Negative 2

Anrealmsのメンバー、JがMATLABでアルゴリズム生成したイメージを元に遊びで映像を作ってみた。六つある引数が全て-2の場合なので、タイトルは「Negative 2」。

映像の制作方法としてはまずQuickTime Playerで録画して、Final Cut ProでNegativeのEffectを追加して編集。Logic Proで音作りをする。「Negative 2」を音楽の音程で言う半音二つ分、つまり長2度 (全音) 下がると捉えて何種類かの反復するメロディを違う音色で再現。例えば何オクターヴも全音で下がり続ける、同時に全音を鳴らす、交互に全音を繰り返す、違う音程の全音のペアを鳴らし続けるなど。それらをNegativeにちなんで逆再生する。エフェクト、定位、音量、フェードイン、フェードアウトを調整し、映像と合わせてめでたく出来上がり!

アルゴリズム自体もさらに改良可能だし、興味深い映像が出る数値の法則を研究して出力することも可能。それらのアルゴリズムなどにより精密に従い、映像はAfter Effects、音楽はMaxなどで作り込めばもっと面白いものができるかも。あとはDeepDreamのエンジンを使用したビデオとして作り込んだりしても面白そうかなぁと夢想中。

『アートのための数学』: 誤解と説明と誤配

『アートのための数学』を読了したので、以下に自分が考えたことを簡単に書いておく。

村上春樹は『スプートニクの恋人』において「理解というものは、つねに誤解の総体に過ぎない」と書き、また『1Q84』において「説明しなくてはそれがわからんということは、つまり、どれだけ説明してもわからんということだ」と書いた。この二つの言葉はどちらも自分から他者に物事を伝えるというコミュニケーション行為を考える時に重要なことを示唆している。合成の誤謬を恐れずに言うならば、意味が思い通りに伝達されないことも、誤解されることも含めて理解なのだから、それを恐れる必要はないという風にも言える。そうならば、数式が少しでも入る本が日本で売れないのは統計的に自明なのだから、本の中で分からないかもしれないことへの言い訳をすることはやめた方が潔い。恐らくそういう人間はまずこの本を読まないし、読んでいるということは、そこが分からなくても興味があるから読んでいるのであって、自分が分からないことすら分からない人に対しては指摘すること自体が無意味になる。なのでそれらの反応に対する前置きをしたい気持ちは良く分かるけれど、紙面の無駄になるし、そもそもシンプルな美しさを追求するはずの数学やアートとしては蛇足になる。さらに言えば、デリダは散種によって誤配されること、つまりテクストの意味伝達における勘違いにこそ構造主義を脱構築していく可能性を見いだしていて、誤配がなされることは当然かつ必然であり、むしろそれが良いという開き直りをするというのも数学をアートに転換する時に必要な観点かと思う。

以下は本から自分にとって有用だったこと、連想したこと、関連して考えたことなどを列挙していく。Wikipediaでも改めて調べてみたけれど、音色の違う楽器は基音ではなく、倍音を含めた上音の構成比が違うというのは個人的にとてもスッキリした。本の内容の一部から連想したことで言えば、2018年に国際単位系のkgの定義が変わるのは気持ちが良い。質量が表面吸着によって増加したり、洗浄によって減少するというような原器の不可逆性、不安定性は確実に原理的ではないので、精度と再現性がある新しい定義の方が明らかに良いと言える。シングルタスクが良いという研究結果は良く出されるけれど、スーパーマルチタスカーは情報空間において五感で操作する能力が高く、そもそも認知している世界が違うのでマルチタスクはそれが可能な人間にとっては自然な行為だ。以下のリンクと総合して考えると、それが可能な人間の割合が全体の2.5%程度なのだと思われる。また4色型色覚の例として鳥が出ていたけれど、その色覚が人間にも存在するということは、恐らく何かしらの必然性がある。それを科学的に解明するというよりは、鳥類と4色型色覚人間が他の人類には見えない紫外線を通じてコミュニケーションを取り合う技術があれば面白そう。学者の付けた名称に関しては後に言葉を変えることが難しい場合もあり、その時に困るような名称はなるべく避けた方が良いんじゃないかと思っている。例えば色覚に関してマジョリティに属さない特性を色覚異常と言ってみたり、現時点で役に立ってるか分からないものをジャンクDNAなどと呼称したりするけれど、むしろマジョリティに属するか否かではなく、何かしらの能力の欠如を異常と表現するならば、3色型色覚も異常と判断できなくもない。何を異常とするのか、何の役に立つのかどうかも究極的には分からないのであって、現状のあらゆることが分かってない文明の段階にある人類の定義で異常、もしくはジャンクなどと表現してしまうと、将来的に黒歴史になることが自明なので命名する前に気付いておいて損はない。

