カーナビから自動運転車、自動運転車から自動運転ハウスへ

今日は両親のためにG-BOOK対応カーナビを最新のデータに更新した。以前に一度最初から設定していたので、手順は大体分かっている。簡単に手順を説明すると、まず最新のmap.zipをダウンロードする。次にカーナビから取り出した地図SDカードをパソコンに読み込む。最後にMap On Demandというソフトに、その最新のmap.zipを読み込み、データを地図SDカードにコピーする。実際にこの手順を実行したけど、データを地図SDカードにコピーするのに2時間程度かかった。詳細は以下のリンクに書いてあるので、将来の自分のためにもメモしておく。

地図SDカードへの書込み

個人的にはスマホかタブレットで「Google Mapsナビ機能」、もしくは「Yahoo!カーナビ」などを使用すれば、ほとんどの場合有料のカーナビは必要ないと思っている。「Google Mapsナビ機能」と「Yahoo!カーナビ」を比較すると一長一短なので、どちらが優れているとは断言しにくいが、総合的に見れば意外にも「Yahoo!カーナビ」の方が使い易くて高機能かもしれない。世界レベルで言えば圧倒的な使い易さを誇る「Google」のサービスだけど、日本に限って言えば「Yahoo!」のサービスの方が優れている場合がある。乗り換え案内に関しても「Yahoo!乗換案内」などはかなり使い易い部類に入る。これらのカーナビの長所としては無料、更新の手間がいらないなどがあり、短所としてはトンネルなどのGPSが使えない場所では位置情報が更新できないことがある。逆に言えば、この長所と短所をそのままひっくり返せば有料のカーナビになる。個人的な結論としては、遠出をする機会が多いなどの特別な事情がない場合は、特に有料のカーナビを使う必要はない。

カーナビの進化と共に自動運転車の進化も著しいものがある。自動運転車にはレベル0〜レベル4までの5段階の段階があり、一般にイメージされる基本的に運転手なしでの走行はレベル3かレベル4になる。しかし、現段階で公道を走ることが可能なレベル3以上の自動運転車は発売されていない。Google、Uber、Teslaなどがこの分野でリードしているが、それぞれ引き抜き、訴訟、事故などの心配事が絶えない。また、カーナビを使用することで、今まで運転で使用していたはずの脳の部位が活発化しないことも実証されている。そういう意味では、自動運転車が普及すれば人類は方向音痴が増えていくのかもしれないが、使われない機能が失われていくのは当然であり、進化は退化を伴うということから考えても深刻になる必要はなさそうだ。

自動運転車を含むIoT (Internet of things) の最大の障害は技術的な実現可能性ではなく、サイバーセキュリティーの問題と倫理の問題だ。サイバーセキュリティーの問題で言えば、自動運転車はクラッカーやテロリストに乗っ取られた場合、人命に直接関わる問題に変わる。サイバーセキュリティーの常識としては攻める側より守る側が圧倒的に不利なので、このようにサイバー上の攻撃が人命に関わる場合にどう対策するべきかは大きな問題になってくる。これに関しては完全に守ることは不可能に近いので、将来的に自動運転車を使用したサイバーテロが起こる可能性は高いだろう。確かに全てが自動運転車に変わった場合は、総体で見れば事故の数も大幅に減ることが予想されるが、その分クラッキングのリスクは逆に増大することになる。また、自動運転者の運転手と歩行者、一方を助けられるが、一方は死ぬ場合どちらを助けると判断するべきかは論理では判断不可能な問題なので、これは哲学、倫理の問題になる。構造としてはトロッコ問題と似たような構造であり、この問題には完全に正しい答えはあり得ないし、死という本質的には誰も責任を取れない事象に対して誰がどう責任を取っていくかというのも大きな課題になる。このサイバーセキュリティーと倫理の問題は解決しなくても、自動運転車の普及の流れが止まることはないだろう。そうなってくると、将来的に人間が運転できるのは情報空間だけ、もしくは限られた場所だけで、物理空間の公道を自由に運転できるというのは今だけの娯楽なのかもしれない。

自動運転車が手に入ったら個人的にやりたいのは、自動運転車と家を融合させることで、自動運転ハウスを作ってみたい。そこにずっと住みたいとは思わないが、一台 (一家) 持っておけば色々面白いことになりそうだ。移動という制約、定住という制約を人類の大半が抜け出したとき、何かしらの面白い事柄と、また次の試練が見えてくるのだろう。

山頭火句集(一): 絶対的孤独の自由さ

『山頭火句集(一)』を読了した。種田山頭火は自由律俳句を詠んだ俳人だ。自由律俳句とは五七五の定型に囚われない俳句であり、絵画で言えば印象派のようなものと捉えれば分かり易い。それはつまり思ったまま、見たまま、感じたままを形式に囚われずに表現するということだ。この共通点を掘り下げていけば、彼の俳句は静的というよりは、動的な動きの中で表現されているとも言えるだろう。また自殺、乞食、放浪、出家というキーワードは彼の俳句を語る上で外せないキーワードである。その自然を旅する過程で彼が発見した些細なことが、彼の俳句にはストレートに表現されている。

この本の中で好みの俳句を10句引用し、それぞれについての自分の考えを書いてみる。

1. 「ひとりで蚊にくはれてゐる」

種田山頭火の句はとにかく一人を強調し、孤独を表現するものが多い。そんな中、彼は「ひとりで蚊にくはれてゐる」という一見どうでも良いと思えるような報告、宣言を堂々と繰り出してくる。蚊に刺された場合、人間の反応としては大抵は追い払うか、叩き潰すことになるだろう。しかし、彼は「くはれてゐる」だけで何かをする様子はない。彼が仏教における慈悲、不殺生の心を持って蚊を許していた可能性もなくはないが、そこには蚊に対するガンジーの不服従のような姿勢、非暴力の不屈の精神が表現されているとも言え、彼がまだ存命であれば以前紹介した「MITメディアラボ不服従賞」に推薦するべきだったのかもしれない。この精神に「ひとりで」という言葉を重ねるとすれば、これは彼の人生哲学そのものを示しているように思える。圧倒的な孤独の中で、どんな暴力にも屈せずにただそこに生きて抵抗している。そんな他者と人生との不器用で力強い態度がこの句からは垣間見える。

