って説明していく。まずシリコーン型については硬化時間は予想通り大体半日〜1日で、型として十分使えるものが完成した。型枠と原型に関しては段ボール紙を切らないと上手く取り外せなかったので、今回は使い捨てとなった。当然のことながらガムテープなどの跡は割とはっきり付き、これは樹脂を硬化する際にも影響する。研磨で跡を消そうと思えば消せるのだけれど、それが気にならない型を最初から作りたいのなら、前回も言及した通り型取りブロックなどを使用した方が良い。

エポキシ樹脂と硬化剤と促進剤についてはシリコーンよりも混合比がシビアであり、硬化のクオリティに大きく影響するので計量は完璧に行った方が良い。今回はそこまでシビアに混合比を計量しなかったのが後に影響した。UVレジンを規格外ジャガイモに塗ったのは、ジャガイモの中に水分と空気が含まれているので、それらによる気泡の影響を最小限に抑えるため。UVレジンは日光の紫外線によって数十分程度で硬化したが、後に述べる理由から考えてこの行程はほとんど無意味だったかもしれない。規格外ジャガイモの配置は混合液を流し込む度にずれてしまったので、何度か変えている。混合液の流し込みと硬化は途中までは割と上手くいっていたのだけれど、最後の層を流し込んで規格外ジャガイモが密封された時点で、気泡が暴発したように吹き出してしまった。硬化の最中は熱を持つのでどうすることもできず、ただその様子を眺めていた。

気泡が吹き出す最中の動画は撮影できなかったけれど、混合液が熱を持った余力と相まって上部が泡立つ様子が撮影できたので、以下に記録として掲載しておく。危険なので真似は推奨しない。

混合液が硬化した後も透明にならずに色が変わっている部分は、混合比が間違っていたか、混合する際の攪拌が不十分であった可能性が高い。特に下層より上層の混合比が間違っていて、硬化不良によりいつまでも完全には固まらずにベトベトしてしまうという事態になってしまった。シリコーン型から成形品を取り出した後に上からUVレジンを塗って対処したけれど、それは対症療法にしかならない。そもそも今回の場合は生の野菜を樹脂の中で硬化させるということ自体が無理で、混合比と攪拌を完璧にして硬化不良が起きなかったとしても、気泡は吹き出してしまったものと予想される。また上層だけではなく、規格外野菜の周囲にも大きな気泡がそのまま残されているのが分かる。そういう意味ではそもそもこの方法自体に無理があったという結論だが、一応成形品は研磨までしてみた。研磨には金属やすりと紙やすりを荒いものから順にかけていく。もっと丁寧に磨いて、つや出しニスも使用すればさらに透明度は上がるはずだが、今回はここまでで実験終了とした。全面的にやすりがけをしたけれど、気泡が吹き出した方の面はほとんどそのまま残した。

一応今回で最初の実験としては終了になるが、今回分かったことは生の野菜を樹脂で固めるのは難しいということ。エタノール、ホルマリン、ハーバリウム、ドライなど様々な方法が考えられる中、半永久的に形を残せそうで、現実的にもできそうな手段として樹脂で固める方法を選択したが、今のままのやり方では実現は難しい。3Dプリンタの使用も考えているけれど、樹脂を使用したやり方を今回で完全に諦めたわけではない。次回やるとしたら型取りブロックを型枠、規格外野菜を原型として使用し、その形に沿って樹脂で固めてみたいと思う。本当はそこに色々な表現も入れてみたいし、樹脂の中に入れたいものもあるのだけれど、まずは手法を確立することから始めないといけない。このやり方では規格外野菜そのものを保存することはできないけれど、形は残すことができ、衛生問題や今回のような気泡の問題も発生することはないはず。仮にシリコーンに対しても気泡が発生するようであれば、油粘土を使用して形をトレースすることも可能。一連の流れと共に、かかる時間や費用、計量の厳密性など今回の実験で学んだことは多いので、それらを活かしつつ次に繋げていきたい。

規格外続編: 連載記事リンク

「規格外続編 1: 規格外野菜の標本」

「規格外続編 2: エポキシ樹脂とUVレジン」

「規格外続編 3: 規格外野菜とシリコーンとその他の道具類」

「規格外続編 4: 制作環境構築と型枠と原型作りとシリコーンの型取り」

「規格外続編 5: 型枠外しとエポキシ樹脂とUVレジンによる規格外野菜の硬化と成形品の研磨」

「分類」という永遠のテーマへの挑戦: 「分人」と「カテゴリ整理」

「分類」は自分の中で一生のテーマであると同時に、時代を象徴するテーマでもある。今回はまず本題に入る前に、人間に対する「分類」について考えてみる。「分人」という概念については後で説明するとして、そもそも「Individual」の訳語である「個人」という概念は明治時代に入ってから輸入された概念であり、それは「社会」と「個人」を対比する言葉である。また「個人」という概念は独立した自我を持つユニークな存在であるという西洋社会の哲学を色濃く受け継いだ概念でもある。それは元来「社会」というよりは「世間」という村社会、上意下達の元に集団で協力して生きることを前提に生きてきた日本人にとっては馴染みにくい概念だ。行き過ぎた「自己責任論」は「個人」に対する責任を重視しているというよりは、むしろ村社会における常識、掟を破った人間に対する村八分としての制裁の役割を果たしており、個人主義の進んだ国では見られない日本特有の現象とされるのはある意味で必然と言える。