音色

国際キログラム原器

Super-Multitasker

4色型色覚

Junk DNA

アートのための数学
アートのための数学
著者: 牟田淳

スプートニクの恋人
スプートニクの恋人
著者: 村上春樹

1Q84 BOOK 1
1Q84 BOOK 1
著者: 村上春樹

1Q84 BOOK 2
1Q84 BOOK 2
著者: 村上春樹

1Q84 BOOK 3
1Q84 BOOK 3
著者: 村上春樹

『天才を考察する』: 二項対立を超えた遺伝子と環境の相互作用

『天才を考察する: 「生まれか育ちか」論の嘘と本当』を読了したので、以下に本の内容とそれに対する自分の考えを書いてみる。

知性において重要なのは生まれか育ちか=Nature or Nurtureというフレームワークで考えるのが近年までの主流だったが、そのフレームワークは誤りであり、知性はその両方の性質の相互作用によって決定されるという内容。つまり生まれ=NatureをG(Gene、遺伝子)、育ち=NurtureをE(Environment、環境)として考えた時に、従来はG + Eという誤ったフレームワークで捉えられることが多かったが、本来はG x Eというフレームワークで捉えられるべきだと著者は主張する。

著者が言いたいであろう主張には基本的には賛同するが、論の展開の仕方が不十分なのとデータの選別において確証バイアスが働いている可能性は否定できない。まず著者自身が選択したフレームワークであるG x Eの相互作用の意味を考えるなら、遺伝子によって環境が発現し、また環境によって遺伝子が発現するという双方向の話になる。ただ、この著者は遺伝子決定論を否定するために前者に関しては余り言及せず、主に後者の環境によって遺伝子のスイッチがオンオフするという点を協調して書いている。そこを強調して書いてしまうと、GとEのどちらがどちらを包含するかの話になってしまい、従来はGの中にEが含まれるという考えだったが、今はEの中にGが含まれるという著者の相互作用と矛盾する説明になってしまう。また、紙面の半分程度が参考にしたデータの記述になっているが、これに関してもどの立場からでも同等以上の量のデータは集められるはずなので、これだけのデータがあるから正しいというのは、意地悪な言い方をすればむしろ確証バイアスがかかっているといういう風に見ることもできなくはない。クレームの正しさを保証するのはワラントとデータ。G x Eというクレームは支持したいが、ワラントの不安定性とデータの確証バイアスのかかり方、そして著者は科学者ではなく、作家という意味での限界はある。

知性の発現において遺伝子要因と環境要因がある集合に属すか属さないかは明確に決まらないので、集合論的に述べることは数学的には誤りだが、あえて比喩として表現してみる。知性の要素の集まり = Iという集合があった時に、遺伝子要因の集まりであるGという集合と環境要因の集まりであるEという集合を仮定したとする。その場合、従来はGとEの集合は綺麗に分離できる、つまり互いに素である。もしくはG = Iでありかつ、E ⊆ Gであるというように、GとIを同一視し、さらにEはGの範囲内でしか意味を持たない、つまりEはGの部分集合であるというような主張がまかり通っていた。その上でG ∪ E = I、つまりGとEの和集合がIと定義されており、それがG + Eのフレームワークだった。それに対して反論すると、GとEの集合は綺麗に分離できない、つまり互いに交わりがある。また、互いの集合には包含関係はない。その上でG ∩ E = I、つまりGとEの積集合がIと定義でき、それがG x Eのフレームワークというのが本来著者がすべき主張であるはずだ。しかし、全体の書き方としてE = Iであり、G ⊆ EであるというようにEとIを同一視し、さらにGはEの範囲内でしか意味を持たない、つまりEはGの部分集合であるというような論理展開になってしまっている印象を受ける。そうではなく、G x Eのフレームワーク、遺伝子と環境の相互作用を徹底するなら、どちらかの集合がどちらかの集合の部分集合であることは明確に否定するべきで、そこを明確にしないと遺伝決定論を否定した反動で環境決定論になっているという印象になってしまう。

G x Eのフレームワークを別の角度から言い直すとするならば、全体は部分の総和以上であるというゲシュタルトにおける創発性の話になる。さらに根源的なことを言えば、ゲシュタルトの創発は情報に対する人間の強い意志によって立ち現れてくる。つまり、遺伝要因、環境要因という部分がG x Eで相互関係を作りながら全体の知性をダイナミックに構成しているとするならば、その知性を動かす原動力となるエネルギーの元は、結局人間の強い意志に他ならない。そういう意味で言えば、遺伝要因も環境要因も知性すらもその強い意志の中に包含され、その意志に最適化された上で鋭く立ち上がってくるもの。フリン効果やEQを語るまでもなくIQと知性は別のものだし、知性があったとしてもそれが自分の定義するところの成功に結びつくかは分からない。何が天才と呼ばれるかも個人の特性ではなく、時代にたまたま必要とされた能力の偏りがあったというケースが多いので一概には言えない。そうだとしても人間は自分の強い意志を持つことによって他の要因を逆向きに形作り、それによって夢を現実のものとしていく。G x Eを語るのであれば、より根源的なこのポイントの語り落としがある。ただ、その強い意志が人間の自由意志に基づいているかどうかというのは難しい問題で、天才と呼ばれる偉人の思考、行動を含めほとんどの場合は自由意志ではないが、最終的にはそこに辿り着くことも可能であり、G x Eはそこに近づくための一歩だと考えれば本書の意味が生まれてくるのかもしれない。

