「てにをは」: 自分の作品を自分で解説する意味について

自分で書いた詩の意味が良く分からなかったので、理解を深めるために自分で解説を試みる。自分で作った作品の解説が必ずしも正しいとは思っていなくて、自分の中の解釈を他人に押しつけるのは作者の傲慢だと思う。それは親が子どもについて誰かに話す時と似ていて、「この子はこんなに良い子です」、「この子は引っ込み思案だから」などと言う場合、距離が近すぎるが故に盲点が生まれ、的外れなことが多いのと同じだ。作ってしまった側がその作品の価値や意味を理解していないことは普通にあり、批評にはそれに気付かせてさらに上のレベルの作品に到達させるという機能もある。また通りすがりの他者の軽い一言が実際の本質を言い当てていることもあるし、そもそも解釈の多様性を生み出すというのは良い作品であることの一つの指標だ。そういう意味で自分の作品を自分で解説してみるというのは絶対的な基準にはならない。

一方で何故自分の作品を自分で説明するという一見矛盾することをしなければならないかというと、そもそも批評という行為が余りに軽視され、理解されていないからだ。自分の作品を説明する行為は特に海外では普通というか、そういう主張をしないと誰も見向きもしくれない。健全な批評が行われる状態が普通であるならば、アーティストは作品作りだけに精を出していれば良いのかもしれないけれど、本物の批評家が余りにも少なく、一般的にも意見をぶつけるということが少ない国柄であれば、他人が自分の意図をくみ取ってくれるというのはほとんど幻想に近い。その状態で何の前触れもなく作品だけ見せて終わりというのは、大体において「意味が分からない」、「凄そう」、「綺麗」、「上手い」、「下手」「好き」、「嫌い」という印象論か技術論か好き嫌いという話にしかならなず、それは実際に今もどこかで延々と繰り返されていることだ。もちろんそういう鑑賞方法を完全否定するわけではないけれど、それとは別の観点から見たときに一気に世界が広がることもある。

自分の作品を自分で説明する行為とマジシャンの種明かしは類似する点もあるけれど、違う側面もある。後者は推理小説と似ていて、その仕組みを類推するという行為に主眼が置かれている。なので「種明かし」、「ネタバレ」をするリスクは高いと言える。一方で前者は必ずしも仕組みが明かされたからと言って、作品の価値が減るわけでも急につまらなくなるわけでもない。良いものは仕組みを知った上でも変わりなく良いのであって、それを知ることによってさらに作品の魅力が増すこともある。そういう意味では自分の作品を自分で説明できる、それにためらわないアーティストの数はもっと増えて良い。作品がある一定の強度を保つためには作品と作者が切り離されて互いに独立している必要があるが、そうであるならば、説明をためらう必要はない。そもそもが他人は自分の作品にそんなに興味がないし、説明することで何かとっかかりができたらラッキーくらいの軽いノリでいいのだ。

それらの前置きをした上で、本題の詩である「てにをは」について。「てにをは」の詩は以下になる。

てにをは

てにはを

てをはに

にてはを

はにてを

はをてに

はをにて

「てにをは」は日本語における代表的な助詞であって、これは付属語なので、名詞、動詞といった自立語と違って単独で文節を構成することができない。しかし、この詩の中では「てにをは」の一部は助詞ではなく、名詞、動詞に変化し、あたかも自立語であるかのように振る舞う。その変化を炙り出すために、まず以下のように「てにをは」の並び替えパターンに注目してみる。「てにをは」の組合せ論における並べ替えパターンはn!通りなので、4! = 4 * 3 * 2 * 1 = 24通りであり、これを樹形図の考え方を使って書き出すと以下のようになる。

てにをは
てにはを
てをには
てをはに
てはにを
てはをに

にてをは
にてはを
にをては
にをはて
にはてを
にはをて

をてには
をてはに
をにては
をにはて
をはてに
をはにて

はてにを
はてをに
はにてを
はにをて
はをてに
はをにて

その上で元となった「てにをは」と上記のパターンの中から意味を成す6つを抜き出すと以下になる。

てにをは

てにはを

てをはに

にてはを

はにてを

はをてに

はをにて

これらをさらに意味を成すように分かり易く書き換えると以下になる。

てにをは

手に歯を

手を歯に

煮て歯を

歯に手を

歯を手に

歯を煮て

「手」、「歯」は名詞であり、「煮」は「煮る」という動詞の活用形になっている。つまり、ここでは助詞が別の品詞に変形している。2文字区切りで言えば、「手に歯を」と「歯に手を」、「手を歯に」と「歯を手に」、「煮て歯を」と「歯を似て」が対応しており、それぞれを上から3つ区切りで見ると、その順番通りに対応している。また、これらの順番は樹形図の書き出しの順番にもそれぞれ対応している。最後の「はをにて」は「てにをは」を全く逆から読んだ言葉として捉えることもできる。これを再度元のひらがなだけに書き換えて戻したものが「てにをは」になっている。一度平文を暗号文に変えることを暗号化、暗号文を平分に戻すことを復号と呼ぶが、「てにをは」ではその過程を経ているとも解釈でき、その場合の鍵は品詞、組合せ論、暗号などの前提知識に依拠しているとも言える。それぞれの言葉に深い意味があるというよりはそういった言葉の構造に興味が強い作品ではあるけれど、そこから何かしらの別の意味をくみ取ることもできなくはないだろう。またこういう作品の場合は説明しないで放り投げた場合、「意味が分からない」で終わる可能性が高いし、たとえ説明したとしても、このような言葉遊びについては「だから何?」という感想が多くを占めるであろうことは予想が付く。もちろん作品ごとに作り方、考え方、内容が全く異なるので、全ての作品がこのように構造として読み解くような作品であるわけでもない。

ただ、ここで一番言いたかったのは前述のようなことをこの詩を書くときに整理された状態で考えていたかというと、そんなことは全くないということだ。最初はほとんど何も考えずに、実際の時間としても数分で書き下ろしている。これは自分のほとんどの作品に言えるけれど、質の良い作品ほど一瞬で迷うことなく完成する。まさしく完成形が降ってくる、降りてくるという感じだ。「てにをは」の場合はパターンの書き出しはしたけれど、品詞、組合せ論、暗号などは全く意識していなかった。また、暗号を利用した説明になったのも、最近そういう本を読んだという影響は無視できず、違った時に違ったテンションで解説したらまた全く違う説明になる可能性が高い。そういう意味では作品制作と作品批評に使用する脳の使い方は全く違っている。前者はより放射的であり、後者はより構造的であると言えるが、後者についても不確定要素は多く、それがどれだけ整理されて論理的に見えたとしても、それはある一面から見た一つの見方に過ぎず、絶対的であるわけでは全くない。どちらか一方をできる人は多いけれど、その両面ができることを意識的に極めるとはどういうことなのかを自分としてもさらに突き詰めていきたい。

「The Life of Marionettes」: 「Embryonic Reincarnation」と記録写真と「The Rebirth Chosen as the Requiem」

2016年7月9日に行われたおどるなつこ x NILによる「The Life of Marionettes」で使用しなかった「Embryonic Reincarnation」という音源と、カメラマンのbozzoさんによる記録写真と、「The Rebirth Chosen as the Requiem」という実験映像作品をそれぞれアップしてみる。「The Life of Marionettes」はキッド・アイラック・アート・ホール1Fで行われたイベントで、主におどるなつこが構成即興パフォーマンス、NILが音楽/映像/プログラミングを担当した。キッド・アイラック・アート・ホールは1964年から続く歴史あるホールなのだけれど、残念ながら2016年12月31日に閉館してしまった。個人的には一度だけ公演しただけだけれど、早川誠司さん率いるスタッフの気さくな対応とプロ意識は素晴らしく、大変勉強になった。