ここで先程の「分人」という概念を説明すると、人間は分割不可能な「Individual」 = 「個人」ではなく、分割可能な「Dividual」 = 「分人」であるということだ。これはつまり、個人の中に複数の人格が同時に存在しており、それが様々な場面や状況や関係性によって引き出されるのが自然であるという考え方だ。これは平野啓一郎の『私とは何か: 「個人」から「分人」へ』という本に書かれているが、似たようなことは様々な人が様々な形で言及している。例えば坂口恭平の言う「分裂症」も同様の意味だろう。個人的にも自分が人生において一つの自我に縛られることに対しては、ずっと違和感を抱き続けてきた。やりたいことは複数あるし、自分の人格も複数あるのが自然に感じるし、思考も含めてそれらは常に流動していて捉えどころがない。それ故にそれらを絞れと言われることや、一つのキャラクターを押しつけられたり、表層的なレイヤーでの一貫性を求められるのが何よりも嫌いだ。それには限りなく生理的な嫌悪感がある。自分としては同時に幾つものことをやっているのが自然であり、複数の自分がいるのが自然であり、変わり続けることが変わらないということが自然である。

そもそも高校を辞めたのは文系と理系のどちらかを選択しないといけないと強制されたからだし、アメリカの大学でCross Media Artsという6つの分野を専門とする専攻を作ったのもそれが自然だったからだし、複数のプロジェクトを同時にやっているのもそれが自然だからだ。職業は自分で作るものだし、同時に幾つあっても良い。最初は芸名も複数作って色々やっていたけれど、それは他者との関わりの中で混乱を生んだので、今はプロジェクトを複数に分けることで対応している。その中でも求められる統一感にどう対応していくかというのは長く続く課題ではある。そういった生き方が理解されるようになるまではまだ少し時間がかかるのだろうが、複数に分裂しながら、レイヤーを変えれば様々な色や形に統合されるようなものを追求していくことには変わりがないだろう。

何故この話をしているかというと、今日はNILOGの「カテゴリ整理」をしたからだ。「カテゴリ整理」については以前 過ログの盲点と「こうもり問題」についてという記事の中でも言及していたが、ようやく着手することができた。他にもまだ対応できていないことや、拡張したいことが多々あるので、順次改善していく予定だ。元々ジャンル分けというのが凄く苦手で、何故かというとそれは解像度と自由度を殺すからだ。ジャンル分けは他者による利便性の暴力によって、繊細な違いを全て原色に塗り変えてしまう。そして一度分けられたものは、高い壁の中で半永久的に先入観に塗れながら消費され続ける。しかし一方でそれは必要悪でもあって、「カテゴリ整理」に関してはSEO対策になると同時に、自分の興味の対象や行動の履歴や割合を客観的に把握することもできるし、読者からしてみれば興味のあるカテゴリの記事をまとめて読むことも可能になる。実際にはスムーズに「カテゴリ整理」を進行させるために、以下のルールで整理した。

・完璧を目指さず、修正していくことを前提に、古い記事から順にカテゴリを作る。

・一つの記事に一つのカテゴリを基本に分類する。例外はある。

・親カテゴリ、子カテゴリのようなヒエラルキーは作らない。

カテゴリの「分類」に関しては正解がない。なので、完璧を目指しているといつまで経っても終わらないので、まず出てきた順に適当にカテゴリを作り、整理していく。途中でより良いアイディアが出てきたら修正するという形を取った。基本的に一つの記事に一つのカテゴリに分類するという方法だと、「こうもり問題」が起こる可能性はある。ただこれに関しては複数のカテゴリに「分類」するのを基本としてしまうと、カテゴリというよりはタグになってしまう。またその複数のカテゴリに登録していると収拾が付かなくなる恐れもあったので、このルールを適用した。といっても連載記事などは例外として2つ登録しているのと、記事によっては例外的に2つ以上登録しているものもある。「雑記」に入っている記事は「その他」としての役割を果たしているので、ここからさらに分類することや他のカテゴリに分類することも可能かもしれない。「こうもり問題」が起きた場合は、神経質になり過ぎない範囲で、よりカテゴリの性質が強いと思われる方に分類した。親カテゴリ、子カテゴリは将来的には分からないけれど、これも「こうもり問題」が起こる可能性があるし、今の記事数なら必要ないと思ったので作らなかった。これらは暫定的なやり方なので、後にカテゴリを変更する場合もあるだろうし、ルールを変更する可能性もある。