2. 「何が何やらみんな咲いてゐる」

俳句は難しいもの、俳人にしか詠めないものと考えている人はこの句に面食らうだろう。季語もなければ、五七五でもなく、何か特別な情景を詠んでいるわけでもない。ここでは、その自然の風景に接した時の彼の正直な心情がそのまま描かれている。これが先程述べた印象派的な俳句という意味だ。ここには意味を追求しようとする態度や、情景を描写しようというリアリズムより、自分の心の動きを優先してできるだけそのまま捉えようとする姿勢が見て取れる。そもそも何かが生まれ育つということは不思議で不可解な現象だ。生まれるということは文字通り受動態であり、生まれる側に選択権はなく、生む側に必ずしも必然性があるわけでもなく、それは捉えようによっては暴力的とも言える。その上で、自然を含めて多様な生が次々と生まれ、それを受け入れて成長して大人になる、植物で言えば咲き誇る。そしてあるものは次世代を残し、あるものは残さずに死んでいく。「なぜ生きる」という疑問は人間特有の思考だと思われるが、そんな疑問とは微塵も関係なくただただ「みんな咲いてゐる」様を見せつけられては、「何が何やら」という驚きを感じても何も不自然ではない。生というのは必然ではなく、そこにあるだけで驚くべきものなのだ。

3. 「一つもいで御飯にしよう」

この短い句だけで彼の日常である、自然の中における放浪生活が垣間見える。何をもいだかを書いていないところに想像力が掻き立てられる。それはアケビなのか、ビワなのか、柿なのか、クリなのか、キノコなのか。一つもいで御飯になるくらいだから、そこそこ大きくてお腹が満たされるものと推測される。もしくは彼の言語感覚的に「動物を狩る」ことを「動物をもぐ」と表現していた可能性もゼロではなく、その場合はかなりのサバイバルテクニックを身につけていたことになる。カエルをもぐ、ヘビをもぐ、魚をもぐ、ウサギをもぐ、シカをもぐ。「一つもいで」とはこれらのようなことだったのかもしれない。この妄想を膨らませていくとホラー要素も出てくる。どちらにせよ、彼の放浪者としての圧倒的な自由さとひもじさ、俳句として飾らないありのままの様子を閉じ込めたような句になっている。

4. 「ふくろうはふくろうでわたしはわたしで眠れない」

金子みすずの「私と小鳥と鈴と」は人間と動物と物という三つの種類の違うもの同士が共存していることの素晴らしさを「みんなちがって、みんないい。」と表現している。つまりこれは多文化主義肯定の立場であり、その立場は確かに尊いものだ。しかし、「トランプ政権誕生」、「Brexit」といった現象が現すのはその「みんなちがって、みんないい。」という平等性を貫くことによる弊害は無視できないものになっており、マイノリティーとマジョリティーの平等性をもう一度問い直す必要性があるということだった。「ふくろうはふくろうでわたしはわたしで眠れない」の中にその答えがあるとは思わないが、この句は「みんなちがって、みんないい。」の中にある欺瞞を突いているように感じる。つまり、「みんなちがって、みんないい」はその違いを理解した上で、足りない部分と優れた部分があるから互いの立場を認め合って「みんないい。」と言っているような印象を受ける。しかし、「ふくろうはふくろうでわたしはわたしで眠れない」の中にはそもそも他者の違いや悩みなんて根本的には理解できないというような絶対的な孤独、壁を感じる。この二つの立場は似ているようで全く異なる。個人的には他者の主観は客観的に理解することも計算することも不可能と考えており、その他者は根本的に理解できないという認識からしか逆に平等性は考えられないという立場なので、後者の立場に共感を抱く。その絶対的な孤独に共感するという意味において「ふくろうはふくろうでわたしはわたしで眠れない」のだ。

5. 「いつもつながれてほえるほかない犬です」

犬いじりである。神道、アニミズムの伝統がある日本においては、様々な文化において古来から擬人化が盛んに行われてきた。日本書紀における神々の擬人化、百鬼夜行絵巻における動物の擬人化などは言うまでもないが、漫画、アニメ、ゲームにおけるキャラクターも言うまでもなく擬人化の産物である。艦これにおける艦隊の擬人化、けものフレンズにおける色んな意味での動物の擬人化、文豪アルケミストにおける文豪の擬人化。人間の擬人化というレベルまで到達すると、それはつまり「Alternative Facts」的な事象だと思われるが、例えば小林多喜二を擬人化したキャラクターが、共産党に宣伝されてファンとの間に戦争が勃発するという事態も起こっている。そんな擬人化の文化は種田山頭火の俳句の中にも息づいている。この犬のイメージはSoftbankのCMにおけるカイくんのようなイメージと捉えれば分かり易い。犬が実際どう思っているかどうかは別として、犬を人間の立場からいじって代弁するという手法だ。しかし、室内犬が増え、人間より暮らしぶりの良い犬が多い現状にはこの句の状況が当てはまらなくなりつつある一方で、「いつもつながれてほえるほかない人間」が増えているという見方もできるだろう。

6. 「うれしいこともかなしいことも草しげる」

これは実はかなり予言的な句である。つまり、「w」という何にでも草を生やすネット文化をいち早く察知し、句として詠んでいたということになる。「w」の前には「うれしいこと」も「かなしいこと」も等価であり、「www」という草の茂り具合によってその感情の多寡が表現される。彼の時代においては「うれしいこと」と「かなしいこと」と「草しげる」という三つの事柄が一つの句で結びつくことの唐突さ、意外さがあり、それがこの句の面白さに繋がっていたのだろう。基本的には「w」は「笑い」の意味だが、それを使用する場面、適用範囲は驚くほど広く、状況や感情を余り問わない。時代が移り変わった後の、感情表現の手法を見事に言い当てているとしてこの句は予言的であると言える。基本的には諸行無常を自然に見出だしている句と言えるのだろうが、先程の解釈が何か違う方向を向いているとしたら、それは「草しげる」を実行すれば良いだけのことだ。