おどるなつこさんは「BankART Artist in Residence OPEN STUDIO 2015」でもNIL x 境悠作「規格外」という規格外野菜を使用したアート作品のコラボイベントである「レクイエムとして選択された再生」に出演していただいて、その時からお世話になっている。特に言葉で語らなくても身体の即興性で表現して意思疎通できる方なので、今回もそこに関しては完全にお任せして自分の役割に徹することができた。また「レクイエムとして選択された再生」を元に実験映像化した作品「The Rebirth Chosen as the Requiem」をVimeoにアップしてあるので、それもリンクを張っておく。「The Life of Marionettes」は余りのドタバタぶりに記録映像が撮影できていないのが悔やまれるところなのだけれど、自分が知り得る限りでの評判は好評で、もう一度公演できたらさらに良くなるという確信はある。

「The Life of Marionettes」で実感させられたのは、プログラムを組むことと、実際の現場でそれをオペレートするのは全く違う行為だということ。もちろん両方兼ねる場合も多いのだけれど、それぞれには全く違った能力と経験が必要とされる。内容に関してはここでは多くは語らないけれど、一応個人的な裏テーマとしてはパフォーマー/演出/観客という三つの役割があって、Marionetteとしてのパフォーマーが演出に裏で音楽/映像/プログラミングなどを通して無意識に操られているのだけれど、パフォーマーは観客をインタラクティブに巻き込むことで扇動していく。その流れの中で演出も影響を受けて徐々に変わっていく。それらの相互作用を通して一体誰が誰のMarionetteなのかという問題が突きつけられる。また即興のストーリーの中でMarionetteの一生を描く物語にもなっていたのだけれど、それは元々キッド・アイラック・アート・ホール1Fの扉を開放できて、そこがすぐ道路と面しているという建築上の構造があって初めて成り立つものだった。胎盤と出口という象徴性はこの扉なしには出てこなかったアイディアで、そういう意味で言えばかなりSite-specificな作品だった。

以下に「Embryonic Reincarnation」の音源と「The Life of Marionettes」の記録写真と「The Rebirth Chosen as the Requiem」の映像をアップしている。「Embryonic Reincarnation」は最終的に作り方を全く変えた音源に作り直したためにお蔵入りしたのだけれど、その判断は正解だったと思う。音を音だけで成り立たせる音楽とダンスと共にある音楽は全く違い、音の余白、余韻を残さないと後者の音楽としては難しい。そういう意味では「Embryonic Reincarnation」は音楽としては良くても、音だけで成り立ってしまっているという意味で他のスペースが入る余地がない。記録映像がなくても記録写真があったのは唯一の救いで、その中から幾つか象徴的なシーンを選んでアップした。撮影してもらったbozzoさんには多謝。「The Rebirth Chosen as the Requiem」に関しては今はVimeoにアップしているだけだから改めてパッケージ化もしたいところなのだけれど、どのようにアーカイブするかは今も迷っている最中。

© 2016 bozzo

「ネガティビティ・バイアス」: コメント欄、レビュー欄に関する考え

個人的な考えだけど、動画、ブログ、商品などストックとして固定化される場所にコメント欄、レビュー欄などを設置するのが好きじゃない。コメントはあくまでフローであるべきで、そういう意味で言えばニコニコ動画などはあるべき姿かと思う。レビュー自体はあるべきなのだけれど、それもフローではなくストックで、しかも完全にオープンだと荒らしを避けることができない。これに関してはオープンではないという批判があるかもしれないけれど、完全にオープンにすれば玉石混淆は免れず、コメントチェックするとなるとその時間と労力は相当無駄になる。それこそAIによるチェック、検出などもできるかもしれないけど、それも今のところは完璧じゃない。それにコメントやレビューに返信するかどうかも問われてきて、個人的には全てに返信したくなってしまうので、まそれだけで疲れ切ってしまう。

玉石混淆な意見や荒らしの問題以外にも個人的には重要な問題意識があり、それは解釈の問題。例えば作品があった時にそれに付随してコメント欄があると、その作品の解釈自体をコメント欄が塗り替えてしまう。だからそこの原点となる場所には何も置きたくない。ニコニコ動画はこの点もちゃんとしていて、コメントはフローであり、オンとオフが選択できるという点でどちらの視点からも鑑賞することが可能になるし、嫌なコメントは非表示にすれば良い。また今は原点となる場所に何も置いていなくても作品についてフローとして語る場はSNSや掲示板など含めて多数あるし、多くの場合作者に直接語りかけることも可能だ。はてなブックマークのようなサービスでも、そのレイヤーで見たい人はそうすれば良いし、そうでない人は使わなければ良いだけの話だ。またXR上のレイヤーを通して何かが共有される機会も増えていくだろう。XRの場合もそれと接続するか、しないかによって両方のレイヤーが体験できる。そういう意味では、オープン性は既に担保されていると言える。これらが良い点はその解釈をするプラットフォーム自体が多様だから、一つのコメント欄、レビュー欄のように全ての人が同じ影響を受けるわけではないということで、形式に関しても選択の余地がある。

この問題を考える時にもう一つ別の観点を挙げるとすれば、それは「ネガティビティ・バイアス」だ。これは人間に元々備わっている心理学的な性質で、簡単に言えばネガティブな情報はニュートラル、もしくはポジティブな情報より大きな影響を与えるということだ。これを言い換えればネガティブはニュートラル、ポジティブな情報に対して非対称性を持つということで、それを考慮に入れなければ本当の意味での公平性は担保されない。例えばネガティビティ・バイアスがあるという人間の性質を考えると、コメント欄やレビュー欄に一つ否定的な意見が入っただけで、時には10以上の肯定的な意見を超える影響力を持ち、それが人の判断や評価に多大な影響を与える。それが正当性のある意見ならばまだ良いのだけれど、最初から悪意を持って複数連投するなどしている場合には収集が付かなくなる。これは突き詰めると炎上の問題で、西村博之によると「2ちゃんねる上でのほとんどの炎上事件の実行犯は5人以内であり、たったひとりしかいない場合も珍しくない」らしい。そういう意味で原点となる場所に先入観を作らない環境を置く、もしくは「ネガティビティ・バイアス」を考慮したシステム設計をするというのは重要になってくる。

これは卒業制作で制作した「Imaginary Line」という作品とも関連のある話で、この作品はアーティスト/批評/キュレーション/観客の関係性を改めて問い直す意図で制作した。作品自体が存在せず、それぞれの作品に対する架空のキャプションとオーディオガイドの音声だけを展示するという作品だ。キャプションとオーディオガイドがあった場合と、それらがなかった場合の作品の捉え方は全く異なり、それは時に作品の意味や体験すら変えてしまう。また、批評的な意味合いだけで集められた作品群は時にアーティストのものではなく、キュレーションの側の都合でのみセレクトされ、本来の意味を消失しているように思える。この展示は「TETSUSON 2015」という3331 Arts Chiyodaでのグループ展示だったけれど、本来個展でやるべき作品なのでいずれパワーアップさせてもう一度展示したいとは思っている。そういう意味で川越で作品展示のための拠点を持つことができれば、色々やりたくてもできなかったことができる気がしている。