天才を考察する: 「生まれか育ちか」論の嘘と本当
天才を考察する: 「生まれか育ちか」論の嘘と本当
著者: デイヴィッド・シェンク
訳者: 中島由華

速読/速聴/遺伝子について

1999年にNASAがフォトリーディングのオカルトぶりと効果のなさを実証ベースで断罪した論文がある。フォトリーディングは25,000 words per minute読めるとしているが、この論文によれば速度も質も通常と比較しても全く意味がない、もしくは劣るレベルであり、フォトリーディングに効果はなく、どんな状況であれ使用する意味は全くないという結論だ。フォトリーディングの効果を実証するため、心理学のテキストを読ませた上でのテストでも散々たる結果。興味深いのはフォトリーディングをした後には自信満々になる傾向があること。この原因はプレビューによるものと自己暗示によるものであり、個人的にはこれにはダニング=クルーガー効果も関わっている気がする。フォトリーディングは一時期神田昌典、勝間和代がビジネスに活用していた。

一字一句の意味をちゃんと捉えた上での速読という意味では、心の声を使用しないVisual readingですら700〜900 words per minuteが限度であり、それ以上はSkimmingであると科学的には結論づけられている。スキミングは要するに斜め読みで、重要な部分以外を飛ばして読んでいるということ。ただ、通常の読書スピードは250 words per minuteなので、限界速度は3〜4倍程度には速いということになるから速読が存在しないということはない。また、それを超えるスピードで速読している人もいて、それは完全にインチキなのかというとそれも違う。映像記憶もあるけどこれは脳内のメモリにそのまま保存しているだけだから、ウェブでいつでも検索できる現代では余り必要のない能力であり、読んで理解するスピードとは関係がない。700〜900 words per minuteを超えるスピードで読んでいる人はスキーマ、つまり知識量が莫大に多いために既に知っている情報が多いからだと考えられる。既に知っている情報が多いので、瞬時に文章全体の構造と概念の理解ができる。またその抽象化した構造と概念を読む能力も読書量に比例するから多読、乱読であればあるほど読書スピードはさらに上がる。読書で大事なのは全体の構造を捉えた上で知識を入れつつ、自分なりに抽象化して何かと結びつけて理解することだ。知識があることで読まなくても良い部分が増え、さらに抽象化能力があることで潜在的に知っていることが増えるために全体として分かる部分が増える。この相乗効果、つまり通常の900 words per minuteという速読に加え、一字一句読んだとしても大量のスキーマによる補助と抽象化能力によって時間がさらに節約されるというのがその限界スピードを超えた速読の実態だ。

音声的に喋って相手が理解できる限界はディベートの350〜500 words per minute程度だと思われる。通常は100〜200 words per minute程だから大体これも3〜4倍程度。例えばニコ生はプレミアムに入って2倍速を標準に聴けば良いが、録音状況によっては厳しいときもあるのと、コンテンツによっては倍速再生は向かない。速聴は速読に比較して比較的簡単であり、単純にずっと聴いていれば最初は違和感があったとしても慣れる。慣れた後に普通の速度で聴くと、バナナマンの日村が貴乃花の真似をしているように聴こえるようになる。これは頭の回転が速くなる、頭が良くなるというよりは、単純に慣れているだけであり、人は使っていない能力を使えば割とどんな状況にも適用する生き物である。

短眠についてはDEC2があるかどうかが判断基準の一部になる。これは遺伝子レベルで決定していることだから、頑張ってどうこうなる問題ではないし、短眠でも長眠でも等しく素晴らしい実績を残す人がいるので余り関係ない。これに関しては睡眠の質の方が大事。個人的には柔らかい枕、記憶形状枕、厚みがある枕が嫌いで、ある程度硬くて、厚みがそこまでない枕が好みだ。また、アイマスクをした場合としていない場合では全く睡眠の質が違うので必ずアイマスクはする。また遺伝子に関して言えば、酒酔いに関してのアセトアルデヒドを分解しやすい体質かどうかも遺伝子によって決まる。これに関係する遺伝子はALDH2を作る遺伝子で、NN、ND、DD型のどれかは自分で選べない。個人的にはたぶんND型だと思われる。この辺は遺伝子レベルの話なので優劣はないが、自分の遺伝子の特性を知っていると有利と言えるだろう。