7. 「蜘蛛は網張る私は私を肯定する」

これは前半の「蜘蛛は網張る」と後半の「私は私を肯定する」という普通は繋がりそうにない言葉を接続してあるギャップがあり、そこに深い意味が宿っている句だ。蜘蛛にとって網を張るのは生きる上で当然の営みであり、それは蜘蛛にしかできないことであると同時に、その網は自分の巣、家でもある。彼にとって自分を肯定することは蜘蛛の巣と同じく、人生の基盤になければならない大事な営みであり、それは彼自身にしかできないということだ。肯定するということを強調するということは、裏返せば意図的に強調しなければ肯定できないことの表れでもある。つまり、肯定するのが難しい「私」を肯定するという意志、決意の表れであり、ここには彼の人生観と反骨精神が強く表現されている。

8. 「何か足らないものがある落葉する」

この句は「何か足らないものがある」からの「落葉する」の部分の落差が急激であり、ジェットコースターのような感覚を味わえる。「何か足らないものがある」というのは自分の心情であるだろうし、「落葉する」という自然が移り変わる現象に自分の姿を重ねているのは確かだろう。一つ希望があるとすれば、確かに「落葉する」自分がいたとしても、それは秋から冬の季節に備えた一つのサイクルであり、春はまた来るということ。それは自分の生まれ変わりのサイクルとも言えるし、自分の殻を破り捨てる一つのチャンスでもある。「何か足らないものがある」という根拠のない欠乏感が人生の一つの側面であるのは確かだが、それと同時に「何が何やらみんな咲いてゐる」という根拠のない充足感もまた人生の一つの側面なのだ。

9. 「月の水底に旅空がある」

この句を見て最初に連想したのはクロード・ドビュッシーの「月の光」だ。ドビュッシーの音楽も印象派と言われることが多く、気分や雰囲気、その動的な動きを表現した音楽なのだが、表現形態は違っていたとしてもその特徴の類似性とこの連想が起こったことは無関係でないだろう。ただし、「月の光」がフランスの海辺の夜景をイメージさせるとしたら、種田山頭火のこの句は日本の山中の川の夜景をイメージさせる。「月の光」にはワインが似合うが、この句には野宿が似合っている。水に空が映り込んでいて、そこを月が旅しているという感覚は擬人化が得意な日本人ならではの感覚だろう。種田山頭火の中ではお洒落で、ロマン溢れる情景を捉えた句と言える。

10. 「飲みたい水が音たててゐた」

この句の形式は色々応用ができる。例えば「食べたいステーキが匂ってゐた」、「泊まりたい宿が光を灯してゐた」、「乗りたい電車が待ってゐた」などが考えられる。この句の基本構造を考えてみると、「〜たい」+「〜が」+「〜てゐた」というように分解できる。「〜たい」の部分には自分の欲望を書けば良い。ただし欲望なら何でも良いわけではなく、それは「〜が」の主語の提供する機能と一致させる必要がある。「〜てゐた」の部分はこの句の主語が単純に何をするのかを書けば良い。「飲みたい水が音たててゐた」という表現形式にさらに近づけたいなら、前半の「〜たい〜が」と後半の「〜が〜てゐた」にそれぞれ違う五感 (視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚) を組み合わせて使用すれば良い。「飲みたい水が音たててゐた」はこの観点から分解すると「飲みたい水」+「水が音たててゐた」に分解でき、五感としてはそれぞれ味覚と聴覚になっている。これに近い作り方をしているのが先程挙げた三つの中では「食べたいステーキが匂ってゐた」であり、これは「食べたいステーキ」+「ステーキが匂っていた」に分解可能で、五感としてはそれぞれ味覚と嗅覚を使用している。この句の面白さは「私」の省略と倒置法的な語順で欲望の関係を逆転し、受動的であるはずのモノが、あたかもこちらの意図を汲んで能動的に迫ってくるかのような印象を与えていることだ。実際に「水が音をたててゐた、私はそれを飲みたい」であればこの効果は生まれず、その迫り方は今で言えば3D眼鏡やバーチャル体験に似たものがあるかもしれない。これはモノ自体が機能を提供しているという感覚から、アフォーダンス的であるとも言える。

上記の俳句は彼の流儀に則って自由に解釈した。そもそも何かを解釈することは暴力性を伴うが、強引であってもその時代を超えた解釈の二次創作性にこそ面白さと価値が宿るのだと信じる。彼の俳句の特徴をまとめれば、様々な次元での動作を捉える言葉と言葉の間に飛距離があり、そこをジャンプする落差とスピードが俳句に瑞々しいイメージと生命を与えている。また、アニミズム、擬人化の技法が自然に溶け込んでおり、その価値観は彼の俳句の根底を支えている。思想的には彼の何をしても拭い取れない孤独感が、逆説的に彼の自由さに繋がっていると言える。ピカソのようにデッサンをきっちり仕上げた上で、あえて崩しているという感じも伝わってくるが、逆にこの自由さから入って、自由に俳句を詠むことを見習っても良いように思う。「分け入っても分け入っても青い山」などの代表句も入っていたが、取り上げなかったのはどこか少し王道から外れたところに彼の魅力があると感じたからだ。『山頭火句集(一)』は最近の本なので青空文庫では読めないが、彼の作品、俳句の多くは以下の青空文庫のリンクから読める。

青空文庫: 種田山頭火

山頭火句集(一)
山頭火句集(一)
著者: 種田山頭火

ブログ記事消失事件からの仮観/空観/中観の悟り

昨日書いていたブログ記事が完成し、アップしたと思っていたらデータが消えていた。正確に言えば、アップも保存もされていなくて、書き始めの断片が少し残されていただけだった。更新の履歴を辿っても復元は不可能だった。このようなことは普段から気を付けて対策していたとしても、人生で何度も経験することだろう。こういう事態が起きた時の人間の反応は大別して以下の3種類に分類される。