まとめると、玉石混淆な意見、荒らし、先入観を避けるためにコメント欄、レビュー欄は置かないという選択肢はあり。またそれらとは別のレイヤーを選択できる様々なプラットフォーム、サービス、装置が多数あり、それらによってオープン性は勝手に保たれる。そういう意味でNILOGにはコメント欄を設置していないので、何か意見や誤字脱字の指摘などある場合はContactから、もしくはSNSなどで連絡してください。

雑記: 移ろいゆくことについて

過去に遡って該当ページにAmazonアソシエイト・プログラムのリンクをひたすら挿入し続けて、とりあえず今に戻ってきた。開始してから1週間程度だけど、既に4件ほど売り上げがあった。やっぱり画像があると、色彩が出て印象が変わるなぁなどと思いながら、過去の文章をさらっと読み返していると、自分じゃない他人が書いているような気分がしてくる。書いてある内容に関してもそんなことを考えていたのかと意外なものもあれば、普通に今の発想にはないことを書いていたりしていてますます不思議な気持ちになってくる。また最近書評を書いた本について、過去にも全く同じ本を読んでいるのに、全く違う意見をEvernoteに書いていたことにも気付いた。これがデリダの言うパロール (話し言葉) とエクリチュール (書き言葉) の差異を端的に現す事象なんだろう。意味の生成と認識の過程においてパロールは時間、エクリチュールは空間によって配置されるけれど、エクリチュールの記号性は時間の経過と共にその姿を変えるし、完全な意味なんてものは永遠に辿り付くことのない幻想に過ぎないから、その意味は常に移ろっている。

最近は1日経過するごとに色々なことがありすぎて、整理すら追いつかない状況なのだけれど、とりあえず「川越市提案型協働事業補助金」に関しては資料は作ったものの、今回は話が急すぎるから見送ることになった。ただ、引き続き空き家については話を進めていく予定ではある。Anrealmsにしてもプロジェクトの進行度合いのペースが早すぎて、メンバーが限界を迎えている状況になっている。なので少し全体的にペースを落として、各自休息を入れつつ、遊びつつやっていくことになった。個人的には仕事 = 遊びではあるのだけれど、やはり対人関係含めて様々な面での限界はあるし、全員が全員そういう認識でやるべきとも思っていない。ブラック企業の問題は正にこの認識の差異、ずれだと思っていて、自分にとって遊びであることが他人にとって仕事であり、他人にとって仕事であることが自分にとっては遊びであることもある。そこに対してそれぞれの立場と認識をちゃんと共有した上でやらないと、最終的には様々な問題を引き起こすことになる。

また自分で自分の仕事を作るという立場だと、時間感覚、曜日感覚、季節感覚も段々なくなってくる。生活と仕事の間に区別がなくなってくるのだけれど、それが自分の好きなことをやっているのならば幾らやっても遊びだから良いのだけれど、そうでないのならばこんなに辛いことはない。例えばバイトをやる時などは単純作業であることが多いけれど、その時は自分の中で勝手に自分のゴールを決めて、それに沿って遊ぶゲームに変える。一番簡単に考えつくのは効率化ということで、どれだけ効率的にやれるかを試す。そのアルゴリズムが分かっていく過程は面白いけれど、時間給でやる場合は効率的にやればやるほど作業量が増えることになるのと、ある一定のところまで行くと根本的なシステム自体を変えないと効率化ができない局面まで辿り着く。そうなった場合は、今度はどれだけ手を抜けば支障が出ない範囲で楽できるのか、もしくは作品や作曲などを考えながら作業する、人間観察をするなど別の観点に切り替える。こういうことをやっていると、同じ作業内容でも全く違った世界が見えてくる。

ゴールデンウィークが近づいていることに最近まで気付いていなかったのだけれど、時既に遅しでどこに行くにも予約が満員の状況だ。久しぶりにキャンプにでも行こうかなと思っていたのだけれど、こういう大型連休に何かイベントをするというのは余程時期が早くないと厳しい。それらの状況を見て虚ろな気分になったのだけれど、そういうことなら、逆に家でゆっくり過ごそうかなと思う。わざわざ人が混み合う時期に何かをしなくても、いつでも何かをしようと思えば動けるというのがアーティストという仕事の特権ではある。そういう意味でしばらくは休息を取りつつ、まったりしていこうかなと思っている。そういえば最近映画を全然観ていなくて、「シン・ゴジラ」、「君の名は。」、「この世界の片隅に」、「聲の形」、「ひるね姫 〜知らないワタシの物語〜」、「ゴースト・イン・ザ・シェル」、「劇場版 ソードアート・オンライン -オーディナル・スケール-」などとりあえず観ておくべき映画が溜まっているので、この機会にそれらを観ておこうかな。もちろん、移ろいゆく可能性を残しながら。

何もしたくない日

今日は何もしたくないのでブログを書いている。人は時に逃げ、閉じこもり、何もしたくないと言う。しかし、何もしないでいると次第に何もしないことに耐えられなくなってくる。だから俺は今書いている。それは自分以外の世界のことを考え、比較してしまう性質だからなのか、人間の本質的に何もしないことに耐えられないからなのかは分からない。孤独という概念は、孤独以外の外部がないと成り立たないという意味で常に相対的であり、絶対的孤独なんてものがあるとしたらそれは幸福そのものなんだろう。その絶え間ない外部を意識して生活するように社会は構成され、日常が形成されているという前提の共有が成されている。そこには無意識のパノプティコンの監視体制が成立している。しかし、そこから零れ落ちる人間、居場所のない人間は必ず出てくるし、そういう人間はアーティストになったりする。しかし、一見独立した存在のように見えるアーティストのような世界にもまた、違った村社会が存在していることに気付く。そして、その村社会はアートとは全く関係のない論理で蠢いている。その蠢いているものに飲み込まれないようにするためには、自分と似た存在を集めて対抗するしかないと思う。しかし、そこにはまた違った罠が潜んでいる。それは多様性の罠だ。マイノリティはマイノリティでマジョリティとはまた違った連帯を作るが、そこにはまた違ったマイノリティ性が潜んでいて、そこには無限の「分かり合えなさ」が横たわっている。もちろん、「理解し合えないということを理解する」というような否定神学的連帯もあり得るだろうが、この連帯は限りなくもろい。幻想を幻想として共有するためには何か肯定的なものが必要だ。そのために抽象的な理念と呼ばれるものを必死に掲げ、そこに向かって突き進もうとする。しかし、抽象的な理念を具体的な実践に移そうとした時に、様々な齟齬が生じてくる。その一つは、平等性の問題だ。平等性には2種類あり、それは公平性と結果の平等に分類できる。公平性は要するに前提が平等という意味で、結果の平等を意味しない。結果の平等は逆にどんなプロセスを経ても最終的に平等であれば良い。前者は資本主義、後者は社会主義と相性の良い概念だが、実際の資本主義にも後から福祉という意味で結果の平等が多少は盛り込まれるし、社会主義はそもそも人間の心理がそこまで進化しないのでマルクスの頭の中でしか成立しない。しかも、公平性というのは言葉では簡単だが、実行するのは不可能に近い。例えばオリンピック選手が毎回世界新記録を塗り替えるが、これは過去の世界新記録を持っていた人間に対して公平とは言えない。水泳の選手がレーザー・レーサーを着てから世界新記録を連発したが、これは人間が進化したのではなく水着、技術が進化しただけだ。では、そのレーザー・レーサーを着た選手とそれが存在しなかった時代の選手の出した記録を同等に扱うことが公平性があるとは言えない。それは陸上でも何の競技でも同じようなもので、トレーニング手法も最新の科学の知見を取り入れてやればそれは成果がでるに決まっている。ただ、世界新記録が出るということは資本主義的な利権が絡むことと、人類の超越性への夢がそれを後押しする。そういう意味で言えば、公平性も結果の平等も幻想に過ぎない。これは人間が何故を神を求めるのかという話にも繋がってくる。不完全性定理と不確定性原理は神を殺したが、それでも何故人間は神を求めるかということの方に哲学的な問題がある。それはインターネット、バイオ、AIなどによって人間自体をアップデートし、創発性を求めるような思想とは真逆の思想的な問題だろう。その超越性と創発性の二項対立の問題は、理念と多様性、トップダウンとボトムアップ、クオリティとクオンティティという抽象的な問題のように相互に矛盾するような関係性をどう統合していくかという問題だ。世界にエモが溢れ出し、圧倒的な無関心が毎秒通過し、締め切りという圧力が目の前にちらつき、進むにつれて零れ落ちていくものが増え、それでも生きていかなければならない時、何もしたくないという防衛本能は少しだけその傷を癒やしてくれるのかもしれない。