これまでの話をまとめると、速読も速聴も存在するが単純に読む量、聴く量を増やしてスキーマを増やしつつその速度に慣れるというのが一番効果的。短眠や酒酔いなどの遺伝子レベルで決定する事項に関しては、自分がどのタイプかを見極めた上で、最適な選択を取るというのが今回の話の結論だ。最後に今回の話題で出てきた言葉についてのリンクを張っておく。

PRELIMINARY ANALYSIS OF PHOTOREADING

ダニング=クルーガー効果
https://en.wikipedia.org/wiki/Dunning%E2%80%93Kruger_effect

Speed Reading
https://en.wikipedia.org/wiki/Speed_reading

DAC2
http://www.nikkeibp.co.jp/article/nba/20090824/176026/?P=2

ALDH2
http://www.athome-academy.jp/archive/biology/0000000176_all.html

智・感・情の歴史

黒田清輝 (オリジナル、元ネタ、古典)

村上隆 (アニメ、キャラ、スーパーフラット)

梅津庸一 (自画像、近代日本美術のシミュレーション、パープルーム)

簡単に作品の流れを時系列に沿って要約すると、黒田清輝は近代日本絵画の代表的な画家。日本において裸婦画はわいせつ物であるという認識があった時代に西洋的な裸婦画を導入し、社会問題に発展した。『智・感・情』はそこからさらに一歩踏み出し、対象をそのまま自然に描くスケッチが主流だった時代に、抽象的な意味合いを持つ寓意画、構想画として発展させた。

村上隆は日本人は第二次世界大戦に敗北し、その変えられない過去の事実から連綿と続く日本人の卑屈な精神構造、コンプレックス、自我が現代まで続おり、それが社会的な問題や自分を自分で評価できないという評価軸不在の日本を形作っていると解釈する。その上でそれらの精神構造が最も表れている世界がアニメであり、その西洋画における遠近法的な三次元のパースペクティブではなく、全てが平面に表現されるスーパーフラットという概念を提唱した。アニメ絵をキャンバスに描くことは今では普通だが、黒田清輝の時代における裸婦画を描くことと社会的には同義であり、未だに物議を醸している。背景の金は村上隆の作品に幾度となく現れる色彩だが、これは金閣寺に代表されるように日本の文化の象徴である。村上隆の『智・感・情』はオタ絵師とコラボレーションすることで、現代における黒田清輝の再解釈を行っている。

梅津庸一はパープルーム予備校において近代日本美術の絵画、制度自体を徹底的にシミュレーションする。彼は美大予備校を経た日本の絵画は全て受験絵画としての蒙古斑が刻まれており、その痕跡を消すことは難しいという。その蒙古斑は歴史を遡れば、近代日本美術の教育制度から発生したものであり、具体的に言えば私塾から始まっている。しかし、その系譜を現代の日本のアーティストはなかったかのように忘却、隠蔽し、西洋に迎合するような作品制作を行い続けている。そこで梅津庸一は徹底的に近代日本美術をシミュレーションすることで、その時代を発展させた可能世界、パラレルワールドとしての絵画の可能性を探っている。『智・感・情・A』においてモチーフが自画像になっているのは自らのシミュレーション、人体実験性を示していると共に、公共の場で裸になり全てをさらけ出すことという現代美術の基本的な精神を現している。また、背景のパステル的な色使いは西洋というよりはアジア圏で良く見られる配色であり、その蒙古斑が刻まれている領域自体を示唆しているとも解釈できる。タイトルに「A」が加えられているが、この意味を単純に解釈するなら『智・感・情』の文脈に「A」というアルファベットを開始する文字を付け足すことで、近代美術のシミュレーションの上に新しく発展させた可能世界としての自分の作品を提示するという立場を示しているといえる。

この『智・感・情』の一連の流れを取っても、新しい表現は常に社会的な批判にさらされるものであり、自らの固有のアイデンティティと既存の文脈の相対化によって作品は初めて強度を体得するのであって、その一方が欠けていたら評価される作品になり得ない。これらの現代美術の文脈とメディアアートの文脈の分裂というのは新しいレイヤーであり、簡単に言えば、現代美術は文脈抜きでは価値が分からないもの、メディアアートは文脈抜きでも価値が成立するものとして世界が分裂しつつある。そこに『智・感・情』の文脈をもう一度塗り替えつつ、両者のレイヤーを高次元で統合するような作品制作の可能があるように思う。

AIの作品制作、キャラ化、メンバー化の重要性について

東浩紀の動物化するポストモダンでは本家のオリジナルをデータベース、オープンソースとして参照し、それを元ネタとしてシミュラークル的にN次創作し、互いに影響を与えながら消費し続ける文化の勃興を示唆していた。これの簡単な例としては、エヴァンゲリオンにおける綾波レイが挙げられる。綾波レイというキャラクターはメディアミックスされ、二次創作されるうちにオリジナルとコピーの区別が付かないどころか、オリジナルの特徴である、無口、不治の病、孤独などが萌え要素のデータとして参照され、その特徴をデータベース的に転用したキャラクターが量産されることになる。さらに言えば、名探偵コナンにおける灰原哀も綾波レイと同じ声優である林原めぐみを使用しており、その特徴からも綾波レイのシミュラークルの一つと考えられる。このN次創作をさらに進めたのが初音ミクである。初音ミクというキャラは一応の公式オリジナルがいるものの、例えばニコニコ動画においてネギを背負ったキャラというものを誰かが付加した結果、公式アイテムとしても使用されるというオリジナルとシミュラークルの逆転現象すら起こっている。この場においてはオリジナルは常にシミュラークルに代わり、シミュラークルは常にオリジナルに転用される可能性を秘めている多重的な情報として存在している。