以前であったら拘り過ぎて半日で全ての記事を「分類」することは不可能だっただろう。最近では様々な場面でTrial and error方式のやり方に慣れて、良い意味で力が抜けて適当になってきている。細かいことは気にしないというのは実は理に適っていて、何故かというと細かいことを気にしても後にそれより抽象的な部分での間違い、もしくは修正点が発生したら全てが無に帰す可能性があるからだ。事前にどれだけ準備したとしても、やってからでないと気付けないということはある。また他人に対しても細かい注文をすることで創造性を殺すことがあり、心理的なやる気を削ぐ可能性もある。そのことから考えても明確なヴィジョンがあることは大事だが、PDCA (plan-do-check-act) はたまにはP抜きでやる、もしくはPの強度を弱めたり、後回しにしてみるのも良いのかもしれない。

私とは何か: 「個人」から「分人」へ
私とは何か: 「個人」から「分人」へ
著者: 平野啓一郎

規格外続編 4: 制作環境構築と型枠と原型作りとシリコーンの型取り

前回までで制作に必要なものは一通り揃えたので、今回は実際の制作に入っていく。まずは制作環境を構築するべく、自室ではなく1階の空きスペースを開拓する。シリコーンと樹脂は硬化の際に有害ガスが発生するので、人がいなくて換気しやすい場所を確保する必要がある。1階の空きスペースは他にもあるので、今後は制作のためのアトリエや録音スペースに変えていくのもありかもしれない。制作環境が構築できたら、型枠と原型を作り、最後にシリコーンの型取りをして今回の作業は終了になる。以下に今回の作業手順を写真付きで説明する。

1. まず机を設置して広告をガムテープで貼り付けて周囲を覆う。これはシリコーンや樹脂が垂れた時のための対策。

2. 次に前回までにコツコツと揃えた制作に必要なものを机に並べていく。制作途中で必要になったものは随時付け加えていく。この時点で型枠と原型作りの下準備として、段ボール紙を12㎠ × 5枚と10㎠ × 5枚に切り取っておく。

3. 型枠を作るために段ボール紙の12㎠ × 5枚を1枚ずつ木工用ボンドで貼り付け、外側をガムテープで覆い、シリコーンが漏れないように補強する。

4. 原型を作るために先程と同様に段ボール紙の10㎠ × 5枚を1枚ずつ木工用ボンドで貼り付け、外側をガムテープで覆い、シリコーンが漏れないように補強する。原型ができたらその面が開いている方を下に向け、4辺に木工用ボンドを塗り、先程の型枠の中に隙間が均等になるように貼り付ける。

5. 防塵マスクとゴーグルと手袋を装着し、シリコーンと硬化剤を注意書きに書いてある割合で計量し、1〜2分程度混ぜ合わせる。

6. 先程の型枠と原型の中にシリコーンと硬化剤を混ぜ合わせた液体を流し込む。これを満杯ぎりぎりになるまで繰り返す。完全に硬化が終わるまでに半日〜1日程度かかるので、このまま時間の経過を待つ。

今回の作業はここで終わりだが、補足が必要な点、やり始めてから気付いた点、改善点などを挙げてみる。まず型枠と原型は好みのものがあれば市販の物を購入することが可能。自分で制作する場合も型枠は型取りブロック、原型は油粘土などを使用すると自由度が高く、精度も上がる。今回はそれらを一切使用せず、段ボール紙を使用して型枠と原型を作った。

まずは奇抜な形ではなく立方体を試してみたかったことと、今回使用する予定の規格外ジャガイモが入るサイズということで、型枠は12㎠、原型は10㎠にした。原型は立方体のものがあればそれを入れても良かったのだけれど、なかったのでこれも段ボールで作った。隙間が思ったよりも小さくなってしまったので、もう少しサイズの差を付けても良かったかもしれない。本当は段ボールの厚みなども含めて計算に入れるべきなのだけれど、切り取りも含めてそこまで精密にやるなら型取りブロックや油粘土を購入するべきという結論に至ったので、型枠と原型はそこまで厳密に作っているわけではない。

シリコーンと硬化剤の割合と分量に関しても、0.1g単位で計測できる秤を購入した割にはかなり適当になってしまった。というのもシリコーンは大きな缶に入っていて、紙コップに注ぐ時にそこまで厳密に注げないことと、その多少の量の増減に合わせて硬化剤を計算し直すのが面倒になってしまったという経緯がある。混ぜる時間も適当ではあったが、結果として液体が漏れることはなく、硬化も順調に見えるのでこのままいけば立方体に近いものができるはずだ。