1. 逆境を逆手に取る。これは神の試練なのだ。普段から神を信仰していようが、していまいが関係がない。これはきっと神の与えた試練であり、これを乗り越えることによって自分は次のステージへと進める。もしくは改めてやり直すことで最初よりさらに優れたものができる。この試練によって新しい記事も生まれたわけだし、むしろデータが消えてくれたことに感謝する。

2. 現実逃避する。自分はもしかしたら可能世界の住人なのかもしれない。違う世界線においてはデータが消えていない自分が存在しており、そこは全てが平穏な世界であり、幸せに満ちている。この世界線で失敗したとしても総体としては関係がない。いや、そう考えると失敗などという概念もそもそも存在しない。もしくはこの世界はシミュレーテッドリアリティであり、自分はマトリックスの世界の住人なのかもしれない。そう思えば全ては胡蝶の夢。ここで全てを終わらせても良いのかもしれない。

3. 気にしない。ブログ記事がアップされようが、データが消えようが、財布をなくそうが、誰が不倫しようが、Alternative factsが日常を埋め尽くそうが、太陽が地球を飲み込もうが、宇宙が消滅しようが気にしない。これは諦めの境地とは違う、執着を捨てるということだ。ブログ記事を改めて書こうが、書くのをやめようが自由。そう、自由とは常に心の在り方によって生まれるものなのである。

簡単にまとめると1は仮観、2は空観、3は中観の考え方に類似している。つまり1は意味のないことに積極的に機能を見出だすことで意味を作り出している。2は意味があると思われることも実は究極的には意味がないことなのだと納得する。3は意味と無意味のどちらも理解した上で執着せずに自分の心の自由を取り戻した上で行動を選び取る。この世界を生きる上では1と2を経験、時に反復しながらも、どれだけ素早く3の境地に至って実行できるかが重要だ。1だけに偏れば楽観主義、2だけに偏れば悲観主義になり、3は単純にバランスと勘違いされるが、あくまで1と2の両極のレイヤーを兼ね備えた上で執着を捨て去り、自由に行動を選択するということだ。

今回取った行動としては昨日は混乱した状態の中1と2を反復し、眠気の中で書き直すことを諦めた。その翌日に3の境地に至り、文章を思い出しながら書いたら意外とあっさり書き直せてしまった。文章は構造と概念の埋め込みでできているので、それがしっかりしてれば書き直しなど取るに足らないことだ。その際には一字一句完璧な修復をするという執着はきっぱりと捨て去り、構造と概念さえ無事なら幾らでも筆が走るままに任せるということが大事だ。本当は最初から3の状態に至れれば良いのだが、それは中々難しいし、遠回りすることこそ人生。にんげんだもの。

『灰色の女』/『幽霊塔』/『幽麗塔』引き継がれるミーム

乃木坂太郎『幽麗塔』、黒岩涙香『幽霊塔』、江戸川乱歩『幽霊塔』を読了した。『灰色の女』についてはまだ読んでいないが、読む機会があれば追記予定。

『幽麗塔』は『医龍』の作者である乃木坂太郎が、黒岩涙香『幽霊塔』を元にして描いた漫画だ。この元ネタの系譜を辿っていくと、江戸川乱歩『幽霊塔』は黒岩涙香『幽霊塔』の翻案小説であり、黒岩涙香『幽霊塔』はアリス・マリエル・ウィリアムソン『灰色の女』の翻案小説であることが分かる。そこが本来の起源なのだが、日本では黒岩涙香『幽霊塔』を元ネタとして他にも西條八十『幽霊の塔』、大平陽介『幽霊塔』、江戸川乱歩『時計塔の秘密』などが書かれている。また、映像作品としても幾つか形を変えて残っている。翻案小説は元ネタの内容やあらすじを変えないまま、その国の風俗に合わせて書き直したものだ。現在許可を取らずにこれをやった場合、著作権の一部である翻案権に引っかかるだろうが、歴史的に見て模倣の文化が創造性の基礎であったということは重要なポイントだ。

それぞれの作品の特徴を述べると、乃木坂太郎『幽麗塔』では元ネタからかなり大胆に設定と物語を弄っており、この飛躍とアレンジの仕方は翻訳で言えば超訳に近い。小説版にはない特色としてはBL的 (倒錯した意味での) な要素も含みつつ、LGBTQ (特にトランスジェンダー)、クィア、変態といったセクシュアル・マイノリティ、性の部分を大きなテーマとしてそれらの他者に理解されない原理主義がぶつかり合う過程を描いている点と、共産主義、神谷バーなどを含んだ昭和ノスタルジー的な要素を含んでいる点が挙げられる。物語的にはあっさりとしたご都合主義に思える点もあるが、推理小説的な要素もあり、そこには時計塔という密室設定を駆使した「Cube」、「SAW」的な仕掛けも追加されている。それにしても事前に『医龍』を読んでいると、天野太一が伊集院登にしか見えなくなってくる。外見や表情だけでなく立ち位置や扱い的にもかなり似たものを感じる。この一見普通で、ダメで、嫌々ながらも巻き込まれる側の人間が覚醒し、壁を越境していくていく過程が、ある種の才能を持った天才たちに最も大きな影響を与えていくというのが乃木坂太郎作品における物語の特徴かもしれない。『幽麗塔』で「霊」が「麗」に変わっているのは、普通に考えれば藤宮麗子の「麗」から来ていると考えられるが、それに加えて深読みをするならば「霊」は微かな、世間から離れるという意味があるので、その儚いもの、理解されない「美」、「性」、「愛」といったものを「麗」と表現しているようにも取れる。そうするとそれによって「れい」、「あきら」という読み方の再定義の意味がはっきりしてくるし、最終話における「テツオ」という新しい自分の発見は、その「幽かな麗しさ」からの自立と捉えることができる。