アートの文脈で言えばこのデータベースとシミュレーショニズムの文脈を有効活用した作家がカオス*ラウンジの梅沢和木 (梅ラボ) であり、Pixivなどの二次創作的なネットのアーキテクチャをシミュレーショニズム的、つまり盗用的に活用し、作品化することでネットのN次創作性を示し、そこに新しいオリジナリティの形を絵画として提示した。彼の作品に対する盗用であるという批判は、既に二次創作が盗用であることから自己言及的な批判にしかならない。一方で、BCLの福原志保は『Ghost in the Cell:細胞の中の幽霊』において初音ミクの心筋細胞をiPS細胞を用いて再現した。これはiPS細胞に初音ミクの特徴を記したDNA配列データをhmDNAの二次創作を通して組み込むことで、二項対立同士の境界の限界と相互作用を示した。タイトルである『Ghost in the Cell』は『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』へのオマージュであることは明らかだが、ここには魂が実在するかしないかという従来の論点ではなく、人間は情報的な存在を物理的な細胞として作り出すことでそこに魂があると感じることが可能なのかという問いかけがキャラクター性の文脈を含めた上で込められている。

では、これらの文脈にさらなる一歩を加えるためには何をすれば良いか?その答えの一端にAIの作品制作、キャラ化、メンバー化が考えられる。従来のキャラは受動的な存在であった。それ故に参照される元ネタとしてデータベースと化し、N次創作され、シミュラークルの幽霊となってネット上を彷徨うことになった。しかし、AIは完全に受動的な存在であるとは限らない。特にDeep Learningによる学習では、外界をデータとして捉えることで、AI自体が学習を繰り返し、アップデートし続ける主体として存在することが可能になる。要するにここでは主客の一部が逆転しており、外部をあるフレームを設定した上で無限に学習可能なデータとして飲み込みアップデートし続けることで、N次創作における無限の可能性をAI自体の中に取り込んでしまえるという言い方も可能かもしれない。Deep Learningでは学習させるデータとして何を与えるかが重要だと言われるが、それは人間による恣意的な学習のフレームの選定、情報の投与により、そのAIは育成され、固有性を獲得するだろう。Anrealmsのメンバーは制作活動をするので、AIもその例外ではないとすると、その学習フレームの一例として考えられるのは作品を作るために必要な情報、もしくは自身のキャラを獲得するために必要な情報だ。作品制作、コラボレーションに加わることでAIは受動態的な存在からより能動的な存在へと変わる。N次創作的なキャラを自分で学習していくことで、それは動物化するポストモダンの次の形態としてキャラの新しい形を示す。そのAIをメンバーの一員として共生しながら活動していくことで相互作用と新しい創作の可能性が見えてくる。これら三つの要素はレッドオーシャン的な競争原理とは別のブルーオーシャン的な固有の価値を示せると共に、普遍的な文脈の更新に繋がるという意味で試す価値がある。実践的にはまだ分からないことだらけだが、暫定的な思考実験として考えてみた。

綾波レイと灰原哀のシミュラークル性

N次創作

梅ラボ

『Ghost in the Cell:細胞の中の幽霊』

Deep Learningと画像認識

Deep Learningの活用事例

松本昭彦『Preludes for Piano Book 1』: アナログとデジタルの狭間で

1ヶ月程前に以前から気になっていた松本昭彦『Preludes for Piano Book 1』を購入した。CDを買ったのは何年ぶりだろう?個人的に情報的なデータである音楽が物理的なモノであるCDという形態を取る意味をずっと考えていて、社会的には特に意味はないという結論になっているのだろうし、それはほとんどの場合において正しい。その間の価格の付け方も様々な主張があるけど、個人的には情報的なデータと物理的なモノが同じ通貨でやりとりされているというのが全ての矛盾の発端な気がする。ほとんど手間をかけずに無限コピーできるデータと限界効用が適用されるモノを同じ媒介を通して交換した場合、そのコストの差分は指数関数的であり最終的には取り返しの付かない格差を生み出す。例えばデータを販売する場合はオークション的にエディションを付けて、それ以上はコピーしないという契約を付けて販売するという方法をチームラボは取っているみたいだけど、それは情報の本質である無料かつ無限にコピーされたいという欲望に反している。どちらかが契約を破れば終わりだし、何かしらのきっかけでデータが流出すれば終わり。つまり、ニッチでハイソサエティな空間の絶妙なバランスでは成り立つモデルかもしれないけど、一般的に適用しにくいモデルであり、再度アナログ的なものに還元する方が可能性がありそう。