今回完全に忘れていたのはシリコーンの型取りの作業前に作業着を着ること。防塵マスクとゴーグルと手袋をしたことで完全に油断していた。ただ気付いたときには既にシリコーンの型取りの作業が中盤に差し掛かっていたので、そのまま作業を継続して終わらせた。あとは秤をカバーするのも忘れていた。そのためにシリコーンが零れて秤の表面に付着してしまった。ティッシュなどで拭いたけれど、これは最初からカバーをしておけば防げた。また今回改めて分かったことは、この方法で規格外野菜の標本を作るのは金銭的な負担が割と高いということ。今回の型取りでシリコーンはほとんど使用してしまったし、次回使用する予定のエポキシ樹脂も恐らくほとんど使い切ってしまいそう。そうなると特に大きな野菜や複数の野菜を入れる場合、大量に作る場合などを考えるとシリコーンと樹脂の費用が馬鹿にならない。そもそも野菜をそのまま入れた場合にどれだけ腐敗せずに持つかどうかも未知数なのだけれど、それらを含めて今後の実験で確かめていきたい。次回はシリコーンの型取りの結果を確かめ、いよいよエポキシ樹脂とUVレジンを使用して規格外ジャガイモを硬化させる作業に入る予定だ。

規格外続編: 連載記事リンク

「規格外続編 1: 規格外野菜の標本」

「規格外続編 2: エポキシ樹脂とUVレジン」

「規格外続編 3: 規格外野菜とシリコーンとその他の道具類」

「規格外続編 4: 制作環境構築と型枠と原型作りとシリコーンの型取り」

「規格外続編 5: 型枠外しとエポキシ樹脂とUVレジンによる規格外野菜の硬化と成形品の研磨」

土用の丑の日: 空気鰻と味覚のテクノロジー

本日は「土用の丑の日」だ。「土用の丑の日」らしきことは何もしていないが、折角なので「土用の丑の日」の由来と「土用」と「丑」という現代人に余り馴染みのない言葉の意味を説明してみる。

「土用」とは

・風水の陰陽五行説に由来し、まず木行を春、火行を夏、金行を秋、水行を冬に当てはめた後に、残った土行を各季節の終わりの約18日間に当てはめた期間を指す。つまりこれは立春、立夏、立秋、立冬の前の期間になる。

「丑」とは

・十二支に由来し、12日周期で存在している。

「土用の丑の日」とは

・厳密には冬土用、春土用、夏土用、秋土用の丑の日ということになるが、俗に言う「土用の丑の日」は夏土用の丑の日になる。

・由来は幾つか存在するが、平賀源内マーケティング説が有名。鰻屋の鰻が余り売れなかったので、平賀源内が「本日丑の日」と書いて張り紙をすることをアドバイスしたところ店が繁盛し、次々と他店に真似られて「土用の丑の日」に鰻を食べることが定着した。元々夏バテを避けるために「う」が付く食べ物を食べる風習があり、その風習が鰻の定着を後押ししたという説もある。ちなみに天然の鰻は8〜12月が旬で、晩秋から初冬にかけてが一番美味しいと言われている。

ニホンウナギは国際自然保護連合 (IUCN) が作成したレッドリストでは2014年に絶滅危惧種の指定を受けているが、レッドリストには特に法的拘束力はない。しかしワシントン条約で規制する動きも出ているので、将来的にこれが適用されればニホンウナギの取引に大きな影響を及ぼすし、それが適用されようがされまいが保護を考える必要はある。今年は「土用の丑の日」に鰻を食べる風習を辞めよう、「う」が付く食べ物を代わりに食べよう、タレのみで食べようといった真剣なものからネタを含んだものまで様々な動きが見られたけれど、実際にこういった空気が踏み絵のように機能すると風習を変える力を持つのかもしれない。データとエビデンスをロジックでまとめて真剣に保護を訴えるのも重要なのだが、代替案やネタで空気を変えてしまう方が実際の効果は大きいように思える。空気に関しては基本的にかつて谷桃子が言った「空気は読むものではなく吸うもの」派だけれど、世間的に「空気は読む」ものと考えられている以上は、時には「空気は書くもの」として利用することも必要だ。そういう意味では今、ニホンウナギは空気に左右される空気鰻として海を漂っている。

ただ今まで鰻を食べてきて美味しいと思っている人に急にそれを辞めさせるのは可哀想なので、個人的には同じ味の料理が作れれば良いと思っている。ここに関しては結構ラディカルな考えを持っていて、栄養と味が自在に操れるのならば人工的な食物であろうが何を食べようが構わない。ベジタリアンとヴィーガンの人たちは料理で特定の味を作り出すための工夫の仕方が進んでいるので、以前「ゴールデンウィーク 3: 食事と料理について」の中で触れた味覚センサーレオのような科学的な分析と組み合わせて味を作り出せば割といけそうな気がする。ベジタリアン鰻の蒲焼き、ヴィーガン鰻重、フルータリアン肝吸いみたいな。手間のかからないものとしてはタレは結構いけると思っていて、大体美味い食べ物の半分くらいはタレのお陰だと思っている。お好み焼きも焼き肉も結局タレが重要。鰻のタレの中には鰻が入っていたりもするけれど、それは鰻抜きで再現できるはず。そもそも鰻が好きではない人にはその味は余り関係のないことかもしれないけれど、味覚のテクノロジーは面白いと思っていて、味を合成して作り出したり、味覚を拡張したり、味覚を情報として転送する技術が今以上に確立されれば、空気鰻たちも伸び伸びと暮らせる未来が来るのかもしれない。