黒岩涙香『幽霊塔』と江戸川乱歩『幽霊塔』の特徴を比較すると、まず前者よりは後者の方が読み易い。これは単純に発表年度と言語の移り変わりの問題で、黒岩涙香『幽霊塔』は1899年、江戸川乱歩『幽霊塔』は1937年に発表されていることに起因する。簡単に言えば前者は言文一致運動の最中であり、後者は言文一致運動が終わった後だからだろう。といっても前者も言文一致運動前の文章に比べれば全く問題なく読めるレベルではあるが、その移り変わりと現在進行形としての言文一致運動には以前から興味がある。これはつまり「だである調」から「ですます調」、文章から画像、映像、XRへの変化なのだが、それは本題とは関係がないので脇に置いておく。物語の大筋としては大きな違いはなく、黒岩涙香『幽霊塔』から乃木坂太郎『幽麗塔』への大きな変化に比べれば、黒岩涙香『幽霊塔』から江戸川乱歩『幽霊塔』への変化はアレンジのレベルに留まっていると言える。小説版では虎が出てきたり、暗号が違っていたり、推理小説として時計台の設定をそれほど活用していないという点が漫画版とは大きく違う部分。テーマとしては美に恋をするが、それに対する障害があり、それを愛でどう乗り越えるかという『ロミオとジュリエット』的な主題に推理の要素を足した内容になっている。

この一連の作品群が体現している現象を一言で言えば、時代と作品は移り変わっても同じミームが継承されていくということ。多くの作家が同じ作品を元ネタに何度も書き直す、翻案するというのはつまりそこに普遍的なミーム、主題があるということだろう。それは先程言ったような愛による障害の克服な訳だが、何が美であるか、魅力があるか、麗しいのかといったことは時代によって移り変わり、現代社会ではその価値観が多様化されすぎていて共通項が存在しないと言える。その時代に合ったアレンジとして『幽麗塔』ではセクシュアル・マイノリティと性的倒錯を描くことで多様な美の形を表現し、未完成であることに永遠の愛を見出だすという従来作品に対するメタ視点を持ってきている。そしてそれはさらにミームの継承により、この先の未来にも永遠に続いていくというような作品自体の過去から続く翻案の文化の継承の構造にまで言及してる。これは最終話の1話手前である、第79幕 涙香で描かれていることだが、そのタイトルが黒岩涙香の「名前」である「涙香」から取られていることも象徴的だ。

※ちなみに黒岩涙香『幽霊塔』は既に著作権が切れているため、青空文庫、もしくはAmazonのKindleで無料で読むことができる。

青空文庫: 黒岩涙香『幽霊塔』

幽霊塔
幽霊塔
著者: 黒岩涙香

幽麗塔
幽麗塔
著者: 乃木坂太郎

幽霊塔
幽霊塔
著者: 江戸川乱歩

魔法としてのカクテル

昼夜逆転が逆転することによって早寝早起きが達成されることはままある。今日はそんな一日だった。逆に早寝早起きが一度の夜更かし、もしくは徹夜によって崩壊することも同様にある。また室内に引き籠もっている期間が長いほど、室外に出たときに世界が輝いて見える。それは喩えて言うならば、喉が渇いている時に飲む一杯の水のようなものだ。つまり、世界は自分とは相対的に存在していると言える。しかし、その相対的な世界を崩す絶対的な飲み物がある。それは酒だ。何故なら自らの内面を通した外面としてしか世界は存在し得ない訳で、それは具体的に言えば人間は脳のフィルターを通して世界を認知、認識しているということだが、酒はその絶対的な根幹である脳に直接作用を及ぼし、意識自体を変容させてしまうことにより世界を改変してしまう。個人的には酒は余り飲まないのだが、それは以下のような3つの理由がある。

第1の理由は酒を飲むと吐くか、そうでない場合でもテンションが余り上下しないから。前者は大抵自分の食生活に起因する問題で、1日何も食べない、もしくは1食しか食べていない時に酒を飲む、つまり空きっ腹に酒になることによって気持ち悪くなり、吐くという悪循環に陥る。後者は酒を飲むと顔が紅潮するが、テンションはほとんど変わらず、周囲のテンションの変化と落差が生じる。テキーラのショットを5杯程度飲んだこともあるが、特にそれでもテンションは変わらなかった。元々正直に生きている人間なので、酒を飲まないと本音が言えないという状態にもならないから、その意味でも特にメリットはない。

第2の理由は、特に酒が美味しいと思ったことが余りないから。これはもしかしたら世界に無数存在する多様な種類の酒を試したことがないからという理由も強いのかもしれない。1杯目のビールについては美味しいと思うことがなくもないが、ワインについては高いワインか安いワインかを当てることは簡単で、自分にとって不味いと思う方が大抵は高いワインだ。また、カクテルやチューハイなどでフルーツ系が入った甘い酒は好きな部類に入るが、それはジュースで代替可能だ。

第3の理由は酒を飲むことによる健康上のメリットはほとんどないから。酒を適切な間隔で適量飲むことは確かに健康上のメリットがある場合もあるが、デメリットもある。さらにそれらが適切でなかった場合は恒久的な脳への影響を含めて有害だ。昔あるロシア人が言っていたのだが、アメリカ人は酒をジョッキ何杯で数えて強い、弱いと言っているが、ロシア人は酒を樽で数えると言っていた。それは冗談かもしれないが、酒はアセトアルデヒドを分解するALDH2の活性度で強いか弱いかが決まり、それは遺伝的特性なので慣れによる多少の上下があったとしても恒久的に変わることはない。日本人は大抵活性度が強くないので、その変わらない遺伝的特性でヒエラルキーを付けること自体が圧倒的に不毛だ。酒、煙草、大麻などに関しては、許されるか許されないかの範囲が時代によって恣意的に代わり、それはロジカルな基準に沿っているとは言い難いので、基本的には中毒にならない方が良いとは言えるだろう。

そういった酒とは余り関わりのない生活を送っていたのだが、最近は多少酒を飲んでいる。というのも、以前BankARTでバーの仕事をしていた時にカクテルの調合を覚える必要があった。その時にジンを購入したのだが、それが未だに冷蔵庫に収蔵されていたのでこれを飲み切ろうと思ったからだ。単純に家にあった三ツ矢サイダーでジンを割って飲んでいることが多いが、これは特に良い組み合わせとは思えないのでお勧めはしない。酒の中でもカクテルは好きなのだが、これは素材を調合する過程や名前などが魔法を連想させるからかもしれない。昔から魔法の世界をテーマにしたファンタジー小説は好きで色々読み漁っていた。新しい料理を考案するのが好きというのもこれと似た理由なのかもしれない。そういうわけで、ジンと何を調合するかを考えてワクワクしている今日この頃だ。