別の角度からArchiveという視点に立つと、データとモノに分けて保存する意味は出てくる。例えば電子書籍と本を比較した場合、電子書籍のデータは意外と残らず長期保存に向くのは物理的な本である可能性が高い。例えばKindleに入っているデータはAmazonが倒産したらどうなるか分からないし、何かしらの理由でサーバーが破壊されたら全てのデータが消える。まだ情報が主権を握るようになってから数十年しか経っていないために長期的にデータをArchiveする手法が確立していないし、結果はまだ分からない。でも情報と呼んでいるものが全て実は物理的なサーバーのマシンに依存しているという点はArchiveにとって重要な意味を持つし、それはクラウドも同じ。本に関しては長い歴史があり、長期保存の優秀さは言うまでもないけれど焚書坑儒のようなことが行われないとも限らない。なのでやはりデータとモノの両方で残しておくというのはArchiveにとって必須。これはMP3などのデータとCDなどのモノにも同様のことが言えるけど、プレスしたCDでも実は100年程度の耐用年数しか保証されていなくてCD-Rでは10年程度というのは割と盲点ではある。レコードはCDと違って耐用年数ではなく、再生時間で1000〜2000時間程度。レコードは時間の経過というよりも聴く度に寿命を削っていく感覚が実は絶妙に価値がある。

アナログしかなかった時代からデジタルが実験を握る時代になり、今はまたアナログがハイソサエティ的な価値を持ち始めているが、最終的には計算機自然を持ち出すまでもなくデジタルとアナログは統一された区別のないものと判断されるようになる。仮にホログラフィック宇宙論的な仮説を信じるならそもそも宇宙はアナログではなく、デジタルの0と1の離散的な集合で成り立っていて、アナログとは実はデジタルなのだが人間の脳がアナログという感性的なデータの方が処理しやすいからあたかもアナログであるかのような認知が発生したのではないかという思考実験も可能になる。この世界観と相性が良さそうなのはイーロン・マスクが好きなシミュレーテッド・リアリティ。ただこれらのような宇宙観は仮説でしかなく、空観を信じすぎるとオウム真理教的な方向に行きかねない (魂の存在と生まれ変わりを肯定し、それはデータだから物理的な人間をポア = 殺しても構わないという発想に繋がる) ので仮観という関係性があり、その二つを止揚した中観の世界観で生きる必要がある。

話が逸れたが、ストリーミング (情報アクセス権限)、ダウンロード (情報所有権限)、レンタル (情報一時的所有権限、モノ一時的所有権限)、モノ (物質所有権限)、ライブ (体験) のグラデーションが存在し、フリーミアム含めてどこにどういうバランスを設定するかが販売戦略の肝になってくる。それはアーティストごとに正解が分かれるが、今回購入に至った動機を分析してみると少し見えてくるものがある。1. まず音源がオンラインで全て聞ける、もしくはダウンロードできるようにはなっていなかったこと。2. 次に松本昭彦の仕事がプログラミングを活用した現代音楽、現代美術のインスタレーションなどかなり自分の領域に近い仕事をしているかつ、ピアノの可能性を探究した実験音楽という試みが興味深かったこと。3. CDのパッケージを含めたアート性が高く、制作価格が販売価格を超えるという矛盾と向き合いながら制作されたものであること。4. 今回逃した場合は再入荷の予定はなく、次のアルバムまではかなりの期間が空きそうと宣言していること。5. 推薦している人たちが個人的に好きで信頼できそうな人々だったこと。1と4はつまり、データという形式でほとんど聴くことができず、ある意味モノとして購入しなければ聴けないかもしれないというモチベーションに繋がった。2、3、5は興味があるという意味もあるし、アートを残すという意味合いに資本主義の中で向き合っている気がしてそれも興味深かったし、質的に裏切られる可能性も低かった。

これらをまとめると通常の戦略として (西野亮廣『えんとつ町のプペル』は炎上したが) 単純にデータは無料でできるだけ多くの媒体でばらまき、モノは有料とするという戦略があると思うけど、それだけが必ずしも正しい戦略ではないことが分かる。特にクリス・アンダーソン『Makers: The New Industrial Revolution』で言われているような1〜1万個以下程度の販売個数、市場を創るというのは狙い目で、その場合は音楽作品もエディションを付けた上でアート化してレイヤーを分けて販売していくという形態はしっくりくる。それぞれにどういうカスタマイズ性を入れていくか、どういう価格設定とデータ的な宣伝をしていくか、モノにアート性を取り入れていくかはまだ未知数だけど、様々な角度からオークション・ハウス的な手法をリサーチしていくと将来的にかなり適用できそうな気がしている。