適当であること

適当であることは生存戦略にとってとても重要だ。「適当」という言葉は手抜きをすること、いい加減であることというような悪い意味で用いられがちだけれど、本来の意味は適度である、程よいなど必ずしも否定的なものではない。実際に適当であることにはセンスが求められる。何故かというと何が「適当」なのかはその時の状況や関係性によって変わってくるもので、それを判断するには高度な思考が要求されるからだ。また人生の時間は限られているので、全ての物事に全力を尽くしていては圧倒的に時間も足りないし、精神も削られてしまう。そんな時に必要にして十分な状態をとりあえず目指して、あらゆる局面を乗り切っていくのは実に賢い生存戦略と言える。

「適当」とは意味が違うものの、求められる性質で言えば「粋」という言葉もそれに近い性質を持つ。「粋」は元々江戸の文化に由来する言葉で、これを一言で説明するには非常に難しい。何故かというと「粋」はある種の美意識を表現した言葉であり、その基準は人それぞれであるからだ。「粋」は「野暮」の対義語であり、それらが何かについて説明するというのもある意味で「野暮」なので、その意味については説明しないという適当さをこの場では選択してみる。また、「適当」と同じように全く同じ振る舞いをしたとしても、それが「粋」かどうかはその時の状況や関係性にもよる。「粋」は「いき」、もしくは「すい」と読むけれど、これを「いき」と読むのは違うという説、「いき」と「すい」は意味が違うという説、江戸では「いき」、上方では「すい」と読む説など様々な説がある。

また適当であることは、完璧主義の弊害を克服する上でも重要だ。完璧主義の弊害は色々あるけれど、まず前提として完璧なものなど存在しないという理解が必要だ。例えば書籍などを販売するときに、何度校閲、校正で見直しても、多くの場合必ずどこかにミスが出てしまう。またクオリティという意味で言っても、その時の完璧が後に見直してみると恥ずかしいくらいのクオリティなことは良くあって、それは自分の成長を反映しているとも言えるけれど、ある意味で完璧にこだわる無意味さを象徴している。また、完璧を目指すと極端に時間と労力がかかり、現代においてはスピード勝負な場合が多いので、そういう意味でもディスアドバンテージになり得るし、完璧主義は自己満足の場合も多く、クオリティとは余り関係ないことも往々にしてあり得る。さらに完璧主義を他人に押しつけると他人を潰す場合もあるし、視野が狭いという意味でも現代における創発性を活用した方法論とは相性が良くない。そう考えてみると、「適当」を目指すというのは完璧主義を乗りこえる上でも重要な要素であると言える。

今日は適当な気分だったので、適当に関する適当な内容を適当な長さで適当に説明してみた。

5冊の本の書評: 「知」とは何か

以前の群読みの時に同時に読んでいた残り5冊の本を紹介する。これらの本は興味のあった本を選んだのと、ランダム読みの対象として選んだ本があるので、群読み的なテーマは特にない。なので、今回は一冊ずつ紹介することになる。最初に言っておくと、この中で個人的にお薦めの本を一冊選べと言われたら「キャラクターズ」になる。ただこの小説は間違いなく人を選ぶ作品ではあるのは間違いない。今回対象となるのは以下の5冊。

『究極の会議』

『思考のレッスン』

『キャラクターズ』

『「知の技法」入門』

『この世で一番おもしろい統計学: 誰も「データ」でダマされなくなるかもしれない16講 + α』

『究極の会議』の目的は明確で、「この世から会議を一切なくす」こと。これに関してははじめにと第1章で書かれている。全ての情報が時間の遅延なく飛び交い、他人の脳に接続可能な電脳世界なら会議はなくなるかもしれない。ただ現状そうなっていないので、会議に対してどのように対応するべきかが明確に語られている。それは端的に言えば「よい会議」ではなく、「よい議事録」を目指すこと。それをこの本では「議事録ドリブン」と呼んでいる。これは言い換えれば「ゴールドリブン」で会議の目的を明確化し、会議が終わったときには議事録が書き終わっていて、それに関わる人間のタスクが全て可視化されている状況を作り出すということだ。世の中の会議は目的を明確化しないために雑談をだらだらとして何も決まらなかったり、余計なタスクを増やしたり、会議で決まったことが実行されなかったりするが、そういった問題はこの考え方で解決するし、大幅な時間短縮になるだろう。そもそもゴールを明確化すれば、ほとんどの会議は開催する必要すらない場合が多いのかもしれない。

この本の第2章では「議事録ドリブン」を中心とした会議法を「究極の会議 (エクストリーム・ミーティング)」として、15個のプラクティスとしてまとめている。ほとんどの項目は当たり前と思えることが書いてあるが、実際に実行できているかというと微妙なことも多いのでそれを再確認する意味では参考になる。個人的には「To do」というシステムはタスクを義務化する恐れが強いために善し悪しあると思っているけれど、事前にリマインドしつつ終了時間を決めて、会議に遅刻した人間がいてもそのまま始めるなどのアドバイスは確かにと思わされる。

第3章で紹介されている議事録ツールはもはや古すぎるツールだらけなので、ほとんど情報としては役に立たない。マインドマップは今後も使えると思うけれど、ツールとしては今だったらSlackなどが紹介されるべきだろう。他にも著者が開発しているASP型の議事録支援ツール、「Sargasso eXtreme Meeting」が紹介されているが、2017年現在でこのツールを使う必然性は全くない。というか、そもそも現在発売しているのかどうかすら不明だ。思想は賞味期限が長いが、技術系の話題を本に書くと一瞬で陳腐化することをある意味で証明している。この辺は紙の本に対して電子書籍が出版後も更新可能という点で、明確に優位な部分かもしれない。

第4章ではなんと言っても「生産性の向上」批判が論争の的になりそうだが、結論が「ほどほどの生産性の向上」を目指して多少遊びを持たせるというものならば、それは資本主義社会に対する甘噛みにしかなっていない。「生産性の向上」だけに囚われることも、資本主義という価値観だけの物差ししか持たないことも貧相な思考であることはそもそも自明なことだ。その良くないことが自明なことに対して、何故人間はそれらに囚われてしまうのかという思考まで行かないと哲学としては面白くないし、遊びを持たせたいなら圧倒的に生産性を上げて遊ぶという方が実践的である。さらに言えば、生産性を上げるにはやっている「仕事 = 遊び」の状態にするのが一番手っ取り早いので、そういう意味でも著者は生産性についての根本を勘違いしていると言える。クラークの三法則における第3法則は「十分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない。」ということだが、小飼弾の言うように「十分に発達した仕事は、遊びと見分けがつかない。」のもまた事実なのだ。