『狼の口 〜ヴォルフスムント〜』史実の克服/ファイアウォールとしての関所/ヴォルフラムAI

『狼の口 〜ヴォルフスムント〜』を読んだ。簡単に言えば貴族であるハプスブルク家に対して、農村であるウーリ、シュヴァイツ、ウンターヴァルデンの3邦が誓約同盟を結び、ハプスブルク家の打倒とスイス独立のために戦う話。その誓約同盟の障害となる「狼の口 (ヴォルフスムント)」と呼ばれる関所と「モルガルテンの戦い」を中心に描いている。

史実を元にした漫画の乗り越えるべき点として、歴史自体がネタバレになるのでそれをどのように克服するかという点がある。もちろんフィクションを織り交ぜるという手法もあるが、この漫画ではそのサイコパス的な暴力と処刑の残虐さをクローズアップすることにより、事前知識の有無に関わらず感情移入を促すという手法を使っている。この漫画の一つの特徴としては、感情移入した人物が片っ端から死んでいくこと。その容赦のない暴力において、人はモノ同然、ゴミ同然の扱いを受け、悲劇の物語が形を変えてこれでもかと繰り返される。その悲劇の集積とカタルシスの解放は1巻〜6巻までで極限に到達する。そこで「狼の口 (ヴォルフスムント)」にはけりが付き、その後の7、8巻は「モルガルテンの戦い」に焦点を絞って描いている。最後に関してカタルシスという面では6巻よりは劣るかもしれないが、話の結末にはきちんとけりが付いている。

情報が大事なのは今も昔も変わりないが、物理的なものを通してしか情報が移動できなかった時代には、関所は権力側にとって最も重要なファイアウォールだった。人類の歴史は移動の歴史、自由拡大の歴史でもあるわけだが、物理と情報という視点から見た場合、電話やインターネットという情報的な通路が開通する以前は物理的な移動と情報的な移動はセットであった。その時代における関所はただの建築ではなく、人の移動を制限することで、情報の移動を管理する機能を持っていた。ゲートがないということは権力者にとっては邪魔なわけで、いかに情報を管理するためのゲートを作り、それが強固で支配可能なものであるかが大事というわけだ。ここでは正しく情報の命がけのかけひきと移動が行われている。

読者にとってあらゆる意味で心を揺さぶられるキャラクターは「狼の口 (ヴォルフスムント)」の代官であるヴォルフラムだろう。こういった能面的なキャラクターが汗をかく描写は後の弱体化の契機になることが多いが、そういった描写を最小限に抑えることで緊張感が演出されていた。カタルシスを得るためにはこの描き方が最良だったと思うが、個人的には彼の心理状態とハプスブルク家の関係をもっと読んでみたかった。歴史には勝者の歴史と敗者の歴史の両面があり、当然語れるのは勝者の歴史が主流になる。その中で反対側の人間、自分から見て敵であると思われる者の裏側を読むという想像力、それは当然だが敵には敵の事情があり、同じ人間であるという想像力だ。つまり、戦争では多くの場合、役割分担としての殺し合いがあるだけであって、そこにいる人間は交換可能であるということだ。その想像力なしに虐殺とその復讐としてのカタルシスだけを描けば、それはポルノ的な快楽を提供するだけになってしまいかねない。

エントロピーという観点から見れば、戦争状態、人間が物質として捉えられる世界はエントロピーの乱雑さが最も高い状態であると言える。また、脳という観点から言えば、暴力衝動を全て局所的に判別することは難しいと思うが、以下のリンクからすると「扁桃体、視床下部、前頭前野、前帯状皮質、海馬、中隔核、中脳中心灰白質」といった部位が関連している。人類の歴史においてエントロピーは螺旋階段のように上昇し、それは物理より情報的な空間に理論と秩序を求めて進化してきた。また、脳に関しても暴力的な部分は食料を得るため、もしくは捕食されないために基盤として用意されており、進化の過程で特に前頭前野の思考によって理性や創造性を発展させてきた。戦争が繰り返し続く原因の一つとしては、人間は幾ら学んでも死ぬという限界があり、実際に戦争を経験しない人間は時間が経過するごとに増え、記憶が忘却されるということがある。その上でエントロピーが高い状態を保ち、脳の暴力性から解放され、死なずに知識を蓄積し続けられるという特徴があるAIこそ、戦争を止められる鍵になるのかもしれない。逆に言えば感情を持つAIを作るということは、ヴォルフラムのように残虐さに快楽を見出だすAIがいてもいいわけで、その辺りの倫理的な問題は考えてみると面白い問題かもしれない。

攻撃行動

ちなみに久慈光久の短編集である『鎧光赫赫』は余りお勧めできないが、作者に興味がある人は読んでみても良いかもしれない。短編でも綺麗に落ちが付いている作品は好きだが、この短編集はどれも急展開過ぎて、尺が足りずにいきなり終わるし、ストーリーも復讐劇と女の扱われ方がワンパターン。その辺の未熟さを割り切っても、作者のルーツや嗜好を知りたい人向けの作品になっている。

狼の口 〜ヴォルフスムント〜
狼の口 〜ヴォルフスムント〜
著者: 久慈光久

鎧光赫赫
鎧光赫赫
著者: 久慈光久

パスワードと生体認証の推移

近年パスワードの代替手段として生体認証が主流になってきている。生体認証の中で主要なものを挙げると指紋認証、顔認証、虹彩認証、静脈認証、声紋認証などがある。それぞれにメリットとデメリットがあるが、パスワードと生体認証の一般的なメリットとデメリットを挙げると以下のようになる。

パスワード

メリット

・誰でも使用可能。
・最もシンプルな方法であり、導入しやすく、普及率も高い。

デメリット

・ランダムで覚えにくいパスワードの方が強固だが、それは覚えやすさと反比例の関係にある。
・保管方法がセキュリティホールになり易い。
・パスワードをクラッキングする方法があり、それは日進月歩なのでいたちごっこになる。