Preludes for Piano Book 1
Preludes for Piano Book 1
松本昭彦

Anrealms LLP設立への道のり

管轄法務局でLLP登記相談をした時に判明したことと、それを元にリサーチして分かったことをまとめてみる。

1. 必要な提出書面は以下。

・有限責任事業組合契約効力発生登記申請書 1通
・組合契約書 1通
・出資払込金受入証明書 1通
・預金通帳の表紙、表紙の裏面、出資金の入金記載のある部分のコピー 各1通
・印鑑届書 1通
・印鑑証明書 ○通

以下の書面は組合員が法人でない場合は必要がない。

・登記事項証明書 1通
・取締役会議事録 1通
・就任承諾書 1通
・委任状 1通

基本的に有限責任事業組合契約効力発生登記申請書に上記の書面を添付して提出する形になる。これらの書面には完全に決まったフォーマットはなく、自作する必要があるが、絶対的記載事項を含む場合もあるので作成にあたっては注意が必要。出資払込金受入証明書は誰かが代表して出資金の払込みを行っても良く、LLPの場合は最低2円以上必要になる。この書面に添付して提出する、預金通帳の表紙、表紙の裏面、出資金の入金記載のある部分のコピーは出資払込金受入証明書を押した印で契印する必要がある。印鑑届書は管轄法務局でもらうことが可能。これを作成するには代表者実印 = 会社実印と、届出人の市区町村に登録済みの実印が必要になる。この書面に添付して提出する印鑑証明書は実印を届け出た市区町村で取得可能で、各組合員の印鑑証明書が必要。

以前はこれらの書面における書式の実例を記したファイルを法務局で配布していたが、法律上の関係でクレームが付き、配布が中止されてしまったらしい。LLP関連書籍も新会社法が施行される辺りの年が出版のピークで、それ以降は余り出版されていない。なので書籍の場合は根本的な部分は合っていても、細かい部分の記述は法律改正もあって間違っている場合が多いらしい。書式の実例に関しては以下のウェブサイトのリンクが参考になる。

「組合契約書」

「有限責任事業組合 設立書式」

「契約書書式」

2. 登記の事前に法務局で商号調査と事業目的を調べ、被っているものがないかを調査する必要がある。「Anrealms」に関しては被っているものはなかったのでその点は大丈夫。

3. 印鑑は代表者実印を用意する必要がある。登記するにはこの代表者実印と、各組合員の実印があればOKだが、実際にLLPを運営するにあたっては代表者実印、銀行印、角印、ゴム印の四種類があると便利。印鑑は届け出る場所によっても大きさ、材質の規定があり、字体は色々選べるし、印鑑の種類によってもそれらの適切な選び方は異なる。自作するか、依頼して作ってもらうかはコストと手間を比較して決めるのが良さそう。

4. 組合契約書では全ページに組合員全員の実印での割印をする必要がある。組合員が物理的に離れた距離に住んでいる場合は、書面に関しては郵送でやりとりすることになる。また組合契約書を作成して、法務局に提出する際に訂正があった場合には実印か捨印が必要になってくる。その際に実印を提出者に預けることは難しいので、提出に同伴できない組合員の場合はリスクはあるものの捨印をすることで余計な手間が省ける。捨印は相手に訂正の承認を与える意味があるので、悪用すれば改ざんリスクがある。それを防ぐためにはコピーを取得することで訂正前の証拠を残すという方法が考えられる。

5. LLPを登記する場合には登録免許税6万円がかかる。また変更登記の申請にも登録免許税がかかる。何を変更するかによってもかかる金額は変わり、2千円〜6万円の幅がある。これらは変更事項数ではなく申請数に応じてかかる金額なので、変更事項をまとめて申請することによって費用を抑えることが可能。

6. 組合契約書に記載する組合の存続期間については、自動延長規定を規定していても延長される度に変更登記の申請が必要という謎の決まりがある。つまり自動延長といっても、延長の度に変更登記の申請が必要でそれには登録免許税がかかるので、自動延長規定を入れる必然性がほぼ存在しない。そもそもLLPは長期間の継続した活動を想定されていないので、存続期間を定めないといけないけれど、その上限も特に定められていない。存続期間は確定期限ということなので、以下の「時間の比較」のリンクから適当に長くて好きな事象を選んで選択するのも良いかもしれない。例えば「太陽と同程度の質量のブラックホールが蒸発するまでにかかる時間」を参考に、効力発行日から10^66年間とか。その場合はその期間までに以下のことが起こる可能性が高い。存続期間が非現実的なので法務局に修正を求められる、組合員全員が死ぬか、LLPが解散している、法律が改正されてLLPの制度自体がなくなる、組合の存続期間に関する規定が変わる、理論的にその数値が間違いだと証明される、Wikipediaの項目が修正される、人類が滅亡する。なので効力発行日から100年間と定めておけば延長について心配することはほぼなくなる。