「会計ソフトを利用した記帳指導」に行ってきた

以前「記帳説明会に行ってきた」という記事を書いたけれど、今日はその説明会で申し込んだ人のみが対象となる「会計ソフトを利用した記帳指導」に行ってきた。案内に会場が書いていなくて、予約の時の電話でも聞くのを忘れていたために、案内に書いてあった税務署の担当者の番号に連絡。以前は税務署で記帳説明会を受けていたから今回の会場も税務署だろうと高を括っていたが、質問したら話が余り通じていない様子。迫る時間、焦る俺、調べてから折り返すと言ってくる担当者……。一度電話を切り、そういえばこの前その記帳指導をする民間団体と電話をした時の履歴が残っているはずだと気付く。そちらに電話をしたら一発で場所がその民間団体の場所だと分かり、遅刻するかもという旨を伝えつつ家を出る。税務署の担当者にはお礼を言って電車に飛び乗り、最寄り駅が想定していた駅より1駅手前だったこともあって、実際には5分前集合だったのが15分前に無事到着した。

振り返ってみると会場を事前に知らなかった、というよりは前回と同じ場所であると思い込んで当日まで疑わなかったのは良くなかった。結果税務署の人には余計な手間を取らせてしまって申し訳ない気持ちもあったけど、税務署と民間団体が切り離されたイベントであったなら、問い合わせは税務署ではなく、その民間団体にしてくださいと書いてくれた方が助かる。ただ日本の行政機関については良いと思う部分が沢山あって、期限は守ることが多いし、質問すれば答えてくれるし、対応が基本的に丁寧だし、事務処理が優秀。そんなの当たり前じゃないかと思うかもしれないけれど、海外に住んでみるとそれらはどれも当たり前のことじゃないと気付く。話は一旦横道に逸れるが、この話題に関連してあくまで消費者側として日本が海外と比較して優れていると思う機関、業者を3つ挙げるとするならば、行政機関、運送業者、外食産業になる。行政機関に関しては先程既に述べた。運送業者は早いし、時間指定もできるし、届かないことはまずない。外食産業は安くて美味い。もちろんこれらの優れた点は裏を返せば縦割り行政で応用がきかない、ブラックな労働環境、水産資源管理などの問題に繋がりもするので手放しで褒めるわけにはいかないけれど、海外と比較して日本に住む利点があるとすればこれらの要素を挙げることはできる。

実際の記帳指導では記帳に関する幾つかの資料と「弥生会計 17 スタンダード 青色申告学習用 体験版CD-ROM」が配られた。記帳の仕方と会計ソフトの使用の仕方はネットで調べるか自分で試行錯誤すれば分かるので、こういう説明会に出席する必要は特にない。一方でこういった説明会に行く利点は幾つかあり、一つ目は自然とやる環境が設定されること、二つ目は資料が手に入ること、三つ目は直接質問ができること。一つ目については、自主的なゴールを設定して、それに向かって行動していくことを続けていると、どこかのタイミングで気が緩んである種のタスクを後回しにしがちになることがある。そこでこういった日時が指定された説明会に出席することで、自然と自分がそれと向かい合う環境を作ることになる。もちろん嫌々やるのでは意味がないが、リマインダー、マイルストーン、締め切りとしての役割は大きい。二つ目については、確かにもらった資料の大半はネットで調べることで手に入る情報であったりもするのだが、それらがまとまった資料として受け取れるのは便利。自分で独自に取り組むとしても資料があるだけで、そこから発展してネットでリサーチを進めることもできる。三つ目は最大のメリットで、何かが分からない場合には延々と自分で調べて時間を無駄にするより、プロに直接質問して聞くのが一番手っ取り早い。

講義の内容に関しては、以前既にブログで書いたような内容と、パソコン教室のような内容になるので省略。新しい発見が全くなかったわけではなく、決算書の最終形と会計ソフトの全体像が具体的に分かったのは良かった。個人的には講師の人が説明の合間に語っていた、個人的にはこうしているという内容が一番興味深かった。この記帳指導は全5回で、今日が2回分、10月が2回分、12月が1回分と合計3回通う予定。またこういう公的機関に近い組織で使われるパソコンはWindowsが定番であり、この記帳指導はソフトの関係からかWindows 7以降がインストールされたパソコンがないと参加できないらしいので、普段はMac使いでもWindows 7がインストールされたノートパソコンを持っていて良かった。Macの方でもParallels Desktop for Macの仮想マシン環境でWindowsを使用できるのだけれど、Windows専用機があった方が色々捗る。今日聞いた話を総合すると曖昧なところは思った以上に曖昧で良い一方で、最初に仕組みを整えておかないと後々大変になる部分も多々あることが分かったので、夏の暑さにやられる前にぼちぼち会計ソフトでの記帳を始めようと思った。