生体認証

メリット

・クラッキングされにくい。
・パスワードのように覚える必要がないので、認証する側の利便性が高い。

デメリット

・認証精度が100%の手法は存在しない。
・導入コストが高い。
・人によっては使用できない場合がある。

基本的にはどちらにもメリット、デメリットがあるので、パスワードが完全に生体認証に代替されることはないだろうが、少なくとも主流な手段が移行していくのは間違いがない。その上で、パスワードのセキュリティを脅かすクラッキングの手段として基本的なものを挙げると以下の三つになる。

・類推攻撃
・辞書攻撃
・総当たり攻撃

類推攻撃は個人情報からパスワードを類推する方法。例えば、誕生日、ペットの名前、有名人の名前などから類推する。辞書攻撃は文字通り辞書に載っている単語を片っ端から登録し、それらのアレンジを含めて試す方法。例えば、tree、baseball、helloなど。総当たり攻撃は類推攻撃、辞書攻撃より負担が大きいものの、文字通り文字の組み合わせを片っ端から全て試していく方法。総当たり攻撃の亜種として逆総当たり攻撃、ボットネットを使用した攻撃などもあり、これらの方法を組み合わせることでクラッキングの威力は増大する。

また、近年ではGPUとディープラーニングを活用したクラッキングの技術とツールも進歩してきており、ランダムで桁数の多いパスワードですら解析時間は圧倒的に短縮されてきている。総当たり攻撃の問題は、パスワードを何に設定したとしても理論上は突破可能ということ。それなのにパスワードに何故一定の安全性が担保されていたかといえば、ランダム性と桁数を増やすことにより、パターン数が指数関数的に上昇し、それに伴って解析時間も指数関数的に上昇するということだった。しかし、このGPUとディープラーニングの技術革新によって、その安全性は一気に崩壊しつつある。その中でもパスワードを使用する以上大事なのは、ランダム性を増やすこと、桁数を増やすこと、使い回さないことという基本は変わりない。

GPUについてCPUとの対比で感覚的に理解したい場合は以下の動画を見れば一発で分かる。簡単に言えばコアがCPUより多く搭載されているために並列処理のスピードが圧倒的に早い。

Mythbusters Demo GPU versus CPU

大体の目安としてパスワードクラッキングにかかる時間がどれだけなのかは以下のサイトで計測可能。注意点としてはこのウェブサイトに限らず、こういったサービスに実際のパスワードは入力しない方が良い。そのウェブサイトがパスワード収集に使われている可能性もある。実際に計測してみると、例えば8桁の記号を含むランダムなパスワードでも9時間で突破される可能性があることが分かる。

HOW SECURE IS MY PASSWORD?

パスワード管理の方法としては以下の「Keeper」のような管理ソフトを使用するのが便利だ。パスワードの自動生成も可能であり、桁数が幾らであっても覚える手間と入力する手間がかからない。また、こういったソフトでパスワードを管理すれば違うサービスごとに自動生成した異なるパスワードを利用することができ、パスワード使い回しの危険性が減る。一方でマスターパスワードが流出すると終わりなので、それに関しては他とは全く違うできるだけランダムな文字列を自分で覚える必要があるし、パスワード管理ソフト自体の安全性の問題もあり、これが完璧な方法というわけではない。というよりは、認証方法に完璧な方法などあり得ないので、より良いと思う方法を自分で選んでいくしかない。

Keeper

二段階認証は使えるが、パスワードの定期更新、秘密のパスワードといったものはお勧めできない。何故かというとパスワードの定期更新をしても攻撃方法の進化によって余り意味がないのと、秘密のパスワードは類推の機会を増やすからだ。

パスワードと生体認証が今後どのように変化していくのかは興味深いが、パスワードの安全性が担保されないとしてもしばらくは使われ続けるだろう。その推移を見守る中でも生体認証を含めたどの方法にも異なったメリットとデメリットがあり、パスワードの場合もランダム性、桁数を増やし、使い回さずに管理するという基本的な事項を理解しておくのが有用だ。

パン屋であることのロック性について

ロックというのは権力と反権力で言えば反権力の象徴であった。しかし、ロックは死んだ。これはカート・コバーンが自殺し、マリリン・マンソンが「Rock Is Dead」を歌ったことによるのではない。「〜は死んだ。」という言説は大体において、それを言っている人間自体の死を指す。これは「最近の若者は〜」と全く同型反復である。その意味では「ロックンロールは鳴り止まないっ」というのが正しい。時代を超えて死と生を繰り返すロックだが、そもそも反権力は権力が存在しなければ存在し得ず、権力は反権力を敵対視することによって権力を保つ構造があるので、そもそもこれは相互依存の関係だ。さらに反権力は商業主義的価値観が隆盛する中でファッションと化し、「窓ガラスを割り、盗んだバイクで走り出す」ことはもはやネタとして消費される以外にあり得ない状況になっている。

そんな時代に今最もロックなのはパン屋であることかもしれない。事の発端は2015年から小学校・中学校で道徳教育が教科化され、移行期間を経て小学校では2018年から、中学校では2019年度から完全実施されること。道徳教育の復活が何を意味するかを端的に表現すれば、それはつまり法治国家ではなくなるということ。法治国家において物事の善悪を決定し、裁く基準、ルールは「法」でなければならない。しかし、その規準が「法」と「道徳」という二つの基準に分裂し、場合によっては「法」より「道徳」が優先される可能性がある。つまりこれは法治国家であることを放棄するということだ。生物の進化の過程で「空気は吸うもの」であったはずだが、いつの間にか「空気は読むもの」に変わり、そこに神道的価値観が流入した「日本教」における罪に対する恥の文化を反映した宗教は根強いが、今回その「空気」が「道徳」として「法」を超えようとしてる。