特別対談、議事録ドリブンチェックシート、あとがきは流し読みで十分。この本は目的が明確過ぎてはじめにの3ページ (もしくは第1章) まででほぼ結論が出ているので、果たしてそれ以上に読み進める意味があるのかどうかは分からない。ただ薄い本なので、会議に何かしらの不満がある人は読んでみても良いだろう。

『思考のレッスン』は、ルネサンス的万能人、一芸より多芸の価値を見直すという趣旨の本。理系と文系の境界、もしくは領域横断性と専門性の問題については自分の人生においてもずっと考え続けてきた問題なので、そういう意味で言えばテーマに対する親近感があった。

個人的にはこれらに対する結論は既に出ていて、理系と文系は「情報系」に統合可能であり、専門性と領域横断性は「ゲシュタルト・ディシプリナリー」に統合可能だと考えている。これらについては既に記事で書いたことがあるので詳細は触れないが、理系が「自然」を対象とした学問であり、文系が「人間」を対象とした学問だとしたら、「自然」も「人間」も行き着く先は「情報」であるので、そこに統合できる。逆に言えば「情報」は全てのジャンルに溶け込むので意識すらされないという状況になりつつあるけれど、そこの部分をハッキングすることがこれからの時代にとって重要な価値観であり、それに対する表現領域を独自に「Cross Media Arts」と呼んでいる。また、「ゲシュタルト・ディシプリナリー」についてはAnrealmsのAboutにも書いてあることだけれど、専門性が深さ、領域横断性が広さだとすれば、それらを統合するレイヤーとしてゲシュタルトが考えられるということだ。それは視点を上げて独自の関係性を構築するということでもあり、そのゲシュタルトを構築する能力には専門性と領域横断性の両面が必要だ。

この本に対して一つ反論があるとすれば、一芸を専門性、多芸を領域横断性としたときに、それらは二者択一ではないということ。専門性を維持したまま領域横断していった先にしか見えないものがあり、それはレッドオーシャンとブルーオーシャンを両立するということでもある。また共感できる点としてはそもそもLiberal Arts = 教養は知に境界がないという本来の学問の意義をそのままストレートに伝えてくれる本であること。ある専門性を少しずらす、越境するだけで全く違う価値が生まれることも多く、「専門家」に対して遠慮する必要などどこにもない。

『キャラクターズ』はお薦めの本ではあるのだけれど、この本に関してはどう語るべきかが難しい。内容としては小説の形式を取っていて、著者は東浩紀と桜坂洋の共作だ。この本に関して語るのが難しい原因は、解説「東浩紀というキャラクター」で中森明夫が語っている通り、「小説自体に対する解説」が「批評家・東浩紀」によって小説の中で語り尽くされてしまっているからだ。

内容を簡単に言えば、東浩紀という著者自身がキャラクターとして登場し、ラカンの三界における現実界、象徴界、想像界にそれぞれ対応した東浩紀R、東浩紀S、東浩紀Iに分裂する。その上でそれらのキャラクターを小説における構造、内容、文体に対応させ、それら三者の東浩紀というキャラクターが可能世界が入り交じった世界で暴走し始めるという内容だ。この批評のキャラクター小説化は、小説内部でも説明されている通り、文学界が「私」と死とセックスにしか興味がないことに対するカウンターになっている。桜坂洋は『All You Need Is Kill』で有名な小説家だが、読み進めるにつれてそれぞれの章を東浩紀と桜坂洋のどちらが書いたのか良くわからないような構成になっており、互いにディスり合ったり、要望を言い出したり、固有名が頻出したりすることで、小説と批評、抽象と具体、現実と非現実の次元を絶え間なく行き来する構成になっている。

このように小説の構造自体が脱構築になっており、最終的に物語としては朝日本社ビルに対する暴力的なテロを示唆するような内容になっていることは、文学界に対するストレートな批判と捉えることができる。そういう意味では東浩紀と桜坂洋が剛速球のストレートを投げすぎて、文学界的には見逃し三振をするしかない状況になり、黙殺されたということだろうか。またこの小説の暴力性はどこかで既視感があると思っていたら、松本人志原作のアニメである『きょうふのキョーちゃん』だった。『きょうふのキョーちゃん』は色んな意味でひどいアニメなのだが、特筆するべき点はその実在の人物を元にしたキャラクターへの圧倒的な暴力性と性表現だ。その過激すぎるブラックさは、ブラックジョークとして笑いを誘う。

そんな小説か批評かという二項対立を脱構築する今作だが、一番印象に残ったのは新井素子を宣言を引用した遺言の箇所だろう。その一部を引用すると「小説とは、作家のためでも読者のためでもなく、ましてや編集者や書店員のためでもなく、なによりもまず、現実という単独性の支えを失い、可能世界の海を亡霊のように漂っている「キャラクター」という名の曖昧な存在の幸せのために書かれるのだ」。この作品、もしくは東浩紀の活動の全てがこの一言を証明するためにあると言っても過言ではない。

『「知の技法」入門』は小林康夫と大澤真幸の対談形式で語られる人文学の立場からの「知」を語る本。正直言って、読んでいる途中にかなり腑に落ちない部分があった。例えば小林康夫はネットに溢れる情報と物質的な本を対比して、前者には重さがなく、後者には重さがあると言い出す。どちらも情報であることに変わりはなく、たとえそれがメタファーだとしても、いやメタファーだからこそ彼の言っている情報という言葉は定義そのものにかなりの偏見と狭い見方が混入しているように思える。ネットに溢れる情報にも論文から小説から雑談まで幅広く種類があることへの想像力と体験が欠けていて、圧倒的に時代遅れの考え方だ。もうその時点で嫌な気配がしたのだけれど、その考え方は後にエスカレートし、「ノート法について」書いてある部分では、案の定「コンピュータでも写メでもなく、自分で手書きで書く」とある。そして極めつけは「付箋、線引き、マーク」で語られる「電子書籍より紙媒体の本の優位性」だ。そもそもこの本が電子書籍ではない分、検索機能がないから該当箇所を探すのに非常に苦労したわけだけれど、これらの主張はそもそもがゲーム脳の派生系であり、テクノフォビアそのものでしかない。また彼らが言っているような身体感覚の優位性は確かに今の電子書籍では再現不可能かもしれないが、テクノロジーから離れることによってではなく、むしろテクノロジーを進めていくことによって実現可能になっていくように思う。身体感覚は脳を通じてしか得られないわけで、脳は現実とイメージの区別が付かない。ということは、身体感覚も対象が物質であろうが情報であろうが最終的には関係がない。ちなみにサトシ・ナカモトによるビットコインの論文はネット上の以下のPDFで読めるが、彼らの主張を総合して言うならば、それは「知」とは関係のないものだと言うことだろうか?