NHKスペシャル「AIに聞いてみたどうすんのよ!?ニッポン」 後編: AIひろしという名の神とその神託を捏造する巫女たち

後編ではこの記事の本題である「AIひろしという名の神とその神託を捏造する巫女たち」について説明する。その前にまず物議を醸した「AIの分析結果から読み解いた提言」をウェブサイトから引用してみる。

・「健康になりたければ病院を減らせ」

・「少子化を食い止めるには結婚よりもクルマを買え」

・「ラブホテルが多いと女性が活躍する」

・「男の人生のカギは女子中学生の“ぽっちゃり度”」

・「40代ひとり暮らしが日本を滅ぼす」

これらの提言をざっと眺めるだけで、前編で説明した「相関関係」を「因果関係」と主張するタイプの「誤謬」のオンパレードであることが分かる。AIひろしによって分析された「相関関係」は一切検証されないまま、人間側が勝手に何の根拠もない「因果関係」として解釈し直し、提言として発表されている。確信犯的だと思ったのはウェブサイト上では「AIの分析結果から読み解いた提言」と書いてあるが、番組内ではそれは「AIひろしによる提言」であるかのように演出されており、その二つの意味は全く異なるのだが、それらの混同を意図的に狙っていたような印象を受けた。これが「AIひろしという名の神とその神託を捏造する巫女たち」の意味になる。要するにAIひろしはここでは神であり、神はブラックボックスであるので提示された内容については人智を超えている。なので巫女としてそれを神託した人間がその内容を勝手に解釈し、それが提言として権威付けられるという構造になっている。しかしAIひろしは神でもなければ、提示された内容が人智を超えているわけでもなく、AIはそもそも何も提言しない。なので実際にはその神託を都合良く利用したい巫女たちがおり、その人間側には主張したいけれど主張しにくい偏見に基づいた結論が先にあり、そこから逆算した内容をAIが導き出した、提言したという筋書きにしたいというのが狙いだろう。

数日前の「誤配の可能世界」という記事の中で「言いにくいことをAIに言わせる」ことが流行するということに触れたが、今回の番組は既にその兆しを体現していたとも言える。これはPost-truthの進化形と言っても良くて、どれだけ酷いFake newsでもAIに代弁させれば信頼性が上がるならばその手法は流行するだろう。またこれは差別、偏見、疑似科学、プロパガンダといった内容にも簡単に応用可能であり、全てAIが提言していることにしてしまえば人間側の責任逃れの術としても使える。例えば提言にある「40代ひとり暮らし」の部分をそのまま特定の人種、性別に置き換えてみたら?または『水からの伝言』、マイナスイオンビジネス、水素ビジネスなどの疑似科学の権威付けに使用されたら?、もしくは「差別が国家を豊かにする」、「人類発展のカギは戦争」などと言い出したら?こういう偏った内容のことを主張したいが、主張すると批判されるのでしていないという人間というのは相当数いて、それらに反論したときに「いや、これは私ではなく人智を超えたAIが言っていることだ」という開き直りはポリコレを今以上に無効化する力を持つかもしれない。またこれは内容の真偽よりも角が立つか立たないか、つまり空気が読めるか読めないかの方が遙かに重要視される日本社会において特に悪用されそうな手法でもある。一方で人間がエモ過ぎるが故に問題を直視せず、問題を指摘したり、改善案を出す人間を排除するので、結果として衰退して手遅れになるという悪循環の構造はある意味人間の限界を示しているとも言えるが、先程の「言いにくいことをAIに言わせる」ことを良い方向で役立たせれば、角を立てることなく問題解決に役立たせることも可能になる。

今回はAIひろし自体に技術的な疑念があったわけだが、一般的に言ってAIにバイアスがないとするならば、可視化されるのは人間の方のバイアスだ。それは目的もそうだし、インプットデータも含めてそれを選定する人間のバイアスが問われる。またその結果を見る人間の方のバイアスも問われる。今回の件は「因果関係」と「相関関係」の問題を周知したという意味では反面教師としてかなり貢献したと思われるが、それらに関して疑問に思った人は既にその問題を知っている人が多く、一方でそういう情報に辿り着かずに番組の鵜呑みにする人との情報格差は一方的に広がっていく。汎用人工知能 (強いAI) はディープラーニングでも全く辿り着いていない地平であり、過去のデータからの未来予測には限界があり、最終的に問題解決をするのは人間自身だ。そういう意味で言えばAIを上手く使いこなせない場合は、実際にはそれはAIの問題というより人間の問題である場合が多いということだ。