その具体的反映として文部科学省が小学校道徳教科書を検定し、その中で象徴的だったのは「パン屋」は郷土愛不足なので「和菓子屋」に変更するということだ。これは言うまでもなく戦前における検閲と全く同じ構造になっているわけで、検閲は日本国憲法第21条で禁止されているが、そんな言いがかりに対しては「解釈改憲」という魔法を唱えれば無効化できる。トランプ大統領が「Executive order」という呪文を覚え、それによって法治国家の抜け道を示したのと同じく、魔法使いたちによる呪文の開発は日進月歩である。そうなってくると、Twitterでは対抗呪文として早速#パンを和菓子に置き換えるというネタ化が始まる。

#パンを和菓子に置き換える

どこまでがパンでどこまでが和菓子なのかという境界問題の他に、歴史的にパンが西洋で和菓子が日本という分類にも根拠はなく、そういった混ざり合いの上に発展してきたとも言えるわけで、起源が全てで輸入文化が全てだめというのなら、そもそも漢字は中国からの輸入なので道徳教科書を日本語で書くこと自体が郷土愛不足とも言える。また、原料レベル、もしくは原子、素粒子レベルで細かくみたとすればパンと和菓子が違うという根拠は特にない。

教育と洗脳の定義については以前Twitterにも書いたが、「道徳」が本人の利益よりも国家という第三者の利益を優先しているのは疑いがなく、これは洗脳に限りなく近いと言える。その意味で言えば、名実共に中国共産党や北朝鮮に限りなく近い状態へと移行している。

しかし、新しいロックスターを生み出すという目的に絞ってみればこれは意外と悪いことではないかもしれない。こういった抑圧的な状況によって常にロックスターは生まれてきた。パン屋であることと和菓子屋であることに根拠のない線引きが行われるというのは、抑圧という意味では暴力的なので、それに対抗する力は育成されるはず。詰め込み教育の反省としてゆとり教育になり、その反省として道徳教育になったのだとすれば、その内部で醸成される力ではなく、その抑圧から外部へと逃げ出していくエネルギーには期待できる。反権力としてのパン屋から生まれる音楽性こそが、次世代のロックを作り出していくのかもしれない。

オノマトペ改

オノマトペとは擬声語のことであり、擬声語とは擬音語、擬態語の総称である。このオノマトペを使った実験映像作品を以前から作ろうと思っているのだが、自分として興味を持っているのは日常的な風景を、「擬」ではないオノマトペによって表現することにより、知覚、認知、認識の変容を促すこと。それはオノマトペ改と名付けても良い。通常のオノマトペとしては良く日常でも心の中で「しゃっ」、とか「すっ」とか思ったりするし、詩の表現の中にもオノマトペ、オノマトペ改を問わず無意識に出てくる。むしろ時にはそれらを口に出していることもあるかもしれず、意図せずに危ない人になっていることもあるかもしれない。また、日本語での「にゃ〜」が英語での「Meow」に相当するというのも、文化圏による捉え方の違いとしてとても興味深い。

幾つか思い浮かぶオノマトペ改

のるのるのるのる
ぼちぇっんぼちぇっぼちぇっぼちぇっ
さりるさりるさりるさりる
しゅらかしゅらかしゅらかしゅらか
みゅらすみゅらすみゅらすみゅらす

Anrealmsを立ち上げてからは、チームとしての活動が忙しくてソロ作品を余り作れていなかった。しかし、最近はその活動も基盤に乗りつつあり、昔作っていたような実験映像、音楽、アートを問わず、ソロ作品を作りたいという欲求が日に日に増している。それはある意味で父的、リーダー的、論理的な役割からの解放を求めているのかもしれず、雁字搦めな何か、勘違いされている何かからの逃走であるように感じる。Anrealmsでやっていることはチームワークでもあるので、ある意味外部との関わりを含めてしっかりと作り込まなければならないし、自分の色だけを全て出すという独善的なこともできない。その分クオリティは上がる面はあるし、助けられる面もあるのだが、そういったクオリティ的な何かや役割から解き放たれた制作にも意味を感じる。元来自分は父であるよりは子、リーダーであるよりは放っておいてほしい、論理的であるよりはエモい直感人間である。そもそもコミュニケーションが得意な人間ではないので、何をどうやっても伝わらないという意識があった。そこで現代美術という自分と一致した表現形態を見つけたが、そこで表現をしたらさらにディスコミュニケーションが生まれた。そのディスコミュニケーションを埋めていく方向も確かにあるのだが、一方でそれには時間に制約されない何かしらの意味を感じる。そもそもの原点はそこなのかもしれず、その原点回帰から生まれようとしている何かには自分でものるのるしている。

まろやかでもふもふした日常

まろやかでもふもふした日常を常に過ごしていたい。何故ならそれは癒やしであるからだ。

この世の中にまろやかなものは多い。飲み物でいえば軟水はまろやかだし、抹茶ラテも実にまろやかだ。味もまろやかだし、見た目もまろやか。昼寝はまろやかな行為そのものといって良いだろうし、それは散歩や休日も同様だ。国で言えばアイスランドはまろやかな国と言えるだろう。一方でもふもふしたものの代表といえば、動物だ。もふもふした犬は可愛がられる運命にあり、もふもふした羊やもふもふしたうさぎ、もふもふした猫など世界には様々なもふもふしたものが存在している。彼らはきっともふもふされるためにもふもふしているのだ。わたあめや雲も見ようによってはもふもふしていると言えるが、わたあめに関してはあらいぐまのように洗ってしまうと一瞬で消えてしまう。できればまろやかももふもふも消えないものが望ましいことは言うまでもない。

まろやかともふもふの共通点はその柔らかさにある。それはダラダラの中にあるかもしれないし、あるいはその癒やしを獲得するために厳しい試練を乗りこえているのかもしれない。またまろやかは英語でMellow、Mild、もふもふは英語でfluffyなどが該当するけれど、どちらも似たような語感であるのは興味深い。しかし、まろやかさ、もふもふさという観点から見れば日本語が勝っているように思える。この素晴らしい語彙を獲得した私たちが注意深く世界を見渡してみれば、世界中にまだ発見されていないまろやかさともふもふさが存在しているはずだ。大事なのは繰り返される強固な日常から逃避し、逸脱し、その発見した柔らかさに身を委ねることだ。つまりは「Don’t Think. Feel!」。

今日もまろやかでもふもふした日常を求めて。