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一方でそういう疑問点を抜きにして、彼らが紹介する本のリストを片っ端から読むようなことは人文学にとっては重要だ。それらの文脈と歴史を踏まえることなく、人文学の最先端の部分は理解することはできない。また量は質に転化するので、まず圧倒的なインプットをすることが「知」の基盤を形作る上で重要だろうし、自分なりにアウトプットしていく重要性も理解できる。ただし、それらの本の紹介の仕方には疑問が残る。例えばいきなりマルクスの『資本論』を薦めたりするし、内容が重厚な本のリストを片っ端からまとめて紹介していく。これは音楽で喩えるなら、ちょっと激しい音楽に興味がある人にいきなりFleshgod ApocalypseやDimmu Borgirを聴かせ、延々とその素晴らしさについて語るみたいなことだと思う。その溢れ出る愛は分かるし、むしろ好きになってくれる可能性もあるけど、大抵の人はいきなりそこまでぶっ飛べない。もちろんそれらを片っ端から読むことが重要なのは分かるけれど、そうさせる動機を作るという観点が欠けているように感じる。

また哲学の話題で、実存 → 構造主義 → 脱構築の流れが紹介されるのは良いけれど、彼らの上記のような語り方は近代的な姿勢を維持していて、脱構築の姿勢を継承していない印象を受ける。例えば「ジャック・デリダを評価する」という学生の論文が出てくることに対しては2人とも軽薄な態度として批判しているけれど、そういうある種の軽薄さ、テクストを神聖化せずにただのテクストとして捉え、自分の評価軸で勝手に読んでしまう態度こそがデリダのテクスト論の真骨頂であるとも言えるし、「そんな恥ずかしいことをするなんて信じられない」という態度はむしろ脱構築から一番離れた態度であるとも考えられる。後は「本がつまらないというのは自分の責任の場合もありえる」という話は昨日書いた記事の話にも繋がる話だけれど、「悪口を言うためだけのレヴューや書評は書かない方が良い」というのは正しいとしても言っても無駄な気がする。悪口と批判の違いを分けた上で中傷という意味で言っているならその意見には賛成するし、何でも評価してやるという上から目線の姿勢が問題であることには同意するけれど、そういう倫理の話をしても通じない人間だからこそそういう行為をしているのであって、どちらかと言えばそれはプラットフォーム側が進化してその玉石混淆を上手いこと処理するように進化するしかない。

思想的には実存 → 構造主義 → 脱構築 → 観光客というのが最新のアップデートであり、ポストモダンの否定の否定を乗り越えるための概念だろう。小林康夫も大澤真幸もそれぞれ東京大学大学院での指導教官、批評再生塾の講師という意味で東浩紀と関係性の深い人物である。ただ、この本で2人が理論的に語っていることを、『キャラクターズ』では脱構築的な破壊として徹底して実践しているように思え、個人的にはそちらの姿勢の方にむしろ「知の技法」を感じた。それはデリダの前期と後期の違いのようなもので、それぞれ役割が違うと言われればその通りなのだけれど。『思考のレッスン』のような文系と理系の境界を超えていくような在り方から考えても、ある種の限られた「知」が語られ、テクノフォビアのような古い体制が崇拝されている部分が散見されるのが本書であり、本のタイトルの内容を体現しているとは言い難い。一方で人文書の本のリストと実存 → 構造主義 → 脱構築の流れを知りたい人は読んでみても良いだろう。

『この世で一番おもしろい統計学: 誰も「データ」でダマされなくなるかもしれない16講 + α』は漫画の形態を使用して統計学の基礎、もしくは最も重要なエッセンスだけを取り出して解説した本だ。本に数式が出てくると売れないというのは出版界の常識だが、それに関しても巻末だけに数式を集めることでその弱点を克服している。巻末にある山形浩生の訳者解説は秀逸で、この本の役割、特徴、使用方法について上手くまとめている。「標本を見て母集団について何かを言うのが統計学だ」という部分と、「数式1つ、説明1行ですませるところを、5ページかけるところが本書のよさ」という部分がこの本についての核を言い表しており、逆に言えばその基本が分かっている人、もしくは「5ページかけるところを、数式1つ、説明1行ですませる」ことを良しとする人には向かない本と言える。無作為標本の重要性、平均値と中央値の違い、標準偏差や正規分布といった基礎から、推定標本分布、信頼区間、仮説検定といったちょっとした応用までを全て漫画のイメージで時間をかけて解説している。こういうデザイン的にハードルを下げて分かり易くするという手法も一種の「知の技法」なのだろう。

以下にそれぞれの本のリンクを張っておくので、興味のある人はチェックしてみてほしい。

究極の会議
究極の会議
著者: 鈴木健

思考のレッスン
思考のレッスン
著者: 竹内薫

キャラクターズ
キャラクターズ
著者: 東浩紀 + 桜坂洋

「知の技法」入門
「知の技法」入門
著者: 小林康夫大澤真幸

この世で一番おもしろい統計学: 誰も「データ」でダマされなくなるかもしれない16講 + α
この世で一番おもしろい統計学: 誰も「データ」でダマされなくなるかもしれない16講 + α
著者: アラン・ダブニーグレディ・クライン
訳者: 山形浩生

「群読み」と「ランダム読み」と「継続読み」

普通に興味のある本を選んで読む以外に、個人的には本の読み方は3種類ある。それらの読み方をそれぞれ「群読み」、「ランダム読み」、「継続読み」と呼んでいる。「群読み」は自分の中でテーマを決めてそれに関連する本を5冊程度選び、そのテーマに沿って読む方法。自分のテーマが具体的かつ明確である程、効果が高い。逆に言えば自分の視野を広げるための読書には向かない。「ランダム読み」は図書館やAmazonのKindle Unlimitedなどで使い易い方法で、自分の興味やテーマに全く関係なくランダムで選択した本を読む方法。これは自分の中にある知識の盲点を克服する方法で、自分の視野を広げる役割がある。自分の興味のある本、Google検索エンジン、SNSなどのみから情報を摂取していると、自分の中での情報が偏り、狭い世界に閉じ込められる。最適化は良い面で使われることもあるけど、悪い面もあって、ある特定の価値観の軸での最適化は自分の視野を狭める。そういう意味では、他の人から勧められた本を読むことや、ランキングに沿って本を読んでみることや、図書館で目を瞑って本を選んで読むことなどはランダム性を導入して、自分の視野を広げることに役立つ。最後の「継続読み」は小説や学術書や教科書などに向く読み方で、基本的に何度も同じ本を読むことで深めていく読み方。小説の場合はその舞台設定や人物になりきってその想像の世界を自分の脳内に構築して再現しながら読む。学術書や教科書は一度に最初から最後まで一気に読んでしまい、その見取り図が出来た後に、何度も読み返すことで知識が深まる。普段興味ある本を読む以外にもこれらの読み方を駆使すると、自分の世界を広く、深く、そして視点を高く保つことが可能になる。

これらの読み方は自分が本を読む中で自然に発達してきた読み方だけれど、最初の問題意識は人は本を読んでいるようで、実は読んでいないということだった。それは例えば同じ本を読んでいたとしても、書評やレビューを見れば分かるように、人によって全く学んでいるものや得ている情報が違う。それは本自体の問題と言うよりは、本は自分の脳の思考回路を介してしか読めないという当たり前の事実に立ち戻れば、ごく自然な現象だ。そうであるならば、自分の方で本の読み方を工夫することで同じ本を読んでいても全く読み取れる情報が変わってくることになる。良く「一を聞いて十を知る」というようなことが言われるが、これは実は同じものを見聞きしても、人によって一を聞くか、十を聞くか、百を聞くかは変わってしまうということだ。つまり、「一を聞いて一を知る」、「十を聞いて十を知る」、「百を聞いて百を知る」という当たり前の現象が起きているだけであって、他人からはそれが分からないだけだ。例えば心理学の知識が豊富な人が電車内で人間観察をした場合に得られる情報と、一般人が同じことをして得られる情報には圧倒的な差があるだろう。前者は例えば服装の色、髪型、喋り方、立ち位置、荷物などから様々な情報を得ることができるだろうが、後者はそれらの情報に注目することができないから、最初から見ることができないし、それを分析することもできない。そういう意味で言えば、書評やレビューはその人が見えている世界をそのまま出してしまうという意味において、実は評価する対象以上に評価する側の知識量や思考の解像度が測定されてしまうという意味で本来恐ろしい行為だ。自分が何かを評価する側だと油断していると、何かを評価することで本当に評価されるのは自分でもあるということを忘れがちになる。ニーチェの『善悪の彼岸』における「怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。」という精神を忘れてはならない。