個人的な番組のハイライトはマツコがAIに「ひろし」と名付けたこと。命名の流れとしては有働アナウンサーがNHKディレクターである阿部博史の「ひろふみ」を「ひろし」と間違えたことから、AIに「ひろし」と名付けたといった流れだった。マツコは頭が良さそうな名前を付けても角が立つから、普通の名前を付けたというようなことを話していたが、アナウンサーという言葉のスペシャリスト、NHKディレクターという番組の責任者、AIというブラックボックスに対して「間違った」名前を付けるという行為には瞬発力満載の批評性を感じた。マツコは元々いかに角を立てずに、ぎりぎり言いたいことを言うかで勝負してきた人だ。最近ではテレビに対して最適化をしたので、初期の頃と比較すると革新的というよりはかなり保守的な意見を言うことが多くなったが、マツコがテレビで果たした役割は大きい。マツコがある程度本音を言っても叩かれにくいのは、ゲイで女装で巨漢であるというマイノリティ性、社会の枠組みから外れているために別枠として捉えられているからというような自己分析を過去にしていたけれど、それは的を射ている。

最後に以前書いた記事について紹介する。ニューラルネットワークは第二次人工知能ブームの産物であるが、第三次人工知能ブームの産物であるディープラーニングはそこから発展して生まれたものだ。以下の2つの記事はニューラルネットワークから始まってディープラーニングの入り口まで、理論編でイメージを掴み、実装編でプログラミングを通して手を動かすことで、実際に制作できるようになっている。良く分からないものは、さっさと作ってしまうのが学びの一番の近道であり、一度作ってしまえば大体それが何ができて、何ができないのかくらいは分かるようになる。少なくともディープラーニングによるAIは神でも何でもなく、ビッグデータを燃料として動く掘削機のようなものであって、今はその掘削機で様々な資源を掘り当てている段階であり、その掘削機をどのように使用するかは人間次第であるということは覚えておいてほしい。

『Make Your Own Neural Network』: ニューラルネットワーク構築「理論編」

『Make Your Own Neural Network』: ニューラルネットワーク構築「実装編」

NHKスペシャル「AIに聞いてみたどうすんのよ!?ニッポン」: 連載記事リンク

NHKスペシャル「AIに聞いてみたどうすんのよ!?ニッポン」 前編: 「相関関係」と「疑似相関」と「因果関係」の違い

NHKスペシャル「AIに聞いてみたどうすんのよ!?ニッポン」 後編: AIひろしという名の神とその神託を捏造する巫女たち

NHKスペシャル「AIに聞いてみたどうすんのよ!?ニッポン」 前編: 「相関関係」と「疑似相関」と「因果関係」の違い

NHKスペシャル「AIに聞いてみたどうすんのよ!?ニッポン」を観た。統計、人工知能の専門家をはじめ、既に様々な人から指摘されているように、「因果関係」でなく「相関関係」、もしくは「疑似相関」と思われるものを「因果関係」と思わせるような内容、演出が目立っていた。確かに要所要所で「因果関係」ではない旨の説明が入ったりもするので、制作者、出演者全員が根本的に勘違いしているとは思わないが、全体として考えれば明らかにミスリードしていた。またAIひろしはソースコードが不明なので断言はできないけれど、第三次人工知能ブームにおけるディープラーニングなどの手法はほぼ使用されておらず、パラダイムの古い機械学習とビッグデータを相関分析などの統計的手法を使用して、何となく凄そうなイメージを附加することで、汎用人工知能 (強いAI) であるかのような印象操作をしているように見えた。見方を変えればこの番組内容が仮に分かり易さ、面白さ、議論誘発性を優先した結果で意図的な演出によるミスリードだとするならば行き過ぎだし、番組を通して試したかったのは、AIというブラックボックスが人間の意見の権威付けにどれだけ有効なのかを見極めるための社会実験だったようにも思える。

仮にこれらの推測が正しいとするならば、制作者はマイケルファラデーの『ロウソクの科学』を見習ってほしい。『ロウソクの科学』では子どもに分かる内容と実験を誠実に積み重ね、奇抜な演出ではなく当たり前に見える事実からスタートし、科学的な誠実さを欠くことなく面白さを伝えている。そもそも科学の面白さを伝えるために意外性や偽装は必要ない。何故なら科学そのものが斬新で面白いからだ。それは科学ではない分野でも同様なはずで、そういった余計な要素や装飾を削ぎ落としたところに物事の本質は宿る。今回の放送内容は奇抜な演出と意外性のために内容の精度を犠牲にしている、または偽っている面が多々あり、そもそもこの内容を提言するためにAIひろしが必要であったかどうか、もしくはAIひろしはAIと呼べるのかどうかすら疑わしい。そもそも誠実な態度を表明するなら、統計、人工知能を用いても厳密には因果関係を特定することも、未来予測をすることも、提言することも不可能であるということはもう少しきちんと伝えるべきだった。この番組は2020年まで年2回のペースで放送するシリーズものらしいので、次回からの改善を期待するのと、AIひろしのソースコードを公開してくれたら個人的には嬉しい。