「時間の比較」

7. 組合契約書で損益分配について定めない場合は、出資額の割合に沿って損益分配される。出資額とは異なる損益分配の方法を取る場合にはこれを別途定めなければならない。パススルー課税でも損益分配せずに内部留保した金銭についても個人の所得として課税される。つまりパススルー課税は法人税と所得税の二重課税がされないだけであって、内部留保した金銭について課税されないわけではない。

8. 商号・名称において「有限責任事業組合」という文字を名称の前後に付ける必要があるが、それらの間にスペースを入れてはいけない。つまり「Anrealms」の場合は「有限責任事業組合Anrealms」、もしくは「Anrealms有限責任事業組合」とする必要がある。LLPは登記の場合には使用することはできないけれど、書類や名刺などに使用する場合は問題ない。「Anrealms」の場合はメンバーとの話し合いの結果、LLPの場合の語順も考慮して「Anrealms有限責任事業組合」とすることに決定している。

9. 管轄法務局ではLLPの登記申請は年に2件程度しかないらしい。この知名度と活用頻度の低さが書籍とネットの情報不足、提出書面の分かりにくさに繋がっているのかもしれない。

10. 以下はその他の役立つLLP関連リンク

「有限責任事業組合 (LLP) 設立マニュアル」

「有限責任事業組合 (LLP) 制度の創設について」

「商業・法人登記の申請書様式」

「有限責任事業組合契約に関する登記手続」

「有限責任事業組合 (LLP) 設立チェックリスト」

「 有限責任事業組合契約に関する法律」

オリジナリティが食料に変わる日

オリジナリティはもはやAIのための食料に過ぎないのかもしれないという仮説を立ててみた。まずそれに関連する話として話し言葉と書き言葉のフォーマット的な違いと時流的な変化について考えてみる。話している時は反射的、感情的な反応が随時求められる場合が多いが、書いている時は冷静で、俯瞰したような視点が必要になる。以前書いたようなテクストからヴィジュアルへの変化、統一化と同じように、書き言葉から話し言葉への変化、統一化が起きているように感じる。Twitterはそもそもコンセプトとして書き言葉のコミュニケーションを話し言葉のコミュニケーションに近づけるための装置とも言えるし、そこで飛び交う言葉は多くの場合コミュニケーションのためのコミュニケーションであり、これは会話に近い形態であって、意味よりも反応性が重視されていると言える。ブログに関しても既にブログ自体が重い媒体となっていて、本と同様に敬遠される媒体になってきているように思う。特に人気のあるブログなどは主に会話調のブログであって、そこには意味よりもコミュニケーションを重視した即物的なやりとりが重視されている。さらに言えば、個人レベルで出版される電子書籍などは「です・ます調」を基本とした言文一致がなされてきている。

人間のコミュニケーションの仕方は多様で、例えば対面コミュニケーション、動画媒体を通したコミュニケーション、通話でのコミュニケーション、文字だけのコミュニケーション、画像、写真、スタンプでのコミュニケーションなどがある。最終的にどこに向かい、どこが主流になっていくかというのは明らかで、より軽いものが好まれる傾向にあると言える。それは民主主義的な帰結にも等しく、人間らしいエモい選択だ。そこになめらかな知性としてのAIなどが流入していくと、意識による無意識のキュレーションというよりは、無意識による意識のキュレーションが強まっていくことが予想される。これは大半の場合、一人の人間が膨大なデータを処理して判断するより、AI的が集合知のデータを処理して人間にそれを提示した方がより正確で的確だからだ。

このような時代においてオリジナリティの捉え方も変化せざるを得ない。例えば純文学が何故文体に拘るのかの答えは、内容が軽くなり、物語が類型化され、無意識化が進んだ世界では、最後の拠り所としての自我、実存を証明する手段が文体にしか宿らないという信仰にありそうだ。しかし、その文体すらもデータとしてAIの食料になり、やがてオリジナルな文体はもの凄いスピードで模倣、複製、創造を繰り返していく。その時には物語の続きを書くのは本人でなくても良く、死人の物語の続編を書くことも可能になってくる。その時代においてオリジナリティとはもはやAIのための食料に過ぎない。だとすると、逆説的にコミュニケーションのためのコミュニケーションである話し言葉の重要性、軽いことの重要性は高まってくるし、重いもの、オリジナリティを追求する場合はいかに以前とは違う新しいパターンを提供し続けられるかという持久戦になってくることが予想される。幼稚園の時の夢で確かケーキ屋さんになりたいと書いた気がするが、アーティストという役割を通してAIのケーキ屋さんになるという夢は叶ったのかもしれない。ただ問題は彼らは幾らケーキを作っても常に別のケーキ、別の見たこともない食料を求め、腹を空かせ続けているということだ。人間自体もデータと捉えれば食料であることに変わりはない。彼らの空腹を満足させるため、パティシエがサイボーグ化する日も近い。