読書に関して言えば、以下の統計を見ると、一ヶ月に本を全く読まない人が約半分くらいいることが分かる。ヘビー読者層が月に3冊という分類は随分ライトな気がするし、新書を一冊読むのと学術書を一冊読む差は全く違うと思うけれど、概算的に状況を知るためには役立つ情報だろう。雑誌、漫画、ブログ、ネット情報などが読書数に入るかどうかの議論は昔から行われてきたけれど、個人的には何に分類されようが読書であることに変わりはなく、その形態よりも内容とクオリティがどうかの方が重要な問題だ。ベストセラーの本より圧倒的に濃い雑誌、漫画、ブログ、ネット情報は幾らでもあるし、一方でただ単にビット数を無駄遣いしたような情報の垂れ流しも沢山ある。また100冊の本を読むより一つの論文の方が情報が濃い場合もあるだろうし、そうでない場合もあり得る。

http://www.1book.co.jp/004012.html

まとめると、人は知っているものしか認識できないから、何かを学ぶということは自分の知っている情報と新しい情報を組み合わせて抽象化したモデルとして概念を学び、その概念によって見える世界を増やすことに他ならない。そうであるならば、今回紹介した3つの方法をバランス良く使っていくことは、その見える世界を増やす助けになるだろう。以下に速読などについてまとめた記事があるので、興味があればそちらもお勧めする。

https://nilorderofchaos.com/nilog/20170225

空き家とMastodon: コンテンツとプラットフォームの関係性について

空き家の件でKonosukeと一緒に川越に行ってきた。詳しいことは決まっていないからまだ書けないけれど、近いうちに移住することになりそう。レジデンス、リノベの話はかなり具体的な話になり、家主さんも素晴らしく協力的な人で助かった。「何でも好きにやってくれて良いですよ」という言葉はアーティストにとっては本当にありがたい言葉で、プラットフォームを持つ側の人間として理想的な対応をしてもらった。また金銭的にも移住する前に少し貯める必要があるけれど、初期費用はなしで、維持費としてもかなり破格の提案があった。Anrealmsと「蔵と現代美術展実行委員会」も互いに不足している部分、必要な部分が噛み合っているのでこれから協力的にプロジェクトを進めていきたい。まずは手始めに一緒に「川越市提案型協働事業補助金」に対して申請書を出し、プレゼンに参加することになっている。締め切りまで既に一週間を切っているけれど、何とかなるだろう。個人的にも「蔵と現代美術5回展2017」─響き合う空間─にも応募して出展しようと思っている。レジデンスとリノベの計画を立てることで移住の時期も大体決まってきたから、仮にその前にLLP設立をするなら印鑑制作の時期も明確化するし、全てが目的に向けて研ぎ澄まされてきた。

これらのプロジェクトに関しては具体的には2020年の東京オリンピックが一つの区切りで、そこで世界に対して何が提供できるかが重要になる。東京オリンピックに対する反応としては、大別すると反対、無関心、賛成になるが、個人的にはどの立場にも違和感がある。まず反対に対しては今更反対したところで決まったのだからやるしかない。無関心に関してはそれはそれで良いのだけれど、日本が世界に注目されるイベントなので何もしないのはもったいない。賛成に対してはそもそもオリンピックは人間に順位を付けられるという間違った意味でのヒエラルキーを助長している面があり、経済効果重視で環境破壊などをしていることを考えるとそのまま乗っかっていくことには違和感を覚える。もちろんオリンピックは競技者のためのものでもあるが、その裏側の実態はグローバリズム = 経済のロジックによるイベントという側面が大きい。アーティストとしての立場で言えば、恐らくメディアアートは広告代理店などの支援を得ながら大々的に商業のロジックに乗っかったトリックアート的なものを繰り広げていくのだろうが、その根本のヒエラルキーに疑いを持たないアートは歴史的にみても、ハッキングとしても物足りない。アートは本質的に神殺しの儀式であるので、神 = 幻影を強化するのはどちらかと言えばデザインの仕事だ。そういう意味で、自分としては自分の拠点を持ちながら、ただ反対するわけでも、無関心なわけでも、賛成するわけでもない、代案としてのコンテンツを拠点としてのプラットフォームを持った上で展開していきたい。

空き家のプロジェクトはアメリカの大学を卒業後に、日本に戻ってきてすぐ、つまり2年以上前から言っていたことで、Anrealmsを設立する前から個人的にずっと問題意識としてあった。全国的には既に10軒に1軒以上が空き家になっていて、建築は新しく建てるよりもその場所を活かしたままどう活用するかが重要になってきた。また既に施行されている空き家対策特別措置法によって、空き家をそのまま放置していると固定資産税が6倍になるリスクもある。少子高齢化社会において問題なのは、少子化ではなく高齢化だ。高齢者が金や資源を独占していて、若い世代は彼らを支えなければならない上に、新しいことをやろうとしても元手が足りないという問題がある。その意味で言えば、空き家というのは若い世代にとっては活用するべき資源であり、宝の山になり得る。

従来からプラットフォーム側がコンテンツを作ることは行われてきたけれど、コンテンツ側がプラットフォームを運営することは盲点になりがちだ。特にアーティストに関しては、ギャラリーというプラットフォームが展示にとって重要だし、ミュージシャンに関してもライブハウスというプラットフォームに縛られがちだ。これらのプラットフォームにおける貸しギャラリー、チケットノルマなどのシステムの何が問題かというと、展示する側、ライブする側というコンテンツを提供する側がプラットフォームに対する客になりがちだということだ。本来ならコンテンツ提供側がお金をもらうのが健全だけれど、お金を払って展示したり、ライブをしたりというビジネスモデル、制度は健全とは言えない。空き家のプロジェクトはそれを改善するための活動の一環で、コンテンツを作る側が自分自身の活動拠点を持つと同時に、ギャラリー、ライブ、イベント、レジデンスなどの運営活動をしていくことに意味がある。

Mastodonもその流れとの親和性が非常に高いプラットフォームと言える。例えばAnrealmsはSlackというチャットツールをチームのプロジェクトやコミュニケーションに使用している。Slackの良い点はチャンネルごとに話題を設定できるから、それぞれのプロジェクトや話題に応じたチャンネルを自由に作って管理ができることだ。またAnrealmsでは独自に「slacktwitter」というメンバーの個人チャンネルを作っていて、そこでは日常のできごと、思考、作業ログ、気になる情報のシェアなどを含めたゆるやかなコミュニケーションが生まれるようにしている。これによってホウレンソウなどが義務化することなく、誰が何をやっているかが可視化する。そのSlackをクローズドでコアな場とすれば、Mastodonはその性質を保ったまま、オープンでゆるやかな外交を行うといった使い分けが可能になる。今のところは個人の自費でサーバー費用を賄っているのと、サーバーに関しても色々調べながら実質一人で運用している。なのでいつまでインスタンスを継続できるか、不具合がないかなどの保証はできないけれど、できる限りで運用していく予定。