前置きはここまでにして、前編となる今回の記事ではまず「相関関係」と「疑似相関」と「因果関係」の違いを説明してみたい。実際これらは感覚的に分かるようで、ちゃんと説明しろと言われたらかなり難しい。特に「疑似相関 (偽相関)」は定義が誤解を招きやすく、そもそも大枠として「因果関係があるように見えるが、相関関係しかないこと」を指すのか、「相関関係があるように見えるが、相関関係すらないこと」を指すのかで混同がある。前者にも様々なタイプがあるが、一般的な「疑似相関」の定義としては前者のうち「第3の隠れた要因によって2つの事象に因果関係があるように見えること」を「疑似相関」と呼ぶ。つまり「疑似相関」も「相関関係」の一種であるということになり、後者のように「疑似相関」に「相関関係」がないと考えるのは間違いということになる。

これは言葉の問題でもあって、「疑似」とは通常後に続く言葉ではないことを指すので、前者の「因果関係があるように見えるが、相関関係しかないこと」は「誤謬」を生み出す源泉であり、後者の「相関関係があるように見えるが、相関関係すらないこと」は「疑似相関」と呼ぶべきであり、「第3の隠れた要因によって2つの事象に因果関係があるように見えること」は本来「疑似因果」と呼ばれるべきだ。「相関関係」はそもそも「因果関係」の十分条件であるが、必要条件ではない。つまり「相関関係」があっても「因果関係」があるとは限らないので“Correlation does not imply causation.”と言われるのであって、「相関関係」に含まれる概念を「疑似相関」と呼んでしまったことにそもそもの誤解の発端がある。それらの前提を踏まえた上で、以下にそれぞれの用語の一般的な定義と意味をまとめてみた。

相関関係

・2つの事象があった時に、一方の事象の変数が増減するともう一方の変数も増減する関係

※変数が増増、減減の場合は「正の相関」、増減、減増の場合は「負の相関」と言い、これらのどれにも当てはまらない場合は「無相関」と言う。

例: 「外気温」と「アイスの販売数」。

この例の場合「外気温」と「アイスの販売数」が2つの事象の変数である。それらの変数は片方が増加すると、もう片方も増加する、もしくは片方が減少すると、もう片方も減少するという「正の相関」があるので、「相関関係」があると言える。

疑似相関

・第3の隠れた要因によって2つの事象に「因果関係」があるように見える関係

例: 「コウノトリの数」と「赤ちゃんの出生数」。

この例の場合「コウノトリの数」と「赤ちゃんの出生数」が2つの事象の変数である。これには一見「因果関係」があるように見えるが、これは9ヶ月前の天候、もしくは都市化の程度という「第3の隠れた要因」が両方の変数に影響を与えていると考えられ、そこには「相関関係」はあっても「因果関係」はない。

因果関係

・2つの事象があった時に、一方の事象が「原因」となってもう一方の事象の「結果」を生じさせる関係

「因果関係」は複数の条件から総合的に判断されるが、そもそも統計学を用いて「因果関係」を厳密に特定することはできないという大前提がある。その上で仮に原因の事象をX、結果の事象をYとした時、「因果関係」があると主張するためには少なくとも以下の3つの条件を満たす必要がある。

1. XもYも共に変化する。(共変関係)

2. XはYより必ず先に起こる。(時間的先行性)

2. X以外の条件がYに影響していない。(他の条件の同一性)

また「相関関係」を「因果関係」と主張するタイプの「誤謬」には大別して以下の4種類が考えられる。

1. 疑似相関

例: 1の例は既に挙げたので省略する。

2. 因果関係の逆転

例: 2の例としては「外気温」が上昇すると「アイスの販売数」が増加するので、「アイスの販売数」が増加することが「外気温」が上昇する原因であると主張すること。

3. 偶然の一致

例: 3の例としては「ニコラス・ケイジの年間映画出演本数」と「プールの溺死者数」には相関関係があるので、「ニコラス・ケイジの年間映画出演本数」が増加することが「プールの溺死者数」が増加する原因であると主張すること。

4. 相互がもう一方の原因

例: 4の例としては「エネルギー」が増加すると「物体の質量」が増加するので、「エネルギー」が増加することが「物体の質量」が増加する原因であると主張すること。この主張自体は間違いではないが、一方で「物体の質量」が増加すると「エネルギー」が増加するので、「物体の質量」が増加することが「エネルギー」が増加する原因であると主張することもできる。E = mc^2によって「エネルギー」と「物体の質量」には比例関係があり、相互がもう一方の原因になっている、つまり原因から結果という一方通行ではないので「因果関係」とは言えない。

NHKスペシャル「AIに聞いてみたどうすんのよ!?ニッポン」: 連載記事リンク

NHKスペシャル「AIに聞いてみたどうすんのよ!?ニッポン」 前編: 「相関関係」と「疑似相関」と「因果関係」の違い

NHKスペシャル「AIに聞いてみたどうすんのよ!?ニッポン」 後編: AIひろしという名の神とその神託を捏造する巫女たち