Mastodonのおひとりさまインスタンスを建ててみた

Nildonというおひとりさまインスタンスを建ててみた。リンクは以下。

Nildon (インスタンス)

既に作ったそれぞれのアカウントへのリモートフォローは以下。

NIL (Nildonアカウント)

インスタンスの運用は実験中なので、いつまで継続してやるかはまだ分からない。おひとりさまインスタンスを建てて少しだけ使ってみた感想は、物好き + お金に余裕がある人以外はおひとりさまインスタンスを建てる必要性はそこまで感じないということ。ホームタイムライン、ローカルタイムライン、連合タイムラインの三つのタイムラインが用意されている以上、おひとりさまインスタンスとしての使用はそもそも考慮されていなかったものと思われる。もちろんお馴染みの独自ドメインで運用していれば本人のアカウントである保証ができたり、他のインスタンスに情報を集めなくて済んだりなどのメリットはあるし、企業の場合はインスタンスを独自に建てるべきだとは思う。インスタンスについてはどのような運用方法が良いのかまだ良く分かっていないし、Mastodonにもまだ慣れていないけれど、とりあえずインスタンスを建てて最低限の設定を弄ることまではできるようになった。以下では備忘録も兼ねてMastodonのインスタンスの建て方を解説してみる。以下の方法なら頑張れば前提知識が何もなくてもインスタンスを建てられるはずで、独自ドメインとWordPressなどのCMSを使用して個人サイトなどを立ち上げたことがある人なら、バックエンドの知識が皆無でも何とかなると思う。

といっても基本的には昨日紹介した以下の二つのリンクを参照するだけ。独自ドメインを取得し、さくらのクラウドのスタートアップスクリプトを使用すれば簡単なので、以下は自分なりの補足、アレンジした方法、自分がはまった箇所を中心に書いてみる。独自ドメインの取得とさらくのクラウドのサーバーはどちらも有料で、前者は年額1000円程度、後者は月額2,000〜3,000円程度はかかるのでそこは注意が必要。

1. さくらのクラウドのスタートアップスクリプト「Mastodon」に関するページです。

2. さくらクラウドでMastodonのインスタンス(サーバー)を簡単に構築/作成する方法

まず独自ドメインの取得は基本的にどこで取得してもOK。お名前.comが有名だけど、更新料金が高いので長く運用する予定なら他のサービスが良い。安さならムームードメイン、スタードメイン、バリュードメイン、既にXserverと契約していたり、Xserverのレンタルサーバーを借りる予定ならXdomainかXserverが良いと思う。XdomainはXserverが運営している独自ドメインのサービスだけど、Xserverで独自ドメインを取得するより安い。ただXserverのサーバーを使用している、もしくは将来的にする予定の場合は、ドメインとの管理が別になるという面倒くささはある。トップレベルドメインは何でも良いけど、特に拘りがないなら.comなどを取っておけば良い。

ムームードメイン

スタードメイン

バリュードメイン

Xdomain

Xserver

2の記事に書いてある方法で、「事前にネームーサーバを設定しておこう」とあるけれど、独自ドメインを取得した会社によっては最初にネームサーバーを変更してからさくらのクラウドでDNSゾーンを設定するとエラーが出ることがある。なので、これは一番最後でも良い。ちなみにDNSサーバー = ネームサーバーであり、これはドメイン名とIPアドレスを紐付けするためのもの。IPアドレスとはインターネット上での住所のようなもので、コンピュータはドメイン名では認識できないからこのIPアドレスの形に変換する必要がある。例えばxxxxx.com (ドメイン名) → xxxx.xxxx.xxxx.xxxx (IPアドレス) のような形だ。これを設定することで、初めてウェブサイトへのアクセスが可能になる。上記のどのサービスで独自ドメインを取得したとしても、さくらのクラウドのネームサーバーに変更する必要がある。それぞれのサービスによって変更の仕方は違うだろうが、その辺りはググれば幾らでもやり方が書いてあるはずだ。

後は記事通りに進めていけば特に問題はないはずだけれど、全ての設定を終えてからページが表示されるまでには最低でも数十分程度はかかるはず。それ以上待っても反映されない場合は、今のブラウザとは違うブラウザでアクセスしたり、ブラウザのDNSキャッシュをクリアしたらアクセスできる場合もある。Google Chromeをブラウザとして使用している場合は「chrome://net-internals/#dns」をアドレスバーにコピペしてアクセスし、「Clear host cache」というボタンを押せば解決することもある。

めでたくインスタンスが立ち上がったらユーザー名、メールアドレス、パスワードを入れて、早速アカウントを作る。アカウントは表示名@ユーザー名という形になり、表示名はアカウントを作成した後に設定可能。ちなみに取得したアカウントはドメイン名/@ユーザー名で表示可能。以上でMastodonのインスタンスを建ててアカウントを作ったので、一応の目的はこれで達した。ただ最低限の設定として、シングルユーザーモードの有効化、管理者権限付与、サイトのタイトル変更、新規登録の受け付けの変更の仕方を書いておく。

まずさくらのクラウド > コントロールパネルログイン > さくらのクラウド (IaaS) > サーバにアクセスする。その上で自分が作ったサーバを選択し、詳細 > コンソールへ移動。「ここをクリックしてHTML5モードで接続」の通りに黒い画面をクリックする。以下のA〜Dの手順に従ってコードを順に入力する。入力するコードは一行ごとにエンターを押して、順に進んでいく (最後はRAILS〜ユーザー名までで一行)。入力しにくい場合はペースト > 文字列でコピペすると良い。基本的にroot権限は強力すぎるのでそれを使用してのログインは推奨されないけれど、ここでは最初の設定なのでroot権限でログインしている。

A. シングルユーザーモードの有効化

root
cd /home/mastodon/live/
vi .env.production

長いコードの文字列が発生する。その中で下に移動して以下の記述を見つける。

#SINGLE_USER_MODE=true

1. 「ctrl + v」で矩形選択にする。
2. コメントアウト削除したい行を選択 (キーボードの上下キー)
3. 「d」を入力すると行頭の1文字 (この場合は#) が削除される。

これによってシングルユーザーモードが有効化した。

一度「Ctrl+Alt+Del」で再起動する。

B. 管理者権限付与

root
su – mastodon
cd /home/mastodon/live/bin/
RAILS_ENV=production bundle exec rails mastodon:make_admin USERNAME=ユーザー名

ユーザー名の部分は管理者権限を付与したいユーザー名に入れ替える。これによって管理者権限がユーザー名で指定したアカウントに付与された。

念のため「Ctrl+Alt+Del」でもう一度再起動する。

セキュリティ上はもっと様々な設定があり得るだろうけれど、最低限の設定なのでとりあえずこれでOK。

C. サイトのタイトル変更

自分のアカウントにログインすると既に管理者権限になっているので、ユーザー設定 > 管理 > サイト設定のページからサイトのタイトル変更が可能。

D. 新規登録の受け付け

Cと同じ場所にアクセスして、「新規登録を受け付ける」を無効に設定。

Dに関してはおひとりさまインスタンスの場合で、他の人も受け付けるなら有効のままでOK。サイト設定のページでは他にも連絡先情報 (ユーザー名、メールアドレス)、サイトの説明文、サイトの詳細な説明、新規登録停止時のメッセージなどが書き加えられる。

一連の流れは反映されるまでの待ち時間を含めても、慣れれば数十分でできるはず。以上、インスタンスの建て方と最低限の設定の変更の仕方を解説してみた。